大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田原の名所めぐり その2(大田村)

 今回は大字小野の名所の一部を紹介します。この地域で特に有名なのは財前家墓地で、良質の国東塔、五輪塔、板碑が密集しており、石造文化財に興味関心のある方の探訪が絶えないようです。ほかにも庚申塔や板碑など路傍の石文化財が数多い地域です。大田村は板碑の優秀作が数多く残っていることで知られておりますが、特に大字小野には数が多く、郷土の自慢になっています。今回掲載できなかった分はまたの機会に補います。

 

6 下平原の石造物(都甲越)

 前回掲載した権坊のお伊勢さまから県道31号に出て右折し、カサに進んでいきます。しばらく行き、比枝神社、すずめの楽校(小野分校跡地)を過ぎて、下平原部落にて「←豊後高田市」の標識のある角を左折します。この道を都甲越と申しまして、東都甲地区・田染地区(大字蕗)との往来に昔から盛んに利用されてきました。今も、自動車が通れる幅に拡幅されていますのでときどき通る車があります。この道に入って間もなく、右の法面を道路と平行に上がる坂道があります。上り口付近に邪魔にならないように車を停めたら、この坂道を上ります。すると右側が墓地になっています。

 墓地の入口には五輪塔六地蔵様が安置されていました。こちらの六地蔵様は横長の石板に立像を半肉彫りにしたものです。すらりとした立ち姿と優しそうなお顔が印象に残りました。また、この種の六地蔵様に笠を伴う事例は少数派である気がいたします。六地蔵様というものは墓地という墓地、こう申しますと語弊がありますが要は「ハカワラ」と呼んで差し支えないような昔ながらの墓地では必ずといってよいほど見かけますので、各種石造文化財の中でも今ひとつ顧みられることが少ないと思います。けれどもその造形ひとつとっても、やはりめいめいの個性というものがあります。

 さて、お墓の外べりを進んで、道が二股になっているところを左にとれば庚申塔などいろいろな石造物の並んでいるところに出ます。

 庚申塔は全部倒れていますが、後ろ向きなので碑面に影響していないのが幸いです。刻像塔が2基、それから庚申石も数基並んでいます。壊れた石燈籠、牛乗り大日様の祠などもあります。ここから都甲越の旧道が伸びています(車輌不可)。車道が開通して以来、今や地域の方が山仕事に通う程度の利用と思われますが、歴史の道です。

 写真に写っている立札には「作業をされている方は地区の人に声をかけてください」の旨が書いてあります。どんな作業がなされているのか詳細は分かりませんでしたが、竹や雑草がきちんと払われていたので、安心してお参り・見学することができました。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 この庚申塔は碑面に縁取りや区画を分かつような段が入っておらず、端から端まで平らな中に諸像のみ浮き彫りになっているという造りです。こういった表現方法はときどき見かけますが、国東半島の刻像塔では少数派のように感じます。

 さて、わたしがこのお塔で特に面白く感じましたのが主尊の表現です。ターバンを巻いたような頭、お地蔵さんのようなお顔立ちもよいし、その立ち姿はまるで、弓や鉾をかたげてやってきた行商人のように見えてまいりました。手甲脚絆もほのぼのと、鉾を杖にしておいさおいさと山坂を越えて来たように見えるそのお姿は、たいへん親しみ易い雰囲気がございます。それに付き従う童子もまた、こけし人形のような雰囲気でかわいらしく、実直な印象を受けました。

 猿と鶏はほんにささやかな表現です。特に猿がとぼけた顔で合掌しているのがおもしろうございます。しかも2匹の猿は主尊の台を、鶏はめいめいに童子の台を支えており、さてもけなげな姿ではありませんか。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 さても風変りな形状の塔身が目を引きます。はじめは、転倒した際に打ち欠いてこうなったのではないかと思いました。けれども日月・瑞雲がちょうど首尾よう残るものでしょうか。諸像にも欠けがかかっていません。このことから推して、もともとこのような形に仕上げたものではなかろうかと考えております。香々地町を中心に、上部が左右非対称になった形状の庚申塔をときどき見かけます。こちらもその類でしょう。

 光輪を伴う主尊のお顔はお地蔵さまと見紛う、やさしそうな微笑みです。腕の長さはまちまちで、一見して体の外に出した上で4臂のようですが、実際には体前に回して蛇のようなものを掴んでいる腕と棍棒か何かを掴んでいる腕がかすかに見えますから、6臂です。体の左右から垂らしたヒラヒラを足下で折り返し、ほんに風変りな体つきをしています。股間の表現など珍妙を極めます。童子は夫々が主尊の方を向いています。この斜めの表現はたいへん写実的で上手なのに、どうして主尊の体はあんなに不自然な表現になったのでしょうか。

 猿は横向きにしゃがみ込み、めいめいに見ざる言わざる聞かざるのポーズでおどけています。雄鶏の尾羽が見事です。向かって右下には墨書の文字が見えましたが読み取れませんでした。

 山香や北杵築でも盛んに見かける、牛乗り大日様です。お室の屋根の素晴らしい装飾に感嘆いたしました。特に側面の軒口の垂木など見事です。

 

7 小野中村の庚申塔

 県道に引き返して左折し、カサへと進みます。中村の部落の外れにて左側の路肩が広くなっているので車を停めます。すぐ先の崖上に庚申塔が立っており、坂道を通って塔の正面に行くこともできます。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 塔が崖口に立っているので正面から撮影することができませんでした。風化摩滅がだんだん進んできているものの、諸像の姿はくっきりと残っています。こうして斜めから見ますと、主尊は比較的厚肉で彫ってあることが分かります。その彫り口はやや角ばっており、一部簡略化もしている中で衣紋の波形模様が特に印象に残りました。猿は小さな部屋の中にぎゅうぎゅう詰めに閉じ込められ、その部屋を下から支える鶏もまたおいたわしいことでございます。

 なお、この塔の位置から麓を見遣れば冒頭の写真の景色が広がっています。

 

○ 民話「高松池の竜」

 中村の庚申塔を過ぎてさらに上り、田原河内(たわらごうち)部落に入ります。大きくカーブして、左側の駐車場に車を停めます。立派な観光案内板のほか民話の看板、休憩小屋・トイレも整備されています。この駐車場を拠点に財前家墓地や諸田越板碑などを見学するわけですが、先に民話を紹介します。

 大田村には民話の看板があちこちに立っています。内容を転記します。

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高松池の竜の話

 むかし、小野の里に心のやさしい老夫婦が住んでいました。二人には子供がありませんでした。両子の寺にお籠りをして、熱心にお祈りをしました。やがて、かわいい娘を授かりました。二人はこの娘におみよという名前をつけ、大事に育てました。おみよは何年も経たぬうちに、とても気立てのやさしい美しい娘に成長しました。
 そのうち、あちこちからおみよをお嫁にほしいという人がやってくるようになりました。庄屋の息子も熱心に頼みに来ました。しかし、おみよは泣いているばかりです。
 朝から嵐の吹き荒れたある夜、おみよは「私はお嫁には行けません。高松池の竜なのです。観音様の言いつけでこの家の娘になっていましたが、もう帰ります」と泣きじゃくりながら家を走り出て、高松池の岸まで来ると大きな竜となり、池の中に身を躍らせて、水中に姿を隠したということです。

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 高松池はこの駐車場からさらに進んだところ、走水峠への上り口の下にあります。

 

8 田原河内の石造物(諸田越上り口)

 駐車場からいま来た道を歩いて戻れば、左に諸田越板碑が立っています。諸田越と申しますのは、ここから一山越して白木原道と交叉し諸田(朝来地区)に抜ける山越道で、昔は近道として盛んに利用されていました。一応車が通れる幅に拡幅されていますが、今は利用頻度はあまりなさそうです。ともあれ、諸田越の上がり端にいろいろな石造物が並んでいることからも、昔この道がいかに重要であったかが推察されます。

 なお、田原河内にはほかにも路傍の石造物がありますから、区別のために「諸田越上り口」と付記しました。

 内容を転記します。

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県指定有形文化財(昭和49年3月19日指定)
諸田越板碑
所在地 大分県杵築市大田小野
所有者または管理者 財前仁爾
年代 南北朝時代(1366)

 市内小野田原河内諸田越し道の左側の桑園にある、堂々たる種子をもつすぐれた作である。台石は自然石にはめ込んであり、総高1.66mである。水平断面に対してへこみをなしていることは、国東半島板碑の特徴である。

       あん
碑銘 種子ばく
       まん
   貞治第五初秋上旬(1366)

杵築市教育委員会

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 3つの梵字の堂々たる彫りが素晴らしく、すらりと背の高い立派な板碑です。板碑いついての知識が浅く、あれこれと申すことができません。道路端にあるので皆さんに見学していただきたいと思います。

 板碑の並びには一石五輪塔や石祠、供養塔、庚申塔が並んでいます。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 碑面の荒れが著しく、残念ながら諸像の姿がやっと確認できる程度にまで風化しています。特に向かって左の童子は今や消え入らんとする姿です。鶏と猿は草に隠れて確認できませんでした。小林幸弘さんのウェブサイト「国東半島の庚申塔」の中で、猿と鶏の様子が分かる写真が掲載されています。

 

9 財前家墓地

 さて、いよいよ大字小野はおろか田原地区、大田村を代表する名所中の名所であります、財前家墓地です。駐車場から車道を少し歩いて上れば、右側に説明板と六地蔵様が立っているので入口はすぐ分かります。

 説明板の内容を転記します。

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財前家墓地(県指定史跡)

 紀氏の血を継ぐ財前家の供養塔を中心に約100基あまりの石塔群が散在している。中でも総高2.97mの国東塔は、財前家の祖先、財前美濃守の墓と伝えられ、逆修(生前供養)のために建てられたものである。
 なお、この塔は昭和20年に国指定重要文化財に指定されている。

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 上り口の六地蔵様です。この記事の冒頭で紹介した六地蔵様と同じように、横長の石板に浮き彫りになっています。笠を伴わないかわりに、上部の枠が波形模様になっていてめいめいの像に対応しています。

 ここから簡易舗装の細道を上がって、すぐ右に折れて未舗装の細道を行けば石塔群に行き当たります。

 下から見ますと、説明板にありました国指定の国東塔がやはり突出しています。その素晴らしい造形は遠目にもよう分かりまして、いよいよ期待が高まってまいります。左側から上の段に上がります。

 首部のよう目立ち、相輪がすらりと長く、しかも塔身から下はまことほんとにどっしりとした印象であり、素晴らしいとしか言いようがありません。請花はなく、茶壺型の塔身から反花にシームレスに流れます。その反花のふっくらとした表現や優美な格狭間など、何から何まで行き届いています。

 横には比較的小型の国東塔がずらりと並んでいます。小型と申しましても、それは国指定の大型のお塔と比較しての感想であり、しかもこれだけの数がありますから一つひとつが目立ちませんけれども、実際には全てが立派なものです。特に右の列の手前から2番目など塔身に仏様を浮彫りにしてあり、めいめいの仏様がすこぶる良好な状態を保っています。五輪塔も数多く、これだけ密集していると壮観です。

 奥には板碑も林立しています。冒頭で申しましたとおり小野には数多くの板碑があります。やはり諸田越の板碑にとどめをさしましょうが、小俣道の板碑しかり、財前家墓地の板碑しかり、立派なものばかりです。

 諸田越板碑ほど大型ではありませんけれども、すらりとした薄い造りで、わずかに前屈している点などほんに優美な印象を受けました。梵字もよう残っています。

 振り返って撮影した写真です。あまりに数が多くて一つひとつを掲載することはできませんでした。ここから横に行って、六地蔵様から上がってきた簡易舗装の道に合流します。

 この道を上っていった先にある墓地は、比較的時代が下がります。しかし坂道の途中に一石五輪塔や板碑がありますので、見逃さないようにしてください。

 下の区画の密度にはほど遠いものの、五輪塔や宝塔、板碑銘が散在しています。

 反対側には一石五輪塔がぽつんと残っています。国東塔の装飾性とは対極にあるような素朴な造形ですが、何か心惹かれるものがございます。

 

○ 小野の盆踊りについて

 大田村の盆踊りは7種類の演目がありますが、最近は4種類程度に減少している部落が多くなっているようです。その中で、小野には7種類全部が残っています。その内容を申しますと「三つ拍子」「二つ拍子」「六調子」「豊前踊り」「祭文」「ヤッテンサン」「粟踏み」で、これらは名称だけ見ますと山香町と共通ですけれども、踊り方や音頭の節が夫々異なります。特に「粟踏み」は、もともと東山香の一部と大田村の一部にしか伝わっていなかったものを、今では山香では廃絶してしまい大田村でも下火になっています。ですから小野の「粟踏み」はたいへん貴重です。

 今は大字小野全体で、分校跡地(すずめの楽校)の前庭で供養踊りをしています。中央に音頭棚を据えて、音頭さんが口説けばめいめいに踊りながら囃子をつけていくという昔ながらのスタイルで踊ります。虫の音と懐かしい口説と太鼓が響き、何とも言えないよさがあります。

 

今回は以上です。最近、佐伯市や野津町を久しぶりに訪れてたくさんの庚申塔を見つけました。次回は下堅田のシリーズの続きを書いてみようと思います。

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