大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田原の名所めぐり その4(大田村)

 今回は大字石丸の名所・石造文化財の一部を掲載します。石丸宝塔(国東塔)以外にも、庚申塔や石殿、磨崖仏などたくさんの文化財が密集している地域です。この中から4か所のみ先に掲載して、残りはまたの機会とします。

 

15 石丸本村の弘法堂

 本村の弘法堂は、その坪にお弘法様をはじめとして多種多様な石造物がお祀りされています。道路端で簡単に立ち寄ることができますから、参拝・見学をお勧めいたします。

 大田庁舎から県道を杵築方面に行きますと右側に、波形の色鮮やかな欄干の目立つ当ノ木(とうのき)橋がかかっています。村内には、ほかにも個性的な意匠の橋がいくつかかかっています。その中でもこの橋は一見して、農村風景にはミスマッチの感もあります。けれども見慣れてくればとても明るい雰囲気で、夢があって、なかなかよいものだと思います。当ノ木橋への分岐を見送って一つ目の角を右折します。川に沿うていき、駐在所のところを右折して橋を渡ってすぐ、二股のところに堂様があります。弘法堂に着きました。近くに適当な駐車場所がないので、次項で申します石丸社の駐車場に車を置いて歩いて来るとよいでしょう。

 小高いところに大きなお弘法様が立ち、麓を見守っています(冒頭の写真)。坪にはいろいろな石造物がところ狭しと並び、小さなお弘法様、牛乗り大日様、五輪塔庚申塔などがお祀りされています。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 全体的に彫りが浅く、特に下の方は見えづらくなってきています。写真が悪いのでよけいに分かりづらいと思います。実物を見れば、もう少しよう分かります。瑞雲の形がよくて、風にたなびく千切れ雲の風情が感じられます。主尊は火焔輪を伴いますが優しそうなお顔です。童子はほんに小さくて、主尊の両脇に控えています。鶏と猿は下の枠の中に仲良う並んでいます。全体的に赤い彩色がよう残っており、「お庚申さんは赤が好き」の伝承を今に伝える庚申様です。

 すぐ隣のお弘法様は、御室が大変立派です。宝珠はなくなっていますけれども、特に軒口の細やかな装飾が見事なものではありませんか。垂木もしっかりと彫ってあります。奥の崖下にありますので車窓からでは分かりづらいと思います。ぜひ近くでお参り・見学をしてください。

 

16 石丸社裏山の石祠

 弘法堂の二股を左(直進)にとり、田んぼの中をゆるやかに上ります。次の二股を左折してすぐ右折し、簡易舗装の道を上がれば石丸社の駐車場に着きます。ここに車を置いたら、社務所の脇を通り抜ければ石丸社の境内に至りますが正面参道から参拝した方がよいと思うので、先に裏山の石祠を紹介します。駐車場に車を停めて元来た道を歩いて少し戻れば、左に上がる細道があります(車不可)。この道に入って、道なりに左に折れて緩やかに上っていきます。神社の裏手まで来ると灌木が茂って通行困難になりますが、その手前から右に折り返すように登る踏み跡があります。この踏み跡を辿って急坂を登っていけば、やや開けた斜面に数基の石祠が鎮座しています。

 登ってきた道を振り返って撮った写真です。やや荒れ気味でしたが、実際に歩けばどこが道なのかは分かり、特に迷うような場面はありませんでした。杖がなくても容易に通行できる程度の傾斜です。地面が濡れていると下りで少し滑るかもしれません。

 数基の祠には、いずれも銘が見当たらず何の神様か分かりませんでした。このうちもっとも上手にある、大きな杉のねきの石祠は山の神様のような気がします。シメがかかり、今なお信仰が続いていることが分かります。大昔は見晴らしのよい場所だったのではないでしょうか。

 ここは枝の掻い間から日が差して、神聖な雰囲気が感じられました。このような石祠を拝見いたしますと、山や川(水)、石、風などいろいろな自然事象に神性を見出した昔の方の素朴な信仰心が思われて、自然に生かされているという謙虚な心持ちで生活することの大切さを感じます。

 

17 石丸社

 では麓におりて、石丸社にまいります。駐車場から社務所の横を通ってもよいけれど、車道経由で正面参道からお参りした方がよいでしょう。

 写真には写っていませんが、2基の鳥居が前後に並んでいます。しかも石段を上がったところから境内へと石橋がかかっており、短い距離ではありますけれども手の込んだ参道の造りは、さすが村の神社であると感じました。

 正面から撮った写真です。見事な石垣を築き、瓦を載せた塀で囲うた立派な造りになっています。お参りをする際、お社の右後ろに並んでいるたくさんの摂社にも注目してください。合社により集められたものでしょう。

 石丸社で特に目を引くのが、対の狛犬です。微に入り細に入ったお細工、写実的なデザイン、何から何まで素晴らしいと思います。そのすぐ並びの灯籠も基礎が3段、その上に猫脚をはさんでほっそりとした竿からかっちりとした火袋、大きな笠と見事な造形です。

 

18 石丸本村の庚申塔(石丸社そば)

 この庚申塔は石丸本村の講組によるものと思われます。弘法堂のところの庚申塔と区別するために、項目名には「石丸社そば」と付記しました(小字名が不明のため)。今まで4回も捜しても見つからず、5回目にしてやっと見つけました。まったく見当違いのところを捜していたのが原因で、辿り着いてみればあっけないものでした。石丸社下の車道を歩いていきます。

 後を振り返りますと石丸社の鳥居が見えます。この辺りまできたら、山手に上がります。入口が藪になっていますが、茂みが少し途切れているのですぐ分かると思います。逡巡しましたが藪を掻き分けて進みますと、ほどなく歩きやすくなってきて安心しました。

 道も乏しい斜面を、僅かな踏み跡を辿ってまっすぐ登っていきますと、正面に庚申塔が見えてきました。思いの外道路から近く、簡単な場所でした。今までの苦労は何だったのかしらと呆気にとられると同時に、期待感がいや増してまいりまして駆け足で上がりました。

 この場所では刻像塔2基と、無銘の塔(または庚申石)5基を確認できました。刻像塔から順番に紹介します。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏
享保十一天
正月十七日
●●
山● 3人連名

 この塔は上部が尖った形状で、近隣在郷では比較的珍しいタイプの塔身であるように思います。日月に伴う瑞雲は線彫りにて見えづらくなってきています。その下の主尊・童子を彫り込んだ区画の縁取りが、この庚申塔のもっとも優れている点であるように感じます。下部はスパッと横一文字になっていますけれども、左右から上部にかけて、トンネルのような曲線で持ってなめらかに縁取りしてあり、しかもすり鉢状に彫りくぼめてあるのがよいと思うのです。どのような意図かは分かりませんでしたが、この彫りくぼめ方が主孫や童子の丸っこい表現とようマッチしているように感じました。

 主尊は丸々と肥っており、眼をつぶって物思いに耽っているように感じます。このタイプの主尊は安岐町や武蔵町でも見かけます。左手で持った長い鉾を杖がわりにしてじっと立ち、右手を招き猫のような曲げ方にて宝珠をかざしているのもまたよいではありませんか。弓を大きく表現して、縁取りにかかっているのもよいと思います。童子のお顔は見えづらいものの、羽織をひっかけて立ち、合掌しているのはよう分かります。

 猿は狭いお部屋の中で密接し、見ざる言わざる聞かざるのポーズをとっています。鶏は珍しい表現方法で、普通この種の塔であれば猿のお部屋の両側に丸いお部屋を作ってめいめいに1羽ずつ収まっていることが多いのに、こちらは猿の真下にごく浅く、レリーフ状に表現しています。鶏のみ図案化を極めるの感がございまして、ちょうど向き合うて餌をついばんでいるような雰囲気には、夫婦和合の風情がございます。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏
元禄七●
春日

 こちらが左右が不整形で、対称性がありません。それに対して碑面に彫り出した諸像は概ね左右対称の表現です。それなのに、配置の妙によって諸像を碑面いっぱいに彫ってあるのが素晴らしい工夫であると感じました。また、上部の突起から推して元々は笠が載っていたものと思われますが、このような形状に笠を載せてあった事例は多くはないと思います。

 日月に沿うた瑞雲は深皿のような形状で、細やかな文様が施されてさても優美な風情を漂わせます。主尊のデザインの方向性は先に紹介した塔のそれと似通っていますが、こちらの方がより立体感に富み、実に堂々たる立ち姿です。口をヘの字に曲げ、眉間にしわを寄せ、怒りの表情です。掲げた右腕の力こぶがちょうど、金剛杵のように見えてまいりますのもおもしろいではありませんか。衣紋を袈裟掛けにして、下衣にはたっぷりとひだを寄せ、さても優美な裳裾です。童子はずいぶん背が高くて、一見お地蔵様にも見えます。袖口からわずかに手を覗かせ、合掌して神妙に立っています。

 猿と鶏の並び方は先ほどの塔と同じです。ところがこちらは、鶏の周囲をきちんと彫りくぼめて、それなりの立体感をもって表現してあります。より一般的な表現方法であると言えましょう。以前倒れたことがあるのか塔身の下端ががたがたになっていて、小石を噛ませてあります。

 2基の刻像塔の間に立っている塔は無銘です。墨の痕跡は一切確認できませんでした。

 右の方には4基の塔(或いは庚申石)が全て前向きに転倒していました。無銘です。その下に石を横一列に並べてあることから、この傾斜地の中にあって帯状に平らな区画をこしらえて、その上に並べたことが推察されます。

 登ってきた道を振り返った写真です。

 

18 西ヶ原の国東塔(石丸宝塔)

 こちらは国指定の文化財で、指定名は「宝塔」、一般に「石丸宝塔」と呼ばれています。実際の形状は国東塔ですが、国東塔も宝塔の一種ですからもちろん、指定名が間違っているわけではありません。標識が充実していますので道案内は省きます。一点、軽自動車であれば塔のすぐそばまで車で上がれますが、適当な駐車場所がありません。やや離れていますが大田庁舎に駐車して歩くとよいでしょう。

 相輪の尖端が破損しているのが惜しまれます。けれどもそれ以外は傷みが少なく、特に格狭間や反花の細かい彫りがよう残っています。わたしはこの塔を一見して、笠と首部がマッチしていないような気がしました。けれどもつくづく眺めるに、幅の広い首部も含めて、調和がとれているように思えてきました塔の形状にはそれぞれの好みがあると思います。国東塔といってもいろいろなタイプがあって、こちらは私が好きなタイプの国東塔とはデザインの方向性が異なります。けれどもどっしりとした重厚感は素晴らしいと思いますし、ことさらに裾広がりになった基礎などの特徴的な表現など、個性が際立っていると感じます。

 説明板の内容を転記します。

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国指定重要文化財(昭和29年3月20日
宝塔
所在地 大分県杵築市大田石丸
所有者又は管理者 杵築市
年代 14世紀中頃(鎌倉時代末期)

 この塔は総高2.23m、石材は角閃安山岩、基礎は3重、塔身には次のような銘が刻まれている(一部は判読できない部分もある)。

奉納妙法華経三部
元徳二年庚午十月二十八日
大願主、沙弥●●
※1330年

杵築市教育委員会

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 もう8年経ったら700年です!

 

今回は以上です。次回からは緒方町の記事が数回続きます。

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