大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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中臼杵の名所めぐり その2(臼杵市)

 どうしても場所の分からなかった石塔群にようやっと行き当たりましたので、中臼杵の名所シリーズの続きを書きます。この記事は前回の補遺のような内容ですから、あわせて読んでいただくとより分かり易いと思います。

 

○ 川野の石造物 見学の経緯

 臼杵市ウェブページの中に「ふるさと再発見」というコーナーがあります(外部リンク)。内容がたいへん充実していますし、だいたい市のホームページなどというものは市指定文化財ですら満足に紹介されていないところも多い中で、このコーナーでは指定の有無によらで地域の史蹟や文化財、民俗をたくさん掲載されていて素晴らしいと思います。市内在住の方のみならず、臼杵市を観光される方にぜひ見て頂きとうございます。有名な観光地だけではなく、「ふるさと再発見」で紹介されているような場所にもちょっと立ち寄ると、本当にその地域の姿が見えてくるのではないでしょうか。

 さて、「ふるさと再発見」を拝見する中で特に気になったのが「板川野の石塔群」というページです。その内容を見ますと多種多様な石造文化財が密集していることがわかりました。それでぜひ見学したや思い板川野周辺を捜し回ったものの行き当たらず、その過程で見つけたのが前回紹介しました板川野の石幢です。この石幢は、当該ページにある「川野石幢」とは異なります。わたしの認識では、板川野部落の北側が川野部落です。ですから川野石幢というからにはその石幢は川野部落にありそうなものなのに、川野石幢付近の台地上の石塔群は「板川野の石塔群」となっているのがどうにも解せず、もはやお手上げでした。それで臼杵市役所に問い合わせてみましたところ、御親切にも担当の方から所在地をご教示頂き、見学するために再訪したというわけです。市役所の方には、ご多忙の折節、ご丁寧に助言を頂きましてたいへん感謝しております。

 現地を訪れて、名称に「川野」と「板川野」が混在している事情が分かりました。ちょうど板川野部落と川野部落の中間あたりに位置しておりまして、どっちつかずの感があります。でも一応、小川を隔てて川野側ですし、前回紹介しました板川野公民館そばの石造物群との区別のためにも、この記事では項目名を「川野の石造物」としたいと思います。

 

6 川野の石造物(イ)

 板川野の「おせよキムチの店」から少しだけ久木小野方面に進み、小さな橋を渡ってすぐ右折します。簡易舗装の道を行けば獣害予防柵がありますので、その向こう側に行きます。開けたら必ず元通りに閉めておいてください。道なりに行けばすぐ、右側の空き地のシュロの木のネキに石幢が見えてきます(冒頭の写真)。この道は軽自動車ならどうにか通れますし、石幢のところで転回もできます。でも農繁期には近隣の方の迷惑になりそうですから、どこかに駐車して歩いて行った方がよいでしょう。

※「おせよキムチの店」の商品はたいへんおいしく、しかも安価です。みなさんにお勧めします。

 石灯籠は火袋が壊れています。石幢は中台を八角にこしらえて、龕部も八面、笠は円形です。笠の縁を僅かに打ち欠いているほかはほんに良好な状態を保っており、全体のバランスがよう整うています。これは素晴らしい。銘を読み取ることはできませんでしたが、臼杵市役所「ふるさと再発見」によれば文亀3年(1503年)の作とのことです。

 今から500年以上も前の石造文化財が何事もなかったかのように、田んぼの側にぽつんと立っている。これはすごいことではありませんか。六地蔵様というものはただでさえありがたいものを、こうして500年以上も立っていることを思えばいよいよ畏敬の念が湧いてまいります。また、500年以上前の写真などもちろんありませんし風景画などもまずないと思いますが、この石幢が昔と今を繋いでくれているような気がいたします。

 笠の径が王座の石幢のように大きくないことと内刳りも浅いこともあってか、龕部はやや風化してきています。けれども諸像(六地蔵様と二王様)の様子はよう分かります。お地蔵様の光輪など線彫りで丁寧に表現されているほか、袖の重なりや、めいめいの台座にはさても細やかな連子模様が施されており、その緻密さに感心いたしました。

 

7 川野の石造物(ロ)

 石幢への道に沿うた崖上の台地にある石造物群を紹介します。こちらは、今回の記事の目玉です。「ふるさと再発見」によれば、この石造物群は4つのグループに分かれているそうです。以下、抜粋いたします。

第一群 愛染明王像、奉順禮西国秩父坂東縁起塔
第二群 板碑3基 うち2基は「南無六道能化地蔵菩薩」の銘あり
    ※能化地蔵とは、六地蔵様を統べる仏様です。
第三群 庚申塔4基
第四群 地蔵坐像、宝篋印塔、五輪塔3基、光明真言塔、三界萬霊塔
    東列7基と西列3基(倒伏分を含めると7基程度)に分かれている

 説明文のとおりに、この順番で見学するつもりでした。ところがいざ台地上に上がってみますと竹林の荒廃著しく、第三群と第四群しか見つけることができませんでした。ひとまず、この項では第三群を紹介します。

 目指す石造物はこの竹山の台地上です。資材置き場の隅、車道の路側帯が切れるところから斜面を上がり、微かな踏み跡を辿って折り返しながら登っていきます。山が荒れており辟易する道中でしたが、特に危ないところはありませんでした。

 上の段に上がり着いたら右の方に行きますと、小さな碑が1基倒れているのが目に入りました。この区域で初めて目にした石造物です。

 惜しいことに碑面を下にして倒れていました。庚申塔と思われます。碑面が地面に触れていると傷みが早いものですから、保存のためにどうにか裏返そうと頑張ってみたのですけれども半ば土に埋もれていて、1人の力ではどうにもできず断念せざるを得ませんでした。もし同行者があれば力を合わせて、どうにかできたと思います。

 すぐ先には、庚申塔が数基寄り集まっていました。きちんと立っているのは1基だけです。周囲の環境から、とうに信仰が絶えていることが覗えます。

享保四己亥天 ※己を「已」に近い字体で彫っています
奉待庚申塔
八月
川野村中

 思いのほか碑面の状態が良好で、銘を容易に読み取れました。庚と申の間あたりなど、まるでお花模様のような地模様が見てとれますが、これは石目の影響で偶然このように見えているだけでしょう。

 倒れた塔のうち下になった方は、「享保」と「奉待申」のみ読み取れました。

 今後、ますますの荒廃に伴う塔の破損が懸念されます。石幢のそばなどに下ろしていただければ粗末にならずに済むとは思いますが、この高いところからでは容易なことではなさそうです。

 

8 川野の石造物(ハ)

 この項では、前項冒頭で申しました「第四群」の石造物群について紹介します。庚申塔のところからほんの15mほどの距離ですが、猛烈な竹藪に阻まれてすぐ近くまで行かないとさっぱり分かりません。高い方へ高い方へと進み、平坦になったら適当にうろついてどうにか行き当たりましたが、どこをどう通っても枯れ竹を踏み分け踏み越えの道中で、僅かな距離に難渋しましたし藪蚊がものすごく、10か所以上刺されました。訪ねる時季を見誤うたとつくづく悔やみましたが後の祭りです。

 無事行き当たったものの、あまりの状況に気が塞ぎました。昔の方が手を合わせていた仏様や五輪様などが粗末になっているのは、とても残念です。簡単に掃除ができるような状態ではありませんでしたが、せめて枯竹をのけたり、枯葉を払うくらいはすればよかったかなと今になって思います。そのときはあまりの暑さと藪蚊に、塔に絡む蔓を少し除去しただけで精根尽き果ててしまいました。

光明真言百万遍供養塔

 たいへん立派な供養塔です。きっと川野でも、昔は百万遍の講があって数珠繰りをしていたのでしょう。この面と、隣の真言梵字で彫った面は、それぞれの文字に朱を施しておりそれがよう残っています。

宝暦第四歳次甲戌四月廿一日 本空是性敬白 ※廿は異体字

 蔓を除去すると、紀年銘が良好な状態であらわれました。

 お地蔵様は台座の端に寄っていますが、その状態はたいへん良好です。お慈悲の表情や全体のバランスなど、秀作であると感じました。台座の竿の部分に銘が彫ってあったのではないかと思います。

 反対側の並びにも同じような形の台座の上に、お地蔵様がおわします。うち1体は首が折れてしまっていました。枯れ竹にのしかかられて、本当にお気の毒なことでございます。

 傾いた石塔には銘がくっきりと残り、三界万霊塔であることがわかりました。

 ほかにも御室に収まった仏様を数体見つけました。宝篋印塔などは分からずじまいです。きっとばらばらに壊れて、この枯竹のどこかに埋もれているのでしょう。

 この場所は、「ふるさと再発見」によれば中仙(中泉)寺跡の比定地であるとのことです。廃寺跡が堂様になっている事例も数ある中で、こちらは信仰が絶えてしまったのでしょう。現状を拝見するにつけ、非常に身につまされるものがございました。

 

9 川原の一字一石塔

 川原の石幢へと続く里道とは反対側の道を進みます。川原部落の中心部よりもずっと手前、道路左側に一字一石塔がお祀りされています。

石書醍醐経

 醍醐経というお経は存じておりませんで、少し調べてみましたがよう分かりませんでした。基礎が傾いていますが、小石を噛ませて台座はだいたい水平になっています。シキビがあがり、お祀りが続いているようです。このように上に仏様が乗ったタイプの一字一石塔は、海部地方で盛んに見かけます。

 なお、この一字一石塔よりも先の方で、道路左側の斜面に庚申塔らしき石塔群が目に入りましたが駐車場所がなく、ちょうど対向車が来てゆっくり見学することができませんでした。写真がありませんので今回は省きます。

 

10 吉小野の石造物

 一字一石塔から後戻って、十字路に出たら右折します。おせよキムチの店を過ぎて、右側に分かれる1つ目の道に入ります。橋を渡って、吉小野部落への上り口に矩形の宝塔と2基の板碑型の石造物が並んでいます。

 左右の石造物は銘がすっかり消えており詳細は分かりませんでした。庚申塔かもしれません。

 中央の宝塔については、「ふるさと再発見」で詳細が紹介されています。まず笠がずいぶん風変りで、特に目立ちます。通常の照屋根ではなくて、半ばは窪み、照屋根とムクリ屋根を組み合わせたような形状になっているのです。しかも軒口には丁寧に垂木が表現されています。宝珠は相輪状に縦に伸び、さても立派な造形ではありませんか。塔身は矩形で、梵字の痕跡が見てとれました。「ふるさと再発見」によりますと、東面の月輪の中にはキリーク(阿弥陀如来)、西面にはバイ(薬師如来)、南北の面は風化がひどく読み取り困難であるが北面は残部から推してサ(観世音菩薩)とのことで、四面仏の様相を呈しているようです。
 紀年銘は読み取れませんでしたが、「ふるさと再発見」により永禄10年であると分かりました。500年近くも前の造立というわけです。台座南面には卒塔婆型の区画が彫り込まれておりまして、文字の読み取りは困難でした。一般的な宝塔とはずいぶん異なる、珍しい造形です。道路端で1台程度は駐車できますから、ぜひ見学されることをお勧めいたします。

 

11 広原阿弥陀堂の石造物

 吉小野の宝塔から後戻って、突き当りを右折します。県道25号に突き当たったら左折します(信号機有)。道なりに行って半三部落への上り口の手前、足立建築のところを右折します。急坂をくねくねと登っていけば、大字武山は広原部落に出ます。新道と旧道の二股を左にとれば、阿弥陀堂の正面に回り込むことができます。駐車場もあります。

 ごく狭いながらも清掃が行き届き、こざっぱりと気持ちのよい場所です。堂様は新しく建て替えられており、今なお近隣の方の信仰を集めていることが分かりました。

 この珍妙な石造物は、灯籠と宝篋印塔の後家合わせのようです。単に宝篋印塔の塔身が灯籠に置き換わったというだけではなくて積み方も怪しいのですが、さても堂々たる見事な造形であると存じます。

 境内の隅には4基の石造物が並び、鄭重にお祀りされています。左から2番目は庚申塔のような気がしますが、銘面が荒れ気味で、しかもお供えに隠れて銘が読み取れませんでしたので詳細は分かりません。

 

今回は以上です。中臼杵のシリーズは写真のストックが全くなくなってしまいましたので、当分の間お休みとします。次回は久しぶりに、夷谷のシリーズの続きを書きます。