大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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吉野の名所・文化財 その3(大分市)

 久しぶりに吉野地区の名所・文化財を紹介します。今回は大字志津留(しつる)の石造文化財です。先日、中臼杵の名所を訪ねた際に、吉野でまだ行ったことのない場所にも寄ろうと思いまして、武山から吉野に抜ける道を初めて通ってみました。あまりの道の悪さに疲れてしまいたった3か所に立ち寄っただけですから、短い記事になります。説明の都合上、実際に見学した順番とは逆に紹介していきます。

 

8 団子橋の碑

 このシリーズの初回で紹介した「3奥の庚申塔(坂道)」前の坂道を下っていきます。道なりに左に折れて、カーブミラーのある三叉路を右折します。少し行けば小川にかかる橋を渡ることになります。この橋を団子橋といいます。団子橋を渡って上り坂にかかり、池の土手の手前、道路右側に冒頭の写真の碑銘が立っています。この碑銘は旧の団子橋を転用して碑となしたものであるとのことです。 

 説明板の内容を転記します。

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団子橋の伝説

 戦国時代、吉野村中原というところに原大隅守という人がいた。大隅守は大友宗麟に仕えており強力の持ち主であったが、また一面には非常に優しい心の持ち主でもあった。それで村人は心から、親のように慕っていた。
 ある晩、大雨が降って一夜のうちに橋を流してしまった。村人は早速往来に困って、そのことを大隅守に話した。日ごろから心の優しい彼は橋を架けることを快諾して、裏の山にあった長さ7尺(2.12m)、幅4尺(1.21m)、重量100貫(375kg)もあろうかという大石を小脇に抱えてきて、軽々と橋にしてくれた。
 その石が団子形をしているので、村人はこれを団子橋と呼んでいた。それから少したってこの傍に立派な橋ができたので、この橋を通るものはなくなり、いつとはなしに水底に落ちてしまった。
 今から78年くらい前にこの石を引き上げ、それを建てて碑とした。

平成20年3月吉日建立
大分市地域まちづくり活性化事業

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 一点補足いたしますと、「団子形」と申しますのは串団子ではなく、おそらく団子汁の団子の形でしょう。

 現役の団子橋は昭和47年の架橋ですから、説明板の中にある「少したってこの傍にできた立派な橋」とは違います。その「立派な橋」も撤去されて久しいのでしょう。

 

9 下志津留の宝篋印塔(虎御前様)

 団子橋の碑を過ぎて、先へと進みます。下志津留部落に入って、左に尺間権現への登り口を見てすぐ、右側に煙草屋さんがあります。その角を右折してすぐ、左側の小高いところに立派な宝篋印塔が立っています。煙草屋さんの近くに邪魔にならないように駐車して歩いて行くとよいでしょう。

 どっしりと、重厚感のある作風が素晴らしいではありませんか。隅飾りが大きく、宝珠もずんぐりとしています。格狭間もよう残りますし、良好な保存状態を保っているといえましょう。

 ところで、この塔には虎御前様の伝承があります。以前も何かの機会に簡単に申しましたが、虎御前と申しますのは曽我物語に出てくる白拍子で、どういうわけか大分県のあちこちに「虎御前様」とか「虎御前の墓」と呼ばれている宝篋印塔が残っています。伝承の域を出ませんが、それが五輪塔でも宝塔でもなく、必ずといってよいほど宝篋印塔です。何らかの謂れがあるのでしょう。

 

10 中間の石幢・庚申塔

 虎御前様から煙草屋さんに引き返して右折して、先へと進みます(団子橋の碑からなら道なり)。見通しの悪い道をくねくねと進んでいきますので、対向車に注意を要します。上志津留部落は字中間に来ますと、道路左側に立派な石幢が立っています。この辺りは適当な駐車場所がありません。やむなく路上駐車して大急ぎで見学しましたが、できればバイクの方がよいかもしれません。

 近隣の方の信仰が篤いようでシメがかかっており、立派なお灯明立てを伴います。この石幢は中臼杵地区などで盛んに見かけるタイプで、中台に対して異常なる大きさの笠が特徴です。へりを少し打ち欠いているほかは大きな傷みはなく、良好な状態を保っています。どっしりとした作風が素晴らしく、道路端の一段高いところに立っていますからさても堂々たる雰囲気が感じられました。

 説明板の内容を、より分かり易いように文章を少し改変して掲載します(内容は同じですが、石幢について全くご存じない方が読んでも分かるようにと考えて改変しました)。

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中間石幢
大分市上志津留
県指定有形文化財(昭和55年4月8日)

 石幢は、「幡」という旗から起こったとも、笠塔婆から変化したともいわれています。総高は227cmあり、下から基礎、幢身、中台、龕、笠、宝珠の順に載せられています。宝珠には四方に火炎の彫り込みがあります。饅頭形の笠の裏には墨書が残り、その内容から、室町時代の応永6年(1399年)10月22日に玄覚禅門など33人の人々が、六地蔵信仰にもとづいて建立したことがわかります。長い年月の風雨に耐える墨のすぐれた性質がうかがい知れます。
 六地蔵信仰は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六道の苦界をめぐる運命にある人々を、六地蔵菩薩を信仰することで救うというものです。六地蔵は、笠の下に置かれた龕の周りにも、童子像(1体)、司禄像(1体)と一緒に浮彫りにされています。

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 笠の裏に残っているという墨書は、私にはさっぱり分かりませんでした。説明板が整備されたときから年月が経ち、さらに薄れてしまったのでしょう。龕部を見ますと、めいめいの仏様はレリーフ状の表現で、その掘り込みがくっきりとしていて状態が良好です。大きな笠に守られて、風雨の影響が小さかったためでしょう。

 石幢のすぐ右側には不安定な石段があります。この上に庚申塔のような石造物が見えましたので、さっと登って見学しました。

 足場が悪いので鎖を設置してくださっていますが、特に使用しなくても問題なく通行できました。左から順に見てみましょう。

元禄四年
(折損)供養庚申塔施主各如意祈
十月九日

 残念ながら上が折れてしまっています。「供養」の上には「奉」の字と、もしかしたら梵字も彫ってあったかもしれません。文字のバランスがよろしくなく、なんとなく微笑ましく感じました。下部には3人のお名前、その右側には「志津留村」の文字が見えます。

 銘の読み取りが困難でしたが、かろうじて「庚申」の2文字が読み取れましたので、これも庚申塔のようです。駒形の小さな塔ですが、これのみ碑面に彫り込みがなされており、左右の2基に比べると手の込んだ手法をとっています。

元禄十二年
奉供養庚申塔現世穏安(以下不明)
二月廿日

 下部が埋もれているか折れているかで、銘を最後まで読み取れませんでした。はっきりと「現世穏易」と言い切っています。当時の方には生活に直結した信仰が真に迫っていたのでしょう。

 

今回は以上です。次回は大田村の名所を紹介します。