大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田原の名所めぐり その1(大田村)

 大田村は田原地区の名所をめぐるシリーズです。田原地区は大字石丸・沓掛・永松・小野からなります。大田支所周辺から田原河内まで、細長い谷に沿うた地域です。

 さて、この谷筋にたくさんの神社や堂様、多様な石造文化財がたくさん残っています。年中行事としては白髭神社どぶろく祭りが有名で遠方からもたくさんの参拝者があるほか、昔ながらの口説の盆踊りも部落ごとに伝わっています。田原地区のよいところを、これから少しずつ掲載していきます。初回は大字沓掛は小河原の薬師堂跡からスタートして、道順は飛び飛びになりますけれども大字永松の名所を数か所紹介します。

 

1 小河原の薬師堂跡(磨崖仏)

 白髭神社下の駐車場を起点に説明します。県道31号を少しカサに進んで、右に架かっている橋を渡ります。この橋はそう古いものではありませんけれども、欄干の意匠がとても凝っています。橋を渡った先を左折したら、右側の歩道が一部分のみたいへん広くなっています。そのすぐ先、歩道外側の側溝に蓋をしてあるところが薬師堂跡への上り口で、ちょうどこの部分の笹薮が途切れているので気を付ければすぐ分かります(看板や標識は一切ありません)。一旦通り過ぎた先で左側の路側帯が広くなっているところがありますから、そこに邪魔にならないように車を停めて歩いて戻るとよいでしょう。

 なお、季節によっては道路からの上り口が藪になっていることがあります。どぶろく祭りの頃なら問題ないでしょう。

 笹薮の切れ目から上がると薬師堂跡の敷地には杉の植林が育っており、堂宇が撤去されて長い年月が経過していることが分かりました。奥の方の岩壁に岩屋があり、その中に仏様が安置されているのが入口からでも見えますから、特に迷うような場面はありません。苔に覆われた五輪様も数基残っています。

 中央の坐像がお薬師様で、良好な状態を保っています。その周囲に寄せられた仏様は岩屋の内壁にもたれかかっている状態で、傷みが目立ちます。おそらく堂様を廃した際に、お祀りしてあった仏様が粗末にならないように岩屋の中に移したのでしょう。

 この岩壁には3体の磨崖仏が残っていると聞いたことがあったので、これまでに3回お参りに立ち寄り目を凝らして捜してみたのですが、どうしても2体しか見つかりませんでした。ひとまずその2体を掲載します。

 もっとも分かり易いのがこちらの坐像です。切れ長の眼が印象的なお顔や肩の辺りがよう残っています。腕や衣紋の下部は破損が著しいのが惜しまれます。この岩壁は下部の崩落が著しく、このままではいずれ仏様も崩落してしまうような気がします。とても残念ですけれども、どうにもできません。

 薬師様の岩屋から右の方にたどれば見つかると思います。見上げる高さですので、捜す際に足下がおろそかになって転ばないようにしてください。

 光線の加減で写真では分かりにくいと思いますが、もう1体、お顔のみ残っている像を見つけました。下部は崩落してしまっていますし、お顔も風化摩滅が著しくその表情をうかがい知ることはできません。この状況を見るにつけ、わたしが見つけることができた2体以外の仏様は既に崩落してしまって残っていないのではなかろうかと推察いたしました。

 

○ 大田村の磨崖仏について

 田原地区には、わたしの知る限りでは小河原の薬師堂跡のほかにも岩屋堂の裏(大字沓掛・木下部落)と、当ノ木部落はずれ(大字石丸)の道路端崖上、計3か所に磨崖仏が残っていますが、おしなべて状態がよろしくありません。この中では今回紹介した薬師堂跡の磨崖仏がもっとも良好な部類です。また、朝田地区には池田部落(大字波多方)の裏山に磨崖仏があったそうですが、崩落して痕跡を留めていないとのことです。いずれも信仰が薄れてしまっており、残念に思います。

 

2 岸奈の山神宮

 薬師堂跡をあとに、先へ先へと進みます。途中に田原家五重塔などの文化財がありますが写真がよくないので、今回は省きます。とにかく道なりに進んでいけば、道路右側に手すりのついた石段、その上には石灯籠や鳥居が見えますのですぐ分かります。道が狭くて駐車できないので、参道のすぐ先を右折して車道を上がり、お社の近くに駐車するとよいでしょう。

 参道の古い石段が素晴らしく、歴史を感じます。わりと緩やかな道が長く続きまして、桜の時季など歩くだけでも楽しいものです。以前は鬱蒼としていたのですが枝を下ろしたり大きな木を伐ったりして、明るい空間になっています。

 参道の脇には庚申塔が立っています。以前は笠が載っていたのですが数年前に訪れたときにはなくなっていました。また、私の記憶違いかもしれませんが20年近く前に参拝したときにはこの塔以外にももう1基刻像塔があったような気がします。でも数年前に訪れたときには見当たらず、写真がないので省きます。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 苔がはびこってきていますが、諸像の姿はよう分かります。浅いレリーフ状の彫りで、細部までよう残っていました。頭巾をかぶった主尊は目をきりりと吊り上げて、口はこれでもかというほどヘの字に曲げ、なんだかへそを曲げたような表情をしています。袈裟懸けの衣紋のしわや、裳裾の波形模様のひだなど線彫りで丁寧に表現されています。主尊に踏まれた小さな部屋の中には3猿が身を寄せ合うて、まるで牢屋に囚われているようにも見えてまいりますのがおもしろいではありませんか。童子はごく小さく、三角帽をかぶって神妙にたたずんでいます。仲良う向かい合う鶏は影が薄くなっています。享保四年、およそ300年前の造立です。

 上の鳥居の扁額には堂々たる字体で「山神宮」と彫ってあります。この長い長い参道を歩いてきますと、「山神社」ではなく「山神宮」と呼びたくなるのも分かる気がします。

 お社の彫刻が見事です。お参りをする際に確認してみてください。

 

3 水谷の庚申塔

 山神宮参道下の二股を左にとって道なりに下り、橋を渡ってすぐの二股をまた左に行きます。また橋を渡って、突き当りを右折します。この辺りは権坊(ごんぼう)部落です。少し行けば道路左側に1基の庚申塔が立っています。適当な駐車場所がないので、さっと見学しました。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 この塔は彫りが浅いものの保存状態がすこぶる良好で、細部までよう残っています。主尊は切れ長の目を瞑り、口をヘの字に曲げて物思いに耽っているように見えます。腕の太さや曲がり方が不自然であったり異様に胴長短足であったりと、失礼ながらやや稚拙な表現方法の中に素朴な味わいがございます。特に、提灯ブルマーのような下衣の裾から覗く足の表現がおもしろく感じました。ささやかな表現の童子がほんに可愛らしくて、まるでお稚児行列のようです。

 中の区画を見ますと、中央で2匹の猿が長坐位になり伸して仲よう向かい合うています。この猿のお顔が、チョンチョンチョンと目・口を点で表現しているのがよいと思います。その外側で、鶏が優しく見守っています。家内安全を象徴するかのような表現で、拝見しておりますと明るい気持ちになりました。

 下の区画には9名のお名前が彫ってあり、墨が残っていて容易に読み取れます。享保3年、およそ300年前の造立です。今なお信仰が続いていることが見て取れました。

 

4 権坊のお弘法様とお伊勢様

 水谷の庚申塔の近くで転回して、先ほど通った三叉路を直進します(山神宮からなら左折)。橋の手前を右折して山裾に沿うて進めば、右側に「御伊勢堂 弘法大師立像」と書いた小さな看板が立っています。この看板のところが少し広くなっているので、山裾ぎりぎりに寄せて邪魔にならないように駐車します。看板の裏から参道の階段が伸びています。

向田井堰水路延長記念碑

 井は異体字で、「ヰ」に近い字体で彫ってあります。片仮名「ヰ」の母字は「井」であることは言うまでもありませんが、昔は漢字の「井」を「ヰ」の字形で書くことも多かったようで他地域の碑銘などでもときどき見かけます。

 この記念碑を見て珍しく感じたのが、御幣を立てかけてあったことです。記念碑というものは本来信仰を伴うものではありませんけれども、水の神様のお祭りなどで使った御幣を、この場所に置く習慣があるのかなと考えました。いずれにせよ、興味深い事例です。

 看板の裏を上がれば碑銘のところで直角に参道が折れて、ここからは本来の参道です。おそらくこの石段が下まで続いていたものを、道路を拡げる際に付け替えたのでしょう。石段の傷みがひどくて、浮きが多く通行に注意を要しました。そこまで急ではないので、石段の横の斜面を歩いた方がよいと思います。

 上の鳥居の近くには大きなお弘法様が立ち、麓を見守ってくれています。今のように木が茂る前は、下からも見えたと思います。台座が傷んでいるので、地震などでお弘法様が倒れてしまわないか心配になりました。

 お弘法様から上も参道の石段が崩れていますが、この辺りまできますと浮石も少なく容易に通行できます。大きくはありませんがどっしりとした鳥居が立派で、お伊勢様の威容が感じられます。

 かつては堂様ないし拝殿を有したと思われる境内はやや荒れ気味で、今は数基の石祠を残すのみとなっています。上の石祠がお伊勢様と思われます。お伊勢参りに行くのが容易でなかった時代に、方々でお伊勢講が組織されていました。その関係の霊場なのでしょう。

 参道脇で、小さなお弘法様を数体見かけました。優しそうなお顔のお弘法様です。台座に番号が振られていなかったことから、新四国の札所というわけではなさそうです。

青面金剛、2童子、猿、鶏

 大きいお弘法様のところから左の方に行くと、真っ二つに折れてしまった庚申塔が残っていました。碑面の荒れが著しく、鶏や猿の数は不明瞭です。

 

5 後野の庚申塔

 道順は前後しますが、大字沓掛は後野部落の庚申塔を紹介します。以前の記事を参照してください。

oitameisho.hatenablog.com

 

今回は以上です。次回は財前家墓地などを掲載する予定です。

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