大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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川登の名所めぐり その1(野津町)

 このシリーズでは野津町のうち川登(かわのぼり)地区の名所旧跡をとりあげます。

 さて、川登地区は大字垣河内(かきがわち)・泊・西神野(にしこうの)・清水原(そうずばる)・岩屋・白岩・落谷(おちだに)からなります。この地域の名所と申しますと何はおいても風連鍾乳洞があげられましょう。ほかにも観音の滝、白山権現、シシ権現など数々あるほか、庚申塔をはじめとする路傍の石造物も数えもやらぬほどです。また、泊の里のおツユさんとおトキさんの姉妹の逸話は、盆踊りの口説で他地域にまで流布しています。民俗芸能としては、二孝女の口説で踊る一連の盆踊りのほか、西神野の杖踊も著名です。

 初回は大字垣河内の庚申塔を中心に紹介します。垣河内の名所として観音の滝を一番に載せるつもりでしたが、訪れたのが10年以上も前でどうしても写真が見つかりませんでしたので、今回は省きます。

 

○ 中ノ谷峠の今昔

 川登地区と弥生町は尺間地区を隔ての峠を中ノ谷(なかのたに/なかんたに)峠といいます。今は国道10号の中ノ谷トンネルで通過します。高速道路の開通によりずいぶん通りが減りましたが、30年ほど前までは大型トラックなどがあの長い長いトンネルを行き交い、しかも旧規格にて2車線のトンネルにしては断面が小そうございますので胆を冷やしたものです。このトンネルは昭和38年に開通し、昭和48年までは有料でした。旧道は割後場(わりごば)部落からニガキの台のへりを通って宇藤木(うとうぎ)部落に抜ける曲がりくねった細道で、15年ほど前に通ったことがありますがとても国道であったとは信じられないような難路でした。

 車道ができる以前の道筋はどこをどう通っていたのか存じませんけれども、やはりたいへんな難路であったそうで、「泣かん谷どころか泣く谷じゃ」などという笑い話もあり、方々の盆踊りでも唄われました。

一例として…

〽わしはエ 佐伯の ダル棒のせがれ(ヨイヤヨイ)
 ダルをかたげて 中ノ谷越ゆる 中ノ(ドスコイ)
 谷とや難所じゃほどに(ヨイトサノセー ヨーイヤセ)
〽道がエ 乏しゅて 日は暮れかかる(ヨイヤヨイ)
 ダルはホゲダル 魚は腐れ 泣かぬ(ドスコイ)
 どころか泣かせの谷じゃ(ヨイトサノセー ヨーイヤセ)

※ダル=ザル ホゲダル=穴のほげたザル 

 

1 割後場の石仏群

 中ノ谷トンネルを抜けて野津市方面に国道10号を下りますと、最初の部落が割後場です。割後場のバス停よりも少し手前、道路右側の大きな木の蔭に御室に収まった仏様が並んでいる一角があります(冒頭の写真)。おちょうちょもお供えも新しく、近隣の方がお世話をされているようです。難所の中ノ谷峠への上がり端にあって、昔は旅ゆく人々が手を合わせて道中の安全を願うたものと思われます。なお、右端の碑は庚申塔ではなくて「大牟神」と彫ってありました。

 

2 割後場庚申塔

 割後場のバス停のところの三叉路を左折します。橋を渡ってすぐ左折すれば道路左側にたくさんの庚申塔が並んでいます。車を停めるところはありません。

 庚申塔はこの一角に、前後2列に整然と並び、そのうち正面中央の1基のみが刻像塔です。文字塔の銘は「猿田彦塔」「奉上庚申塔」「庚申塔」などです。前列左端の庚申塔は、庚申塔群をこの場所に寄せて安置した記念に建てたもので、平成の銘がありました。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ

 これは素晴らしい。塔の上部のへりを少し打ち欠いているほかはほとんど傷みもなく、完璧な状態を維持しています。一見して、本匠村や直川村で盛んに見かける立体感に富んだ刻像塔を思い出しました。この地域は旧大野郡とはいえ旧北海部郡・南海部郡に接していることから、盆踊りや杖踊などに夫々の地域の特徴が混じり合っています。刻像塔の特徴が南海部方面のそれに似通っているのも、その土地柄の所以でありましょう。
 さて、上部から順番に見てみましょう。まず日輪・月輪に伴う瑞雲がカレーのお皿のような形にて、特に右の瑞雲の端がクルリと輪を描いているのがほんに優美なことではありませんか。主尊は御髪の櫛の目や額の横じわもくっきりと残り、太い眉毛、三角形の大きな鼻、吊り上げた目など、ほんに勇ましい顔つきです。腕の付け根は自然に収まり、夫々の腕の長さや形も全く違和感がありません。大きなショケラは髪の毛を掴まれているというよりは、てるてる坊主のように紐で吊り提げられているように見えます。
 主尊の足元には、左右に雄鶏・雌鶏が丸みを持った彫りで表現されています。胴体をふっくらと、自然なカーブで表現しているのがよいし、尾羽の自然な表現も見事なものです。猿はめいめいの小部屋に収まって、見ざる言わざる聞かざるのポーズでしゃがみ込んでいます。猿の彫り口も立体感に富んでおり、自然な丸みがようございます。また、猿の収まる部屋の上部を見れば、塔身をずいぶん彫り込んであることが分かります。それだけ主尊を厚肉に表現してあるということです。台座には5名のお名前がくっくりと残っています。

 

3 板井畑の庚申塔

 割後場庚申塔から国道10号に戻り、野津市方面に少し進みます。板井畑(いたいばた)バス停のところから急傾斜の石段が伸びています。これは天満社の参道で、その下の方から左にそれたところに庚申塔が数基立っています。車はこの付近の路側帯に停められますが、バスの時間を確認して邪魔にならないようにしてください。

 このように、参道の石段は傷みが進んでいます。踏面が狭いうえに蹴上が高く、しかも途中で大きく傾いているところもありました。下りが危なそうでしたので天満社は遥拝にとどめまして、庚申塔の見学のみで済ませました。

 2基の塔が転倒しています。残念ながら裏返しになっているようで、銘は全く分かりません。

庚申塔

 右の文字塔は文政年間のものです。その左は刻像塔ですが上部が破損しています(次に拡大写真を載せます)。その左の小さな刻像も庚申塔で、下部に鶏と猿が線彫りで表現されています。写真を撮り忘れてしまったので、いつか再訪できたら追加します。

青面金剛6臂、外不明

 上部が折れて主尊のお顔が全く分からないばかりか、全体的に傷みがひどくて眷属は全く判別できませんでした。元々は大きく立派な塔であったと思われます。

 

4 垣河内の庚申塔

 国道10号を野津市方面に進み、垣河内バス停の手前、民家のすぐ横の角を左折します。道なりにずっと進んで、垣河内部落の家並みが途切れたところの道路端に刻像塔が2基立っています。

 以前は崖下にて不安定な立地でしたが、その崖を少し削って道幅が拡がり、庚申塔は新しくこしらえた祭壇の上にきちんとお祀りされていました。これで粗末になる心配はありません。どちらもたいへん個性的な塔です。順番に説明します。

青面金剛6臂、3猿
文久四甲子年正月仏日
講中安全造立

 この塔は碑面のへりがやや荒れているものの、主尊の衣紋や火焔輪の非常に細やかな文様および丁寧な彩色がよう残っています。主尊の火焔輪の見事な表現は、庚申塔ではなかなかお目にかかれません。お顔の表情は分かりにくくなっていますが、御髪の細かい櫛の目はよう分かります。矢や宝珠などを持つ手の表現が写実的ですし、衣紋のひも状になった部分の表現や裾まわりの丁寧な彫りも素晴らしいではありませんか。
 猿は三つ巴にて、見ざる言わざる聞かざるで向かい合うています。お賽銭が上がっており、近隣の方が通りがかりに手を合わせていることが推察されました。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ
明和六(読み取り不能)辰
十一月廿九日

 やはり碑面のへりが荒れており銘の一部が読み取れないのと、主孫のお顔が傷んでいるのが惜しまれます。このお顔の傷みは、経緯は存じませんけれども意図的なものであるような気がいたします。全体的に見て、割後場の刻像塔とよう似た雰囲気があり、立体感に富んだ彫りが素晴らしい。やはり本匠村や直川村で見かける刻像塔と同じような印象を受けました。
 日輪・月輪を見ますと、日輪のみ赤く彩色し、月輪は円の中に斜めに曲線を入れて三日月を表現してあります。そして瑞雲は月輪側のみ赤くしています。主孫は腕の表現がごく自然で、体型を見ますとコルセットをしめたかのようにウエストをきゅっと絞って、腰まえがよい立ち方をしています。ショケラはごくささやかな表現です。鶏は丸っこく、かわいらしい姿で両側から主損を慕うています。猿は見ざる言わざる聞かざるで、めいめいの小部屋に収まっています。
 台座には8人のお名前がくっきりと残っています。

 

5 垣河内の神社

 庚申塔を過ぎてさらに進むと、右側にゆるやかな階段があります。それを上がれば小さな神社が鎮座しています。その種別は分かりませんでした。

 立派な灯籠と石祠です。拝殿はありません。左の灯籠は今俵部落の堀栄さん、右の灯籠には地名がありませんので垣河内の方と思われますが橋本成一さん、北方唯さん、森迫新三郎さんが寄進されたものです。今俵はここから少し離れています。きっとこの土地にゆかりのある方なのでしょう。

 石祠には「紀元二千六百年記念」の文言が見えます。ご高齢の方の中には、〽金鵄輝く日本の…の歌を覚えていらっしゃる方も多いと思います。手前の「奉納」の中央は五三の桐の御紋で、これは皇室と関係の深い紋です。発起者として大勢のお名前が刻まれていました。

 

○ 二孝女口説と川登の盆踊りについて

 川登地区では部落ごとに公民館などで供養踊りをしています。今はずいぶん下火になっていますが、昔はほぼ全ての部落で盆踊りをしたほか、小学校の校庭で地区全体の盆踊り大会もあったそうです。演目は、昔は「お夏」「祭文(はんかち踊り)」「三重節」「三勝」「団七」「佐伯」「葛引き」「由来」などたくさんあったそうですが、今は野津市地区と共通の「お夏」「祭文」「三重節」「由来」を踊ることが多いようです。このうち「由来」は、エイガサー節(臼杵でいうところの三勝…川登の三勝とは別の唄)で口説いて、ハネ前には「切り上げ」という特別の節の口説に変わります。ですから踊りは4種類、唄は5種類ということになります。

 この地域の盆踊りの特徴は、どの節も全く同じテンポですから、切り替えの際に前の唄と後の唄がたいへんなめらかに接続されている点が挙げられます。詳細は省きますが手振りの切り替え方にも約束事があるので、音頭も踊りも、いつ切り替わったのか分からないほどよう揃います。口説と太鼓で踊る昔ながらの盆踊りは、夏の風物詩です。

 文句は「切り上げ」のみ一口口説で、ほかはみな段物です。もっとも人気が高いのは「二孝女口説」で、ほかに「お為半蔵」も盛んに口説かれています。少し長いのですが、地元由来の「二孝女口説」を全文掲載します(一例として三重節のときの唄い方を示します)。

二孝女口説(三重節)
〽人は一代 アラ名は末代よ(ドッコイセ コリャセ)
 サーエー 虎は死しても皮をば残す(サンヤートセイセイ ヤレトコセ)
※以下囃子同様
人は死してもその名は残る 同じ人でも生きがいあって 死んだ屍に花をば咲かせ 後の世までも美名は残る 人の世の花、世の人の花 お都由お登岐の孝心こそは 六十余州の津々浦々も 知らぬ人ない名高い話 せめて供養のためにと思い 音頭とります皆さん方よ いざやこれよりしばらく間 囃子揃えて調子も強く 頼みますぞえ踊り子さんよ
〽所いずくと尋ねてみれば 国は豊後で大野の郡 川登なる泊の里よ 苗字は河野で名は初右衛門 妻は病で枕も重く ついに二人の娘を残し 遠いあの世へ旅立ちなさる 後に残りし三人の者は 泣きの涙でその日を送る 姉がお都由で妹がお登岐 月日立つのは間の無いもので 姉も妹も稼業を助け その日その日の煙は立つが 死んで行かれしその妻のこと 寝ても覚めても現に残り 日頃信ずる御仏様に 二十四輩の巡拝せんと 思い立ちしは文化の初年 妹お登岐を我が家に残し 姉のお都由を嫁にとやりて いとしかわいの二人を捨てて 仏参りと心を定め 明日は立たんと枕につけど かわい娘の二人の子供 後に残すも心にかかり 捨てて出る気に一寸なりかねる 心励まし思案を定め 二人子供に別れを告げて 遂に我が家を立ち出でました 春の初めで吹雪を冒し 峰に登りて我が家を見れば これが別れかあら懐かしや もしや旅路で病にかかり 死んでしまえばもう見納めと 男ながらも涙を流す 同じ思いの二人の娘 姉と妹が両手にすがり わっと泣き出すその日の名残 そばで見る目もあな愛おしや 隣近所の娘子達も 貰い泣きして門出を送る 旅にのぼりし初右衛門は 野越え山越え海をも渡り ここやかしこと国々巡り 名あるお寺の拝礼済まし 祖師の大恩身に染み渡り 嬉し涙にただ泣くばかり 既に巡礼終わりし故に 国に帰ろと思案を定め 帰る道路を思うてみれば ここは常陸で豊後は遠い 殊に時節はまだ冬の頃 寒さ冷たさ殊更強く 老いの体に風染み渡り 遂に重たい病にかかり 道に打ち伏しもがいていたを 通りかかりし一人の御僧 慈悲の衣の袖にて包み 寺に連れ行き手厚い看護 次第次第に病は重り 長い月日も御僧の情け いつか病も軽くはなりぬ
〽国に残りし二人の娘 日日毎日父上様の 安否いかにと心にかかり 今日か明日かと帰りを待てど 今と昔は便利が違い 手紙一本遣り取りゃできぬ 泣きの涙で帰りを待てど 何の便りも無きその上に 父の居所わからぬために 逢いに行くにも行く先ゃ知れず 何としようにもただ待つばかり 時に臼杵の善正寺様が 父の居所教えてくれて 父は常陸の青蓮寺にて 慈悲の御僧の助けによりて 重い病も手厚い看護 それと聞くより二人の娘 居ても立ってもいられぬ思い 飛んで行きたい思いはあれど 女二人で行くことできず 泣きの涙でその日を送る 昼は稼業で紛れもするが 夜の枕は眠りに就かず 父の病の難儀を思や 胸も心も張り裂くばかり そこでお都由は夫に願い 父を迎えに行きたい故に どうぞお暇を許してくれと 日日毎日哀れな願い 遂に夫の直八殿も 親の孝行の心をくみて 暇は望みに任するなれど 聞けば常陸の青蓮寺とは ここと道のり海山千里 とても女の行くことできぬ 思い止まれと止めてはみたが 寝ても眠れぬ二人の娘 たとえ難儀の旅路じゃとても 命懸けての旅立ちなれば いかなる難儀も厭いはせぬと 心定めし二人の娘 旅の願いを代官様に お許しなされと願いを出だす 時の代官親孝心と お褒めの言葉でお許しなさる そこで二人は大喜びで 旅の用意に取り掛かられる 仕度できれば二人の娘 近所隣に暇を告げる 近所娘は皆立ち寄りて 泣きの涙で別れを惜しむ これがこの世の見納めならん 万が一にも命があらば 早く帰れと皆泣き別れ 姉のお都由も妹の登岐も 二人ともども髪打ち切りて 姿形を雄雄しく変えて さらば皆様直八殿も 無事で暮らしてくださいませと 行儀正しく別れを告げる 近所娘も皆袖絞る 去らば去らばと口には云えど 三足歩みて一足戻る 後見するする旅路にのぼる
〽お都由今年が二十と二つ 妹お登岐はようやく十九 道を急ぐも女の足で 今日は三里かその翌日は やっと急いで五里しか行かぬ それもそのはず家ごと寄りて 報謝願うて行く旅なれば 心急ぐも道のりゃ行かぬ 宿に泊まるもおあしは持たず 夜は野に伏し山にも寝ねて 麦や藁をばしとねとなして 石や木の根を枕に代えて 夜の寒さをしのがんために 姉と妹が抱き寝をしても 夜露被りて寒さに耐えぬ とくと寝る夜は十日に一度 宮やお寺に仮寝をすれば 夜の夜半に追い立てられて 二人泣く泣く一夜を明かす 昼も自由に通れぬ時節 或は番所で差し止められて 後に帰りて山路を越えて 廻り廻りて街道に出れば 又も関所で通行できぬ 百里行くのも一月余り やっと着いたは常陸の国よ 寺を尋ねて巡るといえど 寺も数々あることなれば 思うようには詮議もできず 尋ね尋ねて彷徨う内に 宿をはずして泊まりに困り とあるお寺の門をば借りて 二人抱き寝の夢をば結ぶ 一夜明くればお寺の男 門を開いて掃除をなさる そこで二人の姉妹娘 寺の男にお礼を言えば 寺の男は二人に向かい 国はいずこか所はどこと 心ありげに尋ねによりて 国と所と尋ねる親と 包み隠さず話をすれば さても孝行な二人の者よ そちの尋ねる父上様は 他でないぞよこの寺に居る 聞いた二人の姉妹娘 右と左の袂にすがり 父に会いたい会わせてくれと 両手合わせて頼んだ故に 二人引き連れお寺に入りて 委細話を父御に告げる 親は慌てていざりのままに 起きつ転びつ表に出でて 右と左にお都由とお登岐 すがりついてぞ顔うち眺め 嬉し涙で物をも言わず 涙流してただ泣くばかり そばで見ていた数多の人は 貰い泣きして袖をば絞る
〽ほんに孝行の二人の娘 老いも若きも及ばぬ手本 ついに水戸公のお耳に入りて 二人孝女のお召しのお沙汰 お褒め言葉や下され物や 帰る道中の諸大名方へ 水戸のお沙汰で警護の仰せ 道中大名は皆それぞれに 水戸のお沙汰の孝女の帰り 不都合無いよに警護をせよと それは厳しいお触れが廻る 途中大名の下され物は 船や車に積むことならぬ こんな孝女は日本に二人 水戸の手厚い情けによりて 無事に豊後の故郷へ帰る そこで臼杵の殿様よりも 年貢三石ただ作り取り 時の制度もお構いなしに 銀の簪自由の着物 親に孝行はその身の誉れ 人は死してもその名は残る 人の手本よ世間の鑑 これぞ至孝の誉なり

 

今回は以上です。次回も川登の名所を掲載します。

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