大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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日出の名所めぐり その1(日出町)

 このシリーズでは日出町のうち日出地区(旧日出町・大字なし)の名所旧跡を紹介していきます。今回はその初回として、上仁王の名所旧跡の一部を掲載します。中でも城山・妙見平(みょうけんびら)は日出町内でも随一の景勝地であるばかりか、新西国三十三所石鎚神社などといった信仰の場でもありまして、日出町を観光する際には必ず訪れるべき名所中の名所といえましょう。

 

○ 北仁王と南仁王について

 『日出図跡考』によれば、日出地区はかつて南仁王と北仁王に大別されていました。大まかに申しますと今の国道10号がその境界で、南仁王が暘谷城址を中心に浜・八日市にかけての旧市街(町方)、北仁王が佐尾辺りの低地から城山の腰にあたる高差(こうざし)にかけての農村部(在方)です。昭和末期以降、北仁王の区域にも市街地が拡大してまいりまして、低地には小売店の進出が著しく、高地に至るまで住宅街を形成し、もはや旧来の町方・在方の区別は薄れています。それで今では北仁王の呼称は通用しておらず、単に仁王と申しますと一般には仁王・東仁王・上仁王(いずれも複数の部落・土居からなる行政区…いずれも北仁王のうち)辺りをさします。

 

1 西迎寺の石仏群

 ダイレックス日出店の交叉点から山手に進み、中央線がなくなる交叉点を左折します。道なりに進み、上仁王公民館から数えて2本目の左方向への分岐を左折します。ほどなく、道路右側の区画に仏様が並んでいます。

 きれをはぐって確認することは控えましたが、ざっと見える範囲でも牛乗り大日様、お弘法様、お地蔵様などいろいろな仏様がずらりと並んでおり、壮観です。しかもめいめいのお室の造りがみんな違います。特に向かって左から2番目は手の込んだ造りで、屋根の形状が複雑を極めておりますうえに相輪も伴う立派なものです。

 この辺りは上仁王のうち西迎寺部落で、字も西迎寺です。今はそのような名称のお寺は見当たりませんが、昔あったお寺の名前に由来すると思われます。そうであればこの石仏群も、何らかの関係があるのかもしれません。このすぐ後ろの「北峯社駐車場」に車を置き、仏様や北峯神社にお参りすることができます。

 

2 北峯神社

 前項の石仏群のすぐ左脇から、民家の背戸を上がれば北峯神社の境内です。この神社は、元は妙見平に鎮座していた妙見社に端を発します。妙見平と申しますのは城山辺りの字です。明治初年の神仏分離令により北峯神社に改称され、同10年に現在地に遷座して今に至ります。旧社地は元宮として、昭和初期に建てた石祠が残っています(後述)。

 境内の適当な写真がないので先に進みます。車で正面参道を通り過ぎて右なりに右カーブして上り、団地のかかりで右折すれば道路右側に上の入口があります。

 こちらが上の入口で、道路端の鳥居をくぐればすぐ拝殿前に至ります。こちらからの方がより簡単にお参りできますが、付近に駐車場がありません。もし車で訪れる場合は、先ほど申しました石仏裏の駐車場に駐車して、正面参道経由でお参りしてください。

 

3 石鎚神社

 北峯神社の上の入口を過ぎてほどなく、突き当りに出ます。これを右折してすぐ鋭角に左折、急坂を上へ上へと進みます。枝道が多いものの、とにかく上り方向の道へと進めば間違えません。高差部落にて二股になっていますのでこれを左にとり、さらに上ります。右折して日出バイパスの下をくぐって左折、左に日出バイパスを見ながら尾久保方面への道を進みます。道なりに行けば「城山方面あと2km」の標識があります。それに従って鋭角に右折すればあとは一本道ですが、ここから先は道幅が狭いうえに見通しが悪く、運転に往生します。普通車までなら通れますが対向車に十分な注意が必要です。

 標識からほどなく、道路右側が広くなり石鎚神社の鳥居が立っています。駐車スペースは十分にありますので車を停めて、石鎚神社や、後ほど紹介いたします元宮様にお参りしましょう。

 境内へと参道を下ればすぐ、個性的な対の狛犬が睨みを効かしています。勇ましげな姿なれども、どことなく愛嬌が感じられまして、好きな狛犬のひとつです。

 こちらなどしかめっ面にて虚空を見遣る様のさても剛毅なことではありませんか。

 境内は狭いものの、いつも掃除が行き届いています。近隣在郷の方の信仰が篤く、お参りが多いのでしょう。夏場は蚊が多いので、できれば秋から春にかけての参拝がよろしいかと思います。

 こちらは『日出図跡考』によれば、社殿も境内も「石鎚神社」と「石鎚布教所」が共有しているとのことです。両者は別の組織で、このような事象は県内では珍しいと思います。

 大正15年の3月、石鎚大権現を信仰する仁王の田原幸六さん、豊岡の村井友太郎さんたちが御祭神の像を彫った石祠を妙見岩の頂上に祀りました。妙見岩と申しますのは城山の一角にある岩場です。昭和2年7月に、正式に伊予の石鎚神社より勧請し、西迎寺の北峯神社を仮神殿としました。昭和3年9月に神殿が完成したので現在地に遷座昭和5年には拝殿が完成しています。昭和9年にお神輿をこしらえ、昭和19年には神道修正派大分石鎚布教所を併設しました。戦後の山火事で焼失しましたが再建して今に至ります。

 お祭りに関しては、当初9月1日が祭日で、御神幸は尾久保、山田経由で畑山の御旅所に1泊、翌日に日出城下経由でご帰還していた由。お神輿をこしらえてからは八日市天満宮を御旅所として津島、日出城下、仲ノ丁経由で浜で潮汲神事ののち、正午に日出の若宮八幡様に御着、午後よりお神楽を奉納し堀経由でご帰還となったそうです。今は御神幸はしていないようですが、祭祀は続いています。

 拝殿右側にはこのような石造物があります。これは何でしょうか。灯籠にしては、火袋がないので用をなさないように思いますし、五輪塔の類にしてはあまりにも形が風変りです。

 お手水のところから下に向かって細道があります。これは旧参道とのことですが、ご覧のように今では草の海で道跡も分からない状況です。『城下町日出 ふるさと歴史散歩』によれば、この坂道を下ったところに冨田石見守(刀鍛冶)の鍛冶場跡があり、その旨を示す文字が大石に刻まれているとのことです。そのすぐ下方には人為的に彫っ奥行き50mの洞窟があり、これは冨田石見守が砂鉄を求めて掘った由。昔はお城(城山)の抜け道と言われて、近隣の子供の探検の場所であったそうです。とても探せる状況ではなく、残念に思いました。

御増築記念
御神殿 鳥居 唐獅子

 昭和26年の記念碑で、寄附者のお名前がずらりと彫られています。おそらく山火事で焼失した後、ひとまず小さな建物を再建して、それを増築した記念ということでしょう。

 

4 妙見平の新四国札所

 石鎚神社のところに車を置いたまま、いま上ってきた車道を少し後戻ります。ほどなく、右側に新四国の標柱が立っています。

四国八十八ヶ所 第二十五番札所

 ここから山道を上がります。地面が濡れているときはよう滑りますので、天気のよい日にしましょう。それと夏場は虫が多く、下草が茂りがちでたいへん不快な道中になります。マムシ等の被害も懸念されますので、秋から春先にかけての参拝をお勧めします。

 やや荒れ気味ですが、道ははっきりとしていますので迷うような場面はありません。急坂が続きますので、杖を持参した方がよいでしょう。くねくねと曲がった道で先を見通せず、思いの外遠く感じました。

 しばらく登っていくと、左方向に枝道が分かれています。新四国札所にお参りするには、この分岐を左折します(直進すれば元宮様に至ります)。ほどなく、写真のような岩場のへりに沿うて鎖渡しで登っていくことになります。鎖の傷みは今のところ感じられませんでしたが、落ち葉でよう滑りますので通行に注意を要します。

 写真がよくないので掲載は控えますが、これを登り詰めたところの岩壁に龕をなして仏様が安置されています。今は新四国を巡拝する方は稀であると存じますが、こちらは山歩きのお好きな方などがお参りに立ち寄ることもあるようです。

 

5 北峯神社の元宮様

 新四国札所にお参りをしたら、分岐まで後戻って左折(下からであれば直進)、さらに登ります。この辺りから石段になって、いかにも神社の参道らしい雰囲気になってまいります。この石段を登ればある程度開けた場所に出ます。

 北峯神社の元宮様に着きました。先述の通り、もとはこちらに妙見社という神社があったのですが神仏分離で北峯神社に改称、のちに西迎寺に遷座し今に至るというわけです。今は昭和正気にたてられた石祠と、お手水、それから旧社殿の礎石を残すのみとなっています。

 ここから右方向に進んで、岩場(妙見岩)をロープ伝いに登っていけば、頂上の石鎚神社元宮様に至ります。難所の道なので無理はせず、遥拝でもよろしいかと思います。別ルートとして城山頂上からの小道もありますが、草木に埋もれがちでやはり通行に難渋します。

 

6 城山の新西国霊場

 元宮様から下山して、石鎚神社駐車場まで戻ります。車に乗って林道を先に進んでいきます。昭和末期に城山山頂まで林道が開通して、車で簡単に登ることができるようになりました。別ルートとして、藤原の横津神社脇から昔の山道を歩いて登れば、林道の途中(鉄塔のところ)に出ます。その道は、かつて藤原小学校の鍛錬遠足の定番コースでした。

 横津神社からの道が合流するところを過ぎてなおも登れば、車道左側に「表参道入口」の標柱が立っています。上の広場まで車で上がってもよいのですが、時間があればここから歩くことをお勧めします。ちょうど路肩が広くなってるので車を停めることができます。

 階段が崩れかけていますが、そう急傾斜でもないので問題なく通行できます。木森の中の気持ちのよい道です。

 伐採地に出たら、正面に参道石段が見えます。ここまで来れば素晴らしい景観を楽しむことができます。

 石段下、左側の風景です。地域の方が紫陽花を植えてくださっています。眼下に藤原から川崎にかけての家並み、日出港を見晴らし、杵築市は東上面まで一目です。

 石段下には新西国三十三所の一番札所がございます。優美なるお姿のお観音様は優しそうなお顔で、心がほっといたします。もし札所めぐりをしたいときは、石段を上がらずにここから右方向に続く細道を進みます。

 一番札所から右方向への通路はやや荒れ気味ですが、問題なく通れます。ほどなく二番札所です。

 通路に沿うて三番、四番…と順番に並んでいます。途中、道が二股になっていると呂は左にとって、ゆるやかに上っていきます。

 城山頂上のへりに沿うて進んでいくイメージです。通路沿いの札所のみならで、奥の方(上段)にも仏様が並んでいます。そちらは後で巡拝することになりますので、ひとまず通路沿いの仏様にお参りしながら進んでいきます。

 ほどなく車道の終点近くに出ます。車道に出たら左に行けば、山頂駐車場です。ここまで車で上がった場合には、今説明した道順と逆方向に辿ればよいのです。

 車道の終点は広場になっていて、十分な駐車スペースがあります。ここからは別府方面の見晴らしが良好で、夜景を楽しむこともできます。ただし暗くなってからここまで車で上がるのは危ないので、あまりお勧めできません。

 なお、ここから右方向へと細道伸びています。そちらに行けば妙見岩の頂上、つまり石鎚神社の元宮様に至りますが、道が荒れています。

 城山山頂へは、車道終点の広場からこの段々を上ります(先ほど紹介した正面参道の石段を上った広場に出ます)。城山に登ったのは実に10年ぶりでした。以前はこのような段々が整備されておらず、急斜面をよじ登るようにして上がっていたことを思い出します。取り付きがずるずると滑って往生したものですが、今では立派に整備されていますので安全に、簡単に上ることができます。

 広場に上り着いたら、いちめんに札所の仏様が点在しているのが目に入ります。どの順番にお参りをしたらよいのか分かりにくいので、番号を目安に辿ります。

 どの仏様も破損しておらず、状態が良好です。写真のように据わりの悪そうな岩の上に安置されている仏様も多いのでもしかしたら傷みが進んでいるかなと思うておりましたら、以前の記憶通りの状態であったので驚きました。今なお信仰が続き、気にかけている方がおいでになるのでしょう。

 なお、城山という呼称からも察しがつきますが、この広場は真嶽城という山城の址です。そのお城(砦)は大友義鑑が築いたもので、この立地にあってはさても堅牢な守りであったと思われます。廃城後は信仰の場として、また遠足の目的地として、日出の方々に親しまれてきました。車道の整備や桜・紫陽花の植樹などにより、今や日出町外の方にも広く知られる名所となっております。

 広場の中心には特別に石組をこしらえて、4体の仏様が安置されています。特に目立つのはお大師様です。後ろから見ますと、背にした笠の表現がなかなか乙なものではありませんか。

 にっこりと笑うたお大師様、その朗らかなお顔に心がほっといたします。

 先ほど下の通路から見えた札所にお参りをしていきます。広場のへりに沿うて順々に並んでいます。

 こちらは荼吉尼天をお祀りした御室です。神社のお屋根そのままの形状にて、さても重厚な感じがいたします。中には荼吉尼天の石像が安置されています。

 荼吉尼天の像は珍しいと思います。カラス天狗のお顔で背中には翼があり、狐の上に立っています。この狐については、荼吉尼天とお狐様が習合してお稲荷様の信仰へと移り変わっていった過程と関係があると思われます。この像はもとは覚雲寺にあったものを、神仏分離でこの場所に移したとのことです。

 横並びの御室も屋根が立派です。お弘法様は御室がばらばらに壊れてしまい、前に乱雑に置いた状態になっていました。中のお弘法様は無事なのが何よりでございます。

 立札の後ろが荼吉尼天の御室です。正面参道から上がってくれば鳥居をくぐって正面です。灯籠も伴い、鄭重にお祀りされていることが分かります。

 この鳥居の先の石段を下れば、先ほど説明した一番札所の分岐のところに出ます。長めの良さは言わずもがな、見事なものですけれども、鳥居の状態が気にかかります。貫が失われており、地震による倒壊が懸念される状態です。危険防止の観点からも早期の修繕ないし補強が望まれます。

 鳥居の右側にも札所の仏様が並んでいます。この辺りからの眺めも抜群で、速見横灘を一目の景勝は一幅の絵画を見るかのようです。お弁当を広げるのもよいでしょう。

 

今回は以上です。掲載できなかった石鎚神社の奥宮様などはまたいつか補います。次回は三日月の滝か、竹田津のシリーズの続きを考えています。