大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上井田の名所めぐり その3(朝地町)

 今回は上井田地区のうち大字下野(しもの)・志賀・宮生(みやお)の名所旧跡の一部を紹介します。この辺りは探訪が不十分で適当な写真がないところが多いので、不足分は別の機会に補います。

 

10 堀家の庚申塔

 「道の駅あさじ」から県道57号(旧国道57号)を大野町方面に少し行き、農業資材の「ほうねん朝地店」の角を右折します。堀家部落のかかり、右側1軒目の先を右折して道なりに上っていき、上の道路に突き当たったら右折します。ほどなく、道路右側の山すそに庚申塔が1基倒れています。車は、この少し手前の路肩ぎりぎりに寄せて駐車するしかありません。

 寛文十年
奉拝礼供養庚申塔一墓 ※拝と礼は旧字
 十一月六日

 薬研彫の梵字が目を引きます。銘に「墓」の字が入っている点に注目してください。はじめは「基」と「墓」を間違えたのではあるまいか、つまり「一基」と書きたかったのではないかと早合点してしまいました。けれども実際は、間違えたわけではないと思います。以前、本匠村は「中野の庚申塔めぐり その4」の記事で、長野部落の庚申塔を紹介しました。その塔の銘は「申庚墓」でした。「申庚」は「庚申」の誤りと思われます。「庚申墓」という名は、他県においても類例があるそうです。ですからこちらの「庚申塔一墓」も、「庚申墓」と同じ発想でこのように記したものと推察いたします。造立年月日および11名の方のお名前もずらりと記してあり、碑面いっぱいに文字が彫られています。そのためでありましょうか、梵字にくらべてずいぶん簡易的な彫り方になっております。

 

11 樋口の豊前坊様

 堀家の庚申塔でUターンして、先に進みます。志加若宮神社の角を左折して道なりに行けば、道路左側の小高いところに豊前坊様をはじめとする各種石造物がたくさん並んでいます。その内容を申しますと大規模な一字一石塔が2基、西国三十三所供養塔が1基、庚申塔(文字塔)が多数、庚申塔(刻像塔)が1基ございまして、中でも西国三十三所の塔は近隣在郷では類を見ないたいへん立派なものです。以前単独の記事で紹介しましたので、リンク先をご覧ください。

oitameisho.hatenablog.com

 

12 岩屋寺跡の磨崖仏

 樋口の豊前坊様で引き返して、志加若宮神社のところの突き当りまで戻ったら右折して僅かに後戻り、すぐさま左折します。長い下り坂をずっと下っていきまして、大字志賀は八原(はちばる)部落に下り着く手前、道路右側に参道上り口があります。

 道路端に2つの龕があって左はお地蔵様、右は岩屋寺跡の案内板です。「磨崖仏 岩屋寺跡 一九九一年 志賀老人会」と彫ってあります。これほど立派な案内板はなかなか見かけません。

 この草付の急坂が参道です。息が上がるほどの急坂ですので杖を持参するとよいでしょう。まっすぐ登り詰めたら右に折り返してなおも上ります。足元がよくないので雨降りの後はやめておきましょう。それにしても、お寺跡なのに石段や石畳が全く残っていないのが意外です。お寺が現役であった頃から、こんな草付の急坂を上り下りしていたのでしょうか。或いは廃寺になって久しく、いつの頃かに石段や石畳、石垣等を崩して(または崩れて)、近隣に持ち出してほかに転用した可能性もあります。なお車は、車道の傾斜が急なのでいったん下りきって平坦なところに邪魔にならないように駐車して、この場所まで歩いて戻りましょう。

 本当にこの場所にお寺があったのかしらと疑問に思うてしまうほどの傾斜地で、岩壁も荒々しく胆が冷えるような立地でございます。写真に磨崖仏が写っています。

 側に寄ってみますと、その大きさに驚きました。それと申しますのも各種書籍やインターネットサイトで見た画像では、そう大きそうには見えなかったのです。実際に目の前に立つとわたしの背丈を優に超える大きさがありました。仏様の左右には岩屋がほげています。右の岩屋は仏様の体に干渉しているように見えますが、これは崩れてこうなってしまったのか、意図的なものなのか気になります。

 別の角度から撮った写真です。舟形の龕をこしらえて、その中に仏様が浮き彫りになっています。岩質によるものと思われますが保存状態がよろしくないのが惜しまれます。

 やはり、どう見ても体の一部に岩屋が干渉しています。

 左に行けば矩形の浅い龕をなしたところがあり、その中にも何らかの像の痕跡があるように見えました。しかし輪郭もおぼろげな状態でありますので、見間違いかもしれません。

 

 さて、岩屋寺跡から車に戻り、坂道を下りきった先が突き当りになっています。これを右にとれば八原橋跡に出ます。昔、橋が流れる前は対岸に渡れば軸丸磨崖仏(以前紹介しました)もほど近く、こちら側からもお参りがあったものと思われます。八原橋跡は適当な写真がないので省いて、今回は左に行きます。

 道なりに行き、右側の小山は志賀城址です。立派な看板が立っています。その一角には栗ノ木磨崖仏があるはずですが藪が深く、まだ行き当たっておりません。またいつか見つけ出したら紹介します。しばらく行って踏切を渡ります(通行注意)。曲がりくねった急坂を上っていけば、左側に志賀の公民館があります。有名な志賀の盆踊りをこの坪で踊ります。石造物もありますが適当な写真がないので省略します。

 

○ 志賀の盆踊りについて

 志賀の盆踊りこそは、大野・直入地方の大部分の盆踊りの源流であると言えましょう。そもそも現行の志賀の盆踊りは、明治の始め頃、当地に住んでいた旧岡藩の田中さんという人が盆踊りを好み、方々からいろいろな演目を集めて当地の盆踊りに取り入れたことに由来します。そのため各地で廃った演目が志賀で復活しましたが、それは元の演目をそのまま取り入れたのではなく、元唄の節や踊り方の特徴を生かしつつアレンジして、一連のものとしての一体感を持たせたものでした。それが評判を呼び、近隣在郷に逆移入されるような現象が方々で見られたようです。特に緒方町や大野町では「盆踊りは志賀から伝わった」とか「志賀からお嫁に来た人に習って盆踊りを始めました」というエピソードが多々伝わっています。

 演目は「二つ拍子」「杵築踊り」「猿丸太夫」「祭文」「弓引き」「風切り」「銭太鼓五つ」「銭太鼓七つ」「団七踊り」「かますか踏み」「伊勢音頭」「庄内踊り」「かぼちゃすくい」「佐伯踊り」「麦搗き」など、最盛期には実に17種類を数えました。しかも手踊りのみならず、「弓引き」や「風切り」などは扇子、「伊勢音頭」は綾筒、ほかにも銭太鼓、団七(3人組の棒踊り)など、綾踊り(道具を使う踊り)が多く、たいへん手が込んでいます。特に「弓引き」は「那須与一」の口説の内容によう合うた所作であり、扇子の使い方や身のこなしがすこぶる優美です。また「銭太鼓」は、左手に持った扇子をクルリクルリと繰りながら、右手に持った銭太鼓(※)を振り回して踊りますのでこれまた優美なること甚だしく、「弓引き」と合わせてところの名物といえましょう。 ※この地方の銭太鼓は、穴あき銭を通した小さな道具に長い房飾りが何本もさがった形状です。細かく揺すって音を鳴らしながら、房飾りを大きく振って派手に踊ります。

 この17種類もの踊りを伝承するのは容易なことではなかったようで、人口の減少も著しい中、今は「二つ拍子」「杵築踊り」「弓引き」「風切り」「銭太鼓五つ」「麦搗き」など6~7種類程度を残すのみとなっています。毎年8月17日の晩、公民館に地域の方が集まり、小松明の灯りの中で口説に合わせて踊ります。志賀では太鼓を使いません。虫の音のすだく中で、ほんに風雅なことでございます。

 公民館の外壁に、町指定民俗文化財の看板が据え付けられています。今では一重の小さな輪がやっと立つ程度ですが、近隣在郷の盆踊りへの影響たるや甚大であり、その民俗的な価値は大きいといえましょう。鶴崎踊りや草地踊りなどのように観光化されておらずややもすると等閑視されがちですけれども、大分県を代表する民俗芸能のひとつです。

 

13 桐木の石造物

 志賀の公民館から急坂を上って、上の道路に戻ります。突き当ったら右折して道なりにしばらく行き、宮生公民館の手前にて左側の路肩が広くなっているところに車を停めます。ここから右に分かれる2車線の道(緒方町→の標識あり)を少し歩けば、右の台地上に石塔が並んでいます。

 小高いところに、4基の庚申塔が並んでいます。細い道がついていますので、塔の近くまで簡単に上がることができます。

(読み取り不能庚申塔

 銘の上の方が読み取れず、かろうじて下3文字が「庚申塔」であることは分かりました。

(折損)産神守護

 折れた上半分をこのすぐ後ろの立てかけているのですが、隙間が狭く、上半分の文字を読み取ることができませんでした。こちらは庚申塔ではないと思います。

 さて、今度は車を置いたまま宮生公民館の方に行ってみると、坪の隅(道路端)に道祖神の由来書きが立っています。

 内容を転記します。

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道祖神

 昔、足立某なるものが訳あって出奔、一人娘をつれてこの地にかかると娘は長旅に着かれて苦しみ、少彦命の故事を乞うた。すなわち、父に頼んで女にしてもらった。ところが再び父にこれを頼んだので父は怒り、「畜生」と罵って娘を殺して立ち去った。その娘の霊を祀ったのがこの道祖神であるといわれる。

 男根の型をつくったものが奉納されており、淋病や女子の腰気などの性病に霊験が著しいと言われている。
(これより1.5km)

昭和51年3月 宮生中央自治

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 説明末尾の「これより1.5km」の表記が気になりました。ここから1.5kmも、どう進めばその道祖神に行き当たるのか分からなかったので諦めようとしましたら、この説明板のすぐ後ろにそれらしい石を見つけたものですから、ますます謎が謎を呼び、さっぱりわけがわかりません。

 左の細い石塔が道祖神ではないかと思います。銘の1文字目は「地」の異体字と思われます。その下に「とうそ」と平仮名が彫られています。半ばが欠損しておりますので、もとは「どうそじん」などと彫られていたのではないでしょうか。または「地蔵尊」の意で「地どうそ(ん)」かなとも思いました。それとも申しますのも大分県の方言(日田方面などを除く)ではザ行の音がしばしばダ行に転訛して、昔はお年寄りが「雑巾」を「どうきん」、「地蔵和讃」を「じどうわさん」と発音したり、または気を付けようとして混乱したのか「下り坂」を「くざりだか」などと発音するのを耳にすることがありましたので、これもその類かなと思うたのです。でも、いくら何でも文字にするときにまで「ぞ」を「ど」と彫ってしまうとは考え難いので、「地どうそ(ん)」ではないでしょう。やはり「地どうそ(じん)」でありましょうが、頭の「地」はどのような意味合いなのでしょうか。

明治五年
奉拝待猿田彦大神 ※猿は異体字
壬申八月■■

 猿田彦の前に「待」がくるのは珍しいような気がします。失礼ながら文字のバランスが悪く、あまり褒められたものではありません。国東半島においては明治に入ってからの造立はそう多くはないもの、千歳村は新殿公民館のところでは明治はおろか大正、昭和、果ては平成元年、西暦2000年の庚申塔まで立っていました。平成と2000年はさておき、大正、昭和の造立は大野地方においては案外珍しくもないのかもしれません。

 

今回は以上です。次回はこのシリーズの続きで普光寺周辺の名所を紹介するか、または新しく「大野の名所」シリーズを始めてみようかなとも考えています。国東半島の記事をしばらく書いていないので、並行して準備を進めてまいります。