大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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下堅田の名所と堅田踊り その3(佐伯市)

 先日、久しぶりに下堅田地区を散策しました。その際に、過去2回に亙って掲載した石塔類とは異なる庚申塔・石幢をたくさん見つけましたので、3回に分けて紹介にします。また、上堅田地区でも数か所で庚申塔群を見つけましたが、これはまたいつか上堅田のシリーズで書いていこうと思います。今回の散策を通して、まことほんとに、堅田の里(上堅田・下堅田・青山)は庚申塔・石幢の密集地帯であると感じました。わたしの大好きな堅田の里を、石塔類・堅田踊りを中心にこうして記事にすることができてとても嬉しく思うております。

 

8 玉垂神社

 佐伯市街から番匠川にかかる橋を渡って左折し、県道37号を木立(きたち)方面に進みます。道なりに橋を渡ってトンネルをくぐり、県道607号に右折してまた橋を渡ります。左に小島部落を見て、道なりに小さな橋を渡ってすぐ左折して津志河内(つしがわち)部落へと進みます。ほどなく、道路左側に冒頭の写真の鳥居が見えます。この辺りの邪魔にならないところに車を停めます。

 よう肥ったかわいらしい狛犬が心に残りました。ここから玉垂神社は見えません。鳥居の先の簡易舗装の道を先へ先へと歩いていきます。

 このような道を進みます。軽自動車ならどうにか通れそうな気もしましたが脱輪が懸念されますし、神社の下で転回するのに難渋しそうです。歩いた方がよいでしょう。

 まだかまだかと思いながら歩いていきますと、このような掘割に出ました。掘割の途中から左に参道の石段が伸びています。

 写真では分かりにくいかもしれませんが急傾斜で、しかも踏面が狭く、下に向いて傾いています。掘割の先に坂道の迂回路も整備されていますから、行きに石段を通ったとしても帰りは坂道経由の方がよいでしょう。なお、鳥居の扁額には「善神王宮」とあります。その理由はのちほど、説明板の内容を引きます。

 慶応3年の銘のある大きな灯籠は、装飾を極限まで減しており、御幣を懼れずに言えば武骨な印象を受けました。すっきりとした美しさがあると思います。

奉納 玉垂神社基本財産 三股岩太郎
堅田村大字長良字拾石ワリ壹反八畝拾貮歩
同村同所字通下貮畝拾八歩
田地合計貮反壹畝歩

 三股岩太郎さんが田地を寄附されたことを記した碑銘です。蓋しその田地の上がりを神社の経費に充てたものでしょう(神田)。

 人里から少し離れていますが、境内は清掃が行き届きこざっぱりとしています。この裏手の崖下には、先ほど小島部落から通って来た車道が見えました。

 説明板の内容を、より分かり易いよう文章を改変して記します。

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玉垂神社

 玉垂神社は津志河内地区の氏神である。
 下堅田村史によれば、津志河内村の朝日峯に村社玉垂神社が天正年中(1573~1590)に創建されたとある。また佐伯郷土史には、慶長年中(1596~1614)に創建されたとある。慶長の頃、旅の山伏が、この村に来て浄地を探し求めて善神王社を祭ったといわれている。現在地(字中別当)に創建されたのは、境内にある庚申塔の最古のものが、宝永年間(1704~1710)となっていることからその頃と思われる。
 ところで玉垂神社の御神名は明治以降のものと思われ、村社玉垂神社となったのは明治13年のことである。少なくとも慶応以前は善神王社(でじのうしゃ)であった。神社の境内にある鳥居は慶応3年(1867年)の建造で、「善神王宮」と刻んである。玉垂神社の祭神は高良玉垂命、善神王社の祭神は武内宿弥で、二者一体をお祀りしているのである。
 なお、社殿には柿本人麻呂・大友家持・紀貫之小野小町などの有名歌人を集めた三十六歌仙や奉納絵馬が多く掛けられ、天井にはすこぶる質の高い名作がひしめいている。人影もない森の中に古い文化の殿堂が眠っているといえる。

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 天井絵や三十六歌仙の額の絵は傷みが進んでいましたが、この状態であっても秀作であることが十分分かりました。色褪せる前はさぞかし見事なものであったと思われます。

 境内に上がり着いたところに小さな狛犬が対になっています。とても小さくてすばしっこそうな狛犬は、後足を台に上げて前のめりになり睨みをきかしています。大きな鼻が目立つ、愛嬌のある顔立ちが心に残りました。

 境内のへりに沿うて、庚申塔が15基以上もずらりと並んでいます。1基のみ後ろ向きに倒れていました。一部破損していますが。保存状態は良好です。全部文字塔で、中には鶏の刻像を伴うものもありました。右から順に見てみましょう。

庚申塔

 この3基は比較的小さめで、銘の字体がそっくりです。あまりの蒸し暑さで全部の銘を確認することはできませんでしたが、左の塔には「明治四十一年」の文字が確認できます。

庚申塔 2鶏

 この塔は日月と鶏を浮彫りにしており、文字塔と刻像塔のあいのこです。ボリューム感のある鶏の表現がお見事で、両者が頭のところで前後に重なっているのが珍しいと思います。仲良しの雄鶏と雌鶏は、家内和合を象徴しているのでしょう。下部には7名の方のお名前が彫ってあり、全員苗字(または土居名か)を伴います。享保5年の造立です。

延宝八年庚申
謹奉造立庚申明塔 敬白
霜●五日

 庚申明塔という言い回しは初めて見かけました。謹と奉を重ねるなど、信心のほどが見てとれます。下部に彫られた4人のお名前には、やはり苗字があります。最下部には蓮の花を彫ってあります。

宝永二●●年
庚申石塔     2鶏
十●●●

 文字塔の日月は○印で線彫りされていることが多いと思いますが、こちらは瑞雲を伴います。「庚申石塔」という言い回しも珍しいのではないでしょうか。また、下部にはごくささやかな表現で鶏を彫ってあります。「施主」として6~7人のお名前が彫ってありますがこの部分の読み取りは困難でした。

 道の小さい塔は「庚申塔」、左は「奉待庚申塔」です。左の塔は、この一角にあっては珍しい形状です(よそではこのような形のものも盛んに見かけますが)。

<右>

日 享保十一庚子歳
 青面金剛
月 十二月三日

 右の塔は、日月を○印ではなく「日」「月」の文字で表現してあります。こういった表現は近隣では初めて見かけました。中央の塔の銘は全く読み取れません。左の塔は大きなものであったと思われますが残念ながら折れてしまっており、残部には「待庚申」の文字が読み取れました。

 この6基の銘は全て「庚申塔」です。後ろに倒れてしまっていた塔を起こそうかなと思いましたが、下手に立てたはよいがまた倒れてそのときに折れたりしたら元も子もないのと、碑面が地面に接していなかったこともあってそのままにしておきました。左から2番目の塔は、銘の字体が特に立派です。

 以上、玉垂神社の庚申塔をざっと紹介しました。文字塔ばかりですけれども、一つひとつ見比べますといろいろな気付きがあり、庚申塔への興味関心がさらに高まった次第です。

 

○ 津志河内の盆踊りについて

 津志河内では、堅田踊りは小唄の「高い山」「与勘兵衛」「お夏清十郎」と段物の「長音頭」などが残っているようです。まだ現地の盆踊りに行ったことはありませんが、運動公園で催される「堅田踊りの夕べ」で津志河内の方の「与勘兵衛」と「長音頭」を見たことがあります(音源を使用)。

 さて、よその部落はみんな右回りの輪を立てますが、津志河内では左回りの輪を立てます。名物踊りは「長音頭」で、よそは16足(泥谷は18足)の三つ拍子・一回りで踊るものを、津志河内のものは手数が多く、最初の手に戻るまでに二回りもします。この踊り方は津志河内にしか伝わっていません。

「与勘兵衛」
〽与勘兵衛坊主が二人出た 一人は確かな与勘兵衛じゃ
 一人ゃしんしん信太の 森に住むではないかいな アラ実 与勘兵衛
〽真実保名さんに添いたくば 榊の髷と偽りて
 七日なんなん七夜さ 怨み葛の葉と寝たならば アラ実 与勘兵衛
芦屋道満大内鑑(葛葉の子別れ)を題材にした文句です

 

9 柏江港跡

 県道に返り先へと進めば一旦家並みが途切れます。その先が柏江部落です。柏江は佐伯における天領10ヶ村のうちで、下堅田で申しますと津志河内、泥谷、西野なども天領でしたが、ともかくも柏江は柏江港を擁しましたので江戸時代には堅田郷一の賑わいであったとのことです。それと申しますのも柏江港には佐伯藩の支配が及びませんので他国よりの入船著しく、千石船も数々寄っていたのです。それで江戸時代の柏江は近隣他村に比べますと暮らし向きがよかった上に佐伯藩の倹約令も及ばず、平素の着物ひとつとっても地領の村々とは差異があったと聞きます。また、元天領・佐伯領の別を問わで堅田郷一円で踊られる堅田踊りの演目の大部分は上方由来であり、柏江港経由で方々に広まっていきました。

 河川改修により港の面影を全く残しておりませんが、この写真に写っている柏江橋あたりに港があったと思われます。柏江は4つの土居に分かれ、かつて港があった頃はいま川が流れている辺りまで家並みが広がっていたそうです。何回も大水が出て堤防がかさ上げされ、家屋は山際に寄り集まり、今の柏江部落は昔よりもその規模をずいぶん縮小しています。

 なお、柏江はお為さんの家のあったところです。「お為半蔵口説」の中に次のような文句があります。

〽同じ流れの川下村で 潮の満干を見る柏江の 渡り上りに修験がござる 修験その名は流正院 流正院とぞ呼ぶ山伏の 妹娘にお為というて とって十八角前髪の 花も恥らう綺麗な生まれ 諸芸、縫針、読書までも あたり界隈誰たてつかぬ 地下に一人の評判娘…

 

10 柏江の石造物(イ)

 柏江部落のかかり、道路端の祭壇に庚申塔と小さな仏様が並んでいます。車はこの手前の堤防辺りに邪魔にならないように駐車します。

(左)庚申塔、2鶏

(右)奉修庚申塔

 左の塔は大型で、柏江の賑わいを今に伝えるような立派な石造物であると言えましょう。「庚申塔」の文字を彫った掘り込みの中に2鶏が浮き彫りになっています。右の塔は6名のお名前が側面に彫ってあり、苗字は伴いません。

 手前に並んだ小さな仏様は風化摩滅が著しく、原形を留めません。首のない仏様には小石で頭をすげ替えてあります。6体あることから、もしかしたらかつては墓地の入口などに並んでいたものを何らかの事情でこちらに下ろしたのではあるまいかと考えました。

 ひどく傷んでしまった仏様は、御幣を懼れずに申しますととても可愛らしい姿です。このような姿になってもなお、物言わず地域を見守ってくださる仏様に頭が下がります。前を通る際にはぜひお参りをしてください。

 

11 柏江の石造物(ロ)

 柏江部落を通り過ぎて、江国寺の駐車場に庚申塔などの石造物がずらりと並んでいます。道路端ですからすぐ分かります。これらの石造物は、以前は速川神社の参道上り口近くの道路端に並んでいたのですが、拡幅工事にかかったので少し動かされたものです。

庚申塔

 ごくシンプルな文字塔で、銘に入れた墨がよう残っています。左隣は三界万霊塔で、上に仏様が乗っていた痕跡があります。おそらくその左に安置してある仏様が乗っていたのでしょう。

 江国寺の塀に沿うて新しく設けられた祭壇に一字一石塔1基と庚申塔3基が並んでいます。つまりこの一角には計4基の庚申塔が立っているというわけです。左から順に見てみましょう。

大乗妙典塔

 銘の堂々たる字体が素晴らしいと思います。「妙」の字は偏が「女」でなく「玄」になっています。このような異体字は初めて見ました。

宝暦五乙亥天
青面金剛童子   2鶏
卯月吉神辰

 今回の記事中でたくさん紹介した庚申塔の中でも、もっとも興味をひかれたのがこちらです。青面金剛童子という銘はそう多くはありません。しかもその書体がたいへん立派であり、梵字もお花模様風の崩しではなく実に威風堂々たる彫り口ではありませんか。まして下部に彫られた鶏の写実的なことと申しましたらどうでしょう。雄鶏・雌鶏というよりは、鶏の親子のような雰囲気阿ございます。尾羽を櫛の目に表現し、足の形なども写実的な表現を工夫しています。

 台座には「講衆」として14名ないし15名のお名前が彫ってあります(苗字なし)。そのうち1人は「龍生院」とあり、隣に記した「自閑」と一続きで1人の名前なのか、または別人なのか判断に迷いました。ともかくも、龍生院とはお為さんの出た家のことでしょう。

庚申塔

 シンプルな塔です。「塔」の旁の上部、ごく細い線で点画を繋いだ筆運びを忠実になぞった彫りに感心いたしました。

   元文六辛酉歳
奉造立庚申塔供養
   二月吉祥日

 この塔も大変立派です。まず日月には縮緬模様のような細かい文様の瑞雲を伴いますし、下部では優美な蓮の花が浮き彫りになっているのが見逃せません。銘の状態はすこぶる良好で、容易に読み取ることができました。台座を見ますと10名のお名前が彫ってあります。この中で、右から8番目に「龍勝院」とあり、用字は異なりますけれどもやはりお為さんの関係の家でしょう。末尾(10番目)の浄円さんは、江国寺のお坊さんでしょうか。

 

○ 柏江の盆踊りについて

 柏江では毎年、8月16日の晩に公民館の前の広場で初盆供養と風流しを兼ねた盆踊りをしています。先ほど申しましたとおり柏江こそは堅田踊りの元起こりと言ってもよいような土地ですけれども、今は段物の「兵庫節」「大文字」と小唄の「茶屋暖簾」の3種類しか残っていません。明治末期の頃には「鶯」「奴踊り」「待宵」「本調子」「夜盗頭」などたくさんの演目が残っていたそうです。現行の3種類のうち「大文字」は他部落でいうところの「長音頭」であり、女踊りと男踊りがあります。女踊りは扇子を、男踊りはうちわを持って踊ります。「兵庫節」は手踊りで、節は少し異なりますけれども踊りは「長音頭」です。
 この地域の名物踊りとしては、どなたに尋ねても小唄の「茶屋暖簾」を挙げられると思います。遊里のぞめき唄のような風情の、上方趣味満載の唄がたいへんよく、まして踊りは、柏江はおろか下堅田全体を代表する名物踊りの一つとでも言えそうなほどです。細長く折り畳んだ手拭いの端を肩にちょいとひっかけておいて、反対の端を拝み手で持ち千鳥に歩いて行ったり、浴衣の袖をくるりくるりと返しては見返ったりと、静かな所作が多くて優美を極めます。

「茶屋暖簾」
〽茶屋の暖簾なイロハニホヘト 嫁や娘を皆うち連れて
 ぴらしゃらしゃんすに見惚れつつ 思わずまがきに抱きついて
 おお、そそうな人さんじゃ
〽宇治は茶どころ茶は縁どころ 同者同行皆引き連れて
 摘み取らしゃんすに見とれつつ 思わず茶の木に抱きついて
 おお、そそうなことぞいのう
〽松は唐崎、矢走の帰帆 月は石山、三井寺の鐘
 堅田落雁、瀬田の橋 比良の暮雪に粟津路や
 おお、見事なものぞいなあ
〽間の山ではお杉とお玉 お杉お玉の弾く三味線は
 縞さん紺さん浅葱さん そこらあたりにござんせん
 おお、見事なことぞいのう

 

今回は以上です。次回も下堅田の名所旧跡と堅田踊りを紹介します。

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