大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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野上の名所めぐり その1(九重町)

 九重町は野上地区の名所旧跡を紹介します。野上地区は大字野上・後野上(うしろのがみ)・右田からなります。この地域には有名な観光地はありませんが、庚申塔や宝篋印塔、石橋などの石造文化財が豊富です。また、部落ごとの小さな神社や堂様がたくさん残っています。大分県民には 〽水澄みて、空は青く山は緑… の唄でお馴染みの八鹿酒造もあります。年中行事としては盆口説による昔からの盆踊り(供養踊り)や下旦(しもだん)の祇園様が知られています。

 先日、この地域の石造文化財を少し見学しました。そこで早速記事にしてみるわけですが、ほんの数か所にすぎませんので内容は知れたものです。一応シリーズの体裁で書き始めることにします。

 

1 寺田の逆修塔

 水分峠から国道210号を下っていきます。ローソン野上店を過ぎてほどなく、道路右側に冒頭の写真の石造物が見えます。車は、すぐ前に停められます。道路端にあって簡単に見学することができますし、珍しいものも多いので、各種石造文化財に興味関心のある方が九重町を訪れる際に必ず立ち寄るべき場所です。

 立派な祭壇上に寄せられた石造物の中でもっとも目を引くのが、こちらの笠塔婆です。これは逆修塔で、生前供養のために立てられたものです。笠塔婆としては大型であり、寄棟造の重厚な笠には垂木が表現されています。塔身上部には2つの龕の中にお地蔵様を陽刻しており、浅い彫りではありますが均整のとれた表現が見事なものですし、その上部の縁取りの波形もほんに優美ではありませんか。めいめいのお地蔵様の下には線彫りで蓮華坐を表し、下半分には銘文が刻まれています。この塔は町指定の文化財になっており、説明板が横に立っていますので内容を転記します。

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九重町指定有形文化財
寺田逆修塔

総高1.68m 正面幅の広い塔身に寄棟の笠をもつ笠塔婆である。塔身上部に地蔵の坐像2体を陽刻し、下部に穴井氏一族4人、木田氏一族3人の名前を刻んである。「元亀二年」(1571年)の紀年銘をもつ。

帆足義正
  正子

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 このような石造物をよそで見かけたことがなく、はたしてこれを何と呼べばよいのか迷うところです。やはり逆修に関するものでしょうか。中央に位牌らしきものを線彫りし、向かって右の枠の上には坐像、その下には花瓶に挿したお花、向かって左上には丸の下に蓮華坐。たいへん風変りな表現方法であると存じます。

 手前は供養碑でしょうか。後ろの塔には卍の下に「南無阿弥陀仏」、蓮華坐も彫られています。

 台座の右には「金剛界」と彫った塔が、左には卒塔婆をずらりと彫った碑銘が2段重ねになったものが載っています。やはり、この一角の石造物すべてが逆修塔に関係のあるものなのでしょう。祭壇が高いうえに木の枝が伸びがちで、おまけに雨が降っていたので前面から見える範囲でしか見学できませんでした。文化財に指定されている笠塔婆以外の説明も欲しいところです。

 次に紹介する慈雲寺跡の庚申塔の説明板には、こちらの逆修塔との関連も記されています。ほど近い場所にありますので、あわせて見学されることをお勧めいたします。

 

2 慈雲寺跡の石造物

 寺田を過ぎて国道を恵良方面に行くと、右側に野上小学校があります。今から目指す慈雲寺跡には駐車スペースがありませんので、学校が休みの日であれば小学校に駐車させていただくのがよいと思います。小学校を過ぎてほどなく、野上歩道橋のところを鋭角に左折します。少し行けば道路端に庚申塔をはじめとする石造物が並んでいます。所在地の行政区名は「野上北区」で、小さい地名は分かりませんでした。

 この庚申塔天正11年の造立であり、凡そ440年も前のものです。県内に残る庚申塔の中でも特に古いもののひとつで、県指定の文化財になっています。玖珠郡で見かける庚申塔は大抵、碑面に大きく「猿田彦大神」と刻んだもので、上部が大きく前屈したものです。ところがこちらは笠塔婆の体をなしており、一見してずいぶん印象が異なります。上部の卍はすぐ分かりますが、その下に刻まれた銘文は碑面の荒れにより読み取りが難しくなっています。ありがたいことに説明板がありますので、それを読めば内容が分かります。

 説明板の内容を転記します。

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大分県指定有形民俗文化財
慈雲寺跡庚申塔
所在地 九重町野上
所有者 高倉秀典
指定年月日 昭和54年5月15日

 自然石上に笠を載せた形式の塔で、正面上部の月輪内に卍を彫る。銘文は風化が激しく人名など判読不能な個所もあるが、天正11年(1583)2月7日に庚申供養として、現世安穏・後生善処を願うために造立したことが分かる。
 寺田逆修塔の造立者の一人である花庭浄覚、国清寺前住の名をはじめ十数人の人々が、庚申待ち供養を行い、その記念にこの笠塔婆を造立したことが記されている。
 花庭浄覚は、野上氏の武将で、後に京都で禅の修行をし帰国後、浄水寺(由布市)を再興した人物という。
 庚申というのは、十干と十二支の組み合わせで、60回に一度まわってくる庚申の日のこと。庚申信仰は、中国の道教で解く三尸説を母体として、仏教・神道・日本の民間信仰などと合体して成立した複合的な信仰。室町時代中ごろからきわめて仏教的な庚申信仰へと変化し、「庚申待」を行った証しとして、さらに供養のため庚申塔が建てられるようになった。

平成29年3月 九重町教育委員会

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 近世以降、玖珠郡の庚申講においては、庚申様は一般に「作の神」として信仰されていたようです。江戸時代より一般庶民の信仰として広く根付き、時代が下るにしたがって庚申講のレクリエーション的な側面が強くなってきたという現象は、当地域においても例外ではありませんでした。辻々で見かける「猿田彦大神」の銘の、腰の曲がった庚申塔は、その時代に入ってからのものであります。ところがこちらの庚申塔庚申信仰が庶民のものになる以前の、武将などといった特権階級や分限者により行われていた時代のものであり、貴重な作例といえましょう。

 破損したものが目立ちますが、近くにはたくさんの五輪塔が並んでいます。

石字塔

 一字一石塔もあります。石字塔という表現は初めて見かけました。南海部方面などでは「一字一石」ではなく「一石一字」という表記を見かけます。それを簡略化したものと思われます。

 この宝篋印塔は笠および相輪の傷みが惜しまれますけれども、塔身の梵字がよう残ります。基壇を見ますと上段には連子、中段には斜めの格子縞が刻まれておりまして、この中段の文様はあまり見かけないもののような気がいたします。

 この場所には庚申塔以外にもいろいろな石造物がありますから、ぜひ立ち寄って見学されてはと思います。

 

3 下旦の八雲神社

 慈雲寺跡から国道を恵良方面に行きます。しばらく進んで、物見塚バス停のすぐ先を右折して踏切を越え、ずっと道なりに行きます。二股を右にとって大字右田は下旦部落に入り、突き当りを左折します。少し行けば八鹿酒造の手前、右側に八雲神社の鳥居が立っています。参道階段下の空き地は八鹿の駐車場なので、参拝の場合は参道脇の車道をあがって上の広場に停めましょう。

 八雲神社祇園祭が有名です。参道入口に詳しい説明板が立っています。内容を転記します。

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九重町指定無形民俗文化財
下旦祇園祭(附 山鉾・祇園囃子
指定年月日 平成18年9月22日
所在地 九重町右田3384番地

 下旦八雲神社文久2年(1862)、疫病退散・村勢振興を願って豊前国今井の里(現福岡県行橋市元永)にある「須佐神社」より御分霊を勧請したのが始まりである。
 八雲神社は、祭神素戔嗚尊スサノオノミコト)を祀る祇園社で、現在の社殿は平成16年(2004)5月に落成したものである。旧社殿は、慶応4年(1864)戊辰8月7日に建立されたもので(同社棟木)、その後昭和6年(1931)7月に改築された。
 祇園祭では、山鉾の巡幸が行われる。山鉾の高さは、大正中期頃までは6間(約10.8m)余りあったが、電線の架設による3間(5.4m)余りの高さになる。
 昭和16年(1941)7月、山鉾が新造されるも、昭和36年(1961)12月これを焼失、以後山鉾巡幸は中段されていたが、昭和48年(1973)7月、山鉾が復元新造され現在に至っている。
 山鉾巡幸で奏される祇園囃子は、大太鼓・小太鼓・鉦・横笛(明笛または竹枝笛)が使われ、シャギリ・上り山・下り山・巡幸・回し山・止り山などによって曲目が決まっている。曲目には「越中立山」「十日戎」「どっこいせ」「坊さん忍ぶ」「そよそよ風」「鯉の滝上り」などが知られている。

平成19年3月31日 九重町教育委員会

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 祇園囃子の曲目について補足説明しますと、唄を伴うのは「越中立山」と「ドッコイセ節」で、あとは演奏のみです。どの曲も玖珠郡一体で流行した戯れ唄・騒ぎ唄です。夫々の文句を記しておきます。

越中立山
越中立山 富士の山 祇園
 お客を松山 姿見交わす鏡山
 ソレ オッチョコマンコンケー オッチョコマンコンケー
〽可愛いがられた筍も 今は
 伐られて割られて 桶の輪にして締められた
〽蝶々とんぼやきりぎりす 祇園
 お山で囀るのは 鈴虫松虫くつわ虫
※流行小唄「蝶々とんぼ」の替唄。「猫じゃ猫じゃ」の文句で全国的に知られている唄です。

ドッコイセ節
〽ドッコイセドッコイセは田舎の相撲ヨ こけつまろびつまたドッコイセ
 「ドッコイセーのありゃよかろ サノサッサッサ
〽ドッコイセがいやさで三味線枕ヨ 親の異見も三下り
※流行小唄「ドッコイショ節」(春は嬉しやの元唄)の転用で、県内一円でよう流行った唄です。

十日戎
十日戎の売り物は はぜ袋に鳥鉢銭かます
 小判に金升 立烏帽子 ゆで蓮 才槌 束ね熨斗
 おささをかたげて千鳥足 千鳥足
※端唄の転用。この唄は県内各地の戎講のお座で広く唄われました。

坊さん忍ぶ
〽坊さん忍ぶにゃ闇がよい 夜には 頭がぶうらりしゃあらりと
 コチャ 頭がぶうらりしゃあらりと
 コッチャヤレ コっちゃヤレ
〽坊さん袂から文が出た 文じゃない 書物の切れじゃと言い募る
 書物の切れじゃと言い募る
〽お前さん知らずに戸を叩く お愛しや 軒端の露に打たれたろ
 軒端の露に打たれたろ
〽コチャヤレ節は流行らねど 今ここで 流行るは博多の紺絣
 流行るは博多の紺絣
※流行小唄「コチャエ節(お江戸日本橋)」の転用。県内でよう流行りました。

そよそよ風
〽そよそよ風に誘われて 裾もちらほら舞い上がる
 ヨイヨイヨイヨイ ヨイヤーサー
〽そら舞いまする舞いまする 空を燕が舞いまする
〽そら行きまする行きまする 梁を鼠が行きまする
〽嫌でも応でもせにゃならぬ まくり落しの屋根替を
〽長いもあれば短いもある お侍の腰の物
※端唄の転用で、「笠づくし」とか「猿丸太夫」と同種のものです。

鯉の滝登り
〽鯉の滝登り サッサヤーレ 何と言うて登るエ
 ショボラショボラと言うて登る サッサヤーレと言うて登る
※流行小唄の転用です。

 参道は一直線の石段です。境内に上がると、紫陽花が少し残っていました。

 今のお社は説明板にあるとおり、平成16年の落成でまだまだ新しい建築です。天井の格子に方位が書かれており、ちょっと変わっていますので参拝時に確認してみてください。旧のお社は台風で破損してしまい、建て替えに至ったようです。慶応4年のお社を一目見てみたかったものでございます。

 

今回は以上です。次回は日出町は城山の名所・文化財か、または東飯田の名所めぐりを考えています。ほんとに、あの町この町、どこに行っても名所だらけ・文化財だらけです。まだまだわたしの知らないところ・行ったことがないところがたくさんあります。探訪する楽しみに加えて、こうして記事にする過程でより深く郷土のことを知ることができています。