大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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東飯田の名所めぐり その2(九重町)

 今回は瑞巌寺磨崖仏周辺の名所をめぐります。ほんの数か所だけですので短い記事になります。

 

4 室園稲荷大明神

 まず瑞巌寺磨崖仏を目指します。標識が多く、道路端ですぐ分かるので道案内は省きます。磨崖仏から僅かに竜門の滝側に進んだところを左折すれば、お稲荷様の下のスペースに駐車することができます。

 こちらは山裾のごく狭い用地にて、こじんまりとしたお稲荷様です。しかし地域の方の信仰が篤いようで、境内はいつも掃除が行き届いています。参拝の際、駐車スペースからの坂道が雨降りのときはよう滑りますので注意を要します。

 参道にたくさんの赤い鳥居が並んでいるのはどこのお稲荷さんでも見られる光景です。ところがこちらは、その参道がごく短いために参道以外のところにも鳥居が立っているのが面白うございます。境内の崖口に沿うて向きもまちまちに立つ鳥居の数々。信仰の篤さを物語っております。

 

5 二日市洞穴

 お稲荷さんにお参りしたら車を置いたまま下の道路へと下ります。その際右側の崖を見ますと、大きな洞穴がほげているのが見えます。説明板も立っていますのですぐ分かります。

 この大きな洞穴は、古代の生活の場であるとのことです。県内には聖嶽(ひじりだき)洞穴、枌(へぎ)洞穴等、同様の史蹟が数々ございます。その中でこちらの二日市洞穴は道路端にて、簡単に見学することができる立地です。ところが安全のためにフェンスで立ち入りを制限されており、そのフェンスに植物が絡みついて中が見えづらくなっているのが惜しまれます。

 説明内容を転記します。

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二日市洞穴の調査

 二日市洞穴の発掘調査は昭和50年3月から53年8月まで5回にわたって行われました。その結果、この洞穴は狩猟と採集によって生活していたわたくしたちの遠い祖先である縄文時代人によって利用されていたことが明らかになりました。
 特に縄文時代の古い時期(約8000~9000年前)は何回となく繰り返し使用されており、洞穴の左側(南)には河原石で囲った炉が作られ、その周辺から土器や石器などの遺物が出土しています。逆の北側からは埋葬された人骨が発見され、墓地としても利用されていたことがわかります。
 これよりさらに古い時期(約10000年前)にも人々が住んでおり、この頃は専ら洞穴の南側で生活が行われ、やはり火を焚いた場所があり、さらに彼らの食料となった鹿などの骨が洞穴の壁ぎわから出土しています。
 このように洞穴は、わたくしたちの遠い歴史を研究するうえでとても大切なものです。大事に保存する必要がありますし、同時に生きた資料として活用されることを願っています。

平成18年3月 九重町教育委員会別府大学考古学研究室

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6 瑞巌寺磨崖仏

 瑞巌寺磨崖仏こそは、東飯田地区はおろか玖珠郡一帯においても指折りの名所であります。磨崖仏の表現のすばらしさ、その保存状態などを勘案しても、県下全域に数ある磨崖仏の代表作のひとつと言えましょう。

 さて、一般に瑞巌寺磨崖仏と申しますと、堂様の中の岩壁に半肉彫りで表現された5体の仏様(冒頭の写真)をさします。これとは別に、至近距離に穿たれた石窟の内壁にも磨崖仏が数体見られまして、こちらも瑞巌寺磨崖仏に含める考え方もあるようです。でも後者は一般に「梅ノ木磨崖仏」と申しまして瑞巌寺磨崖仏とは区別しています。技法・像容ともに全く異なりますから作者も年代も別のものであると存じます。梅ノ木磨崖仏は後述の事情により参拝できませんでしたので場所の説明に留めまして、詳細はまたの機会とします。

 二日市洞穴を右に見て下の車道に出たら右折します。ほどなく、右側にこの写真のような石窟が見えます。梅ノ木磨崖仏は、この石窟の中です。先日、遠路遥々訪れたこともありまして諦め難く、小雨の降る中を葉擦れの滴も厭わで参拝を試みました。踏面の狭い石段も半ばまで上りましたが、洞穴入口の藪のものすごいこと、しかも蜘蛛のエバやら小虫の類もすさまじく、結局は諦めてしまいました。こちらにお参り・見学するには秋か冬の天気のよい日でなければ困難です。

 気を取り直して瑞巌寺磨崖仏へと歩を進めます。ほどなく境内上り口の石段が道路端にあります。もしこちらのみに立ち寄りたい場合にも、路側帯がなくて道路端には駐車できません。先ほど申しましたお稲荷さんのところに駐車するしかなさそうです。

 このように、道路端にありますから簡単にお参りできます。境内はいつも掃除が行き届いています。小雨の降る日も、向こうの山が霧にけぶりてなかなか風情がありました。

 見れば見るほど素晴らしい、5体の仏様でございます。赤い顔料による彩色がよう残りますし、細かい部分もくっくりと分かる保存状態のよさに感銘を覚えました。しかもめいめいの仏様がいきいきとして、今にも動きだしそうではありませんか。

 説明板の内容を転記します。

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大分県指定史跡 瑞巌寺磨崖仏
昭和17年6月11日 指定
所在地 玖珠郡九重町大字松木636

 この磨崖仏は向かって右から、多聞天(1.70m)、矜羯羅童子(1.61m)、不動明王(2.26m)、制吒迦童子(1.62m)、増長天(1.70m)の5体が半肉彫りされている。多聞天(北方の守護)は別名毘沙門天ともいい、持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)とともに四天王と呼ばれ、須弥山の四方を守る天部として有名である。矜羯羅童子、制吒迦童子不動明王の眷属の八大童子中の二童子である。
 制作年は鎌倉時代初期説と室町時代中期説があるがはっきりしない。瑞巌寺は養老年間(717~723)に国東六郷満山を開基した仁聞の創建になると伝えられる。後に龍門寺の末寺十二坊のひとつとなるが、天正15年(1587)正月頃の大友・島津の戦いの折、兵火にかかり堂宇を焼失、廃寺になったと伝えられる。

九重町教育委員会

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7 室園の庚申塔

 瑞巌寺磨崖仏から車道を恵良方面に少し歩きます。右に藤棚を見てその先、道路端に庚申塔がポツンと立っています。

 銘がすっかり消えてしまっています。けれどもこの形状は、玖珠郡一体で盛んに見かけるタイプの庚申塔のそれですので、庚申塔であると判断いたしました。室園部落の祭祀と思われます。

 

8 瑞巌寺隧道跡

 庚申塔から先は、道路右側に荒々しい岩壁が迫ります。この岩壁は道路拡幅の際に崖を削り取った跡です。昭和54年まで、この場所に小さなトンネルがほげていました。

 一見して、とてもトンネルがあったとは思えないような状況です。昔は、道路左側の畑のところまで岩山が迫り出していたのです。そのトンネルは安政5年の竣工にて、青の洞門や一ツ戸洞門などと並ぶ、江戸時代にほげたトンネルです。

 ウェブサイト「tunnel web」に、瑞巌寺隧道について詳しく解説されています。参照いたしますと、取り壊しの際には文化財としての価値があるのではないかと慎重論もあったそうですが、自動車を通すために改修され原型を留めていなかったこともあり、取り壊しと相成ったとのことです。江戸時代にトンネルがほげるまでは、岩山の外べりを鎖渡しで通るか、尾根を迂回して切通しを通るしかなかった由。その切通しがまだ山中に残っているそうなので、いつか行ってみたいと思うております。

 先ほどの庚申塔は、道路拡幅により若干移動している可能性もありますが、おそらく元の位置からそう大きくは動かされていないでしょう。トンネル以前の難所の道を思えば、庚申塔の所在地としておあつらえ向きの場所であると存じます。

瑞巌寺隧道取壊記念
 一 総工費二千万円也
 一 地元負担四百万円也
   九重町
   財産区 室園 十四戸
       二日市 九戸
昭和五十四年三月施行

 近くに取り壊し記念碑が埋め込まれていますので、磨崖仏にお参りする際にはこちらも見学されてはと思います。竣工記念碑は方々で見られますが、取り壊し記念碑はなかなか見かけません。でも、考えてみればトンネルの取り壊しもまた、地域の交通の利便性向上の大きな一歩であったということですから、このように記念碑を残すことは意義のあることです。しかも瑞巌寺隧道が江戸時代に竣工し、その後の改修を経て長い間地域の交通に役立ってきたことを思えば、仮令そのトンネルがボトルネックになっていたとしても、地域内においてはやはり、大切なものであったことが推察されます。それを壊すのですから、トンネル工事その他に多大なる労力をかけてきた昔の方に思いを致す意味でも、記念碑の重要性が感じられます。

 写真はありませんが、このすぐ先には隧道竣工時の寄附者等が書かれた碑銘が崖に嵌め込まれています。蔦などで隠れがちなので、気を付けて捜してみてください。

 

今回は以上です。次回の内容はまだ決めていませんが、九重町の記事が続いたのでどこか違う地域の記事を書いてみようと思います。