大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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川登の名所めぐり その2(野津町)

 今回は大字清水原・岩屋・白岩で見つけた庚申塔を中心に掲載します。いずれも道路端ですぐ分かる場所ばかりです。逆に言えば車道わきの塔しか見つけられなかったということで、旧道沿いや堂様など、さがせばもっとたくさんあると思います。

 

6 十文の庚申塔

 前回紹介した板井畑の神社のところから、国道10号を野津市方面に進みます。丸石サイクルの角を左折して道なりに行き、十文のバス停を過ぎます。人家が途切れて右にカーブミラーの立っている辺りから左の水路の向こうを見遣れば「庚申塔」の銘の庚申塔が立っています(冒頭の写真)。

 当日は遠目に見学しただけで済ませましたが、この少し先から左に折り返せば近付くことができるようです。近くには「神社跡」や「キリシタン遺蹟」の標柱も目に入りましたから、さがせばほかにも何か見つかるかもしれません。

 

7 戸屋平の石造物

 十文の庚申塔のところから道なりに行き、2車線の道に突き当たったら左折します。ずいぶん進んで、戸屋平バス停のところで右の路側帯が広くなり、たくさんの石造物が並んでいます。車をとめてお参りをされることをお勧めします。すぐ近くには神社もあります。

 いつ訪れても、お供えが枯れることなくきちんと手入れが行き届いています。この全てがもともとこの場所にあったのか、または道路工事などでここに集められたのかは判断がつきませんでした。では、このうちのいくつかを順に紹介します。

 立派な笠の御室に収まっていますが、これは宝塔の残欠(塔身)ではないでしょうか。四面に仏様が浮き彫りになっており、状態は良好です。右側(写真では見切れています)には何らかの石造物の笠のみを数段後家合わせに重ねた上に一石造と思われる五輪塔を重ねたお塔が安置されています。或いは、その中の一部がこの四面仏と組になるのかなとも思いました。けれども現状として夫々が丁重にお祀りされています。

 一連の石造物の中で、もっとも興味をひかれたのはやはり、こちらの庚申塔です。御室に収まった小型の塔は何度か見たことがあります。たとえば本匠村は風戸山(椎ヶ谷)や宇目町は神田で見かけたそれは、ごく素朴な造形でした。ところがこちらは、中に納まったお塔自体がそれ単体でお祀りしてあっても全く違和感のない、手の込んだ造りになっています。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ

 一見して、非常にボリューム感のある御髪が大分市大字吉野は奥の庚申塔にそっくりであると感じました。上から順に見て行きますと、月輪周辺から日輪の際までが黒くなっています。これは汚れか意図的な色付けか分かりませんけれども、ちょうどその部分が夜空のようなイメージで、時間の経過や天体を統べる庚申様の神怪しき力がよう表現されているような気がします。また、朱色の付け方がほんに丁寧で、腕輪や足環など丁寧な塗り分けかたに感心いたしました。

 主尊の目付きは見えづらいものの、眉毛がきりりと吊り上がり、口はヘの字に結び、怒りの表情に見えます。それなのに下膨れの輪郭の印象からか、どことなく親しみをも感じられます。腕の太さも曲げ方もやや大雑把ですけれども、碑面いっぱいに腕を広げて武器も大きく表し、力強い感じがよう出ています。てるてる坊主のようなショケラも見逃せません。ガニ股の脚の間から兵児帯をちらりと覗かせているのもおもしろいではありませんか。

 雄鶏と雌鶏は主尊を慕うて向き合うています。雄鶏は脚が長くてフラミンゴのような表現になっています。猿はごくささやかな表現で、めいめいの丸い小部屋に収まり見ざる言わざる聞かざるのポーズです。

 御室には、天明六年十一月廿日の銘があります。ただし中のお塔と御室とが最初から組になっていたのかどうかは分かりませんから、庚申塔自体の造立年は分かりません。

 御室に2体の仏様が収まっています。左の仏様のお顔の、なんと朗らかなことでしょう。

 

8 白岩の石仏と庚申塔(イ)

 戸屋平の石造物をあとに、先へ先へと進みます。ふるさと林道への分岐以降は道幅が急に狭まりますので運転に注意を要します。しばらく行くと、右に急カーブするところの外側に仏様と庚申塔が並んでいます。車1台であれば横付けして駐車できますので、通りがかりにお参りすることができます。

 久しぶりに前を通ると、用地が舗装されていました。地域の方のお世話が行き届いています。庚申塔の銘は「庚申」で、ごく素朴な字体ですけれども大きな字で彫ってあります。左上の縁の前面が剥離していますが、銘にかかっていないのが幸いでございます。

 

9 白岩の庚申塔(ロ)

 庚申塔のカーブを過ぎて白岩部落に入ります。橋を渡る手前で右折して少し行くと、右側の小高いところに庚申塔が並んでいます。道路から見えるのですぐ分かります。ちょうどその部分が少し広くなっているので、車を停めることもできます。

 風変わりなデザインの刻像塔が見えて、期待感で心が踊りました。右側に通路があって、簡単に塔の近くまで上がることができます。

安永七戌天
庚申塔
十●月●日

 この一角には文字塔が6基、刻像塔が1基立っています(倒れたり破損したものも含めたらもっとあるかもしれませんが)。文字塔は似たり寄ったりで、たいてい「庚申塔」か「奉待庚申塔」です。代表して1基のみ紹介します。写真右端に写っている庚申塔を見ますと、字体はごく素朴ですが墨がよう残り、銘の読み取りが容易です。さても堂々たる梵字が立派ですし、下部には4名の方のお名前もくっきりと残っていました。

青面金剛6臂、2鶏、3猿

 わたしはこの庚申様を一目見て大好きになりました。非常に独創性に富んだデザインです。以前、直川村の庚申塔を数回に分けてわたってたくさん紹介したことがあります。そのとき、珍妙なデザインのお塔がたくさん出てきました。こちらの庚申様も、それと同じ文脈のものといえましょう。

 まず主尊のお顔つきの恐ろしいことと言いましたら、怒り狂うた鬼のようではありませんか。真っ赤な炎髪にはポンパドールのようなボリューム感があります。眉毛はその縁を線彫りで表現し、縁の線に墨を入れているのに中は塗り潰していないという意図のわからないこだわりが素晴らしいし、血走った眼にはチョンと墨を入れて黒目をささやかに表現しているのもよいし、その下に隈を入れているのもまたようございます。鼻筋が通り、顎はしゃくれて、なんだか宇宙人にも見えてくる主尊のお顔。高く掲げた両手で月と太陽を持ち、天体や時間の経過をも統べる神怪しさ。丸々とよう肥った体は、衣紋も肌も区別なく真っ赤に塗ってあり、これがまた得体の知れない魔力のようなイメージを掻き立てて素晴らしい。しかも、6臂の像というものはたいてい腕の向きが左右対称になっているものです。それなのにこの像は腕の対称性を崩すという、とんでもなく自由奔放な表現方法をとっている点も見逃せません。右腕(向って左)は3本が並行気味に、やや上向きに並んでいます。ところが左腕(向かって右)は、上の腕と下の腕は左と対称ですが、中野腕は下の腕と交叉して体前に下ろしているのです。もしかしたらショケラを持たせるためかなとも思いましたけれども、現状では見分けがつきませんでした。主尊の足元を見ますと、裸足です。やや尖足気味で、上半身の凛々しさとはうってかわってひ弱そうに見えます。

 フラミンゴもどきの鶏が主尊を見上げているのがかわいらしく、尾羽なんどはこちゃ知らぬとばかりに体を三角形に表現してある点などほんに漫画的なデザインでおもしろいのです。しかも右の鶏はトサカだけが赤いのに、左は胴体の半ばから上が赤くなっています。もっとも、これは両方とも全身が真っ赤に塗られていたものが、苔で隠れてたまたまこのように見えるだけでしょう。猿は哀れなるかや苔に覆われて、めいめいのポーズの確認は難しい状態です。

 

10 猿権現

 白岩部落でUターンして、元来た道を引き返します。とにかく道なりに行き、途中の分岐を十文部落の方に行かずに新道を進みます。すると道路左側に日吉神社が鎮座しています。路肩に邪魔にならないように駐車して、お参りをいたしましょう。

 荒々しい崖下の狭い用地に日吉神社のお社が立っています。おそらく新道の開通により境内を削られたのでしょう。日吉神社日枝神社山王神社は、名前が違うだけで同じ文脈のものです。このうち「日吉」も「日枝」も元は「ひえ」と呼んでいましたが、前者は今は「ひよし」と読むところもあります。こちらの日吉神社の読みはわかりませんが、一般には「猿権現」と呼んで親しまれています。

 境内に立っている説明板の内容を記します。説明文がわたしの好みではない文体であったので、より読みやすいように改変しています。内容は同じです。

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日吉神社の由来

鹿を追うもの山を見ず。
 その昔、岩屋の大地主 岩屋五郎三郎重氏は、野津五郎頼宗(野津院地頭)の庶流であった。天文20年頃、重氏は一人で猟に出かけ、鹿を追っていたときに誤って岩崖から落ちてしまう。幸いにも崖の半ばの岩棚にとまり一命をとりとめたが、どうすることもできず途方に暮れていた。
 そのとき、これを見ていた1匹の老猿が群猿を呼び集め、めいめいに葛蔓を持ち、大きな1本の縄をこしらえた。老猿はその縄の端を岩壁の老木に結んで反対の端を重氏の頭上に下ろし、重氏はその縄に伝い登り命が助かった。
 やがて群猿はいずれともなく立ち去ったが、1匹の老猿だけはなぜか重氏を慕うて後を追いかけてきた。重氏はこれを忌み嫌い、とうとう射殺してしまった。これを聞いた大友宗麟は「重氏は恩知らずの無道の士である」と激怒して、重氏に切腹を命じた。
 重氏の子孫は老猿の祟りを恐れて、その霊をこの地に祀り、山王権現と名づけて宮を造営しこれを仰いだと『大友興廃記』に記している。山王権現はのちに日吉神社と改称し明治6年に村社となった。祭神は大山咋神で、猿権現または穴権現様とも呼ばれている。

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 穴権現様の呼称のとおり、崖下には洞窟があります。入口を封鎖されていなかったので、恐る恐る中に入ってみました。

 奥の方は光が届かず、真っ暗です。さても不気味な洞窟で、胆が冷えました。

 入口からほど近いところの岩棚の上荷、石祠が安置されています。中は仏様で、山王権現様とは関係がないような気がします。ここから先も奥へ奥へと洞窟が続いているようでしたが、恐ろしくてここで引き返しました。

 

今回は以上です。川登にはほかにもたくさんの名所・文化財がありますが、このシリーズは一旦お休みにします。次回は田野地区の名所を紹介します。

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