大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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重岡の庚申塔めぐり その5(宇目町)

 先月、久しぶりに宇目町を訪れました。庚申塔を中心にたくさんの石造文化財を見学することができましたので、順番に掲載していきます。まことほんとに、宇目町庚申塔の密集地帯の感があります。重岡地区については昨年の夏に、4回に分けて少し紹介しておりますので、その続きとして5~6回に分けて掲載してから小野市地区へと移ることにします。前回から期間が長く空いてしまったので、過去4回分の索引を掲載しておきます。

その1 見明の石造物(庚申塔)、日平の庚申塔、河内の石幢

その2 神田の庚申塔・イ、神田の供養塔、神田の庚申塔・ロ、河内の笠地蔵、河内の庚申塔

その3 通山の庚申塔、酒利の石造物(庚申塔)、柿木の庚申塔 

その4 八幡河原の庚申塔、仲江の石造物(庚申塔)・イ、仲江の石造物(庚申塔)・ロ

 今回は重岡部落からスタートして仲江、上仲江、菅経由で一山越して大原(おおはる)部落へと抜けるルートに沿うて掲載します。このうち仲江の庚申塔については「その4」で既に紹介していますので省きます。

 

16 重岡の六地蔵様と宝篋印塔

 「その4」で紹介した「仲江の石造物・ロ」のほど近くに長昌寺があります。その参道入口横のゴミ捨て場裏から斜面を上がったところに庚申塔が数基並んでいるのですが、適当な写真がないので今回は省きます。西に進み、三叉路を右折して2車線の道に入ればほどなく、左側に消防団の倉庫があり、その並びの駐車場に車を置きます。道路の反対側に「重岡キリシタン墓」の案内板が立っていますので、それに従って細道を歩いて上っていきます。

 ほどなく舗装が途切れて、斜面を蛇行する浅い掘割状の道になります。六地蔵様が並んでおり、この先に墓地があることが分かります。

 やさしいお顔の六地蔵様は、めいめいに所作を違えて蓮華座に乗るという丁寧な造りになっています。死後の私達を救うてくださるありがたい仏様でありますとともに、身近な存在として親しみが感じられました。ここから急坂を上れば墓地に出ます。その墓地に特徴的な造形の宝篋印塔が数基立っています。

 国東半島や大野地方など、県内一円で見かける宝篋印塔とは明らかに異なる特徴を有しています。「宇目型宝篋印塔」という言葉は聞いたことがあったものの、それがどのようなものなのか存じておりませんでした。はじめて実物を拝見して、あっと驚いた次第です。相輪がたいへん長く、笠の段々が斜めになっているではありませんか。

 ありがたいことに説明板が立っていました。内容を転記します。なお、以前も申しましたが宇目町文化財説明板における所在地の表記については、やや正確性を欠きます。大字○○字△△の表記になっていますが、当地域の説明板における「字」は実際の字名(小字)ではなくて行政区名を「字△△」としてあるようです。

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宇目町有形文化財 宇目型宝篋印塔
昭和53年8月18日指定
宇目町大字重岡字重岡
渡辺良司氏所有

 この宝篋印塔は小さいけれども素朴な中にも落ち着きがあり、独特の感じがする地方色豊かなものである。宇目町には数多くあるが、他の市町村では稀にしか見ることができない。俗に宇目型宝篋印塔と呼んでも過言ではない。
 材質は凝灰岩で作られ、下から基礎、台座、塔身、蓋、相輪からなり、塔身に金剛界四仏の種子が陰刻されている。塔の形としてはごく小さく総高138cmしかない。
 この塔の特色は、伏鉢と請花が一体化していることと、九輪は寸詰まりの中ふくれであることである。また宝珠も請花と一体化し、笠の隅飾突起が簡略化されているところにある。このように宝篋印塔本来の形から逸脱していることが特徴である。このように俗に宇目型と呼ばれる宝篋印塔は、本町のいたるところに発見され、その数は正確にはわかっていない。

佐伯市教育委員会

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 こちらは、説明板で言及されていた特徴がすぐ分かります。塔身の種子がよう残っており、笠の隅飾突起は簡略化どころか全く省いています。相輪が中ぶくれになっているのもよう分かります。

 こちらは笠の段々も省略して、普通のお屋根の形になっているではありませんか。しかもその上部に連子模様を刻んでいます。それと知らいで見れば宝篋印塔であると気付かないかもしれません。

 それにしてもどうして宇目町にばかり、このような特徴を有する宝篋印塔が分布しているのでしょうか。その由来や流行の過程が気になるところですが、わたしの乏しい知識では推測することすらできません。大きな塔でもなければ、儀軌に沿うた塔でもありません。けれども、地方色豊かな立派な文化財です。ありがたく見学させていただきました。

 

17 重岡のキリシタン墓(るいさの墓)

 宝篋印塔のところから右に坂道を上っていきますと、丘の上に出ます。

 たいへん見晴らしのよい場所に立派な覆い屋を設けて、1基の伏墓を保護してあります。この辺りからは冒頭の写真の景色を楽しむことができます。

元和五年
るいさ
正月廿二日

 想像していたよりもずっと大きな伏墓でした。四角の穴が開いており、その隣には所謂「中川クルス」に似た紋様を彫ってあります。詳細な説明板が立っているので、見学の際の理解の助けになります。その内容を転記します。

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重岡キリシタン
県指定史跡
昭和34年3月20日指定
大字重岡字重岡

 この墓碑は凝灰岩の平型の伏墓で、長さ180cm、幅86cm、高さは軸部で27cm、両端は22cmという巨大なものである。上面の後部寄りには日輪十字章(日輪の直径29cm)が刻まれ、正面軸部中央部に「るいさ」という洗礼名を、その左右に「元和五年」「正月廿二日」という歿年月日が陰刻されている。日輪十字章の下に6cm×8cmほどの短型の穴があるが、これは何のために作られたかはわかっていない。
 豊後には多数のキリシタン墓が残存しているが、この墓碑のように日輪十字章、洗礼名、歿年月日のそろっているものはないであろう。また大きさも県下で最大であるとともに、長崎県下にあるキリシタン墓碑の多くをはるかにしのいでいる。
 この「るいさの墓」は大正の初期、渡辺家の当主が杉の植林をしていたところ、偶然に地中深く埋まっていたこの墓碑を発見した。しかし彼は今まで見たことがないこの異様な形をした墓碑に驚き、祟りを恐れて土で覆ってしまった。
 それから40数年が過ぎた頃、時の当主は父とともに植林をしていた子供の頃の記憶をたどり、あれはキリシタンの墓ではなかろうかと思いながら再び発掘し、世の注目を浴びるに至った。
 この墓碑はもともと地上にあったが、幕府のキリシタン禁教令布告後、弾圧が強化され迫害が激しくなったので、一族の者がキリシタンであることが発覚するのを恐れて地中深く埋めたものであろう。
 「岡」といえば天正年間にキリシタンの志賀親次が領主であり同宗門が栄えたところで、天正16年(1588)ころ志賀氏の領内にはおよそ8000人のキリシタンがいたとある(耶蘇会日本年報)。こうした状況からこの宇目郷にも志賀氏の出城である皿内砦、悪所内砦などがあり、その関連性が深いことも事実であろう。また宇目郷には親次の祖父親守が居住しており同じく岡藩に屈していたから、この宇目郷にキリシタンがいても不思議ではなかろう。
 これらから推測すると、志賀氏滅亡のあと文禄3年(1594)竹田に入部した中川秀成も、当初はキリスト教を保護し、慶長17年当時岡にはまだ伝道所があったほどである。ルイザはこうした竹田の地で天正18年頃生まれたと思われるが、その少女時代はキリスト教の華やかな時代であった。この娘が宇目郷割元役に嫁いできたことは大いにありうることであり、夫の享年から推測すると、元和5年に歿した「るいさ」を岡藩士渡辺輿吉郎の娘と断定しても矛盾しないであろう。
 豊後には「ルイザ」の洗礼名をもった婦人はほかにもいたかもしれないので、この短い記録から彼女が墓碑の「るいさ」と同一人と断定するわけではないが、洗礼名を同じくするほか、年代的にも合致するし、当時の諸事情も渡辺輿吉郎の娘と矛盾しないので注目に値しよう。
 いずれにしても注目には値するが、今後の研究に期待するところが大きい。

佐伯市教育委員会

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18 上仲江の観音堂の石造物

 元来た道を後戻って、長昌寺を過ぎます。道路左側に、以前「仲江の石造物イ」および「同ロ」として紹介した石造物群2か所を見て、市園方面への分岐を左に見送れば大字大平は上仲江部落に入ります。ほどなく、左側に大平自動車があります。路側帯が広くなっているので車を停めたら、大平自動車の横の道を歩いて上りますとすぐ観音堂に着きます。堂様は施錠されていましたので外からお参りをしました。ここでは坪の石造物を紹介します。

 左は「庚申塔」で、紀年銘の読み取りは困難を極めました。元号は「寛保」のようですが、それ以外は分かりません。右もおそらく庚申塔でしょう。

 逆光でうまく撮影できませんでした。右の、高い台座に乗っているのはお弘法様です。台座に「南無大師遍照金剛」の名号が彫ってありました。中央の仏様は傷みがひどく尊名が分かりません。合掌しています。左は墓碑と思われます。

 右奥の木のねきに、古い文字塔がたくさん立てかけてあります。「奉造立庚申塔」の銘が確認できました。

天和三祀
庚申塔
十月廿二日

 銘の彫り口が実に堂々としていて、見事なものです。装飾性の乏しい文字塔にも、一つひとつの個性があります。

 説明板の内容を転記します。

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町指定民俗文化財
上仲江観音堂庚申塔
平成2年5月25日指定
宇目町大字大平字上仲江
宮崎儀八氏外所有

 総高110cmで材質は凝灰岩でできており、中央に庚申塔と鮮やかに薬研彫りされ、天和三年とある(1683)。江戸時代初期から中期にかけての本町における典型的な庚申塔である。
 十干十二支によって60年あるいは60日ごとに廻ってくる庚申の夜に、特殊な禁忌を要求する進行で、中国の道教に基づく信仰と仏教がからんだものといわれている。したがって庚申の夜は徹夜し、他出をはばかり、慎み深く諸善を行わなければならないとされている。
 時代が下るにつれて庚申の神は、いろいろと意義づけられ信仰された。いわゆる作の神、病魔災厄除けの神、家内繁栄の神など、土に生きる農民の身近な心のよりどころであった。したがって庚申塔は、道路の分岐点、村落の境界、田の端、峠などにある。
 作の神としての信仰が強いためか、これらの塔のほとんどが田畑を監視するように、田畑の方を向いて立てられている。

宇目町教育委員会

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奉供養庚申塔

 元禄年間の造立で、倒れているものの碑面の状態はすこぶる良好です。上部には三尊形式の梵字が残っています。

地神塔

 ごくシンプルな形状の地神塔で、緒方町の方々で見かける地神塔(先月数基紹介しました)とはまるで異なります。地神塔は、宇目町においては庚申塔よりもずっと数は少のうございますが、数基見かけました。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、邪鬼、ショケラ

 観音堂の坪の庚申塔の中で、刻像塔はただ1基です。そのためか、特別に鄭重にお祀りされているようです。宇目町の刻像塔の特徴とでも申しましょうか、厚肉に彫ってありますので非常に立体感に富んでいます。こちらのお塔は面取りがやや粗削りでごつこつした感がございますけれども、それが却って主尊の力強さ・勇ましさにうまくリンクしているように感じられました。
 上から見ていきましょう。日輪・月輪および瑞雲は彫りの浅さと地衣類の侵蝕により、だんだん見えづらくなってきています。主尊の眉には墨が残り、眼をきりりと吊り上げ、口を小さくヘの字に曲げて、さても恐ろしげな風貌です。体の外に伸ばした腕は薄肉彫りで、三叉戟などをしっかりと把持します。体前にまわした右手では短剣を、左手ではショケラをさげています。腰紐のところなどに赤い彩色が残ります。両脚で邪鬼を踏み、さても凛々しい立ち姿ではありませんか。
 主尊の左右には鶏を彫ってあります。だんだん見えづらくなってきてるのが気になります。鶏に対して邪鬼の存在感樽や半端なものではなく、主尊に踏まれて今際の際の感がございます。七重の膝を八重に折りて屈服しています。猿は薄肉彫りながらもその所作ははっきりと分かります。中央の猿は「聞かざる」で正面向きにしゃがみ込み、その左右では横向きにて「見ざる」と言わざる」がコサックダンスを踊っているように見えてまいりまして、おもしろうございます。

19 菅の石造物

 上仲江の観音堂から道路に戻り、車で先へと進みます。道なりに橋を渡れば菅部落で、道路右側に公民館があります。その坪に庚申塔等の石造物が並んでいます。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、邪鬼、ショケラ

 残念ながらこの角度でしかうまく撮影できませんでしたので、諸像の姿が分かりづらいと思います。実物を見ますとすこぶる良好な状態にて、細かい部分までよう分かります。日輪には赤い彩色がよう残り、瑞雲が左右でつながり波形になっています。主尊は厳めしい風貌です。腕の収まりがよく、自然な表現になっているのに感心いたしました。ショケラは丸々と肥り、外側に撥ね出すように表現してあるのがほんにおもしろうございます。

 主尊の両脇には鶏、足下には邪鬼が彫ってあります。この邪鬼は上仲江観音堂庚申塔とは異なり、正面向きです。顔を大きく彫ってその左右に申し訳程度に手を彫った表現で、直川村でよう見かける邪鬼と同様に下を出してギャフンと観念しています。その表情がほんに苦しそうで、哀れを誘います。猿はめいめいに動きがついて、しかも横並びではなく左寄りに2体、右に1体となっています。全体的に生き生きとした表現が見事な秀作といえましょう。それだけに、立地がやや荒れ気味に感じられたのが惜しまれました。

 六地蔵様は破損が著しく、草に埋もれつつあります。

 

20 大原の石造物

 菅部落を過ぎ、水越峠にかかると道幅が狭まります。トンネルを抜けてだらだらと下っていけば、大原部落に入ります。重岡駅もほど近く、重岡地区の中でも人家が密集している地域のひとつです。道なりに行けば右側に消防団の倉庫があって、そのすぐ先、左側の道路より低いところに石造物が並んでいます。道が狭いので、どこか邪魔にならないところに停めて歩いてくるしかありません。

左:三界萬霊

右:大乗妙典一字一石

 訪ねた時季が悪かったようで草が伸びており、たくさんの石造物のうち一部しか見学できませんでした。もしかしたらこの場所には以前、堂様か何かがあったのかもしれません。

青面金剛6臂、3猿、2鶏

  なんとまあ珍妙なお庚申様でありましょうか。宇目町内の刻像塔の中でも、そのオリジナリティは群を抜いていると確信いたします。自由は発想が素晴らしいし、失礼ながら稚拙な彫りもまた微笑ましく、一目拝見して大好きになった庚申塔です。

 上部に日輪・月輪を並べ、その下には歯まるで縁取りのように、両者に共通の瑞雲が孤を描いて細く棚引いています。主尊のお顔は南洋踊りのような風情がございます。吊り目ではありますけれども全く怖そうな感じはありません。腕は長さがばらばらで、特に高く上げた腕の自由奔放なカーブがおもしろいではありませんか。合掌した腕の下の衣紋の文様や、ひらひらを腕の前にひっかけてその裾を外に撥ね出す表現は、町内や直川村、本匠村でも盛んに見かけます。

 猿は「見ざる言わざる聞かざる」で蟹股でしゃがみ込み、まるで稚児の落書きを見たような可愛らしさがあります。鶏は仲良う向かい合い、家内和合を象徴するかのようです。

青面金剛6臂、2童子、邪鬼、ショケラ ※猿と鶏は未確認

 珍妙な庚申塔のすぐ前に、破損の著しい刻像塔が安置されています。お顔が全く分からなくなっているのが惜しまれてなりません。残部も風化摩滅が進んでいるものの、衣紋や指の表現から、元はかなり細かい彫りで写実的に表現されていたことが推察されます。

 石幢も破損が著しく、特に笠は見るも無残な状態になっていました。もしかしたら後家合わせかもしれません。龕部の仏様は思いの外良好な状態を保っています。これ以上傷むことなく、粗末になることなく、どうにか維持されればと思います。

 

今回は以上です。次回も重岡地区の続きを書きます。

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