大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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佐田の名所めぐり その3(安心院町)

 佐田の名所シリーズの続きを書きます。今回数か所紹介する名所・文化財のうち、中間の庚申塔はこのシリーズの目玉のひとつです。道順が飛び飛びになっていますが、一本道で説明すると繁雑になり却って分かりにくいと判断したものです。ご了承ください。

 

5 中間の庚申塔

 説明の都合上、津房地区のうち東椎屋の滝を起点とします。東椎屋の滝から国道に戻って、安心院市街地の方に行きます。五郎丸部落のかかりで、道路左側の小さな青看板に従って六郎丸方面へと進みます(二股を右にとって旧道へ)。この旧道沿いが旧津房村の中心部で、店舗跡と思われる建物がいくつも残っています。右に津房地区公民館を見て、次の角を右折して県道717号に入ります。しばらく道なりに行けば、溜池の手前の道路左側に冒頭の写真の庚申塔が立っています。車は路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。

 この庚申塔の所在地は大字六郎丸(津房地区)ですが、道路の反対側(右側)は大字五郎丸(津房地区)であり、ほんの少し先は大字塔尾(とうの・佐田地区)のうち中間部落です。このように3つの大字(町村制以前の村)が鼎立している地域で、いったいどの講組の庚申塔であるのか迷うところです。地域の人が屋外に見当たらず尋ねることができなかったうえに、塔の銘を見ても地名は読み取れませんでした。現状を見ますと道路工事により本来の所在地から多少なりとも移動している可能性が高いので、現在の所在地が大字六郎丸であるというのは役に立たない情報です。ここから六郎丸の人家まではそれなりに離れており、中間部落にはほど近いことから推して、後者に属するものであろうと判断いたしました。

 では、前面の2基から見てみましょう。

■■明暦元
奉待庚申供養為二世安楽 同行
十二月十■■

 上部を三角形になして、その部分に○で囲うた梵字を彫ってあります。碑面の荒れによりどうしても読み取りが困難なところがありました。「奉待庚申供養為二世安楽」については、これに類似する銘をもつ庚申塔豊後高田市は田染地区など方々に見られます。「青面金剛」とか「庚申塔」あるいは「猿田彦大神」とだけ彫ったものよりも古い場合が多いようです。こちらも明暦元年ですから、近隣在郷の庚申塔の中でも特に古いものであると思われます。

■応二年
■■造庚申塔為二世安■
二■ 吉日

 2文字目に「応」のつく年号は明応、承応、慶応などありますが、この庚申塔の造立時期はおそらく承応年間と思われます。そうであれば、先ほどの塔よりもさらに2年古いものです。碑面の荒れが著しく銘が消えかかってきているのが惜しまれます。大切に保存されるべき文化財です。

 後ろの2基のうち、向かって左は庚申塔かどうか判断がつきませんでした。右は庚申塔です。銘を彫った部分の彫り込みの上部が洒落ています。残念ながら折損したものの上部を立てているようです。

 

6 矢崎の天神宮

 前回紹介した佐田神社から県道42号を市街地方面に行きます。矢崎部落の半ば、道路右側に立派な石灯籠、天神宮の鳥居、対の狛犬が見えます。ここが参道入口ですが、下に車を停める場所がありませんので一旦通り過ぎて、すぐ右折して砂防ダムへの道を上がります。この道は天神様の参道を交叉しており、その交叉点のすぐ先に駐車スペースがあります。

 以前はこの辺りは鬱蒼としておりましたが、樹木が伐採されてたいへん明るい空間になっていました。この神社は参道がたいへん立派です。それは、参道が長いとか幅が広いという意味ではありません。下から対の灯籠、鳥居、狛犬、ゆるやかな坂道を上って、車道と交叉するところには対の常夜灯、その先に写真の太鼓橋、石段を上がれば対の仁王像が睨みをきかせており、神社の風格を高めるようによう考えられた造りであるように感じたのです。

 阿形は天衣が破損しています。また左手には何かを持っていたのではないかと思えるような指の形をしております。この勇ましいお顔立ちといったらどうでしょう、立派な鼻、落ちくぼんだ眼をつり上げて、ごつごつとした輪郭など何もかも素晴らしいではありませんか。腕や脚の筋骨隆々とした様子も上手に表現してありますし、全体として見た時の堂々たる立ち姿など、秀作と言えましょう。

 吽形は天衣もよう残ります。この細い部材がよう破損せずに残ったものです。石造仁王像と申しますと国東半島にその作例が数多うございますが、安心院町にも数か所に残っています。興味関心のある方は、仁王様めぐりをしてもきっと楽しいと思います。

 境内は清掃が行き届いています。お参りをしたら周囲の石塔群を見てみましょう。

 この石灯籠は火袋を欠ぎますが、細部のお細工が見事なものです。向かって右は、鱗状に表現してあるところの細やかさ、左は下部の蓮台や猫脚のお花模様に注目してください。

 この灯籠は竿の上部が火袋までなめらかにつながっており、このカーブのとり方が何とも優美かつ壮麗なる印象を覚えました。

 参道を振り返った写真です。写真はありませんが狛犬も立派なので、車は置いたまま下の道路まで参道を歩いてぜひ見学してください。

 

7 佐田の京石

 矢崎の天神様から元来た道を後戻ります。佐田郵便局の手前を左折、次の角をまた左折して西馬城方面に行けば、道路左側に立派な駐車場が整備されています。

 駐車場から道路を渡り、米神山登山口の脇に写真のような環状列石が見られます。これを佐田の京石と申しまして、古代の祭祀場の跡であるそうです。昔から奇勝として知られており、佐田地区を代表する名所といえましょう。

 こちらは安心院の七不思議に数えられ、〽佐田の京石むかしの名残 都偲んだ祭り跡 という俚謡もあります。この文句はマッカセやレソなどの節で、盆踊りの際に盛んに唄われています。

 なお、県内では、ほかに下山の環状列石(山香町)、鬼籠の環状列石(国見町)などがありますが、それらは平石ないしそれに近い石を並べてあります。ところがこちらは、めいめいの石が立石であり、ほかとは様相を異にしています。

 説明板の内容を転記します。

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佐田の京石
町指定遺跡 昭和50年10月17日指定

この山の中腹にある自然の石棺群と相対し、南に由布山を望む太古の祭祀遺跡ではないかと推定されます。また、仏教関係で写経が一字一石の小石を埋めて、その上に立てた経石であろうと云うひともあります。原始宗教に関する資料として永く保存していきましょう。

安心院教育委員会

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 もうひとつの説明板の内容も転記しておきます。

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佐田京石

 太古の祭祀場か?鳥居の原形か?埋納経の標石か?定説は未だありません。
 通路を登って左側の柵内は、マウンド中央の石柱から半円形を描くように石柱が配された環状列石と推測されます。
 また、右側の柵内にはドルメン(支石墓)と思われる巨石があります。石柱の表面には、ペトログラフ(岩刻文字)の存在が指摘されています。背後にある山は、米神山(標高475m)と呼ばれ、山頂部にも環状列石(高さ50cm程度の石)があります。また、ここから宇佐方面へ行った地点右側の水田中に、米神山側に先端が向いた立石があり、その上荷小さな扁平石を載せたものが立っています。地元ではこしき石と呼ばれ、蓋石を取り除くと暴風になると伝え暴風石とも呼ばれています。
 このように山の名やこしき石等、米に係る名が多くありますので弥生時代頃のものとも思われますが、定かではありません。

宇佐市教育委員会

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 言及されている「こしき石」については、西馬城の名所シリーズでいつか紹介します。

 この杉林の中の立石は、元からこの姿であったわけではありません。これは平成3年の圃場整備の際に付近の田んぼから見つかった巨石群であり、調査した結果、佐田の京石と同じ石質であったことから、「平成の京石」としてこの場所に並べたものであるそうです。

 

○ 佐田の米搗き唄

 昔の精米は、水車小屋を利用することもありましたが、大抵は竪杵でおいさおいさと搗くか台唐(だいがら)を踏んでいました。夜なべ仕事に往生したという思い出話をよう聞いたものですが、世代が変わって台唐を踏んだことのあるお年寄りも少なくなってきています。でも、今でも昔の名残で、精米することを米搗きとか米踏みといいます。

 佐田の京石の項でお米に関する話題が出てきましたので、佐田で昔唄われた米搗き唄の文句を掲載しておきます。

〽米を搗き来た搗かせておくれ 野越え山越え搗きに来た
〽野越え山越え三坂越えて 遠いここまで搗きに来た
〽様と米搗きゃ中トントンと 糠がはぼ散りゃおもしろさ
〽わしに通うなら裏からござれ つつじ椿を踏まぬよう
〽つつじ椿は踏んでもよいが うちの親たち踏まぬよに
〽うちの親たちゃどうでもよいが 村の若い衆の知らぬよに

 途中から色事の文句になっています。昔、夜なべ小屋に娘が集まって米を搗いたり粉を碾いたりしているところに、若者がよだって加勢に来ることがありました。それで恋仲になった事例もあったとのことです。ですから、唄の文句にも村の若者の色恋の機微がおり込まれているのです。

 

今回は以上です。米神山にはまだ登ったことがありませんので、佐田の京石については十分な説明ができませんでした。佐田シリーズは写真のストックがなくなったので、しばらくお休みとします。