大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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石城川の名所めぐり その2(別府市)

 前回の続きで、大字内成の名所をめぐります。今回は別府市側の地域のうち、写真のあるところを紹介します。適当な写真がないところも多いので、それはまた別の機会に補いたいと思います。

 

○ 内成について

 大字内成は内成と古賀原(こがのはる)に大別され、両者は御園峠(みそのとうげ)で隔たれています。棚田で有名なのは内成側で、詰・鎰掛(かいがけ)・岩水・梶原・中ノ迫・太郎丸・勢場(せいば)・勢家(せいけ)・御園(御苑の用字もあり)・下畑(しもばたけ)、合計10の小部落からなります。古賀原は古賀原・仁田原(にたわら)からなり、都合12部落のうち詰以外が別府市に分離編入し今に至っています。

 内成の棚田について申しますと、詰の棚田は由布川流域、それ以外の地域の棚田は石城川流域にて、その文脈が異なります。一般に「内成棚田」と申しますと後者を差すようです。最高所の太郎丸から下畑まで、擂鉢状に落ち込む地形の一面に猫の額ほどの棚田を拓き、そのあちこちに小部落が点在しているのです。冒頭の写真をご覧いただくと分かるようにその棚田の規模たるやものすごく、とても1枚の写真には収まりません。その数1000枚を優に超すそうですが機械が入らない田が多く、耕作に難渋されたほか田越しの灌漑にて水の番も容易なことではないのでしょう、近年は耕作放棄地も増加しております。それでも棚田オーナー制度の導入など智恵をしぼって環境・景観の保全に努められており、この規模の棚田にしては現役の田が比較的多いように見受けられます。特に田植の時季や稲刈り前の景観は探訪者の心を惹きつけてやまず、休憩用のベンチや散策マップの作製、交流イベントの実施などにより興味関心を持つ方が年々増加しています。

 ほかに、内成・古賀原で特筆すべきは石造文化財や史蹟の豊富なことです。特に石幢は優秀作が多いし、小規模な磨崖仏や、一字一石塔・庚申塔・お地蔵様などといった路傍の石造物もたくさんあります。大神峯神社や石城寺といった歴史のある神社仏閣、鎰掛や御園峠に残る旧道の道筋、下畑に残る石造アーチ橋などといった交通に関する史蹟・文化財も特筆すべきものでありましょう。民俗芸能としては、残念ながら廃絶してしまいましたが盆口説による旧来の盆踊りもその演目の豊富なことと独自性には目を見張るものがありました(この記事の末尾にて詳述します)。そもそも内成は、稲作はもとよりかつては七島藺の栽培や別府の竹細工の原料になる竹の一大生産地としても名を馳せ、近隣在郷の農林業・手工業の発展に寄与してきた地域です。わたくしは部外の者にすぎませんけれども、あの風光明媚な土地を訪れる度に昔の方の苦労が思われ、今後ますますの地域の発展・安寧を願わずにはいられません。

 

4 鎰掛の旧道

 立ち寄り湯「かいがけ温泉きのこの里」の辻から、標識に従って別府方面にまいります。ほどなく鎰掛部落です。バス停を過ぎて掘割を抜けてすぐのところから右に旧道が分かれています。薬師堂跡に行くにはこの旧道を進みます。車は入れませんので、邪魔にならないところに停めて歩いて来ましょう。

 いかにも昔の道らしい雰囲気があります。軽自動車程度であればどうにか通れたかもしれませんが、現状では薬師堂跡から先は道がなくなってしまい袋小路になっています。この道の入口には獣害予防柵が立っています。開けたら必ず元通りに閉めておきましょう。

 

5 鎰掛の薬師堂跡

 旧道を少し歩けばほどなく境内に到着します。旧道敷がそのまま堂様の坪になっているような立地で、その境界が定かではありません。堂宇は残っていないので、項目名は「薬師堂跡」としました。

 右の波板の建屋は磨崖仏の覆い屋です。その並びの五輪塔群はキリシタン墓碑、左奥には石幢が見えます。さらに右奥には薬師様の岩屋もございまして、この狭い用地に見るべき文化財がたくさんあるのです。入口に標識がないうえに車道から見えないので、お参り・見学に立ち寄る方は稀であると存じます。

 こちらが薬師様の岩屋です。小さめの岩屋の中に、さらに舟形の龕を彫りくぼめて主尊を安置するというたいへん手の込んだ手法をとっています。破損した石塔の部材も集めて安置してありました。かつては、おそらくこの岩屋の前に堂様が建っていたのでしょう。温泉に入りに来たときなど、このお薬師様にお参りをして健康を祈願されてはいかがでしょうか。

元文四己未三月廿四日
延命地蔵菩薩経書之塔 ※之は異体字
功徳主鎰掛村信男女中

 石幢の素晴らしい造形、保存状態のよさに感銘を覚えました。この石幢については『べっぷの文化財No37』中の「内成地区の石造文化財」(小泊立矢)にて詳述されています。まず笠の優美なること、宝珠のふくらみや尖端の繊細な表現、笠の角々の装飾的な表現が素晴らしいではありませんか。基礎の反花も見事なもので、一枚々々の花弁の写実的な表現にはまるで木彫り細工を見たような繊細さが感じられます。銘にある「延命地蔵菩薩経」は、小泊立矢さんの解説によれば日本で造られた偽経で、「延命地蔵は六道をめぐり、安産をはじめとする十の功徳を人々に与える」旨の内容である由。その一字一石塔と石幢を兼ねた塔であるということで、いよいよ霊験あらたかなる感じがいたします。

 中台の優美なる表現に目を奪われがちですが、龕部の諸像にも注目してください。こちらは八角にて六地蔵様と、十王様のうち2体が浮き彫りになっています。その十王様の頭上には梵字が彫られています。小泊さんの解説によれば、右の像の頭上は「カ」(地蔵菩薩)、左の像の頭上は「キリーク」(阿弥陀如来)であり、地蔵菩薩閻魔王本地仏阿弥陀如来五道転輪王本地仏なので、それぞれの像は閻魔王五道転輪王であるとのことです。諸像のお顔には白、衣紋には赤の彩色の痕が認められるとのことですが、それと知らいで拝見したためでしょうか、現地では気付きませんでしたし、写真を見てもよう分かりません。もし先にその知識を得たうえで実物をよく確認すれば何らかの気付きがあったかもしれませんが、後の祭りです。

 右の2基は庚申塔のような気がしますが、銘がすっかり消えてしまっていたので詳細は不明です。道路工事などの際にこちらに並べたものと思われます。

 この五輪塔群はキリシタン墓碑であるとの伝承があります。写真では分かりませんが、右から2番目の塔の火輪に十字の線がごく浅く彫られています。中央の石殿の仏様も、何かその関係かもしれません。いずれも、道路工事などにかかってこの崖口に移されたものと思われます。

 磨崖仏の覆い屋は鉄骨造りの立派なものであり、それ相応の元手がかかったものと思われます。今や像容も判然としないほど風化しておりますけれども、信仰が続いているのでしょう。

 このように、何が何やらさっぱり分からない状態です。辛うじて、3体ないし4体の像の痕跡は分かります。龕の中に浮き彫りにしているにしては傷みがひどいのが惜しまれます。

 大字内成にはこちらと下畑、2か所に磨崖仏が残っています。経年の風化摩滅は致し方ないものの、粗末にならないことを願うています。

 

6 梶原の石幢

 鎰掛の薬師堂跡から車に戻り、先に進みます。岩水部落を過ぎて梶原バス停の手前、「月見石駐車場」の道標に従って鋭角に左折し、離合困難の急坂を上がります。この道は普通車でも通れますが運転に注意を要します。梶原部落の中ほど、三叉路のところに石幢が立っています。道が狭くて近くに駐車できませんので、この三叉路を右折して月見石駐車場に停めるとよいでしょう。

 この石幢はたいへん見晴らしのよいところに立っており、印象に残りました。探訪が何年も前で、当時は石幢の見どころをよう分かっていなかったものですから中台の拡大写真がありません。蓮華坐の表現が特徴的で、一枚々々の花弁の縁が反りかえって中央をふっくらと表現してあります。その上の帯状の縁取りの幅が広く、一見して鎰掛の石幢とはずいぶん印象が異なります。先ほど申しました小泊さんの記事によれば、竿から蓮華坐、その上の台までが一石造であるとのことです。

 光線の加減で龕部の写真が暗かったので、加工して掲載します。諸像の状態は良好で、お地蔵様の衣紋には赤い彩色がはっきりと確認できます。

 

7 内成の棚田

 今度は棚田の風景を紹介します。月見石、太郎丸、下畑、勢場など、展望スポットがたくさんあります。広大な棚田は、ただ一か所から見るだけではとても全貌を把握することはできません。ドライブがてら、あちこちから景色を楽しんで自分なりのベストショットを捜すのも楽しいことです。四季折々の風景は、きっと心の癒しになることでしょうし、この棚田をこしらえて長い間耕作を続けてこられた昔の方の苦労に思いを寄せれば、きっと得られるものがあると思います。道が狭いところが多いので、車の運転には十分気を付けてください。

 田植前、水を張りはじめた頃の風景は特によいと思います。満月の晩など田ごとの月の眺めを楽しむことができます。

 この急傾斜にあっては農作業はおろか、その道中も大変なことであろうと推察されます。特に昔は、稲刈りの時季などおうこをかたげて何回も上り下りして運んでいたことでしょう。水の番も並大抵のことではないでしょう。写真に写っている大きな建物は内成の公民館です。8月14日に、その坪で盆踊りをしています。もう昔のような盆口説の踊りではなく各種音源を利用しての踊りになっていますけれども、山家の盆踊りというものはほんに風情があります。

 彼岸花の時季には、畦という畦に花が咲きます。

 一口に棚田と申しましても、畝町がまっすぐの田がつらなる棚田と、まがりくねった田が連なる棚田があります。内成の棚田は後者で、かてて加えてこの規模でありますから、石垣の総延長たるや何kmに及ぶのか想像もつきません。その石の数は、千や二千ではないでしょう。何万、何十万にもなると思います。それほどの石をどこから運んでどう積んだのでしょうか。これほどまでの大工事が人力でなされたのです。

 

○ 盆口説「七島藺の由来」

 今や下火になって久しいものの、昭和の中頃までは国東半島をはじめとして速見地方、大分地方など県内のあちこちで七島藺がさかんに栽培されていました。七島藺は一般に「しっと」と呼んでいます。七島藺は刈取り作業が大変で、それを浜や道路などに並べて干すのですが、雨に濡れると変色して価値が下がるので夕立の兆しがあれば走って取り込みに行くなど大変な労力でした。干し終えたら今度は一本々々をわきます。藺草の端をわき台のカネにひっかけて引っ張るのですけれども、慣れないときれいに真ん中でわくことができません。夜なべ仕事でもこなせず、学校から帰った小学生も親を手伝い、家内総出でやっとわき終えるような始末でした(どの家も同時に作業しますのでマクリで行うことはできませんでした)。わき終えたら、今度は七島機にイチビでよった経糸をかけて、ガチャンガチャンと筵を織ります。その筵10枚を一荷(いっか)といって、買い付けにきた仲買人に10枚単位で売っていました。七島筵は豊後表と申しまして、その独特な風合いが好まれ都市部においても高評価を得ていたそうです。七島栽培は農化にとって貴重な現金収入減であったものの、次第に備後表に押されてきたのとあまりに手間がかかることから下火になりまして、今や栽培農家は国東半島に数えるほどしかありません。

 そもそも、七島藺自体は大分県由来のものではなくて、琉球由来であると申します。琉球から七島藺を持ち帰ったのは内成出身の橋本五郎右衛門さんで、内成で栽培に成功したのが豊後の七島栽培の嚆矢であるとのことです。この件について、盆口説になっており以前は杵築周辺の盆踊りで「三つ拍子」の節で口説かれていました。最近はあまり耳にすることのない文句ですし内成でも口説かれていたかどうかは不明ですが、ここに紹介します。

盆口説「七島藺の由来」

〽山紫水明風清らかに 住んで心地の良いこの里に これは皆様ご存知なさる 豊後で名高い貧乏草の 今じゃ百姓の宝となった 七島表の話がござる さても由来を尋ねてみれば 時は寛文三年頃よ 当時府内に住いをなした 見通し明るき商人ありて 姓は橋本名は五郎右衛門 彼はあるとき薩摩に遊び 初めて莚を見て喜んで 作り方をば習わんものと 土地の百姓に尋ねてみたが なかなか教えちゃくれないほどに とうとうやむなく国にと戻り 兄に語りて申さることにゃ これを豊後に植えたるならば きっと利益のあることならん 話聞きたる八郎兵衛は よきことなりとて励ましければ 再び一人で琉球に渡り 七島藺をば持ち帰らんと あれやこれやと思案をしたが 譬え一本の藺草じゃとても 決して分けてはくれませぬ 致し方なく五郎衛門 竹の杖をばこれ幸いと 苗をひそかに中にと入れて ようやく国まで隠して帰り 早速これをば植えてはみたが 作る方法の分からぬために 離れ小島の琉球の果てで 苦心こらして手入れし苗を 遂に枯らして残念至極 しかし不屈のかの五郎衛門 こんなことにて驚くものか またも遥々琉球に渡り あらゆる困苦と戦いながら 数十日間滞在なして 今度は詳しく研究を重ね 再び苗をば持ちてぞ帰る 首尾よくこれをば栽培なして 今じゃ遍く広がりたれど これも商人かの五郎衛門 尊い遺業のお陰でござる

 

8 勢場の大銀杏

 梶原の石幢から下の道に返って先に進み、水無しの滝の三叉路を左折して太郎丸に上がります。野菜の無人販売のある三叉路を右折して道なりに下り、勢場部落のかかり、道路端に大きな銀杏の木があります。

 見事な枝ぶりで、その樹勢は衰えを知りません。この銀杏はお乳の出ないお母さんの信仰を集めていたとのことで、こぶ状になったところを削って煎じて飲むと霊験あらたかとの伝承があるそうです。

 

9 内成橋(キードん橋)

 大銀杏から道なりに下って下の道路に戻ったら左折、すぐさま右折して細い道を下ります。軽自動車がやっとの幅なので運転には十分気を付けてください。ずっと下っていくと、下畑部落のかかりで二股になっています。これを右にとって石橋を渡れば田代(挾間町)に行くことができまして、昔の幹線道路でした。

 別府市では珍しい、石造アーチ橋です。この橋は正式名称を「内成橋」と申しますが、一般に「キードん橋」と呼んで親しまれてきたそうです。この「キード」と申しますのは「木戸」の意で、内成の村の入口ですからこのように呼んだのでしょう。

 

10 下畑の石幢

 「キードん橋」を渡らずに、二股を左にとって道なりに行きます。とても狭い道なので軽自動車の方がよいでしょう。しばらく行くと、道路左側に石幢が立っています。

 この石幢も保存状態が良好です。梶原や鎰掛とは違い六角形のもので、その形状の所以でしょうか、よりすらりとした印象を覚えました。こちらは中台の花弁の細やかさが見事で、都合24枚もの花びらが表現されています。

 ここからさらに先に行けば下畑の磨崖仏(お地蔵様)がありますが、適当な写真がないので今回はここで引き返します。

 

11 御園峠

 内成公民館のところから古賀原に抜ける御園峠は道路改良が著しく、全線2車線になりました。けれどもほんの15年ほど前まではくねくねと曲がりくねった狭い道を通っており、ずいぶん遠く感じたのを思い出します。

 旧道時代の写真が1枚だけありました。御園峠バス停の付近には民家が見当たらず、このバス停を誰が利用するのかしらといつも不思議に思うたものです。きっと昔は、この近隣にも家があったのでしょう。

 

○ 内成の盆踊りについて

 先ほど少し申しました通り、今は8月14日に内成公民館で供養踊りをしています。演目は「別府音頭」「炭坑節」等のほか「内成棚田音頭」という当地の新民謡を含む6種類程度で、音源を流して踊っています。ここでは、昔の内成の盆踊りについて書いてみようと思います。

 内成では、昭和末期までは初盆の家を門廻りで踊っていたそうです。ほかに観音様の踊りと地蔵踊り(いずれも寄せ踊り)もあり、年に3回の盆踊りがありました。演目は「けつらかし」「一つ拍子」「二つ拍子」「切り返し」「祭文」「田の草」「三勝」等10種類程度を数え、いずれも石城川・由布川地区と共通のものであり、別府方面のものとは全く異なります。太鼓は使わず、口説に合わせて足拍子手拍子で踊っていたそうです。ひところは鶴崎踊りの流行に伴い「猿丸太夫」を取り入れたこともあったがこれは長続きせず、昔からの古い踊りを長い間続けていました。踊り方が難しいうえに口説き手もいなくなった等により昔の踊りで輪を立てることが難しくなり、現行の形態に切り替えて盆踊りを継続しているそうです。

 

今回は以上です。ずいぶん長い記事になってしまいました。次回は上井田シリーズの続きを書きます。