大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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石城川の名所めぐり その1(挾間町)

 このシリーズでは石城川(せきじょうがわ)地区の名所旧跡を紹介します。旧石城川村はほとんどが挾間町に入りましたが、大字内成の大部分は別府市編入されました。それで、このシリーズは挾間町別府市に跨ることになります。

 さて、初回は由布川峡谷の猿渡(さるわたり)入口付近から内成にかけての名所旧跡のうち、挾間町側の一部を紹介します。この一帯は景勝地文化財、銘木など見るべきものがたくさんありまして、四季折々の風情があり皆さんに探訪をお勧めしたい名所中の名所です。由布川地区(挾間町)や浜脇地区・別府地区の山手の名所旧跡と組み合わせて探訪ルートを設定すれば、楽しい1日を過ごすことができるでしょう。

 なお、今回紹介する由布川峡谷の猿渡入口付近は、峡谷を挟んで石城川地区と由布川地区が接しています。猿渡入口自体は由布川地区側にありますが、石城川地区側にあります由布川峡谷自然公園と一緒に紹介したかったので、便宜的にこのシリーズで紹介することにしました。

 

1 由布川峡谷

 由布川峡谷こそは奥別府を代表する景勝地であり、その素晴らしい自然環境・特異なる地形は近隣在郷はおろか大分県の自慢のひとつであります。非常に幅の狭い峡谷で、高いところでは60mにも及ぶ断崖の底を流れる渓流が12kmほども続いています。その規模はものすごく、よほど沢歩きに長けた方でなければ全貌を知ることはできません。通常の探勝では、観光客用に整備された特定の入渓地点より谷底に降りて、その周辺を少し散策する程度です。でもその素晴らしい景勝は遊覧者の心を惹きつけてやまず、杖を曳く人の絶え間を知らぬ名所でございます。別府観光の隆盛に伴い、別府を「東洋のナポリ」と称した時期がありました。それに倣うて由布川峡谷を「東洋のチロル」と申しまして、称賛を集めています。

 さて、この峡谷への観光向けの入渓遊歩道は、平成半ばまでは上流側から椿(別府市)・猿渡(挾間町)・谷ヶ淵(同)の3か所がありました。このうち谷ヶ淵は由布川神社のところから急階段を下り、谷底に係留したたくさんの筏を渡って散策できるようになっていました。確か500円ほどの料金を徴収していたように記憶していますが、かつては人気の高い場所でした。ところが大水が出て階段は崩れ筏は流れ、残念ながら再整備されることなく今に至ります。

 それ以降、長らく椿・猿渡の2か所の時代が続きました。椿入口は最後の急階段以外は比較的容易に下ることができましたのでどちらかといえばファミリー向きで、一方で猿渡入口は小さい子供連れにはちょっと躊躇するような遊歩道でした。駐車場からなだらかに下り、猿渡橋(石造アーチ橋)を渡って左に折れ岩棚上の狭い通路を歩き、その突端から中空に張り出したものすごい高さの鉄骨階段を下って谷底に降りていたのですが、昔の鉄骨階段はすれ違いのできない幅で、しかも階段というよりは梯子段かと思われるような急傾斜の難路であったのです。それでもその階段を下ったところの景勝が素晴らしかったので遊覧者の絶え間を知らず、ひところは夏場など駐車場が満車になることも珍しくなかったほどです。いきおい遊歩道には上り下りの人波で、鉄骨階段ではすれ違いもできませんので上と下で互いに声を掛け合うて譲り合うような始末であったことから、相手を待たせまいと気が急きいよいよ危険を極めるの感がありました。その猿渡入口の鉄骨階段が、平成20年頃でありましたか、崩れてしまって通行止めになったことがありました。その後、以前のものよりはややなだらかですれ違いもできる鉄骨階段が再整備され、再び椿・猿渡どちらからでも下降できるようになっていました。ところが平成29年早々に今度は椿入口の遊歩道が落石で崩れ、同年夏には猿渡の鉄骨階段が台風で崩れ、それ以降全く入渓できない状態が続いていました。

 遊歩道の再整備を今か今かと待ち望んでおりましたところ、昨年の春、猿渡入口が新たに整備されたという新聞記事を読みました。それから1年越しになってしまいましたが、ようやく探訪の機会を得ました。素晴らしい自然環境が荒らされることなく、また自然災害で大岩壁や遊歩道が崩れたりすることなく、今の状態が長く保たれることを願うてやみません。

 

(1)新猿渡入口

 著名な観光地で、どの道からでも標識が充実しているので特に迷うところはないと思いますので道案内は省略します。ただ一点申し添えるとすれば、もし志高湖や神楽女湖を散策した後に由布川峡谷に行きたいときは、別府りんご園から枝郷分教場跡を経由するルートは避けた方がよいでしょう。離合困難・急坂・断崖・急カーブ・路面劣悪の難路が長く続きますから、由布川峡谷の標識に惑わされてこの道に入らないようにしてください。ちょっと遠回りになりますけれどもゴルフ場の中を抜けて鎰掛(かいがけ)を経由するルートをお勧めします。

 トイレや売店(期間限定)のある立派な駐車場が整備されています。車を停めたら、環境維持協力金を1人あて100円支払えばパンフレットをもらうことができます。係員の方に、車道を渡って旧遊歩道とは反対向きに進むように教えてもらいました。てっきり昔の遊歩道が復活したと思いこんでいたものですから、猿渡橋付近の景勝を楽しむことは難しいと悟りまして落胆もありましたが、今度の新遊歩道を下ったらどんな風景が見られるのかしらという期待が高まってまいりました。

 遊歩道入口付近に注意書きがあります。大切なことなので内容を転記します。

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由布川峡谷に入峡される方へ

 由布川峡谷は約60万年前に大規模な火砕流による造られた凝灰岩を少しずつ少しずつ浸蝕しながら、長い年月をかけてできた「生きた自然」です。
 2017年にはここから200mほど下流になる旧降り口が崩落し入峡できなくなりました。この新猿渡入口は地質調査をし安全性の高い場所に建設致しましたが、峡谷内では少なからず落石や落木が発生しており、また、雨が降った後は急に増水する場合があります。
 入峡される際にはそのことを十分に理解したうえで、注意を怠らず自己責任に於いて立ち入りをお願いいたします。

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 遊歩道は途中から長い長い階段になります。これは上りに骨が折れそうなと思いながらも、眼前に広がる大岩壁に胸が躍り、意気揚々と下りました。

 長い階段を下ったところの通路の端に、狸の置物が置いてあります。説明板によれば遊覧者の幸福と災害除けを願うて、地元で育った大野孝子さんが寄贈されたものとのことです。ここから折り返して、なだらかで幅広の鉄骨階段を下れば簡単に谷底に降りることができます。まったく、旧猿渡入口の難路を思えば隔世の感がございます。

 見ればみるほど素晴らしい大岩壁で、空恐ろしくなるような絶勝地でございます。岩壁には幾筋ものナメ滝が落ち、苔の色が映えます。ここから岩を上り下りすれば、冒頭の写真のところまではどうにか水に濡れずに行くことができます。

 下り方向はここまでが限界でした(濡れてもよい服装・履物であればもう少し先に進むことができます)。遊歩道の人工物が見えない場所に来ますと、この峡谷の自然美にいよいよ感激いたしまして声も出ませんでした。青葉の時季は言うまでもありませんが、紅葉もきっとよいと思います。

 

(2)旧猿渡入口

 今では通れなってしまった旧猿渡入口から谷底に降り着いた地点の風景を、ここに紹介します。正直に申しますと、こちらの方がより素晴らしい景観であると感じています。

 いかがですか。上の方に写っているのが猿渡橋で、なんと石造のアーチ橋です。昭和3年の竣工とのことですが、こんなに高いところにどのようにして架けたのでしょうか?普通、昔の石造アーチ橋と申しますと木造の枠をこしらえて、それに沿うて迫石を順々に並べていって要石を嵌め、壁石を積む等の工程を経て石橋ができたら枠を外して完成と相成っていたはずです。ところがこの高所にあっては、木造の枠をこしらえるのは困難を極めたことでしょう。旧の遊歩道はこの石橋を経由していましたが、そもそもは遊歩道としてではなく、両岸の交通のために架かったものです。橋が架かる以前は往来困難であったと思われますから、難工事の末に竣工した際の近隣の方々の喜びはよほどのものであったと推察されます。

 ちょうど橋が架かっているところで峡谷が狭まり、オーバーハングしたものすごい岩壁に滝が落ちています。この場所は由布川峡谷を代表する絶勝地として、観光案内などでも盛んに写真が紹介されていました。高千穂峡は真那井の滝付近の景勝にも引けを取らないものであると存じます。

 これは鉄骨階段を下って下流を向いた風景で、上流側もほんに風光明媚な風景か広がっていました。その写真もありますが、たくさんの人が写り込んでいるので掲載は控えます。

 

(3)吊橋

 猿渡入口から車に乗って橋を渡り、小平(おひら)部落のかかりにて標識に従って右折します。道なりに下っていけば由布川峡谷自然公園として整備された園地の駐車場に着きます。顔はめパネルやトイレなどが整備されていますが、全体的にやや荒れ気味になってきているのが惜しまれます。

 車を停めたら、この気持ちのよい遊歩道を歩いていきます。猿渡の遊歩道のような急階段はありませんので、楽に散策することができます。この道は峡谷に沿うていますが、木々が茂って谷底は見えません。

 しばらく行くと写真のような案内図が立っています。赤い「現在地」の印の手前から擬木階段を上れば「御子地蔵」がお祀りされています。後でお参りすることにして、先に吊橋に行ってみましょう。

 今からこの吊橋を渡ります。しっかりした造りで揺れも少なく、安心して渡ることができます。

 吊橋の遥か下に、渓流が見えました。ものすごい高さで、しかもこの下は両岸がいよいよ狭まりて昼なお暗き幽境の感があり、身が竦みました。うまく写真に撮れませんでしたがこの反対側を見下ろせば、チョックストーンも確認できました。由布川峡谷には複数のチョックストーンがあるそうです。観光案内などで盛んに写真が掲載されているチョックストーンは椿入口よりもなお上流にあるもので、吊橋の上から見えるものではありません。

 

2 みこ地蔵

 さて、吊橋からの戻りに寄り道をしてみこ地蔵様にお参りをいたしましょう。擬木階段がやや荒れ気味ですが簡単に訪れることができます。額あじさいがたくさん植わっていて、よいところです。

 お地蔵様は斜面の半ばに簡単な御室を設けて、お花もあがり立派にお祀りされていました。お賽銭もたくさんあがっています。

 すぐ横の説明板には、お地蔵様の由来が記されています。タイトルは「御子地蔵」ですが本文中の用字は「美子」となっています。いずれも「みこ」の読みであり、これは「びこ」の転訛のような気がいたします。速見地方などで、昔から男の子のことを「ぼん」、女の子のことを「びこ」と呼んできました。今はお年寄り以外は使わない言葉になりつつありますが、よその子に対しても親しみをもって呼びかけた言い方です。この民話においてはより物語性を増幅させんがために、代名詞的な「びこ」が伝承の過程で個人名の「みこ」になり、「美子」「御子」の字を宛てたのではないかと推察いたしました。

 説明板の内容をもとにして少し補い、子供の頃にお年寄りに聞かせてもらった昔話の口調で書いてみます。

 

○ 民話「みこ地蔵」

 昔むかしんこつじゃあ。由布川ん谷があろうがえ、そんねきに桃川左衛門さんちゅち分限どんがおったんじゃあとこ。そん夫婦にゃ子がでけんじ、いっつも黒川ん地蔵さんに通うち子授けん願をかけよったんじゃ。そん日もお参りに行っち帰りよったら、今こ生まれた赤子を見つけちなあ。拾うち帰っち、みこち名をつけたんじゃ。太り上がるまでそら大事にしたんで。そらもう別嬪さんに育っち、十七ん春んこつじゃ。みこは「今まで黙っちょったけんど、うちゃ大蛇ん子なんじゃ。淵に帰らにゃでけんごとなった」ちゅち、由布川ん蛇淵に飛び込うじしもうた。そりから三年、みこによう似た娘が来ち「うちゃみこん妹じゃ。こら姉やんからん贈りもんじゃ。姉やんに逢いたかりゃ明日ん晩に朴木ん笹葉ん谷に来ちょくれ」」ちゅち、千両箱をくれち帰っちいったんじゃあとこ。笹葉ん谷なおじいとこじゃあ。そじゃけんど一目なっと逢いとうじ次ん晩に行っちみら、みこが娘ん姿じ現れちなあ。みこに逢うたんはそれぎりじゃあ。名残惜しゅうで、お供養にお地蔵さんをこしらえたんじゃあとこ。もうしもうし、米ん団子。

 

3 下詰上の石造物

 小平部落の三叉路を右折して、内成方面に行きます。途中から道幅が広くなり、ずいぶん走り易くなりました。大字内成のうち挾間町側、詰部落の公民館を過ぎてほどなく、「下詰上」バス停の手前の道路端に石造物が寄せられています。

 完璧な保存状態の、立派な石幢が目を引きます。八角の笠が大きく広がり、龕部には六地蔵様と十王様のうち2体、計8体の刻像がよう残っていました。中台の蓮華坐は小ぶりで、上品な感じがいたします。基礎部分の返り花もなかなか優美ではありませんか。この形式の石幢は、大字内成のうち別府市側の地域にも4基残っています。そのうち3基の写真がありますので、次回紹介します。

 お弘法様の石祠の裏にあるのは庚申塔で、猿田彦の銘があります。内成で見かける庚申塔猿田彦の文字塔が目立ち、今のところ刻像塔は見つけることができていません。

 

今回は以上です。内容の割には文字数が多くなってしまいました。次回は大字内成のうち別府市側の地域をめぐります。