大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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緒方の名所めぐり その2(緒方町)

 緒方地区のシリーズの続きを書きます。今回は大字軸丸の庚申塔を中心に紹介します。軸丸と申しますと棚田や磨崖仏が有名です。軸丸磨崖仏は前回紹介しましたので、今回は棚田の景観をと思うておりましたものの、軸丸の棚田は片流れ状ではなく丘陵地の起伏に沿うて展開しておりますので、その素晴らしい景観をうまく写真に収めることができそうにありませんでした。ドローン撮影等できればよいのですが、生憎その技術は持っておりませんので棚田は省きます。

 

3 松迫の道標

 ファミリーマート緒方店から県道46号を朝地方面に進みます。左に軸丸の棚田を見ながら道なりに上っていき、切通しの手前、左側に仏様のお室などが並んでいる角を左折します。松迫バス停の先の二又に道標が立っています。

指道標
右 緒方駅 又ハ ワカミヤ
左 小野 三本松

 ワカミヤ(若宮?)は朝地町大字宮生の地名かなと思いましたが、緒方駅とは反対方向ですから違うような気がします。三本松は朝地町大字上尾塚の地名でしょう。小野は、どこの小野か分かりませんでした。

 この道標は、緒方駅の開業が大正11年ですからそれ以降のもの(おそらく大正末期か昭和初期)であり、そう古いものではなさそうです。そうは申しましても建立時とは主要な道路・経路が変わっているでしょうし、まして地名も馴染みがなく、しかも道標自体が元の場所から動かされている可能性もあることから、詳細は不明です。

左 ヲクボ 竹田

 ヲクボという表記から、小字名あるいは通称地名でありましょう。どこを指しているのかは存じません。竹田はそのまま、城下町の竹田の意でしょう。

寄贈 首藤静

 個人が寄進された道標は貴重なものであると存じます。今はこのような道標の実用性が乏しくなっておりますけれども、首藤さんの公共心に思いを致してこれからも大切に保存されるべき道標でありますし、皆で交通安全に留意していきたいものです。

 

4 高牟礼の水路隧道

 松迫の道標の近くからの近道もありますが、幅員が狭くて運転に往生しますので一旦県道まで後戻ります。少し下って、軸丸北公民館のところを右折します(市街地側からなら左折)。高牟礼部落を過ぎて、右に位寶院の看板を見て少し行けば、右側に水路隧道がほげています(冒頭の写真)。このすぐ先の路側帯に駐車できます。

 完全なる素掘りの隧道で、水路の部分のみコンクリを打ってあるようです。しかも内部で二股になっているではありませんか。特に説明板等はありませんが、この地域の灌漑の歴史を今に伝える大切な史蹟です。畝町の狭い田が連なる棚田は、水の管理や耕作など、特に機械のなかった時代は並大抵の苦労ではなかったと思います。

 美しい棚田は、たとえば渓谷や山などのような自然のままの風景とは一線を画し、自然地形に人の営みの手が加わったことにより生じた風景です。いろいろなことに思いを巡らせると、ただのドライブもより実りあるものになる気がします。

 

5 高牟礼の庚申塔(西)

 高牟礼部落の2か所に庚申塔が立っています。今回紹介するのは水路隧道のすぐ横の階段を上ったところにある庚申塔群で、小字名が分かりませんでしたので区別のために項目名に「西」と付記しました。

 この場所には6基の文字塔が横一列に並んでいます。階段を登り詰めたところからの距離に余裕がなく、1枚の写真に納まりませんでした。

 こうして見てみますと、6基すべての形が異なりますうえに銘もさまざまで、どれもが立派な造りです。この場所に庚申塔があることは存じておりましたが写真は見たことがなかったので、現地で実物を拝見して感激いたしました。では、向かって左から順に1基ずつ紹介します。

享●二天
庚申塔
四月十八日

 紀年銘のみ不明瞭ですが、残りはくっきりとしています。流麗な梵字にくらべて、ほかの文字は素朴な字体です。「塔」は異体字で、その土偏の風変わりな形がおもしろくいではありませんか。塔身は自然石の形状をいかしており、すらりとした格好のよさが感じられます。

(読み取り不能)申年
奉待庚申墓
七月二十三日

 以前、本匠村は中野地区のシリーズで長野部落の庚申塔を紹介しました。その銘は「申庚墓」です。この「墓」は「塔」と同義で、県内では珍しいものの全国的に散見されるようです。本匠村で初めて見かけたときには大変珍しく感じましたが、この並びには「墓」の銘を持つ庚申塔がほかにもあります。下部には11人の方のお名前がずらりと並んでいます。塔身の下部は厚みがあり、上に行くほどすぼまって尖端はとがっているという個性的な形状です。

●●六未年
奉待庚申墓
二月十九日

 右下には小さく「大庄屋」、その下には11人の方のお名前が並びます。碑面の荒れが気にかかりますが、「奉待庚申墓」の銘は立派な書体で、じつに堂々たるものです。

天保十四癸卯年
奉待庚申塔
三月吉良日

 すこぶる良好な状態を保ち、銘に朱がよう残っています。この塔は中央に位牌型の彫り込みをなし、その下部には蓮台を彫り込んであります。これまで紹介した3基の、語弊をおそれずに言えば武骨な雰囲気とはまた異なり、いくぶん装飾的な雰囲気が感じられました。

嘉永二年酉年
奉待青面金剛
二月吉日

 時代が下がり、青面金剛の銘が登場してきた過程が見てとれます。この塔は上部の梵字の表現が丁寧で、円形の窪みの中に浮き彫りになっています。下部には2段に分かれて、20名ほどの方のお名前がずらりと並んでいます。庚申信仰の隆盛のほどが感じられるではありませんか。

奉供養青面金剛

 地衣類の侵蝕が深刻で、紀年銘その他はさっぱり読み取れませんでした。6基の塔を一つひとつ見比べてみますと、銘の移り変わりなどいろいろな気付きがあります。刻像塔のようなインパクトはありませんけれども、こうして立派な塔が6基も並んでいますと壮観です。道路から近く簡単に立ち寄れますから、興味関心のある方には見学をお勧めいたします。

 

6 板屋の石造物

 庚申塔をあとに車で先へと進めば、松迫から下ってきた道と合流します。これを左にとってなおも下れば板屋部落で、道路右側には軸丸南公民館があります。

 公民館の向かい側、小高いところが小さな広場になっています。その片隅にいろいろな石造物が並んでいます。もしかしたらここには、小さな堂様があったのかもしれません。

 左の御室は、あとで別の写真にて紹介します。右の2基は庚申塔ですが、銘の読み取りが困難でした。

 破損した宝塔の残欠が安置してあります。笠から上はどこに行ったのでしょうか。

 左の御室です。屋根の形がしゃれていて、軒口の装飾など凝った造りになっています。傷んできているのが惜しまれます。中の仏様は、奥は石版に半肉彫りにしたお地蔵様で、衣紋の表現など丁寧で見事なものです。手前は首の折れてしまったお地蔵様で、元々は別にお祀りしてあったものを、粗末にならないようにこちらに移したのでしょう。

堅牢地神

 地神塔です。国東半島では社日塔と呼ぶことが多いように思います。どちらも同じ信仰によるもので、地の神様をお祀りしてあります。これは作の神様であり、かつては農村部において絶大なる信仰を集めました。大分県内で地神塔が特に多く残っているのは、緒方町清川村のように思います。

 

今回は以上です。次回も緒方町の名所を紹介します。緒方地区の続きか、あるいは小富士地区をとりあげるかで迷うています。また、近々中臼杵地区と吉野地区の記事も書く予定です。あれも書きたやこれも書きたやと思いながら、なかなか追いつきません。気長にお付き合いくださいませ。