大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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小富士の名所めぐり その3(竹田市・緒方町)

 先日、緒方町周辺の名所旧跡をめぐりました。天候に恵まれず予定通りとはいかなかったものの、たくさんの名所や文化財を訪ねることができましたので、今回から数回に分けて、過去の写真も取り混ぜつつ紹介していきます。まず小富士地区の続きから始めます。今回は大字片ケ瀬を含みますので、緒方町竹田市に跨ります。このシリーズの初回で申しましたとおり、旧小富士村は周辺町村と合併して緒方町になりましたが、交通不便等により大字片ケ瀬のみ竹田市に分離編入して今に至ります。この記事で申しますと、間戸谷稲荷と第三小田無隧道が竹田市のうちです。

 

8 間戸谷稲荷神社

 国道502号緒方町から竹田方面へと進んでいきます。家並みが途切れて、道路右側に次の文言の立派な看板が立っています。

 開基200年を経る霊験灼然
 間戸谷稲荷神社
 「ガラガラ」バス停より徒歩10分
 車で5分 駐車場あり

 この看板のところを右折して旧道に入り、道なりに行きます。大字片ケ瀬は柄々(がらがら)部落に入って「急傾斜地崩壊危険箇所山下地区」の立札のある二股を左にとり、谷筋に沿うて進んでいきます。この道は軽自動車なら問題ないものの、普通車だと胆が冷えるような道幅です。運転に不安のある方は、旧道入口(神社の看板のところ)に邪魔にならないように駐車して歩いた方がよいでしょう。しばらく行くと駐車場が整備されています。

 駐車場のすぐ横から参道が延びています。お稲荷さんらしい赤い木の鳥居と、石造りの鳥居が立っています。前者は、後年信者の方が寄進されたものでしょう。参道入口にはこの神社の由来を記した碑銘が立っています。

 全部は読み取れませんでしたが、分かる範囲で内容を転記します。たいへん興味深い内容です。

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間戸稲荷神社勧請ノ年月記載スル所ナシサ●●●往百五十年真ニサルヲ信ス文化十年社殿腐朽ニ●●再建ノ処明治七年法令ノ示スアリ本社ヲ若宮八幡社境内ニ移ス同二十九年信徒相謀●垣ヲ設ケ永ク遺跡ヲ存ズ仝三十九年再ヒ境内ヲ拡大シ石垣を設ケ改メテ遥拝処トナス今マタ石垣●倒壊セシヲ以テ多数信徒ノ浄財ニ合セ石玉垣ヲ改建シ石鳥居ヲ奉納シ不朽ニ伝エ永ク崇敬ノ意ヲ表スト云
大正四年九月良●
※寄附者一覧は省略

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 内容を要約すれば、以下の通りです。
○ 間戸谷稲荷神社の開基の記録はないが、大正4年の時点で150年は下らないだろう。
○ 文化10年、老朽化した社殿を再建した。
○ 明治7年、政策に従い若宮八幡社の境内に合社した。しかし元のお稲荷様を遺跡として保存しようということで、明治29年に信徒により玉垣をこしらえた。
○ 明治39年には境内を拡大し、石垣をこしらえて「遥拝所」とした。
○ その後、石垣が崩れたので、多数の信者より浄財を得て石垣・玉垣を修理し、石鳥居を奉納した。

 お上にたてつくことができなかった時代背景を考えますと、明治政府の命による合社の流れに対しての本心がそれとなく伝わる内容です。元のお稲荷様を「遺跡」として保存するという口実で、実際には合社以降も社地の整備を続け、この場所から若宮八幡社に移された神様を「遥拝」したのですから。

 明治初期の合社は、その流れが性急であったうえに元の氏子圏を考慮しないものであったため、全国各地で不具合が生じました。以前も申しましたが、神様が不在になった元の神社でお祭りを続けたり、結局神様を元の場所に戻したりした事例はたくさんあったのです。この碑銘はその時代の民意を暗示しており、重要な意味を持つ文化財であると言えましょう。

 だんだん道が荒れてきますが、歩いて通る分には問題ないレベルです。お稲荷さんと申しますと、参道入口からお社までずっと赤い鳥居が並んでいる風景を想像する方が多いと思います。ところがこちらは参道が長いこともあってか鳥居が途切れてからが長く、しかもこの山道ですから先が不安になります。特に危ないところはありませんが、心配な方はどなたかと一緒に行かれてはと思います。ここは間戸谷の枝谷に当たります。昔は谷筋に沿うて水田が広がっていたと思われます。

 参道をまっすぐ進んで道なりに右に折れると、正面にお社が見えてきます。谷筋は荒れているものの明るい雰囲気です。お社の辺りは岩蔭にて、神秘的な雰囲気が漂います。

 数段の石段を上り、灯籠の間を通って拝殿の前に回り込みます。石灯籠は左右で全く形状が異なります。左の灯籠は小型ながらも、かっちりとまとまっています。右の灯籠は次の写真をご覧ください。なお、この右下には神楽殿が建っています。

 普通宝珠が載っているところに、お狐様がおわします!なんとかわいらしいことでしょうか。お稲荷様にお狐様の像はつきものですけれども、このように灯籠の上に乗っているのははじめて見ました。この灯籠は大型で、笠の軒口や中台を見ますと、宝篋印塔のそれを見たような段々をこしらえてあるなど手が込んだ造りになっています。中台の側面に施された細かい文様にも注目してください。また、火袋のところの栗のような紋は、拝殿前の線香立てと同じ形です。

 拝殿は半ば洞穴にかかるような立地です。右側の奥に梯子段がかかっていて、それを上ったところの岩棚上には何らかの碑が確認できました。やや心もとなかったので梯子を上ることは控えました。

 岩棚上の洞穴からちょろちょろと水が流れ出て、その水が岩壁を削ってこしらえた樋に沿うて斜めに流れ落ち、お手水のところにたまる仕組みになっています。これは素晴らしい。土木技術が幼稚な時代においては、たいへんな手間がかかったと思われます。

 洞穴の中にも鳥居が立ち、小さなお社があります。洞穴と申しましてもごく浅いので光りが届き、特に怖い雰囲気はありません。鳥居の奥は「鷺太郎の穴」です。その上には龕をこしらえて、お狐様の像が安置されています。

 鷺太郎の穴の由来について、碑銘の内容を転記します。

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鷺太郎の穴

大野郡片ケ瀬に之有り 万渡ケ谷に有り 是を鷺太郎と云う 白狐にして額に大白の星あり 近里の者諸願を立つるに奇妙なりし由 願届を成就するに於ては誠に神の如し

文献古語伝文集に因る

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 つまりこちらのお狐様の名前が「鷺太郎」ということで、「万渡ケ谷」とは「まどがたに」つまり間戸谷のことです。

 

9 第三小田無隧道(柄々のトンネル)

 間戸谷稲荷から後戻って、県道旧道に突き当たったら左折しますとほどなく第三小田無隧道です。このトンネルは一般に「柄々のトンネル」と呼ばれています。

 谷戸の奥詰めにて、カーブの先にトンネルがほげている光景はいかにも昔の道らしい雰囲気です。こちらは切石積の坑門が見事なものではありませんか。しかも欠円アーチです。この構造は、側面(垂直に石を積んだ部分)とアーチ部分との接合部に切替点が生じます。わたくしは土木方面の知識はまるで持ち合わせておりませんけれども、この切替点にかかる力が鉛直ではないことはわかります(欠円たる所以です)。それで、素人考えながらも切替点のない構造よりも弱くなりそうな気がします。きっと地山が強くて外向きにかかる力に耐えうるとの判断から、総合的に考えてこのような構造を選定したのでしょう。長い年月を経ても崩れていないのですから、その判断は誤りではなかったということが明白です。

 竹田市街地は「蓮根町」の異名をとるほどトンネルが多く、しかも複数のトンネルが立体交差している箇所もざらで、道が入り組んでおり複雑を極めるの感があります。そして市街地のみならで周縁部もその傾向にありまして、小富士地区にも古いトンネルが多く残っています。特に指定は受けていないようですが、史跡あるいは文化財としての価値があると考えます。これはと思うトンネルを、これからもときどき紹介していきます。

 

10 山ノ口隧道

 柄々のトンネルを抜けて現道に合流したら右折します。新しい方の小田無トンネルを抜けて1つ目の角を右折して間戸谷に沿うて進み、道なりに急坂を上ります。台地上の道に突き当たったらまた右折してくねくねと進み、田良原(たらわら)バス停の二股を左にとり谷筋を下りていく途中で右に分かれている道を少し入れば、山ノ口隧道がほげています。このトンネルをくぐれば間戸谷稲荷の下の道につながっていますが道幅が狭いので、少し遠回りになりますけれども上記の道順を辿った方がよいでしょう。

 こちらも欠円アーチの構造で、柄々のトンネルと同じような造りです。巻き立ては坑門付近のみであり、中の方はやや歪なシルエットになっていますが、良好な状態を保っています。小富士村の時代には、片ケ瀬方面と小宛(村の中心部)との往来に盛んに利用されていたことと思います。今となってはどうしてこの山の中にこんなに立派なトンネルが?と疑問に思うような所在地ですけれども、竣工当時はそれ相応のニーズがあったということでしょう。

 

○ お手玉唄「おんきょう京橋」

 小宛で昔唄われたお手玉遊びの唄を紹介します。この唄は、類似するものが大野町や犬飼町杵築市など県内各地でお手玉やまりつきをしながら唄われたばかりか、他県においても採集されているようです。したがって小宛オリジナルというわけではないものの、子供らしい文句の誤謬・転訛(信濃→シノラ、善光寺→れんこう寺など)や、末尾に「新町出口の…」云々の、他地域ではあまり唄われていない文句が付加されているという特徴があります。この種の唄は、ほかにも「お城のさん」「ごべやごべごべ」「むこどり山」など枚挙に暇がありません。しかしながら「一列らんぱん破裂して…」とか「一番はじめは一宮…」などといった新しい童唄の大流行により、古い童唄は急速に忘れられていきました。古い童唄は、今では80歳以上の方でなければほとんどご存じないと思います。

おんきょう京橋
〽きょんきょろ橋 橋止めの 染屋のおばさん染物は
 あってものうでもよう染まる 行灯車に水車
 水がないとてお宿して 親は長崎腰かけて
 もしもし車屋さん ここは何というところ
 ここはシノラのれんこう寺 れんこう寺様にご願立てて
 梅と桜をあげたなら 梅はすよすよ返された
 桜はよいとて褒められた 新町出口の笹植えて
 その笹折るな枝折るな 枝の上にかきつきを かきつきを

 

11 保全寺跡の石造物

 山ノ口隧道を抜けずに、谷筋に沿うて下っていきます。長迫部落に入って、なおも道なりに行き小富士郵便局の先から坂道を下れば、「保全寺谷しらゆりステーション」という資源ごみ置き場の小屋がある辻に出ます。この辻から、カーブミラーの横の簡易舗装の細道を上っていきます。軽自動車なら問題なく通れる幅ですけれども離合困難で、地域の方の迷惑になりそうです。資源ごみ置き場の近くに邪魔にならないように駐車して、歩いて行くとよいでしょう。そう遠くありません。道なりに上って田んぼに沿うて舗装路を行けば、保全寺跡の標柱が立っています。

 保全寺跡は市指定の史跡ですが、ここに至る道に全く標識がありません。もし車でここまで来た場合は、この三叉路のあたりに駐車するしかありません。保全寺は天正年間に島津氏の兵火により消失して衰微し、その後しばらくは堂様として維持されていたそうです。今はそのお堂もなくなり、いろいろな石造物を残すのみとなっています。堂様に安置されていた保全寺の御本尊は、麓の天徳寺に安置されているとのことです。

 標柱のあたりから田んぼの向こう側を見遣ると、茶壺型の塔身の美しい宝塔が1基ぽつんと立っていました。相輪が失われ軸もぶれていますが、残部の状態は比較的良好です。蓋し保全寺に関連するお塔でありましょう。

 農道を少し行けば、右側の谷筋にいろいろな石造物・仏様が並んでいます。

 道路端に壊れたお塔の残欠が安置されていますのですぐ分かります。その左側から斜面を上がれば、奥の方も石造物も容易に見学できます。

 明らかに後家合わせで何が何やら分かりません。宝塔の塔身でしょうか?梵字の痕跡が認められます。

奉寄進
清水右平内室
花衛

 「花」の字のみあやふやです。

 左の石祠は記銘がなく、詳細はわかりません。右のお塔は傷みがひどく、後家合わせのようです。その並びの石祠には、御詠歌の文句が彫ってあります。苔により読み取り困難なところが多かったので内容の掲載は省きます。「拾三番」とありました。この辺り一帯に、西国三十三所の写し霊場があったのでしょう。

 奥には、石を乱積みにした上にコンクリートブロックで御室をこしらえて、お不動様がお祀りされています。このお不動様は線彫りどころかほとんど絵画に近いような表現方法で、火焔の彩色が残っていなければそれと気付かなかったかもしれません。よう見ますと、お顔など丁寧に表現された力作です。ありがたくお参りいたしました。

 お不動様の手前から右方向に行けば、お観音様の石祠が数基点在しています。札所の番号は見当たりませんでしたが、先ほどの御詠歌と関係があるはずです。こちらなど、微に入り細に入った表現が素晴らしく、さても優雅なお姿にうっとりと見惚れてしまいました。

 少し高いところにもお観音様がおわします。転落による破損が懸念されます。

 手前は千手観音様です。たくさんの手を横に並べる手法で表現された千手観音様は、すらりと背が高く、衣紋の表現など何から何まで行き届いています。さてもありがたいお姿です。行きつ戻りつして保全寺跡をさがしてよかったと思いました。

 さて、ここから元来た方向に戻らずに道なりに下っていきますと、谷部落に至ります。もし保全寺跡の見学と天徳寺の参拝を同時にされたい場合は、近道になります。ただしその途中の急坂に落ち葉が積もりがちでタイヤの空転等が懸念されるのと、道幅がたいへん狭いので、車での通行はお勧めできません。

 

今回は以上です。次回は小富士山のおたまや等を紹介します。

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