大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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下堅田の名所と堅田踊り その1(佐伯市)

 このシリーズでは佐伯市のうち下堅田(しもかたた)地区をとりあげます。ひとまず庚申塔を中心に紹介してゆきます。

 さて、下堅田地区は大字堅田・長良からなります。下堅田堅田踊りの本場で、部落ごとに演目がいろいろあり、同じ外題でも踊りや音頭がまるで異なります。多様な演目の一つひとつが盆踊りらしからぬ手の込みようで、近隣在郷はおろか遠方の方にも評判が高いようです。また、当地区には庚申塔をはじめとする石造文化財や神社・寺院・御堂が数多いうえに、自然環境(蛍・桜・川・稲田の風景など)が素晴らしく、堅田踊り以外にも郷土の自慢がたくさんあります。下堅田には何度も行ったことがありますが、踊りにかまけて宵の口以降に訪れるばかりであったので昼間の写真は少のうございます。ですから十分な内容の記事は書けませんが、少しずつ紹介していきたいと思います。

 

○ 堅田踊りについて

 下堅田の名物として、何はともあれ堅田踊りにふれないわけにはいきませんので先に紹介します。堅田踊りと申しますのは佐伯市のうち下堅田地区・上堅田地区・青山地区で踊られている旧来の盆踊りです。南海部地方の盆踊りは他地方と同様、太鼓のみを伴奏にした盆口説で踊るのに対して、堅田踊りは三味線を伴い、しかも小唄が主になっています。この狭い地域のみ盆踊りの様子が全く異なるのは、下堅田の一部が天領であった関係で、江戸時代以前に上方から流行小唄・座敷踊りが伝わり、それを輪踊りにアレンジしたものが残ったためと言われています。

 堅田踊りで特筆すべきは、その演目の豊富なことです。特に下堅田は本場中の本場で、部落ごとに演目が異なり、同じ外題でも節や踊りがまるで異なります。この多様性が却って伝承の困難さに拍車をかけ、難しい演目は一つ、また一つと絶えてきましたが、それでも全体で40種類近くが残っています。特に西野(さいの)や波越(なんご)、北部(宇山・江頭・汐月)では夫々10種類以上が踊られています。地域ごとの詳細は追々紹介することにして、ひとまず演目の一覧のみ記しておきます(廃絶した演目も含む)。

<下堅田

泥谷 与勘兵衛、様は三夜、伊勢節、お夏清十郎、思案橋対馬、本調子、一郎兵衛、長音頭

西野 男だんば、女だんば、牡丹餅顔(高い山)、しんじゅ、与勘兵衛、花笠(無理かいな)、だいもん(大文字屋)、花扇、お市後家女、きりん、小野道風、ご繁昌、いろは、新茶、浮名、チョイトナ、帆かけ、長音頭

波越 南無弥大悲(伊勢節)、高い山、与勘兵衛、わが恋、十二梯子、芸子、智慧の海山(ご繁昌)、淀の川瀬、お竹さん、大文字屋、ほんかいな、無理かいな、長音頭

石打 高い山、与勘兵衛、様は三夜、淀の川瀬、大文字屋、お竹さん、竹に雀、団七棒踊り、お染久松、長音頭

府坂 高い山、与勘兵衛、大文字屋、小野道風、淀の川瀬、坊さん忍ぶ、数え唄、わが恋、お染久松、大阪節、長音頭

竹角 与勘兵衛、大文字屋、小野道風、淀の川瀬、坊さん忍ぶ、数え歌、わが恋、お染久松、大阪節、長音頭

宇山・江頭・汐月 高い山、与勘兵衛、お夏清十郎、恋慕、思案橋、一郎兵衛(大文字屋)、対馬、佐衛門、那須与一、長音頭

柏江 兵庫節、茶屋暖簾、鶯、様は三夜、奴踊り、待宵、本調子、夜盗頭、大文字(長音頭)

津志河内・小島 高い山、与勘兵衛、お夏清十郎、長音頭

<上堅田

高い山、与勘兵衛、お夏清十郎、恋慕、思案橋、一郎兵衛(大文字屋)、対馬、佐衛門、那須与一(切音頭)、長音頭

<青山>

あの子よい子(高い山)、与勘兵衛、小野道風、坊さん忍ぶ、数え唄、初春、智恵の海山(ご繁昌)、織助さん、長音頭

 

1 白蓮庵の石造物

 ローソン長谷店から県道37号を青山方面に進み、宇山部落に入ります。宇山はお為半蔵口説の冒頭で「佐伯領とや堅田の谷よ、堅田谷でも宇山は名所、名所なりゃこそお医者もござれ…」と唄われており、半蔵さんの家のあったところです。道なりに行けば、右側に「お為半蔵比翼塚」の名所標識が立っています。その角を右に入れば白蓮庵という堂様(宇山公民館)があり、その坪にいろいろな石造物が並んでいます。車は公民館の前の広場に停められます。なお、白蓮庵は佐伯四国の三十番札所です。

 狭い用地にたくさんの石塔や仏様がコの字に並び、壮観です。整備が行き届き、めいめいに花立があるほか、一つひとつにお湯呑も置いてあり、信仰の篤さがうかがわれました。この中から数基紹介します。

 線彫りの仏様がなんとも優雅な塔です。写真では分かりづらいと思いますが、実物を見ればはっきり分かります。一見して、犬飼町の波乗り地蔵を思い出しました。線彫りならではの繊細な表現が素晴らしい。

 一字一石塔が2基並んでいます。銘はどちらも「大乗妙乗一石一字塔」です。右の碑銘との間には梵字を彫った矩形の石が置いてあります。これは宝篋印塔の塔身ではないかと思いますが、詳細は分かりません。

 坪の反対側に1基離れて立つ塔は、銘が読み取れませんでした。辛うじて末尾の「塔」のみ読み取れましたので、墓碑ではないと思います。

 このすぐそばには小さなお稲荷さんと、天満社の鳥居があります(冒頭の写真)。この裏山が宇山城址で、今は運動公園になっています。天満社にお参りする場合はここから上がってもよいし、または汐月の公民館の近くからも参道が延びています。今回は省略します。

 

○ 下堅田北部の盆踊りについて

 下堅田地区のうち北部(宇山・江頭・汐月)と、上堅田地区は音頭も踊りも共通です。宇山では公民館の坪で、8月15日に踊っています。演目は小唄が「高い山」「与勘兵衛」「お夏清十郎」「恋慕」「思案橋」「一郎兵衛」「対馬」「佐衛門」で、段物が「那須与一」「長音頭」、合計10種類あります。踊りは「与勘兵衛」「お夏清十郎」「那須与一」が扇子踊りで、ほかは手踊りです。そのほとんどが男女共通で、「一郎兵衛」のみ男踊りと女踊りがあります。女踊りは「長音頭」と同じですが、男踊りは内側に別の輪を立てまして、前に後ろに、飛び跳ねるように行ったり来たりするような踊り方が派手で人目を引きます。「思案橋」「対馬」「佐衛門」は殊に手数が多く、「思案橋」など80呼間程度も数えるうえに所作が込み入っていますので覚えるのは容易なことではありません。

 さて、この地域の堅田踊りは、左右に流していくところを裏拍で踏んでいくところに妙味があります。交互に手を振り上げてはくるりくるりと手首を返したり、袖をとってぶらぶらと両腕を振りながら一回りするなど、静かな所作を何度も何度も繰り返していきますので、洗練された中にものんびりとした雰囲気がございます。また「那須与一」ではクルリクルリと扇子を上下に繰っていきますので、踊りの坪に波が立ち、壮観です。

思案橋
思案橋ヤ 思案ヤ 思案橋越えて(アードッコイ)
 行こか戻ろか 思案ヤ 思案橋(ソレ)

 

2 お為半蔵比翼塚

 公民館の坪の外れにお為半蔵の比翼塚の説明板が立っています

 案内板の内容を転記します。

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比翼塚案内板

心中事件あらすじ
 1749年(寛延2年)6月11日の払暁、佐伯堅田村(宇山区)の医師 安藤家13代元柳義方の長男 義雄(通称 丹道または半蔵)と、川下1kmの柏江村(柏江区)に住む修験者 柳正院の次女 お為(本名お民)の2人が、宇山城の西南(城の越)で、お為を半蔵が短刀で刺し殺し、半造は鉄砲腹を切って心中した、封建制度による悲恋の事件。

案内文:比翼塚・長音頭保存の会
    会長 田村日出美
         宇山区

○ 佐伯総合運動公園、野球場入口手前の左側に比翼塚の心中供養塔(現場)があります。

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 案内板の地図に従って細道を歩いて行けば墓地に出ます。その一角に比翼塚の立札が立っています。そこには2基の墓碑が並び、めいめいに男女の戒名が彫ってありました。わたしが思い浮かべていた比翼塚とはずいぶん様子が異なりまして、何が何やらよう分かりませんでした、札が立っているのですからこちらが比翼塚なのでしょう。盆踊りで何度も何度も聞いたことのあるお為さんと半蔵さんの心中口説を思い出して、手を合わせました。

 墓地の隅の仏様です。半ばで折れた痕が痛々しく、像容がだんだん不明瞭になりつつあるようです。でも、その優しいお顔が心に残りました。

 

○ 長音頭と「お為半蔵心中口説」について

 堅田踊りの演目で唯一共通しているのが長音頭、他地域では一般に「佐伯節」と呼んでいる音頭です。長音頭というのは通称で、一般には「お為半蔵」「小五郎」「白滝」など音頭の外題で呼びます。通称の由来は、①長い段物を口説くから、②盆口説は一般に1節2句なのにこの音頭は1節3句で節が長いから、等の説があります。この音頭は南海部地方一円はおろか、大野地方、延岡方面にまで流布し、夫々節が変化して広く親しまれています。長音頭の踊り方を一般に「佐伯踊り」と申しまして、16足の3つ拍子が基本形です。この踊りについては、他地域においては同種のものが全く別の音頭と組み合わさって伝わっている事例も多々あります(例えば臼杵の「祭文」、津久見の「三勝」、野津の「三重節」、耶馬溪の「佐伯踊り」など)。臼杵堅田のいずれかが元であると思います。

 長音頭の口説でもっとも人口に膾炙しているのは「お為半蔵」で、これまた堅田谷はおろか大野地方・北海部地方・延岡方面にまで流行しました。伝承の過程で文句は何パターンもありますが、やはり堅田で唄われている文句がもっとも洗練されております。ここに、その冒頭を記します。

お為半蔵
〽淵に身を投げ刃で果つる(ドッコイセ) 心中情死は世に多かれど 鉄砲腹とは剛毅な最期(セノセー ヨーイヤセー)
〽どこのことかと尋ねて聞けば 頃は寛延二年の頃で 国は豊州海部の郡
〽佐伯領とや堅田の谷よ 堅田谷でも宇山は名所 名所なりゃこそお医者もござれ
〽お医者その名は玄了院と
「これはこの家の油火の 明る行灯も瞬く風に(セノセー ヨーイヤセー)
〽消ゆる思いは玄了様よ 一人息子に半蔵というて 幼だちから利口な生れ
〽家の伝の医者仕習うて 匙もよう効き見立も当る 堅田もとより御城下までも
〽流行病は半蔵にかかる 半蔵は長袖常にも洒落て 襟を着飾り小褄を揃え
〽足ゃ白足袋八つ緒の雪駄 しゃならしゃならで浮世を渡る やつす姿は人目に立ちて
〽道の行き来にゃ皆立ち止り 彼は好いもの好い若い者 在にゃ稀じゃと皆褒めていく
〽褒める言葉がつい仇となる 同じ流れの川下村で 潮の満干を見る柏江の
〽渡り上りにハキショがござる 流正院とぞ呼ぶ山伏の 妹娘にお為というて

以下省略します。全文をご覧になりたい方は、リンク先を参照してください。

 

3 江頭の天満社

 元来た道を後戻って、宇山バス停のすぐ先を右折します。道なりに行けばすぐ江頭部落で、そのかかり、右側に天満社が鎮座しています。道路から見えるのですぐ分かります。少し先の二又のところに邪魔にならないように駐車します。

 鳥居や狛犬は比較的新しいようで、立派な造りです。境内はそう広くはありませんが、御神木が大きく育っています。住宅地の中にあって、気持ちの良い場所です。

 境内の隅に庚申塔が1列に並んでいます。詳しく見てみましょう。

庚申塔

 この塔は日月のみ浮き彫りにして、日輪の朱がよう残っています。「庚申塔」の文字と同じくらいの大きさで梵字を彫っており、その彫り口など堂々たるもので、シンプルながらも立派な印象を受けました。

 右の刻像塔は、庚申様ではないと思います。左の文字塔は地衣類の侵蝕が著しく、しかも下部を欠いでいます。残った銘のうち読み取れるものを拾いますと「享保」や「庚申」の文字がすぐ分かりました。「庚申」の上には梵字以外にも数文字彫ってあるような気がしましたが、読み取れません。

 右と中央が「青面金剛童子」、左は「奉待庚申塔」です。「青面金剛童子」という言い回しははじめて見ました。国東半島ではまず見かけない銘だと思います。また「奉待庚申塔」の下部には、「庄屋」を冒頭に造立者のお名前が彫ってあります。この部分まで状態が良好で、容易に読み取れました。

 なお、江頭では地蔵盆(8月24日)に堅田踊りを踊っています。演目は宇山と共通です。

 

4 泥谷の庚申塔

 江頭の天満社から県道まで後戻り、青山方面に進みます。橋を渡って、下堅田公民館の角を左折します。1つ目の辻を右折して右に下堅田小学校を見ながら進めば、左側に泥谷(ひじや)の公民館があります。その坪に庚申塔や碑銘が並んでいます。駐車場もあります。

安政四巳年
庚申塔
十月十二日

 一見して明治以降の造立ではないかと思われたほど、極めて良好な状態を保っています。不整形の塔身が格好良く、「庚申塔」の字体がさても堂々たるものであり、立派です。

奉造立庚申之塔、2鶏

 庚申塔が一列に並ぶ中で、右の塔のみ反対向きに立っています(左の塔は別の写真で紹介します)。この塔はどうも材質が異なるような気がしました。花崗岩ではないかと思います。文字塔に鶏や猿の像を組み合わせた事例は、本匠村など数か所で見かけたことがあります。こちらもその仲間です。向き合うた鶏がほのぼのとした雰囲気をつくり、しかも2羽とも丸々と肥って、豊年満作を象徴しているかのようです。元禄年間の造立です。

安政四巳年
奉待庚申塔
三月八日

 シンプルな造りですが、文字のバランスがよう整うており、たいへんスマートな印象の塔です。

宝永七年
庚申塔
九月廿九日

 この塔もシンプルな造りです。碑面の縁取りの上部が風変りで、おもしろく感じました。下部には5人の名前が彫ってあります。

奉待庚申塔

 左の塔は碑面の荒れが著しく、銘が消えかかっているのが惜しまれます。日月に施されていたと思われる朱が流れて、いよいよ状態が悪化しています。造立年の痕跡も僅かに認められるものの、読み取れません。10人以上の名前がずらりと並んでいます。

明治三十二年
庚申塔
旧三月十三日

 明治の庚申塔で、さすがに新しいだけあって(それでも100年以上前ですが)文字がくっきりと残っています。講中9人の名前がずらりと並んでいます。

 

○ 泥谷の盆踊りについて

 泥谷では公民館の坪で、8月15日頃に2晩連続で踊っています。その名目は、初日の前半が初盆供養で後半が風流し(台風除け)、2日目はお観音様です。お観音様の踊りのときには仮装も出ます。演目は小唄が「与勘兵衛」「様は三夜」「伊勢節」「お夏清十郎」、段物が「長音頭」で、今はこの5種類を2回繰り返して踊ります。。平成半ばまでは小唄の「思案橋」「対馬」「本調子」も踊っていましたが、この3種は踊り方がたいへん難しいので今は省いています。泥谷の踊りは「長音頭」のみ手踊りで、ほかは扇子踊りです。三味線は、現行の5種類はみな二上りですので音締めを待つことなく、スムーズに踊りが進んでいいます

 泥谷の堅田踊りは、開いた扇子を両手で持って高く掲げ、こね回すようにクルリクルリと繰っては小刻みの足運びで前に出ていくなど、おとなしい所作が目立ちます。よい踊りばかりですが、わたしが特に好きなのは「様は三夜」です。一旦両手を体側に下ろして静止したかと思えば、賑やかな掛声に合わせてパッと右下から両手を振り上げて左に下ろすところなど何とも言えない良さがあります。

「様は三夜」
〽様は三夜の三日月様よ 宵に
 ちらりと見たばかり(アラホーンボニ)
 見たばかり 宵に
 ちらりと見たばかり(ハーテーッショニ)
 様はよいよなぁ

 

今回は以上です。次回も下堅田庚申塔の続きを書きます。