大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田原の名所めぐり その3(大田村)

 先日、久しぶりに田原家五重塔を見学しましたので、田原地区の記事を書きます。今回は大字小野と大字沓掛の石造物の続きです。過去2回の記事とあわせてご覧ください。

 

10 諸田越の庚申塔

 このシリーズの「その2」で、田原河内(たわらごうち)部落は諸田越の上り口にある板碑や庚申塔を紹介しました。今回紹介する庚申塔は、その板碑のところから諸田越の坂道を少し登ったところにあります。この道は車でも問題なく通れますが、庚申塔を見学する場合には財前家墓地の下の駐車場に車を停めて歩いて行った方がよいでしょう。距離は知れたものですから、上り口の板碑・庚申塔を見学したらそのまま足を伸ばすことをお勧めします。

※本来ならこの項は「その2」に載せるべきでしたが、都合により順番が前後しました。

 このように、道路端に3基の庚申塔が並んでいます。うち1基は刻像塔で、あとの2基は無銘です。墨書された銘が消えたのか、はじめから無銘であった(庚申石)のかは判断がつきませんでした。刻像塔を詳しく見てみましょう。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 笠や宝珠は比較的良好な状態を保っています。唐破風の前面にささやかなお花模様が微かに残っている点にも注目してください。それに対して碑面は風化摩滅が著しく、特に主尊は哀れなるかや骸骨のような風貌になっています。このようなお姿になってもなお物言わで立ち続け、今や通る人もほとんどない諸田越の道を見守る庚申様に頭が下がります。

 もとのお姿をうかがい知ることは難しい状況ですが、主尊はすらりと背が高く、きっと本来は格好がよかったのではないでしょうか。弓を大きく、その上端を縁取りに食い込むように表現している点などよう工夫されています。童子も傷みがひどくて、特に向かって左は元の姿を確認することは困難です。右はこけし人形のような素朴な立ち姿で、かわいらしいではありませんか。

 猿は四角の部屋に閉じ込められて、3匹が身を寄せ合うています。鶏はめいめいの丸い部屋の中に納まり、その姿ははっきりと確認できました。下部には6名のお名前がくっきりと残ります。

 

11 小俣道の石造物

 諸田越の庚申塔から県道まで後戻って、車で少し下ります。諸田越上り口のすぐ下を左折して道なりに行けば中河内部落です。中河内には自然石の庚申塚があるそうですが旧道沿いとのことで、場所が分からず見学できませんでした。道なりに行くと、右にソーラーパネルのある二股に出ます。この辺りに邪魔にならないように駐車して、ソーラーパネルの段々の半ばを注意深く見ますと説明板が立っています。

 もう20年近く前に見学したときには、ソーラーパネルなどなく一面田んぼでした。その田んぼの片隅に数基の板碑や五輪塔が並んでいたのですが、久しぶりに訪れたところ周囲の環境が一変していました。そのうえ、先に種明かしをしますと板碑や五輪塔は深い藪に埋もれてしまい、見学は叶いませんでした。またいつか藪が払われたタイミングで見学できればと思いますが、ひとまず説明板の内容と、現状の写真を載せておきます。

 この説明板の上段に板碑や五輪塔が並んでいます。それらを覆いつくした藪が垂れ下がってきています。内容を転記します。

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県指定有形文化財(昭和55年4月)
小俣道板碑
所在地 大分県杵築市大田小野
所有者又は管理者 田原貞一
年代 南北朝時代

 碑身の中央部がへこんでおり、一見わずかに前方に屈しているように思える。頭頂部は左右の稜角なく、全面はほとんど平らである。碑身上部に大きく種子アン(胎蔵界大日)を薬研彫りし、また下方に「貞和三年二月九日」(1347)の刻銘がある。総高1.42m。

杵築市教育委員会

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 小俣道と申しますのは、蓋し小字名でありましょう。

 板碑や五輪塔が並んでいるはずの一角がソーラーパネルのフェンスと高い段差に囲まれ、上がるのが容易ではありません。どうにかこうにか上がってみましたが…

 この状況でした。とても足を踏み入れられません。中央に写っている板碑が、文化財に指定されているものです。その手前に五輪塔の上部が僅かに写っています。ほかに、草に埋もれていますが小型の板碑が数基あったはずです。

 

12 田原家丸山墓地

 小俣道板碑のところの二股を直進してもよいのですが道が悪いので、右折します。県道31号をずっと下って、永松公民館のところを左折します。橋を渡ってすぐ右折して道なりに行けば、道路左側に「田原家丸山墓地約50m左」の小さな標識が立っています。左側のスペースに車を停めたら、倉庫の左側から山道を登っていきます(車輌不可)。この先が不安になるような道ですが、ほどなく右側に立派な説明板が立っています。

 内容を転記します。

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県県指定史跡(昭和45年3月31日指定)
田原家丸山墓地
所在地 大分県杵築市大田沓掛
所有者又は管理者 田原房美
年代 南北朝時代

 鎌倉時代に田原別府に入った、田原一族の墓と伝えられている。五輪塔を中心に宝篋印塔・宝塔など鎌倉時代から南北朝時代にかけて造立されたと推測された石塔類が、30数基並んでいる。それらの中で中心となる五輪塔は、総高174cmあり堂々とした感じの塔である。

杵築市教育委員会

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 説明板のところの分岐を右に上がりますと、左下に五輪塔群が見えてきます。

 このように、小規模の五輪塔が藪に埋もれ気味になっています。ここから下るのは難渋するので、一旦まっすぐ通り過ぎて折り返すように進めば簡単です。

 このように奥の方は現代墓です。その手前には比較的大型の五輪塔が林立しており壮観です。しかも藪になっているわけでもなく、簡単に間近で見学できます。一口に五輪塔と申しましても笠と塔身の比率など様々ですので、見比べてみてください。また、奥に写っている首部のある塔は五輪塔ではなく宝塔です。一見して五輪塔に見紛う姿をしています。

 これだけの五輪塔群が、ほとんど破損することなくきちんと立っています。敷地が全体的に傾斜していますし木も生えてきているのに、こんなによう残っているとは思いませんでした。

 宝篋印塔は塔身と相輪が失われ、笠の傷みも著しうございます。五輪塔や宝塔は良好な状態なのに、どうして宝篋印塔のみこんなに傷んでしまったのかと言えば、やはり長い年月の中で転倒しばらばらに壊れてしまったことがあるのでしょう。その残部を積み直したものと思われます。

 数ある五輪塔の中でも、こちらは各部材のバランスが最もよう整うているように感じました。コケがはびこっていますが、傷みはほとんどありません。しかもよう見ますと、各輪の四面に梵字が彫ってあります。五輪塔にしては大型で、水輪が球形に近い形にこしらえてある点など、石工さんの技量のほどがうかがわれます。

 車道からは見えないので、見学に訪れる方は稀であると存じます。大田村で随一の五輪塔群ですし歩く距離は知れています。田原家五重塔からもほど近いので、ぜひあわせて見学してください。すばらしい造りのお塔ばかりです。

 

13 田原家五重塔五輪塔

 丸山墓地の上り口から車道を少し進めば、ほどなく道路左側に立派な石造五重塔が立っています。すぐ分かります。大きな楓の木蔭にて(冒頭の写真)、紅葉の時季は特によいと思います。駐車スペースも十分にあります。

 基礎は3段で、格狭間がよう残っています。何度見学しても、その素晴らしい造形にため息がでます。これほど見事な文化財が道路端にポツンと立っているのです。大田村の石造文化財のレベルの高さを実感いたします。

 そもそも石造多層塔というものは、たとえば九重塔や十三重塔などになりますと屋根と屋根の間がごく狭くなっているのをよう見かえます。ところがこちらは、「五重塔」という呼称だけ聞きますと九重塔や十三重塔より規模が小さいように思われるかもしれませんけれども、めいめいの軸部が高うございますのでなかなかどうして、総高4m以上にも及ぶ大型のものです。名実ともに、財前家墓地の国東塔や板碑群と並ぶ、大田村を代表する石造文化財といえましょう。

 説明板の内容を転記します。

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国指定重要文化財(昭和29年3月20日指定)
田原家五重塔
所在地 大分県杵築市大田沓掛
所有者又は管理者 田原房美
年代 14世紀中頃(南北朝時代

 この塔の建立は延元4年(1339)で、沓掛城主田原直平の供養塔と伝えられている。昭和44年に解体修理をしたが、塔の地中から出土品はなかった。
 直平は足利尊氏西下の際、国守大友氏に従い軍功を樹て、のち現在の宝陀寺を、府内万寿寺の悟庵師を聘して建立している。

 総高4.11m、石材は角閃安山岩を用いた堂々優美の塔である。

杵築市教育委員会

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 五重塔の右の方には壊れた石燈籠と、五輪塔が2基並んでいます。このうち大きい方の五輪塔は、なかなかよう整うた形をしています。保存状態も頗る良好です。五重塔に目を奪われて見落としがちですが、ぜひ五輪塔も確認してみてください。

 

○ 国東半島の門付について

 昔は県内一円で、正月前後に「万歳」「大黒舞」「琵琶法師」等の門付が行われていました。門付と申しますのは軒から軒に順々に回り、何らかの芸を披露して報謝を乞うもので、それを専門の生業とする人(たとえば瞽女さんなど)と、副業として行う人とがあったそうです。県内で、最後まで門付が残っていたのが国東半島で、戦後しばらくまで行われていました。以前、NHKのドキュメンタリー番組で、昭和40年代に豊後高田市は都甲方面の村人が琵琶法師を迎える場面が疱瘡されたこともあります。

 世間一般には、門付を下に見るような風潮もありました。ところが国東半島は、陸の孤島と言われたように交通不便の土地柄でしかも耕地が狭いので昔は日々の暮らしも容易なことではなく、娯楽が少なかったので門付を今か今かと楽しみに待っていたと聞いたことがあります。でも本質的なところは、娯楽が少ない云々とは別のところにある気もします。昔、国東半島の人には、お寺参り等の人々を泊めてあげることは自分の徳が高まるという考えがありました。それで、たとえば黒土のお弘法様に遠路はるばる歩いて行くときなど、お米だけを持って道中の民家で宿を借りる際、その民家の人も「自分の分も一緒にお参りしてください」の心持ちで、温かく迎え入れたのです。それは、今なお残るお弘法様の「おせったい」行事に象徴される心持ちです。このような土地柄のため、門付の人を喜んで迎えて手厚くもてなす人が多かったのでしょう。

 ここでは「大黒舞」の唄のうち、永松の方の演唱された音源から文句を起こして掲載します。

大黒舞 大田村永松
〽めでたいな めでたいな サー大黒さんが舞い込んだ
 一で俵をふんばえて サー二でにっこり笑った(チョーイショコ)
〽四つ世の中よいように サー五ついつものごとくなり
 六つ無病息災で サー七つ何事ないように(チョーイショコ)
〽八つ屋敷をふみ広げ サー九つ米蔵うっ積んで
 十で十隈の伊勢の松 サー伊勢が栄えりゃ葉も茂る(チョーイショコ)
〽これほどめでたいことはない サーこれをこの家に納め置き
 千秋万歳万々歳 サーいつの世までもめでたくて(チョーイショコ)

 

14 岡の石造物

 田原家五重塔をあとに少し進んで、最初の角を右折します。県道31号に突き当たったら左折すれば、ほどなく道路端に庚申塔などの石造物が並んでいます。ここは岡部落です。近くに適当な駐車場所がないので、田原家五重塔から歩いて行くとよいでしょう。

 おそらく道路を拡幅した際に並べ直したものと思われます。立派にお祀りされており、信仰が続いていることが覗われます。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2話鳥

 全体に彫りが浅く風化摩滅が進んでいますが、諸像の姿は概ね分かります。主尊の上部が特に傷んでおり、お顔の表情が分かりにくくなっているのが残念です。この塔でいちばんおもしろいところは、主尊の右腕の表現です(向かって左)。両腕をごく近く、平行に伸ばしておいて、肘を上下の腕が対称になるように曲げているのがさても風変りなことではありませんか。衣紋を袈裟掛にして、下衣の波々模様にはふっくらとした生地のゆとりが感じられます。童子は輪郭を残す程度で、向かって右の童子がやや体を傾けて主尊を慕うているように見えますのもよいと思います。

 下の段では、鶏と猿が仲よう一列に並んでいます。この部分は地衣類の侵蝕が著しく、だんだん見えづらくなっています。外側が鶏で、中の猿は2匹が体を曲げて、向かい合わせに彫ってあります。

 

今回は以上です。次回は、このシリーズの続きか、または緒方町の記事を書くかで迷っています。

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