大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

小富士の名所めぐり その1(緒方町)

 小富士(こふじ)地区の名所を紹介するシリーズです。小富士地区は緒方町大字小宛(おあて)・草深野(くさぶかの)・辻・寺原(てらばる)および竹田市大字片ケ瀬からなります。旧小富士村は昭和30年1月に緒方町に合併しましたが、このうち大字片ヶ瀬は交通不便のためわずか半年後に竹田市に分離編入されました。ですから、このシリーズは緒方町竹田市に跨ることになります。

 さて、小富士地区には著名な観光地はありませんけれども、見るべき史跡・文化財がたくさんあり、緒方町竹田市を観光される際にはそのルートに必ず組み込むべき地域です。代表的な名所としましては小富士山にあります御廟屋をはじめとして辻河原や尾崎の石風呂、蝙蝠瀑布、それから長瀬橋、柚木寺原橋などが挙げられましょう。ほかにも村々の庚申塔群や山ノ口隧道・下片ケ瀬隧道といった古いトンネル、出雲様、片ケ瀬台地の畑作風景などいろいろあります。順番に、少しずつ掲載していこうと思います。

 

1 蝙蝠の滝展望所

 大野地方には姿のよい滝がたくさんあります。特に有名なのは原尻の滝、沈堕の滝で、これに蝙蝠の滝を加えて大野の三瀑と称してもよろしいかと思います。蝙蝠の滝の自然地形のすばらしさは、地元では知られていたようですが交通不便のため、訪れる方は稀な場所でした。ところが近年、この地方の自然景勝地ジオパークとして説明板などが整備されつつある中で、ようやく地域外の方にも知られるようになってきたようです。

 国道502号緒方町から竹田方面に行きます。道路右側に「豊後大野パークゴルフ場」の立派な立札があり、その横に「蝙蝠の滝展望所」の看板も立っています。この角を鋭角に右折してパークゴルフ場を過ぎ、大字草深野は炭焼部落を通り抜けます。この辺りから左右に見事な棚田が広がり、普通車がぎりぎりの幅の道路になります。問題なく通行できますが離合困難ですから、農繁期には地域の方の迷惑になりそうです。時季によっては手前の広いところに停めて、ピクニックがてら歩いて行った方がよいでしょう。田んぼを見ながら道なりに行くと、二股になっているところに展望所の看板があります。これを右にとって地道を進めば展望所に出ます。数台は駐車できます。

 展望所からは冒頭の写真の景観を楽しむことができます。やや距離はありますが高い位置から見下ろす格好になりますので、この滝一帯の特異なる自然景観がよう分かります。蝙蝠の滝と申しますのは、この断崖がちょうど羽を広げた蝙蝠の形に見えたのでそう呼び習わしたのでしょう。なお、この展望所は地域の方が手弁当で整備して下さったそうです。

 

2 蝙蝠の滝舟路跡

 かつて大野川通船が竹田まで上がっていた時代、沈堕の滝はどうしても越えることができず、上と下に船着き場を設けまして荷物を積み変えていました。ところが蝙蝠の滝は、舟路(しゅうろ)という滑り台のような樋をこしらえて、船が越していたそうです。上りの際には、おそらく綱を何本もかけて舟子が引き揚げたのでしょう。舟路跡は展望所からだと分かりにくいので、別のルートを紹介します。

 展望所から二股まで後戻って、左の道を進みます(鋭角に右折)。しばらく行くとものすごい急坂を九十九折で下ることになります。堰の手前で行き止まりになりますので車を置いたら、坂道の脇から川の右岸(整地された上の段)を進み、その突端から石垣を下ります(段差が高いので注意を要します)。川べりの石ころを伝うてしばらく歩けば、蝙蝠の滝の落て口まで行くことができます。足元が悪いので気を付けてください。

 蝙蝠の滝の上部です。これは阿蘇山が噴火したときの溶岩が固まったものであると思います。青島の「鬼の洗濯岩」のような地形で、たいへんおもしろいではありませんか。

 ちょうど水の流れるところがえぐれて、細い溝になっています。これは水の力によって削られたのか、あるいは意図的に発破をかけたのか定かではありませんけれども、ちょうどこの辺りに舟路を設けてあったようです。

 もちろんこんな状態では舟は通れません。ここに樋をかけて、滑り台にしてあったのです。今は上の取水堰の影響で水が少ないものの、堰がなかったときはものすごい迫力であったことでしょう。

 落て口付近ではたくさん甌穴群を観察することができます。自然地形に興味関心のある方はぜひ見学をお勧めしたいところですが、観光地として整備されているわけではありませんのでくれぐれも怪我をしないようにしてください。

 

3 大久保の庚申塔

 蝙蝠の滝から国道まで返って、緒方市街地方面へと少し後戻ります。掘割の上に橋がかかっているところの手前、大久保バス停で左折して上の道路に上がり、その橋を渡ります。渡ってすぐ、左側の塚の上にたくさんの文字塔が並んでいます。車は、右側の公民館入口に停めさせていただくとよいでしょう。

 このように、10基ほどの塔がずらりと並んでいます。階段が整備されているので、簡単に塚に上がることができます。

庚申塔
昭和五十五年

 わたしは驚きました。昭和55年になっても庚申講が維持されていたことがまず驚きですし、塔まで造立した事例はそうそうないでしょう。でも千歳村では西暦2000年の庚申塔や、三重町では平成元年の庚申塔も見かけましたから、大野地方は比較的近年まで庚申信仰がよう残っていた地域なのかもしれません。

 さて、この塔は印刻した文字に墨を入れてあるばかりか、梵字は丸い縁取りの中に陽刻しその周囲を着色するなど、手間のかかる手法をとっています。シンプルながら、立派な印象を受けました。今からほかの塔も紹介しますが、そのほとんどがこれと同じ手法です。

 右の塔は大正9年です。大正年間の塔も、県内では多くはないでしょう。中央奥は梵字や銘の墨が消えてしまっていますので見えづらいものの、他の塔と同じ形式でした。紀年銘の読み取りは困難でしたが、後述の理由により永禄3年ではあるまいかと考えております。その手前は寛政12年、左は元和6年の紀年銘が確認できました。

 左端は延宝8年です。塔身の形は違えど、このように全てを同じ形式に揃えてあるのは珍しく感じます。一つところにたくさんの文字塔が並ぶ場合、いろんなバリエーションのものが同時に見られることが多いように思います。

 手前右は万延元年、左は天文5年です。紀年銘のわかったものを一覧にしますと、下のようになります。

元和6年   1620
延宝8年   1680
元文5年   1740
寛政12年 1800
万延元年 1860
大正9年   1920
昭和55年 1980

 このように、紀年銘の読み取れたものを並べてみますときっちり60年おきになっています。ですから、紀年銘の読み取れなかったものは元和6年の60年前、すなわち永禄3年ではあるまいかと考えたわけです。ともあれ、古い紀年銘の保存状態があまりに良好であるのと、それぞれの形式が全く同じであることから、何らかの理由で過去の年号に遡って、ある時代にまとめて造立した(あるいは再建した)可能性も考えられます。紀年銘がすべて60年おきになっているのも、恣意的な感じがいたします。よほどの信心によるものでしょう。地域の方が屋外に見当たらず、経緯を教えていただくことができなかったのが残念です。さて、2040年には新しい塔が建つのでしょうか?20年後が楽しみです。

(r4.10.1追記)

 緒方町誌(区誌篇)を確認したところ、経緯が分かりました。最古の塔(銘がわからなかったもの)は寛文9年の造立で、平成2年にその塔を道路工事でこの場所に移転した際に、ほかの7基を建立したとのことです。おそらく60年ごとの大待ち上げで庚申石を据えていたものを、立派な塔にやり替えたということでしょう。平成2年の講員は4戸であったとのことでした。

 

○ 俗謡「緒方郷の唄」

 流行小唄「鴨緑江節」の替唄で、小富士の方々が昔唄った「緒方郷の唄」を紹介します。これは、鴨緑江節でもよいし、「さのさ」でも「三下りさのさ」でも唄うことができます。

〽緒方郷の 西の果てなる アノ小富士村
 今じゃ井路にて アラ苦しめど ヨイショ
 二千の百姓はヨ アラ田に畑にヨ
 励めばマタ アラ遠からず富の村 チョイチョイ

 

今回は以上です。ちょっと遠出をしてみると、新しい発見がたくさんあります。大久保の庚申塔群には大きな疑問が残りました。『緒方町誌』のうち行政区ごとに項目を立てた巻を読めば大久保の庚申塔について何か分かるかもしれないと考えています。またいつか図書館で確認して、もし庚申塔についての記載があれば分かった内容をこの記事に付記します。次回も小富士地区の続きを書きます。