大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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竹田津の名所めぐり その5(国見町)

 久しぶりに竹田津地区の記事を書きます。前回まで、4回に亙って大字西方寺の名所・文化財を紹介しました。今回からは大字竹田津をめぐります。ひとまず西村から大高島に抜けるルートに沿うて数か所掲載してみます。高島海岸は観光地としてはマイナースポットですが、すばらしい景勝地です。途中狭いところもありますが、長崎鼻へのドライブルートとしてもお勧めの道です。

 

10 西村の稲荷宮・若宮社

 国道213号沿い、西村バス停そばに横断歩道があります。その角を過ぎて竹田津トンネル方向に進み、すぐ次の角を右折します。ほどなく左側にお恵比須様の像、そこから山手の墓地に上がれば梶原の庚申塔がありますが、適当な写真がないので今回は省きます。道なりに行けば、道路左側に「稲荷宮」の鳥居が立っています。ここは岡部落のうちで、西村はその土居です。

 ところで、この前後は離合困難の道幅が長く続いており、車を停められそうな場所が見当たりません。一旦通り過ぎて道なりにずっと登り詰めて旧竹田津隧道(通行不能)の手前に駐車し、歩いて戻れば迷惑になることなくゆっくり参拝できるかと思いますが、やや距離が長いうえに道が悪いので安易にお勧めすることもできず、悩ましいところです。この次に紹介する「11高島道の道標」経由で大高島に抜ける道は、大型車は通れません。車種によっては10番、11番を省いて、竹田津商店街入り口交叉点からの道を通った方がよいでしょう。

 道路端に立っている「稲荷宮」の鳥居です。今の参道はこの鳥居をくぐらずに、右から上がります。おそらく前の道路の車道化により取り付きが変わったのでしょう。

 参道を上がってすぐ右に折れたら「若宮社」の鳥居が立っています。何が何して何とやら、不思議に思いました。つくづく考えるに、昔はお稲荷様と若宮様が夫々別の拝殿を有していたのではないかと推察いたしました。それが何らかの事情により、お稲荷様を若宮様に合社したものと思われます。

 こちらの神社では、拝殿裏に並ぶ石祠の左端に庚申塔が立っています。この塔も、近隣の道路端に立っていたものを移したのでしょう。

青面金剛6臂、2猿、2鶏

 国見町および香々地町で盛んに見かけるタイプの塔です。逆に言えば、この種の塔は両町および真玉町以外では皆無といってよいでしょう。国東半島のうち北浦辺の地域に特有のものといえます。その像容から所謂「異相庚申塔」、潜伏キリシタンに関連付ける説もありますが、真相は分かりません。少なくとも昭和以降は、通常の庚申塔と同様の祭祀であったようです。

 さて、この種の塔は比較的大型のものが多く、こちらもわたしの背丈と同じくらいでしたから170cmやそこらです。どっしりとした印象を覚えました。上部の日月を彫ってある部分を見ますと、その下端が左右の縁取りよりもさらに前に出ています。ですからこの部分が丁度、板碑を見たような造りになっておりまして、それがために余計に重厚な雰囲気を醸し出しているのでしょう。

 頭巾を被ったように見える主尊は、お顔の表情がほとんど分からなくなっています。けれども彫り自体はしっかりしていて、その彫り口が角ばっておらず自然な表現になっている点がお見事です。ことに合掌している腕の、肘から二の腕にかけての表現などほんに写実的ではありませんか。下の右手では大きな蛇を持っています。下の左手に持っているのは羂索でしょうか、蛇でしょうか。斜面をよじ登るような格好の猿や、仲良う向かい合う鶏のかわいらしさにも注目してください。

 

11 高島道の道標

 若宮様をあとに、車で先へ先へと進みます。離合困難の頼りない細道ですが、この道は昭和33年までは現役の国道(213号)でした。それと知らいで通れば、とても国道であったとは信じられないような道です。ヘアピンカーブで左に折り返してからはいよいよ狭く、ガードレールもない大ホキ道ですので車種によっては手に汗握る道中となります。この道を進んでいけば旧竹田津隧道がほげていますが、落石・水没で車は通れません。明治34年に旧隧道が竣工して以来、昭和33年に竹田津隧道がほげるまでは路線バスもこの狭路を通うていたとのことです。なお竹田津隧道は今の新竹田津トンネルよりも内陸を通っており、こちらは現役で通行できます。

 旧竹田津隧道も地域の発展の歴史や生活史を今に伝える重要な史蹟であると存じますが、適当な写真がないので今回は省きます。大高島に行くにはトンネルよりもずっと手前、最初のヘアピンカーブの直後にて鋭角に右折します。切り返さないと曲がりきれませんが大型車でなければ問題なく通れます。みかん園のへりに沿うて急坂を登っていくと、道標を兼ねたお地蔵さんが道路端に2体並んでいます。

 お地蔵さんは頭がなくなっており、痛ましいことです。廃仏毀釈の煽りか、いたずらをする不届き者があったのか、転落した際に壊れたのか、さてどのような事情があるのでしょうか。今は郷土史研究会による立派な標柱が立っています。この会は私の愛読書『国見物語』を計40巻も発刊するなど、国見町郷土史・民俗の研究・伝承において非常に大きな功績を残されましたが、諸事情により活動を終えられました。でもその活動の成果である『国見物語』シリーズは、今後も永きに亙って多くの方に親しまれていくことでしょう。

 さて、この道標には「右高島、左見目」の旨が彫られています。今回、「右高島」の方の道を通って高島を目指すわけですが、確かにここから左に上がる細道もあります。その道は車が通れないので、気にもとめていませんでした。ところが『国見物語 第二集』に木村勝真さんが寄稿されました『竹田津の古道とその周辺』によれば、この「左見目」の道を登って尾根筋に出て香々地側のところに、宝永年間の六十六部塔があるとのことです。香々地側ではありますけれども西村の方々による建立とのことで、竹田津の文化財のひとつといえましょう。今度必ず見学に訪れようと思います。

 

○ 高島について

 道標を過ぎて車道を道なりに行き、谷筋を下っていけば高島に出ます。高島は2つの浦に分かれており、東を小高島、西を大高島と申します。道標から道なりに下り着いたところは大高島です。いずれも海に面して、残る3方を山に囲まれるという不便なところですが、その風光明美なること、殊に晴天の日には筆舌に尽くしがたいものがあります。特に馬ノ瀬(まのせ)の奇勝は近隣では見られないものです。

 行政区分で申しますと、大高島はその中間で旧見目村と旧竹田津村、つまり香々地町国見町に隔たれています。この不自然な境界の由来は存じませんが、蓋し旧藩時代の支配上の都合によるものでしょう。お住まいの方は、かつて大きな不便を託った時代もあったと思われます。今でも豊後高田市国東市に分かれているわけですが、8月17日には行政区分の別によらず、高島全体が合同で盆踊りをしています。レソ、杵築踊り、六調子など昔ながらの演目を口説と太鼓で仲良く踊る光景には、行政上の隔たりなど何のその、昔からのつながりが感じられます。今後も長く続いてほしい行事です。

 

12 高島のトンネル

 大高島に着いたら右に進み、小高島へと向かいます。今は2車線の立派な道ができていますが、一昔前は波打ち際をやっと通るような細道でした。両者を隔ての鼻には先述のとおり馬ノ瀬があります。山側の空き地に2台程度であれば駐車できます。車を停めたら古いトンネルがすぐそばにありますので、馬ノ瀬に先立って紹介します。

 このトンネルは正式名称も竣工年も存じませんが、かなり古いものであることは間違いなさそうです。

 今は落石だらけで、道路との間に段差もありますので徒歩以外では進入できません。内壁の石つぶてを見れば、徒歩での進入も憚られる状態です。現役であった頃は、軽自動車であればどうにか通行できたと思います。

 このようにごく短いトンネルですが、海岸を埋め立てて現道を通す以前は小高島・大高島間の交通になくてはならないものであったはずです。なお、今回は掲載しませんが大高島のうち香々地側から長崎鼻へと至る道中にも、旧トンネルが合計3つも道路端に残っています。いずれも、この一帯の交通の歴史を今に伝える史蹟です。

 

13 馬ノ瀬

 さて、いよいよ高島の本丸、馬ノ瀬でございます。こちらは満潮時以外は砂州を歩いて渡ることができます。このような島をタイダルアイランドと申します。このような島は、県内では網代島(津久見市)が有名ですが、ほかはちょっと思い浮かびません(わたしが知らないだけだとは思いますが)。国東半島に浦辺の景勝地は数あれど、このような現象が見られるのはおそらく馬ノ瀬だけです。折角訪れたはよいが満潮で渉れないとなると残念ですから、探訪前に潮見表をチェックしておきましょう。

 大高島側から見た馬ノ瀬の全景です。ごつごつした岩山が横に長く伸びており、昔の方がこの形状を馬の背に見立てたのでしょう。そうであれば「馬ノ背」の用字の方が適切な気もしますが、立地から「瀬」の字を宛てたと思われます。

 晴天の日がいちばんですが、このように曇り空のときもなかなかの景観であると存じます。

 岸から見ればただの小山ですが、近寄ればその特異なる地形に驚かされます。いったいどれほどの年月をかけてこの景観に至ったのでしょう。いま、姫島村などではジオパークとして特徴的な地形の景勝地を宣伝していますが、こちらも同じ文脈で語られるべき景勝地と思われます。

 ガリバーの靴を見たような、おかしな格好の岩があります。現地を訪れた際には、ぜひいろいろな角度で眺めてみてください。また、この辺りでは「腰高」「たばこにいな」など、ニナの類がたくさん観察できます。親子で磯遊びをするのに最適の場所です。

 眺め長閑な高島海岸の自然が、いつまでも残っていくことを願うてやみません。

 

14 大高島の山祇社

 馬ノ瀬から大高島へと引き返します。海沿いの道路を通って、小さな橋の手前を左に入り広場の駐車場に車を置きます。駐車場の反対側から、民家の間を通る狭い道を歩いていきます。ほどなく道標から道なりに下ってきた道と交叉しますので、これを直進して田んぼの中を行けば、山裾に堂様があります。お参りをしたら道なりに左に行き、民家の右側の獣害予防柵を通り抜けて小道を登ったところに山祇社が鎮座しています。

 上り口はちょっとこの先が不安になるような入口ですけれども、少し登れば鳥居などの石造物が見えてきます。距離は知れたものですから、すぐ分かると思います。こちらは大高島のちょうど中間あたりです。

 左は大乗妙典塔、右はお恵比須様のようです。

 鳥居には「山祇神」とあります。拝殿のない小さな神社ですが、立派にお祀りされています。かつては山の中にあったものが、こちらに遷移したとのことです。特に石燈籠の立派なこと、六角柱にて竿が太く、重厚感のある造りでございます。

 鳥居のすぐ内側には庚申塔が立っています。神社を移転した際、庚申様も移した由。近隣在郷でも指折りの秀作ですから、見学をお勧めいたします。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、ショケラ、髑髏?

 西日の時間に訪れたので写真が悪いのですが、実物を見れば写真よりもずっとよう分かります。たいへん良好な状態を保っています。上から見て行きますと、舟形の塔身に合わせてこしらえた縁の上部が波形になっていて、ここがたいへん洒落ています。主尊は炎髪を逆立て、その半ばに髑髏のようなものが見えます。険しい目付きですが鼻や口の様子にどことなく愛嬌も感じられました。左手で持った長い三叉戟を杖となして仁王立ちの姿には威厳が感じられます。めいめいの腕や衣紋の重なり合うところなど、彫りは浅いものの立体的に表現しており、写実的なデザインになっています。
 この塔でいちばん好きなのが、童子の表現です。ふっくらとした袂の高級そうな衣紋で、髪型は兵庫髷のように見えます。主尊への畏怖からか腰が引けており、まるで踊りを踊っているような姿勢であるのが何とも愛嬌があって、腕の様子など生き生きとしていて素晴らしいではありませんか。猿はいつも通りの所作、見ざる言わざる聞かざるで仲良う並び、その外側から鶏が優しそうに見守っています。諸像を碑面いっぱいに表現してありますので賑やかかつ豪勢な感じがしますし、しかもめいめいが生き生きとしています。調和のとれたデザインの妙は特筆もので、これを秀作と言わいで何と申しましょうといったところです。

 

今回は以上です。紹介する項目を少な目にして簡単な記事にしようと思いましたのに、結果的にまたまた文字数が多くなってしまいました。このシリーズは飛び飛びに続けていくことにして、次回は日出の城山を紹介します。