大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田野の名所めぐり その1(野津町)

 このシリーズでは野津町のうち田野地区の名所旧跡を掲載していきます。田野地区は大字八里合(はちりごう)・福良木(ふくらぎ)・亀甲(かめこう)・王子・山頭(やまず)からなります。著名な名所としては大字王子は水地部落の石造九重塔と金明孟宗竹があげられます。ほかにもすばらしい石造物が目白押しです。まだほんの少ししか見学できていませんが、まことほんとに、野津町は石造文化財の里であると強く感じております。今からその一部を順に紹介します。

 

1 備後尾の五輪塔

 備後尾(びごの)の五輪塔は国指定の文化財ですが、現地に道案内の標識が全くなく、行き方がたいへん難しうございます。凡そ1か月前に思い立って見学しましたが正しい道順が分からず、どうにかこうにかこうにか行き当たりましたものの大変難儀をいたしました。今のところ、グーグルマップの航空写真をご覧になってもどこをどう通ればよいのか分からないと思うので、道順を詳しく説明します。

 田野地区と上南津留地区(臼杵市)の境界である近戸橋(上南津留その1を参照してください)を起点とします。近戸橋から県道633号を川登方面に少し進めば、道路右側に大字八里合の公民館があります。ここに車を停めさせていただくとよいでしょう。なお、八里合と申しますのは明治8年に8つの村…城崎(じょうざき)・塩柏(しおがしわ)・小屋川(しょうやがわ)・田平(たのひら)・備後尾・名塚(なづか)・田良原(たらわら)・蔵園が合併したことによる地名です。

 八里合公民館の向い側、高橋製茶の看板が立っている角から脇道に入り、備後尾部落へと上っていきます。この道は普通車でも問題なく通ることができますが、この先に適当な駐車場所がありません。ですから公民館から歩いて行きます。ほどなく八里合神社が左側に鎮座していますので参拝をお勧めします。しばらく歩いて備後尾部落に入り、左側のお茶畑の下を左折して里道を進みます。

  

 里道の入口を写した写真です。標識は一切ありません。お茶畑の下に沿うて行けば、木森の中に入ります。 

 道なりに行くと、この写真の場所で二股になっています。ここがもっとも間違い易いところで、これを左にとって草付の道を下っていくのです。一見して二股になっているとは気付きにくいかもしれません。また、時季によっては草ぼうぼうで通れないと思います。なお、この二股を右に行けば板碑が立っています(後ほど紹介します)。ここにも標識はありません。

 少し下れば下草も落ち着き、歩きやすくなります。ここまで来ればあと少しなので迷うことはないでしょう。

 やっと目的の五輪塔に到着しました。やはり国指定の文化財であるだけあって、立派な覆い屋を設けて保護されています。でもここまでの道順がとても難しいので見学のハードルが高いのが残念です。

 この五輪様は一石造になっています。一般に古い墓地などで盛んに見かける五輪塔よりは大きめですが、大型といえるほど大きいわけではありません。けれども一石五輪塔としては大型の部類であると言えましょう。全体的なシルエットには古調の風格が漂い、すばらしい造形であると存じます。しかも五輪すべての四面に梵字を彫り、各輪の境目など一石造とは思えないような丁寧なお細工が施されています。

 そもそも五輪塔というものは、宝塔・国東塔や宝篋印塔にくらべると装飾性が少のうございます。けれどもこうして見てみますと、引き算の美のようなものが感じられるではありませんか。単純な造形であるからこそ、その比率が少し違うだけでもその印象がまるで異なり、格好の良し悪しに影響します。こちらの五輪塔は、その点を十二分に考慮してこしらえてあるように感じました。

 説明板の内容を転記します。

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国指定重要文化財 石造五輪塔

 この塔は、弘安8年(1285年)鎌倉時代のもので、全体の姿は、素朴な中に鎌倉式の整った形と重量感とを示している。凝灰石を用いた一石五輪塔で角形の地輪、球形の水輪は共に荒けずりであるが、笠形の火輪、請花形の風輪、宝珠形の空輪は念入りに彫られている。その四方にしっかりした梵字が空輪から順に次のとおり薬研彫りされている。
(東面)キャー・カー・ラー・バー・ア(本来は南面修行門)
(南面)ケン・カン・ラン・バン・アン(本来は西面菩提門)
(西面)キャク・カク・ラク・バク・アク(本来は北面涅槃門)
(北面)キャ・カ・ラ・バ・ア(本来は東面発心門)
南面の火輪には梵字ランをはさんで次の銘文が陰刻されている。
「右為寂蓮□ 弘安八年乙酉五月廿四日」
 以上の銘文だけでは、この塔が供養塔であるか墓塔であるかはっきりしなかったが、昭和55年に保存修理が行われ、その際の発掘調査で鉄釘、刀子、短剣、砥石、土師器などが出土している。鉄釘は木棺に使用され、短剣や土師器は副葬品と推定される。すなわち、この五輪塔は墓石であると思われる。
 また、「寺社考」によると当地区に法蔵寺が建立されている。

指定年月日 昭和29年9月17日指定
制作年代 弘安8年(1285年)
所在 臼杵市野津町大字八里合字津留平1162番地
管理者 臼杵市
臼杵市教育委員会

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 なんと、940年近く前の造立です!

 一角を打ち欠き、この部分がひどく傷んでいるのが惜しまれます。900年以上も前の塔ですから、倒れたことがあるのでしょう。

 

2 備後尾の板碑

 五輪塔のところから杉林の急斜面を強引に登ってもよいのですが、元来た道を先ほど申しました二股まで後戻ってきちんとした道を辿る方が簡単です。道なりに行けば、下部が失われた板碑と上部が壊れた板碑とが並んで立っています。すぐ分かります。

 左の板碑を見ますと、その額面がずいぶん広いことにすぐ気付きました。国東半島で盛んに見かけるタイプのものとは造形が大きく異なります。大型ではありませんけれども、均整の美が感じられます。

 説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財 備後尾板碑
所在地 臼杵市野津町大字八里合1371番地
指定年月日 平成13年4月3日指定

 臼杵市内には鎌倉時代の末期から室町時代にかけて造立された板碑が残っています。なかでも市内最古の元応元年(1319)の紀年銘を有するのが、この備後尾板碑です。
 凝灰岩で作られたこの板碑は、下部が欠失しており、正確な総高はわかりませんが現状では152cmを測ります。やや広めの額部の上に二条線を刻み、身部上方に「ボ」(准胝観音密教の女性尊で除災・延命・子宝・除病などを祈願する)の種子を薬研彫りし、下部左端に「元応元年」が陰刻されています。残念ながら造立の趣旨などは明らかではありませんが、当時この一帯は「法蔵寺」の寺域であるとも地元では伝えられており、今後の調査研究に期待されます。

臼杵市教育委員会

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 こちらは700年あまり前の造立です。五輪塔よりは新しいものの、途方もない昔のことです。どちらも郷土の歴史を伝える貴重な文化財でありますから、興味関心のある方には見学をお勧めいたします。

 

3 名塚の薬師堂の石造物

 備後尾部落から八合里公民館まで戻り、今度は名塚部落を目指します。軽自動車やバイクの方以外は公民館から歩いて行った方がよいでしょう。県道を川登方面に少し進み、橋を渡って1つ目の角を右折します。道なりに上っていき、左に旧カーブするところから右方向に簡易舗装の道が分かれています。軽自動車ならどうにか通れます。この道の行き止まりが薬師堂で、その坪に駐車することができます。徒歩の場合は田んぼ道を辿って、正面の石段経由で参拝するとよいでしょう。

 こちらの薬師堂は、霊験あらたかなるとて近隣の信仰が篤いそうです。坪も堂様の中も掃除が行き届いていました。

 説明板の内容を転記します。

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名塚薬師瑠璃光如来像御来歴

 薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主、十二の誓願を発して衆生の病患を救い、無銘の病を治すという有難い仏様です。
 奈良時代、都を中心に貴人の病気平癒のため造寺、造仏が盛んに行われ、平安末期には薬師の庶民信仰が広まったが、大衆に深く威徳が伝わったのは江戸時代です。名塚薬師如来像の縁起は、本尊坐像の厨子裏面に享保八年正光寺の銘が記されているが、他に特別な記録はなく、口碑によると享保年間に正光寺から当山に移転安置されたと伝えられています。
 享保年間には、天候不順や害虫の異常発生等により、米をはじめ農作物の大凶作が続き、藩では虫払いの祈祷を寺院に依頼、農民は神仏にすがり慈悲を祈願したのです。凶作に続き悪性の疫病が流行、病死や飢死する者が多く、藩内寺院は粥の施行に努めたが、数年間は無残な苦しみに耐え乍ら信仰の生活を求めたのです。
 こうした厳しい享保の世に、名塚村の東方で、周囲が開け田畑を眼下に一望できる当山に薬師如来を迎え、郷民の参拝が現在に至っています。
野津町教育委員会

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 坪の片隅にはいろいろな石造物が並んでいます。五輪塔は、一石造のものもあります。ほかに小型の板碑もあります。写真の左端の御室の中は、仏様の台座に「大乗妙典」と彫ってあります。すなわち佐伯市周辺で盛んに見かけるタイプの一字一石塔を御室に収めたものでありましょう。

 右の石造物は後家合わせで、笠は宝篋印塔からの流用と思われます。その下は、石幢の龕部でしょうか。夫々、立派な造形です。

 この左隣には県指定有形文化財の板碑が立っています。

 先に、説明板の内容を転記しておきます。

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県指定有形文化財 名塚板碑
所在地 臼杵市野津町大字八合里
指定年月日 昭和50年3月28日指定

 この板碑は凝灰岩でできています。頭部が山形にとがり、額部には種子「カ」(地蔵)を彫りこんでいます。また、身部には2体の僧形を陽刻しています。向かって右側の像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、僧衣をつけた姿に表されています。向かって左側の像は、僧衣をつけ、両手を胸の前で合わせている合掌形の姿に表現されています。
 この像を彫っている区画の上と下に銘文が刻まれており、上部には向かって右から左に「時宮童男」「親宗泉」「松童女」の文字が並列して刻まれています。下部には、向かって右から左に「建立比丘慶甲 敬白」「母妙悦 大工道林」「豈永正二天 乙丑 九月吉日」の文字が刻まれています。こうした銘文から推測するに亡くなった2児と母親と何らかの縁のあった人の供養のために、母妙悦が石工の道林に依頼してこの板碑を造らせ、永正2年(1505)9月に僧慶甲が建立したことがうかがえます。
 この板碑は、制作年代を含め、2児の供養のために母親が製作を依頼したこと、さらに製作者である石工の名前を知ることができるという点においても大変貴重な文化財です。

臼杵市教育委員会

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 これは素晴らしい。板碑にお坊さんを2人浮彫りにしているのは初めて見ました。保存状態が頗る良好で、全体的によう整うた造りになっています。それ以上に、説明板で知ることができた造立のエピソードもたいへん珍しい事例ではないでしょうか。

 

今回は以上です。次回も田野地区の名所の続きを書きます。

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