大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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下南津留の名所めぐり その1(臼杵市)

 このシリーズでは下南津留地区の名所旧跡を紹介していきます。当地区は大字望月・深田・野田・前田・家野からなります。

 さて、下南津留地区で有名なのは何といっても深田の磨崖仏群(ホキ・堂ヶ迫・山王山・古園)です。この磨崖仏群を総称して臼杵石仏と申しまして、臼杵観光のメッカとして県内外より多くの方々が訪れています。市内にはほかにも、大字前田は門前(もんぜ)の磨崖仏、それから上南津留地区は払川の磨崖仏(以前紹介しました)など数か所あります。このシリーズの目玉は深田の磨崖仏群になるわけですが、初回はあえて門前の磨崖仏を取り上げてみます。そのほかに門前の庚申塔や地下式横穴、望月の天満社や庚申塔などを紹介します。

 

1 不欠塚

 臼杵インターを出て、国道502号を野津町方面に行きます。「臼杵大仏殿」の手前の信号機を左折すればすぐ、左側に「不欠塚」の立派な碑銘が立っています。車は、このすぐ先の路側帯にとめることができます。

 大変立派な字体で不欠塚と彫ってあります。「ふかんづか」と読みまして、この一帯の治水に貢献した疋田不欠さんの功績を讃えた碑です。

 説明板の内容を転記します。

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不欠塚 臼杵市大字望月

 現在では市内でも有数の実り多い肥沃な田畑が広がるこの一帯は、江戸時代の中頃までは大雨が降るたびに堤防が決壊し、田畑が流されるという所でした。この様子をいつも見ていた人物が疋田不欠です。彼は様々な調査や研究をかさね『水の流れに従って水勢をやわらげる』ことに気付き、洪水にも崩れない堤防を築くことに成功しました。
 この石碑は天保9年、彼の業績を称え、上望月村の人達によって建立されたものです。

臼杵市教育委員会

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 いま、この一帯には見事な美田が広がっています(冒頭の写真)。

 

2 望月の天満社

 不欠塚を過ぎて道なりに急坂を登れば、左側に天満社が鎮座しています。

 左側の切通しを上ってきました。臼杵市には、このような切通しの道路が多い印象を受けます。何気ない風景ですけど、名所から名所への道中にもちょっと気を付けて風景を見ますと、地域の特色のようなものが見えてきます。天満社は崖上の狭い用地いっぱいを境内となして、立派に整備されています。思うに、切通しができる前は左の崖上と地続きで、もっと境内が広かったのではないでしょうか?

 笠の反り方など、格好のよい灯籠です。特に宝珠の形がよいと思います。

 灯籠と狛犬が整然と並んでいます。狛犬は小さいながらもデザインが優れているし、彫りも丁寧でなかなかのものでした。

 素朴で、がっしりとした造りのお社です。

 

3 望月天満社下の石造物

 天満社にお参りしたら、そのままお社の裏手に回り込みますと崖に近い急坂の道跡が微かに残っています。そこを下りていけば、崖口から崖下にかけてたくさんの石塔類が倒れていました。そのほとんどが庚申塔です。足元がたいへん悪いので、見学はあまりお勧めできません。

延享三丙寅天
奉待庚申塔

 上向きに転倒していましたので、銘は容易に読み取れました。この辺りは斜面が崩れて久しいのか、或いは落ち葉や土に埋もれてしまったのか、基礎の部分が地表に全く見えない状態でした。でも、塔の下部を注意深く見ますと差し込み部分がありますから、基礎の石もどこかにはあるはずです。

 

 右の倒れた石祠の中は空っぽになっていました。そのすぐ隣に辛うじて立っているのは四国八十八所の塔です。銘は「安永六丙午 四国巡拝供養(以下不明) 願主(以下不明) 八月吉日」です。この地からお四国さんに出た人が無事巡拝を終えて帰還した紀念に建てたものではないかと思います。左に倒れている塔には「三宝」の字が見えました。

宝暦四●天
庚申供養塔
八月十三日

 この塔は辛うじて立っていましたが、状態はよろしくありません。苔の侵蝕等により、銘がだんだん薄れてきています。「養」は異体字です。この種の塔でよう見かける異体字ですが、現代ではほとんど見ない書き方です。でも縦書きであれば、確かに異体字の方がバランスよう書きやすい気がいたします。

寛延四未天
奉待庚申(以下不明)

 幅に対して奥行きがしっかりしています。塔身上部の三角形の部分や銘の状態も良好ですが、ご覧の通り枝などに埋もれがちであるのが惜しまれます。

 2基並んだ塔は崖口にて、銘の確認が今年でした。よう見ますとその手前にも1基倒れて、すっかり埋もれてしまっています。

 崖下にも庚申塔が数基転落していました。裏返しになっていましたので銘はわかりません。

 旧な崖をようやっと下って、振り返ってみました。あの2つ並んでいる塔は表面の剥離が著しく、やはり銘の確認はできませんでした。ほかにも何基も倒れたり落ちたりしています。

 昔はこの崖上が何らかの霊場または天満社の境内から地続きになっていて、庚申塔四国八十八所の塔、その他の石祠が並んでいたのでしょう。ところが今では小規模の崩落が相次いだせいで極めて不安定になっており、庚申様が粗末になってしまっていて残念に思いました。もはや信仰も絶えて久しいのでしょうが、できれば全部を崖下に下ろしてきちんと安置されたいものです。

 

4 大日石仏(磨崖仏)

 望月の天満社から国道に返って、車で元来た道を後戻ります。臼杵インターの交叉点を左折して狭い道に入り、道なりに行って橋を渡れば大字前田です。右方向に進めば、道路左側に「臼杵磨崖仏(大日石仏)」の小さな標識があります。その手前が少し広くなっていますから路肩ぎりぎりに寄せて、邪魔にならないように駐車します。標識のところから細い道(舗装路)を歩いて登っていきます。

 はじめはこのような畑の間の道です。ほどなく果樹園を縫うていく上り坂になります。

 この辺りは傾斜が急で、帰りは転ばないように注意を要します。ほかは特に気を付けるべきところはなく、安全に通行できました。5分程度も歩けば磨崖仏の覆い屋が見えてきます。

 説明板の内容を転記します(仏像の配列のみ記載順を逆にしました)。

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臼杵磨崖仏(大日石仏)
特別史跡 昭和27年3月29日指定
所在地 臼杵市大字前田字大日1651

 龕部に7体彫られているが、いずれも風化が著しい。龕の中央に位置する4体は、顔容が不明瞭であるが、丸彫り手法によって彫り出された姿からは、木彫佛を思わせるような丸味とやわらかさが感じられる
 向かって右端に彫りつけられている3体は比較的保存状態が良く、豊後の磨崖仏としては珍しく八頭身のすらりとした姿体をとどめている。
 製作年代は、中央4体が平安時代末期(12世紀末頃)、右端3体は鎌倉時代(13世紀)の作と推定される。

仏像の配列(左→右)
多聞天立像 推定像高133cm
菩薩形坐像 像高161cm
如来形坐像 像高190cm
菩薩形坐像 像高190cm
不動明王立像 像高150cm
矜羯羅童子立像 像高111cm
制吒迦童子立像 像高94cm

臼杵市教育委員会

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 立派な覆い屋が整備されています。7体の仏様のうち、両端の2体(特に左端)は傷みが目立ちました。丸彫りに近い手法であるうえに岩質が軟らかく、傷みやすかったと思われます。深田の磨崖仏群からそう遠くないので地味な存在になっていますけれども、こちらも冷静に考えればかなりの規模の磨崖仏群です。参拝者・見学者は多くないようですが、深田の磨崖仏群を訪れる際にはぜひこちらもセットで見学することをお勧めいたします。では、向かって左から順に見てみましょう。

 左端は多聞天立像とのことですが、崩落・風化が著しく像容がさっぱり不明瞭になってしまっています。その右隣りは「菩薩形坐像」とのこと、傷みが進みすぎて尊名を特定できませんが、その輪郭はくっきりとしています。これほど厚肉に彫れるほどの岩質であるので、それだけ脆いのでしょう。

 左から「如来形坐像」「菩薩形坐像」で、やはり尊名は特定できません。体躯は断裂し、お顔ものっぺらぼうになってしまい、おいたわしい限りでございます。反対に深田の磨崖仏群は、昔は傷みがひどくて崩落した像がたくさんありましたが、修復・保存工事を重ねて今のような素晴らしいお姿が蘇りました。でも、以前も申しましたが磨崖仏というものは岩壁に仏様が宿っている、自然と一体化しているということに意味があると思います。ですからわたしたちの目に映る姿はこのように傷んでしまっていても、この岩壁自体に霊性を見出して、仏様をこしらえた昔の方や長い年月の間手を合わせてきたたくさんの方々に思いを致せば、その保存状態によらで本質的な価値は同じであると考えます。

 説明板にあるように、この3対は明らかに後刻でありましょう。表現の手法がまるで異なります。薄肉彫りにてこしらえたので、お不動様などは崩落を免れています。でも制吒迦童子の首から上がなくなってしまっているのは惜しまれます。普通、お不動様を中央に、両脇から制吒迦童子矜羯羅童子が拝むように並んでいることが多いものを、こちらは御不動様の右側に2童子が並んで斜めを向いています。岩壁の曲がりをうまく生かすためにこのような配置にしたのでしょう。

 

4 門前の庚申塔

 大日石仏の右側から、覆い屋の横を通る狭い通路を上っていきます。里道に突き当たったら左に折れるとすぐ、整備した区画に数基の庚申塔が並んでいます。

 いずれも文字塔で、右から数えて3基目まではほぼ完璧な状態を保っています。左の2基は上部と下部が並んでおり、折損したものを左右に並べて置いてあるのか、またはもともと別々のものであったのか判断に迷います。右端の塔の手前に説明板がありますが、庚申信仰に関する一般的な内容でしたので掲載は省略します。

甲 正徳四年
奉禮拝供養庚申塔 施主 藤市
午 十一月廿二日

 「奉禮」の字はほとんど欠けてしまっていますが、残部の字形から推してまず間違いないでしょう。この塔は近隣在郷で見かける庚申塔よりもずいぶんほっそりとしていて、なかなか格好がようございます。それだけに一部を打ち欠いているのが惜しまれます。銘を見ますと「甲午」を右と左に割り振って彫ってあります。どのような意図があってこのようにしたのかは分かりませんが、おもしろい工夫であると感じました。

 左端は「奉供養」まで残っており、それから下は破損しています。中央と右端は「庚申塔」で、碑面の状態が良好です。いずれの塔も上部に梵字を配しています。小型ながらも堂々とした印象を覚えました。

 

6 門前の地下式横穴

 庚申塔のところからすぐなので、そのまま歩いて行くとよいでしょう。庚申塔のすぐ上の道路(2車線の車道)を横切って奥に行けば説明板が見えますので、すぐ分かります。

 道路端に柵で囲われた一角があります。この中の石の蓋の下に、地下式横穴があるとのことです。残念ながら中の様子はうかがい知ることができませんでした。しかし地下式横穴というものはとても珍しいものですので、こうして上部を見学できただけでも満足できました。

 説明板の内容を転記します。地下式横穴の断面図も書いてありますので、もし現地で見学される際には目を通されますと理解の助けになります。

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門前地下式横穴
市指定史跡 昭和53年4月8日指定
所在地 臼杵市大字前田字立中1501番地3

 この地下式横穴は、昭和46年4月17日、道路舗装工事中に発見されました。調査の結果、竪壙は東西60cm・南北65cmのほぼ方形を呈し、深さは約125cmを測ります。竪壙北側壁の底部付近には幅60cm・高さ約65cmのアーチ型をした入口(玄門)があります。玄室は東西280cm・南北200cm・高さ95cmのほぼドーム型を呈しています。玄室の床面は、竪壙の基底面より47cmほど下がっています。玄室内には人頭大の自然石が並べられていましたが、遺物(副葬品等)はありませんでした。
 市内において、同様な横穴は門前・深田・井村地区などで発見されています。年代についてははっきりしませんが、近年の大分県内における類似遺構の調査から中世(13~16世紀)の墓としての性格をもった遺構と推定されています。

臼杵市教育委員会

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今回は以上です。次回も下南津留の続きを書くか、または佐伯市堅田庚申塔を紹介するかで迷うています。あまりの暑さに名所めぐり・文化財見学もなかなかできませんけれども、撮りためた写真を使いながら少しずつ書き進めていきます。