大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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朝来の名所めぐり その4(安岐町)

 久しぶりの朝来シリーズです。今回は過去の写真が多く、庚申塔の写真などあまり写りがよくないのですが、ひとまずそのまま載せます。適宜、言葉で補います。

 

13 地蔵伝の石造物群

 旧朝来小学校そばの横断歩道のところから川に向かって下ると、朝来地区のグラウンドがあります(旧朝来小学校の運動場跡)。そのかかりに車を置いて、冒頭の写真の橋を渡り、道なりに歩いていけば堂様跡地に石仏や石塔類が並んでいます。車道から近く簡単に訪れることができますので、朝来地区を探訪される際にはぜひ立ち寄ってみてください。

 立派な説明板が立っています。夫々の写真に名称が付記されており、石造文化財に明るくない方でも分かり易いように配慮されています。内容を転記します。

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朝来地区石造物のみちしるべ
下の川 地蔵伝の石造物群

 この場所にはお堂があって住民もお祈りのため集まっていたが、昭和16年(1941)秋の水害で流されてしまった。「信仰動鬼神」(信仰は神をも動かす)と題のある大正11年(1922)の石碑には、お堂の建設費を奉納した人命が刻されている。
 頭に青銅の笠をかぶったお地蔵さんは、台座に「天明改元」(1781)「石書経王」と刻され、地下にお経を墨書した小石が奉納されていると思われる。伝承では、逃げてきた武士がここで追手に切り殺されたので供養するため、または水難による死者を弔うためのお地蔵さんと言われ、地面からの高さも3mを超えている。
 観音の石祠(石のほこら)も2基並んでいる。大きい方の屋根は宝珠を載せ、唐破風(前面の装飾性の高い庇)には朱の彩色が施された優品である。右側面に「文政七甲申年二月吉日」(1819)の年記、裏側に「名主稙田廉介」の名および「施主」の両側に「田邊」と「伊兵衛」の姓名、左側面にも観音の名号などが刻されている。
 もっとも北側に立つのは庚申塔で、昭和10年代の町道拡幅工事の際に朝来小学校の近くから、この場所に移転したとのこと。碑面の風化が激しいが「宝永庚申」(1710)の年記ならびに、邪鬼を踏む金剛像・鶏・猿などの彫刻を認めた研究家もいる。
 一歩さがった位置に立つ六角の石幢も、六地蔵を彫った龕を載せた古い石造物である。これら数点は、もと周辺のあぜ道にあったが、近年の圃場整備にともないこの場所に集め、計8点が並んでいる。

安岐町大字朝来 久末石造保存会
田辺貴久夫 宮本慎二 牧野英機 牧野文則 田辺康行 田辺征雄

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 この一角の石造物の中でもっとも目立つのが、説明板でいうところの「頭に青銅の笠をかぶったお地蔵さん」です。台座には石書経王とあります。すなわち上に仏様が乗ったタイプの一字一石塔ですが、県南方面で盛んに見かけるそれよりも上部の仏様がずっと大きく、しかも蓮台を伴いたいへん立派な印象を受けました。大水で破損しなかったのが幸いです。

 こちらの仏様には植物が絡みついていたので、できる範囲で除去しました。素朴な形状の龕の中にあっても、経年の風化が著しく像容が不明瞭になりつつあるようです。

 お観音様の石祠と、後ろは石幢です。石幢は笠が失われているのが惜しまれます。説明板に記載のあった、昭和16年の大水で破損したのではないでしょうか。龕部の仏様も風化が進んでいました。石祠のうち大きいものは唐破風がことさらに目立ち、しかも宝珠がずいぶん尖っていて、全体的に重厚感に富んでいます。中の仏様もたいへん立派です。

 大きい石祠の中のお観音様です。六臂の坐像で、舟形の光背が一部破損しているほかは細部までよう残っています。趣向を凝らした彫刻や蓮台の表現など、よう行き届いており秀作といえましょう。

青面金剛(腕の数は不明瞭)、2童子、2猿、2鶏、邪鬼

 庚申塔は残念ながら風化摩滅が著しく、諸像の輪郭がやっと分かる程度にまで傷んでいました。2童子は主尊の両脇ではなく、1段下の区画に並んでいます。その下の段には猿と鶏が並んでおり、この3段構成の配列は国東半島でときどき見かけます。植物が絡みついていたので除去しました。

信仰動鬼神

 説明板にあった、堂様を建立したときの寄附名簿の碑銘です。

 

14 紺屋の庚申塔

 朝来小学校をあとに、県道をカサに進みます。小俣道の分岐を過ぎて橋を渡り、陰平道と合流したすぐ先の墓地の上がり端に庚申塔が立っています。道路端なのですぐ分かります。ちょうど路側帯が広くなっているので、車を停めて見学することをお勧めします。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 写真が悪いので見づらいと思います。実物を見れば諸像の姿ははっきりと分かります。ただ、だんだん風化摩滅が進んできているようで細かい部分は曖昧になってきており、20年近く前にはじめて見学したときよりもずいぶん傷んだ印象を受けました。

 この塔は笠の形がよく、破風にお花模様を大きく配しています。そのうえ瑞雲が牡丹の花ような表現になっていますので、これまた破風のお花模様と相俟ってさても優美な印象を覚えました。主孫は大きな鉾を杖のように突いて、中の手は合掌しています。脚の表現など失礼ながら稚拙なところもありますが、大きく立派に表現してあります。また、主尊の上の部分の縁取りが2段の波形になっているのも洒落ていてよいと思います。主尊の下の枠には童子・猿・猿・童子と並び、その下の枠には鶏が2羽収まっています。童子に挟まれた猿はめいめいに御幣をかたげて密着するほど近接して向かい合い、体を丸めています。図案化を極めた表現には、家内安全などを象徴するかのような微笑ましさが感じられました。

 下の道路を通るたびに気にかかるのが、この塔の傾きです。今のところ転倒が懸念されるほどの傾きではありませんが、もし今後傾きが増して道路に転げ落ちてしまうと破損は免れないでしょう。

 なお、この場所は大字明治のうち中野部落です。中野には、扇神社のすぐ傍にも庚申塔が立っています(以前紹介しました)。

 

○ 地名「明治」について

 朝来の谷の奥詰め、もっともカサにあたる大字を明治と申します。これは明治8年に中野村、諸田村、小俣村が合併してからの地名です。当時「明治」という元号がまだ珍しかったことと、御維新を境にいろいろなことが変わっていく中で、力を合わせて村を発展させていこう意味合いがあってのことと思われます。このように元号に由来する地名は、「~が丘」などの地名を批判するのと同じ文脈で批判されることもあるようです。確かに「明治」という地名にはこの土地特有の個性は感じられません。しかしこの地名に中野・諸田・小俣が一緒になった記念碑的な意味を見出せば、ある意味では意義深いとも言えるのではないでしょうか。

 

15 峰の愛宕権現

 紺屋の庚申塔をあとに、カサに進んでいきます。諸田部落のかかりで、新道と旧道が二股になっているところの左側に愛宕堂の看板があります。路側帯に車を停めたら、看板のところから急な石段を上がれば堂様が建っています。お参りをしたら左の方に進みますと、上の権現様に上がる通路の横に庚申塔が立っています。

 奥に写っているのが庚申塔で、斜面に倒れかかっていました。前向きに倒れていなかったのが幸いです。ここから壊れかけた石段を上がれば、権現様の祠に上がることもできます。

青面金剛4臂、2童子、猿、鶏

 風化摩滅が進んでいるうえに地衣類の侵蝕が著しく、わたしには猿と鶏の数が分かりませんでした。小林幸弘さんのホームページによれば2猿・2鶏、大上文紘さんの調査(『くにさき史談第九集』に掲載)によれば3猿・2鶏です。もともと彫りが浅かったのでしょう。こんなに苔がはびこると、碑面の荒れが進みやすいのではないでしょうか。塔の立地から推して、昔は道路端にあったものが拡幅により移転されたものと思われます。見学の際には塔にかかる枝や枯葉を除去して頂くと、粗末になることを防ぐことができると思います。

 庚申塔の横から登ったところの石祠です。距離は近く簡単に到着できますが、石段が崩れているので下りに注意を要します。下の堂様と一体のものでしょうから、無理に上がらなくても下でお参りをすれば十分でしょう。

 

16 諸田の大日堂

 峰の権現様の下から、二股を左にとって旧道を進みます。大日堂の案内を通り過ぎて公民館に車を停めさせていただき、後戻って案内の角を右折して坂道を上がれば右側に堂様があります。この坂道は車でも通れますが転回に往生しますので、歩いた方がよさそうです。

 堂様は施錠されておりお参りできませんでしたので、坪に並ぶ石造物を紹介します。

 坪のへりに沿うて石祠がたくさん並び、中には仏様が収まっています。御室の破損が目立ち、傾いたりしているのが気になりました。

青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏

 彫りが浅いうえに地衣類の侵蝕が気になりますが、諸像の状態はまずまず良好で細部までよう分かります。日月に棚引く横雲が線彫りでささやかに表現され、風流な印象を覚えました。主尊は額のラインが曲線を描き、ほうれい線の目立つお顔立ちには近所のおじいさんのような親しみ易さがございます。この像で特におもしろいのは腕の収まりです。上の4本は肩から自然に伸びておりますのに、下の2本は合掌した腕の内側を通って下に伸び、外側に捻じ曲げるように撥ね出しているではありませんか。明らかに腕の比率がおかしく、さても珍妙な表現方法です。このような腕の表現はときどき見かけます。衣紋の下部もずいぶん風変りな表現で、たいへん興味深く感じました。

 主尊の下の枠では中央に匹の猿、その外側に童子、最下段の枠には両端に鶏です。先ほどから3段構成になった庚申塔が続いています。このような趣向の庚申塔はときどき見かけますけれども、2段のものより作例は少のうございます。それがこの一体で盛んに見られるということは、ある種流行のデザインであったのかもしれません。

 宝篋印塔は隅飾りが豪勢で相輪が長く、立派です。格狭間もよう残っているほか、塔身には仏様が浮き彫りになっています。

 

17 川床の庚申塔

 旧道を進んで新道に合流し、朝来の谷でもっともカサにあたる屋形部落のかかりで溜池の角を右折し、小俣道を下っていきます。人家が途絶えて曲がりくねった山道になりますが、普通車で問題なく通行できます。しばらく行き小俣の谷のカサにあたる川床部落に出たら、道路左側に小さな庚申塔が立っています。小さくて見落としやすいので、気を付けてください。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪気、ショケラ
寛政十二年庚申十月十一日  大く石仏万作

 総高1mに及ばない小さな塔ですが、ずいぶん笠が立派です。この塔は、昔は山の中にあったそうですが、その場所の崖が崩れたので道路端に下ろしたとのことです。元の場所に立っていたときには、この下に台座があったのではないでしょうか。

 今回もっとも紹介したかったのが、こちらの庚申様です。丁寧に赤い彩色が施され、日輪や主尊の髪、衣紋などさても鮮やかな風合いはありませんか。主尊のお顔を見ますと眉毛や瞳も墨で色をつけており、小さな鼻、赤いおつばなど、ほんに愛らしくて優しそうな雰囲気でございます。青面金剛としての勇ましさ、力強さというよりは、まるで魔法使いのような風情が感じられました。右と左で所作を違えた童子もまた、こけし人形のような素朴な愛らしさが感じられます。

 四つん這いになった邪鬼はさても不気味な風貌で、それをものともせで左右から監視する鶏の頼もしいこと、猿は下の枠の中で邪鬼などこちゃ知らぬとばかりにお決まりのポーズで並んでいます。この塔は側面の銘も容易に読み取れ、保存状態が頗る良好です。崖崩れの際に破損せず何よりでした。作者の「石仏万作」という遊び心に富んだ名乗りを見るにつけ、この方はきっと風流な人であったのでしょうし、そうであればこそこれほど個性的なお塔をこしらえることができたのであろうと考えた次第です。

 

○ 新民謡「朝来民謡」

 昭和初期の全国的な新民謡ブームの折節、県内各地でもいろいろな新作民謡が作られました。朝来でも2曲作られ、戦前まではよう親しまれていたようです。今は唄うこともなく、ご高齢の方でも覚えている方は稀かもしれません。

朝来民謡 その1 ※「紅屋の娘」替唄
〽朝来は川茸 芹どころ サノ芹どころ
 娘の肌よい 水どころ トサイサイ 水どころ
〽川霧ゃ三度立つ 世界一 世界一
 櫟山から お日がさす お日がさす
〽蛍は明治橋 恋どころ 恋どころ
 若衆勇みの 意気どころ 意気どころ
〽丸葉の月見に 城山の 城山の
 妻恋う棹鹿 鳴くところ 鳴くところ
〽夜霧に朝霧 夜明け霧 霧の海
 朧の春なら 朝霞 朝霞
〽夕焼け茜に 両子山 両子山
 芭蕉の宮なら つた紅葉 つた紅葉
〽弁分に久末に 中ノ川 中ノ川
 矢川、中野に 上諸田 ヤレ小俣
〽朝来野公平の 昔から 昔から
 弁分の飛松にゃ 鶴が来る 鶴が来る
〽ハエ飛ぶ安岐川 漫々と 夏が来りゃ
 朝来盆地は みな青田 みな青田
〽詣る護聖寺 玉林寺 西白寺
 八坂の宮から 神輿ゃ出る 神輿ゃ出る
〽男は意気だよ 腕っ節 肝っ玉
 女は情けの 深緑 深緑
〽俺らの朝来だ 盛り立てろ 盛り立てろ
 私らの村だわ 安穏に 安穏に

朝来民謡 その2
〽鶸だ目白だ ヤレ鶯だ 春が来たぞえ陽炎燃えりゃ
 中野、諸田は ほんに中ん川 花の里
〽夜霧ゃ久末 朝霧ゃ弁分 小俣、矢川が朗らと明けりゃ
 盆地朝来は ほんに朝来は 唄の村
〽涼みゃ明治橋 若い血がはずみゃ 恋に身を焼くヤレ篠蛍
 さても若衆の ほんに娘の 恋の里
〽盆だ踊りだ 月ゃまん丸だ さっさ輪になれ音頭取り頼む
 手振り身振りの ほんに身振りの 踊り村
〽紅葉ゃ城山 月ゃ丸葉山 鹿が妻恋や田面は黄金
 刈鎌さくりと ほんに寿司米 米の里
〽芹のおひたし 川茸すまし 朝来ご馳走の椎茸飯に
 詣る八坂や ほんに芭蕉宮 西白寺
〽踊れ若い衆 唄えよ娘 朝が来たなら両の手あげて
 村は繁盛の ほんに和みの 情け村
〽おおさそうだよ わしらが村だ 守れ氏神 和めや氏子
 朝来若衆の ほんに娘の 意気の里

 

今回は以上です。大字明治の紹介が不十分になってしまいました。ほかにもたくさんの堂様や神社、石造物がありますので、今回飛ばした分はまたいつか補います。次回は大田村の名所を紹介します。

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