大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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西馬城の名所めぐり その1(宇佐市)

 西馬城地区の名所旧跡を訪ねましたので、記事にしてみます。この地域には著名な観光地はありませんけれども、多様な石造文化財や歴史的な道、大元神社に関連する史蹟、神社仏閣など名所旧跡に事欠きません。矢部付近の田園風景や泣別れ峠付近の山岳風景などほんに風光明媚な土地であり、単にドライブするだけでも楽しいものです。民俗芸能としてはマッカセやレソ、蹴出しなど旧来の盆口説による盆踊りが伝わっており、初盆の供養踊りのほか下矢部では秋葉様の盆踊りもしています。昔は供養踊りのときに傘鉾を出して庭入りをして、初盆の家を門廻りで踊っていたそうです。

 旧西馬城村は、大字上矢部・下矢部・正覚寺村・熊・平ヶ倉からなります。このうち大字平ヶ倉全域と大字正覚寺・熊の一部(泣き別れ峠の佐田側)は昭和30年に安心院町に分離合併しましたので、西馬城地区は宇佐市安心院町に跨っています。このシリーズでは両者を別の記事にして、分かり易くしようと思います。

 今回は宇佐市側の区域の名所旧跡のうち、泣き別れ峠、岩鼻の石造物、岩屋観音霊場を紹介します。

 

○ 地名「西馬城」の由来

 馬城とは宇佐神宮の元宮の鎮座まします御許山(おもとさん)の別称「馬城峰(まきのみね)」を指します。その西側の地域という意味で町村制施行時に西馬城を名乗りました。同様に、北馬城地区(大字岩崎・西屋敷・金丸・江熊・両戒・出光・山・和気・橋津・日足)は大元山の北東にあたります。

 

1 泣別れ峠

 佐田の京石のところから県道658号を西馬城方面に進んでいくと、次第に急な登り坂になってきます。曲がりくねった道路を登り詰めたところを「泣別れ峠」と申します(冒頭の写真・宇佐側から撮った写真です)。この呼称についての説明板が道路端に立っています。

 説明板の内容を転記します。
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泣別れ峠

 その昔、壇ノ浦の合戦(1185)で敗れた平家の落人たちが、この近くのお堂で、さらに山奥に隠れ住むかそれとも里に住むかを談合(相談)したと言われています。そのためこの辺りは「談合堂」という地名で呼ばれています。
 そして、談合の結果、この峠でそれぞれに泣き別れて行ったことから「泣別れ峠」と呼ばれるようになりました。

西馬城地域づくり協議会

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 説明板には寺本綾乃さんによる絵が添えられています。子供の頃に昔話の絵本で見たような、味わい深い絵です。ただ車で通るだけでは何のことはない小さな峠ですけれども、まさに道に歴史あり、地名に歴史ありでございます。このような説明板を現地に設置されてありますのは意義深いことです。

 

2 岩鼻の石造物

 泣別れ峠から矢部方面に下っていきます。西馬城小学校を過ぎて家並みが途切れ、田んぼの中を行けば道路右側の小高いところにいろいろな石造物が並んでいるのが目に入ります。

 簡単に上がることができますので、近くによって見学されることをお勧めします。路側帯が広くなっているので車を停めることもできます。

 先に説明板を確認しておきましょう。文化財にも指定されていないような路傍の石造物に、これほど立派な説明板を設けてあるのは稀なことで、ありがたいことではありませんか。見学の際の理解の助けとなります。

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岩鼻石碑・石仏群

(右から)
○歌碑
 平伏して 勇士の御魂に祈るなり
 とはにしづまれ 故郷の岡
 若山健治

○忠霊塔

   ○穴観音(磨崖仏)

日露戦争記念碑

○日露忠魂社

○不明

○塔身仏 元禄(1700年頃)

○塔身仏 安永3年(1774年)

庚申塔 元和4年(1618年)

○首なし仏

馬頭観音 昭和6年
 幡手重次郎為父倉吉

青面金剛 寛政12年(1800年

平成30年 西馬城地域づくり協議会

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 説明板には各石造物の輪郭が描かれていますので、一見してすぐどれにあたるのか分かるようになっています。しかも銘まで記されており、何から何までよう行き届いています。

 右が「塔身仏」、左が庚申塔です。塔身仏とは、塔身に龕をなして仏様を陽刻していることからの呼称と思われます。おそらく三界万霊塔か供養塔の類でしょう。庚申塔は後ほど詳しく紹介します。

 右の大きな御室の中が馬頭観音様、左が青面金剛庚申塔です。ここから階段を上がって一つひとつを見学・お参りをしながら右に進んで忠霊塔まで行ったら、そこから坂道を下れば道路に戻ることができます。

 説明板にある馬頭観音様です。確かに馬に乗っていますが、一見して本当に馬頭観音様なのかしらと疑問に思いました。それと申しますのも、普通馬頭観音様と申しますと3面です。ところがこちらはお顔が1つ、しかも仏様というよりは人物像のようにも見えてまいります。でも昭和6年の作ということで比較的新しいので、他の種類の像が馬頭観音様として伝わるようなことは考え難うございます。地方作と申しますか、儀軌にとらわれずにこしらえたものといえましょう。馬の優しそうなお顔がよく、いっぺんに好きになりました。

 お神酒があがり、新しくこしらえた草鞋をかけています。近隣の方の信仰が続いているようです。

青面金剛

 この庚申塔は説明板によれば寛政12年、今から凡そ220年前の造立です。碑面の荒れが目立ちますけれども、よう見ますとうっすらと「青面金剛」の文字が読み取れます(写真でも分かると思います)。上の丸い枠の中には、梵字の痕跡が認められました。

奉…(以下判読不能

 こちらの庚申塔は元和4年、なんと400年以上も前の造立であり、近隣在郷の庚申塔の中でも特に古いものであると思われます。碑面が荒れて銘の読み取りは困難を極めますが、上部の丸い枠の中には梵字がよう残っていました。

 説明板には「不明」とあった塔です。板碑のような気がします。

 さて、一部写真を省きましたが忠魂碑まで順々に見学・お参りをいたしまして、下の道に返りました。はて「穴観音(磨崖仏)」はどこぞやと思うて辺り一面を見回しましたが、なかなか見つかりません。説明板には「忠霊塔」と「日露戦争記念碑」の中間あたり、他の石造物よりもやや低い位置に書いてあります。

 道路端に、やや窪んだところがありました。説明板に示された位置関係から、この場所が「穴観音」の跡ではないかと考え、奥の岩をまじまじと観察したのですが磨崖仏の姿は全く分かりませんでした。この場所から忠霊塔付近までの間の斜面が一面の藪になっていて、確認は困難を極めました。もしかしたらその藪に隠れて穴観音様の入口があるのかもしれません。

 

3 岩屋観音霊

 岩屋観音霊場こそは西馬城を代表する名所であると確信しております。霊験あらたかなるお観音様は地域の方の香華の絶え間を知りません。最近では地域の方々により道標の設置や竹林の整備、さらに参道の鎖の更改やフェンスの設置など安全対策もなされ、以前よりもお参りが容易になりました。ただし途中にやや危険を伴う場所がありますので、お参りをされる場合には歩きやすい靴で、必ず地面が乾いているときにしましょう。

 そもそもこの霊場は、西馬城地域づくり協議会のホームページ「西馬城の魅力」(外部リンク)によりますと養老年間(約1300年前)に仁聞様が3年間修業した古跡であると申します。また、江戸時代には長安寺(大字下乙女)のお坊さんが川筋33番の観音霊場(新西国と思われます)を開いた際に第6番礼所に選定されたとの伝承もあるそうです。

 この大岩壁の麓から中腹にかけて霊場が開かれており、お観音様の岩屋が写真に小さく写っています。今からその場所への道順を説明します。

 岩鼻の石造物から泣別れ峠の方向に後戻ります。途中から道が狭くなりますので、どこか邪魔にならないところに車を置いて歩いて行った方がよさそうです(特に農繁期には車で行こうとすると地域の方の迷惑になる可能性があります)。上矢部の家並みに入る直前、道路左側に「岩屋山岸頭寺」の説明板があります。その説明板の直前を左折して、田んぼの中の道を進みます。道なりに右に折れて一直線の道を行き、左方向に分かれる最初の舗装路に入ります。

 川べりには害獣予防策があります。開けて通ったら、必ず元通りに閉めましょう。この道は軽自動車であれば通れそうな幅がありますが、沈み橋の先の路面状況がよろしくないので自動車での通行はお勧めできません。

 沈み橋の先は、標識に従って左に進みます。標識がなければどちらに行けばよいのか迷いそうな場面です。地域の方のお蔭様で、わたくしのような部外のものでも道に迷わずにお参りに行くことができました。

 川べりの気持ちのよい道を進んでいきます。

 そのうち竹林の中の道になります。以前はこの辺りの竹林が荒れていたそうですが、今ではご覧のとおり整備が行き届き、たいへん気持ちの良い道になっています。探訪時にはいよいよ霊場が近づいてきたことが感じられまして、心がうきうきとしてまいりました。竹林を抜けると広場に出ます。その広場の中ほど、右側に参道の上り口があります。

 こちらの仏様が参道の目印になります。後ほど申しますが、この一帯には台座に〇〇番と札所の番号を彫った小さな仏様が点在しています。新四国霊場として札所巡りができるようになっていた時代があったのでしょう。こちらの仏様は、その起点であったのではなかろうかと推察しております。上下につぶれ気味の素朴がお顔が優しそうで、印象深い仏様でございます。

 仏様のところから、木の根の浮き出た斜面をトラバースするように奥まで上がります。ちょうど根が足がかりになって、滑ることなく安全に通れます。

 なだらかに登っていくと、左の崖口に先ほど見かけた仏様とよう似た仏様がおわしまして、台座には番号が彫られていました。ここから先がこの霊場の核心部とでも言うべき難所の道になりますから、用心に用心を重ねて通行する必要があります。

 写真では分かりにくいと思いますがかなりの傾斜で、おまけに岩に積もった落ち葉でよう滑ります。ありがたいことに左にはしっかりとした手すりがありますし、右には鎖が垂れていますから、両者をしっかりと握って必ず三点支持を保ちながら登りましょう。この急傾斜の通路は足元が全て岩場ですから、もし転げ落ちたら大怪我をしそうです。特に下りは注意を要します。

 急傾斜の岩場を登り詰めたら左に直角に折れて、細い通路を左に巻いていきます。ここから先は傾斜も緩やかになり、楽に通行できます。今はフェンスを設置してくださっていますので安全です。もしフェンスがなければ、道幅がかなり狭いうえに左は切り立った崖になっていますのでかなり胆を冷やす場所であったと思われます。

 尾根を巻くところの上方に石灯籠が見えまして、すぐ傍まで上がってみました。何も見当たりませんでしたが、昔はこの灯籠の辺りにも札所の仏様が並んでいたものと思われます。下の参道に返って道なりに行けば、最後の方でやや傾斜が増しておりますけれども問題なく通れます。

 お観音様の岩屋に着きました。大きめの岩屋にめり込むように堂様が建っています。トタンとサッシの造りで、そう遠くない昔に改修されたようです。大きな蜂の巣にたじろぎましたが、幸いにも蜂の姿は見えませんでした。戸は施錠されておらず、自由にお参りすることができます。

 御室の中に、さても鮮やかなる彩色を施されたお観音様がおわします。その朴訥とした表情にはほんに親しみ易い雰囲気が感じられました。この地域を長い間見守ってきてくださった、ありがたいお観音様でございます。何はともあれお参りをいたしましょう。その並びの仏様の台座にはやはり札所の番号が彫られていました。右端は八十七番札所です。番号が飛び飛びになっていることから、参道の荒廃等によりこの場所に移されたことが推察されます。

 岩屋の中はずいぶん荒々しい雰囲気で、ごつごつとした岩の窪みにも仏様が安置されていました。こちらは五番札所です。この危なっかしい場所にあって、にこりと笑うた仏様のさても朗らかなること、お参りをする者の心も晴れやかになってまいります。

 

 岩屋の外の崖上にも仏様が並んでいました。右から三十一番、十九番、三十六番札所で、やはり飛び飛びになっています。三十六番札所のお不動様はギョロリとしたどんぐり眼で、おそろしいお顔でございます。

 岩屋のところから、上矢部の里を見晴らします。耕地整理の終わった田んぼは広々としています。いまから田植が始まれば、晴天の日などほんによい眺めを楽しめると思います。

 あの難所の道を無事下り終えて、広場の奥の方に行ってみました。大きな岩の上に仏様の台座のみが2基残っているのを見つけました。十二番と二十番です。一番から八十八番まで、元々はどのように並んでいたのでしょうか。おそらく88体全ての仏様が残っているわけではないと思いますので復元は困難かと思います。この場所でお四国さんの札所めぐりをしてみたかったものです。

 

今回は以上です。西馬城地区は、地域の方々のお蔭様でいろいろな名所旧跡に説明板が整備されているうえに環境整備も行き届き、楽しく名所めぐりをすることができました。また何度でも訪れたいと思いますし、秋葉様の盆踊りの再開も楽しみにしています。写真のストックがなくなったので西馬城シリーズはお休みにして、次回はどこか別の地域の記事を書きます。