大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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重岡の庚申塔めぐり その6(宇目町)

 今回は大字重岡のうち、宮野部落と田野部落の一部をめぐります。特に宮野のお観音様はその霊験あらたかなるとて有名で、しかもその像容がたいへん立派ですから、みなさんに参拝をお勧めいたします。

 

21 宮野の石造物・イ

 今回も大字重岡は長昌寺の参道下を起点とします。西へ進んで、道なりに新血原橋を渡ってすぐ左折すると、道路端に宮野公民館があります。車を停めて僅かに歩けば、右側にお観音様(冒頭の写真)や庚申塔などいろいろな石造物が並んでいます。

 説明板の内容を転記します。

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町指定有形文化財 宮野観音
昭和53年8月18日指定
宇目町大字重岡字宮野
宮野区所有

 この観音は十一面観世音菩薩という。見てのとおり正面の大きな顔と頭上前方3面、右側3面、左側3面、後方1面と、頭部に11の顔をもつ2臂の像である。材質は凝灰岩でできており、総高265cmの壮大な立像である。
 両脇侍は天部像(多聞天)、明王像(不動明王)である。
 文化8年(1811)に造立されたものであるが、この年飢饉に見舞われた岡藩では稲作の不振で農民は困窮し、竹田城下に押しかけ年貢の免除を要求するなど一揆が吹き荒れていた。所謂、文化の大百姓一揆が起こった年でもあった。宇目郷も例外ではなく、こうした苦難の時期に衆生の苦難を即座に救ってくれる観音菩薩がここに造立されたと言われている。
 観音菩薩を信じる者は、むさぼり・いかり・おろか、この三毒を退け、刀杖・械鎖・怨賊・悪鬼・水・火・鬼の七難を免れると言われている。

宇目町教育委員会

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 お観音様の優美な立ち姿といったらどうでしょう。見惚れてしまいました。優しそうなお顔で、おつばには赤い彩色が残っています。頭上にずらりと並んだ10の頭(お顔)の一つひとつに、表情がしっかりと残っています。これは素晴らしい。よほどの技量をもつ石工さんによるものと推察されます。道路端にあって容易に参拝できますから、ぜひ立ち寄ることをお勧めいたします。

 冒頭の写真の右隣にも、写真のようにいろいろな石塔・仏様が並んでいます。この右の方には庚申塔も立っています。いずれも簡単に見学できます。

奉供養庚申塔一座祈処

 一座と申しますのは言うまでもなく、この塔を造立した庚申講のことでしょう。比較的容易に読み取れました。この名の左右に、「大神宮」とか「青面金剛大神」などと小さい文字で彫ってあります。大仰な尊号は、信仰の篤さを示すことでそれだけ大きな霊験を期待したものと思われます。

奉供養庚申塔

 地衣類の侵蝕が著しく、銘の読み取りが困難を極めました。眼を皿にしてどうにか読み取れましたが、もしかしたら間違いもあるかもしれません。紀年銘はまったく分かりません。

経王三部寫石塔

 「写石塔」という言い回しははじめて見ました。蓋し、一字一石塔でありましょう。この塔はたいへん手の込んだ立派な造りです。豪勢な感じの破風、二重花弁の矩形の蓮台など何もかもが素晴らしく、しかも保存状態が良好であり、一字一石塔としては近隣在郷でも指折りのものといえましょう。

 お観音様のところから参道の石段を上っていくと、広場に出ます。おそらくこの場所にかつては堂様があったと思われますが、今は建物はなく、僧の墓碑と五輪塔の残欠、御室に収まった仏様がお祀りされていました。

 戸が開いたままになっていたので、中の仏様を拝観することができました。お供えがあがり、信仰が続いていることが分かります。

 

22 宮野の石造物・ロ

 車に乗って、宮野のお観音様を過ぎて先へと進んでいきます。右側にゴミ出し場があるところで、道幅が大きく広がります。この右端、路肩に寄せて駐車したら、前方の斜面を歩いて乗ったところに庚申塔などが並んでいます。以前は道路からもよう見えましたが、探訪時は鬱蒼としていて下からは見えませんでした。宇目町では、道路端の斜面に庚申塔が並んでいるのを盛んに見かけます。こちらも、道路からは見えなくなっていてもいかにも庚申塔のありそうな立地ですし、それらしい細道が斜面を通っていますのですぐ分かると思います。

文政十丁亥年
庚申塔
十一月十九日

 数基並ぶ文字塔の中で、碑面の状態がもっともよかったのがこの塔です。銘がくっきりと残っています。上部が破損しているのが惜しまれますが、銘にかかっていないのが幸いです。

青面金剛3臂、3猿、2鶏、邪鬼(獅子?)、ショケラ

 正面の木が育ってきていて、碑面の確認がしづらい状況になってきています。ほぼ完璧といってもよい保存状態に感銘を覚えました。それと申しますのも、この塔は碑面の縁取りがなく、像が完全に浮彫りになっています。このような像は傷みが進みやすいように思います。それなのに主尊の御髪の櫛の目をはじめとして三叉戟、弓の弦など細かな部分までくっくりと残っています。

 上部から見ますと、月輪は円の中に孤を入れて三日月を表現しています。瑞雲は図案化が顕著で、まるで枝のようにも見えてきます。主孫は頭巾をかぶったような髪型で、白目を剥き口をキリリと噛みしめて、さても怖いお顔立ちでございます。6本の腕は自然に収まり、その長さも太さもバランスがとれています。武器の一つひとつは小さめに表現され、その細やかな表現が見事なものです。泰然に回した腕からさがった衣紋が豊かなドレープの波模様を描いているのもまた乙なものではありませんか。ショケラは頭を鷲掴みにされています。

 そしてこの最も注目すべきは、その邪鬼の表現です。横向きに四つん這いになった姿をよう見ますと、邪鬼というよりは獅子にも見えてまいります。このような表現は直川村や本匠村でもときどき見かけます。こちらは動きがあり、素晴らしいと思います。主尊と邪鬼の重さでめり込んだ下には、両端に鶏が控え、その下に歯猿がおどけた格好でしゃがみ込んでいます。特に左の猿の手の動きが何とも面白うございます。何から何まで行き届いた秀作といえましょう。

南無大師遍照金剛

 三月二十一日の銘が見えます。この日はお弘法様の縁日で、お接待を出す日です。上に乗ったお弘法様はほのぼのとしたお姿で、何とも心温まるものがございます。国東半島で盛んに見かけるこのサイズのお弘法様とは、また異なる表現になっています。

大乗妙乗

 一字一石塔は藪に埋もれつつありました。

 このように、たくさんの坐像や庚申塔などが笹薮に埋もれつつあります。粗末にならないように、可能であれば道路端に下ろしていただきたいと思いました。地域の方はもとより、通りがかりの方が興味関心をもち、たくさんの人が手を合わせるようになればきっとお蔭があると思いますし、文化財保護にもつながります。

 

23 田野の石造物

 庚申塔の下で展開して元来た道を少し後戻り、最初の角を右折して橋を渡ります。突き当りを右折したら田野部落に入ります。一旦家並みが途切れ、次の家並みのかかりで道なりに右に折れるところに4基の石造物が並んでいます。道路端ですからすぐ分かります。たいへん珍しい庚申塔がありますので、ちょっと車を停めてお参り・見学をされてはいかがでしょうか。

 左端が庚申塔です。次の写真で詳しく説明します。その右隣りは、たいへん個性的な台座の上に仏様が乗っています。台座の正面の彫りくぼめたところに何らかの文字が彫ってあるはずですが読み取れませんでした。三界万霊塔でしょうか。右の2基は、これも前回申しました「宇目型宝篋印塔」になるのでしょうか。判断に迷うところです。すべてにお供えがあがっており、近隣の方によるお祀りが続いていることが分かります。。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ
青面金剛

 この庚申塔は刻像塔と文字塔の組み合わせで、たいへん珍しいタイプです。台座に「青面金剛」の文字がはっきりと刻まれており、これのみをもってしても庚申塔として成り立つものを、その上に刻像塔を重ねてあるのです。

 刻像の部分を見ますと、地衣類の侵蝕が見られますものの保存状態は極めて良好です。日輪には赤い彩色がよう残ります。主尊はいかめしい風貌で腰まえがよく、腕の太さ、その長さなど写実的な表現であり、全体的によう整うております。特に猿のいきいきとした表現が素晴らしいではありませんか。めいめいに所作を変えて、左右の猿は横向きに、中央の猿は正面向きに彫ってあります。尋常ならざる大きさのショケラも個性的でよいと思います。

 

24 敷倉の石造物・イ

 田野の石造物をあとに、道なりに行くと家並みが途切れます。右に白鳥神社が鎮座していますので参拝して先へと進めば、敷倉部落のかかりにて左に「田野磨崖仏」の道標の立っている二股に石幢が立っています。

 中台から上が大きく傾き、笠も傷みが進んでいます。龕部は六角形で、笠の傷みに対して六地蔵様の姿がよう残っているのが幸いです。この場所の二股を左にとってどんどん上っていけば水ヶ谷(すいがたに)部落に、水ヶ谷手前より左に上がれば梓峠に至ります。梓峠は、宗太郎越が主要道路になる以前に盛んに利用された道で、かつては豊後と日向を結ぶ重要な路線であったそうです。それで、この石幢は道中の安全を祈願して造立されたのではないかと推量いたしました。

 石幢のすぐ横には道標らしい石柱が立っています。文字の読み取りは困難でした。

 立派な御室の中には頭部の破損した仏様がおわします。下部には漢文を彫ってあり、「願主」は敷倉の方と宮野の方が連名になっていました。

 

25 敷倉の石造物・ロ(田野磨崖仏)

 石幢の立っている三叉路の辺りに、邪魔にならないように車を停めます。歩いて水ヶ谷方面に少し上れば、左側に「田野磨崖仏」の標識が立っています。ここから左の参道を僅かに上がればすぐ到着です。文化財の指定名が「田野磨崖仏」であり一般にこの呼称が通用しています。おそらく敷倉部落も田野のうちなので、このように呼んだと思われます。境内には庚申塔などがお祀りされており、その塔は敷倉の庚申講のものと思われますので項目名は「敷倉の石造物」としました。

 岩壁の下部にはお弘法様と思われる坐像や線香立てが安置され、崖の半ば、中央より左寄りには「南無大師遍照金剛」の名号が大きく刻まれています。右には磨崖仏が1体確認できます。この磨崖仏は「田野磨崖仏」として文化財指定されています。磨崖仏が主というよりは、周囲の様子から推してこの場所が霊場として整備されており、その中に磨崖仏もあると考えた方がよさそうです。

 磨崖仏の状態はたいへん良好で、螺髪など細かい部分までよう残っています。名号と磨崖仏の間、クラック状の箇所に3基の石塔が確認できました。いかにも据わりの悪そうな場所で、地震発生時の転落・破損が懸念されます。

 説明板の内容を転記します。

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町指定史跡 田野磨崖仏
昭和53年8月18日指定
宇目町大字重岡字田野
田野区所有

 田野磨崖仏は本町における唯一の磨崖仏である。中央右に地上から3.5mくらいのところにある岩壁に、半丸彫りで高さ80cmくらいの阿弥陀如来が彫られている。その左方中央に高さ5.5mの岩壁の中に、1字の大きさ52cm×52cmという巨大な字で「南無大師遍照金剛」と薬研彫りされている。

  明和七庚寅八月廿一鳥
  長昌寺現在
  大峻謹佛像名號彫
  剋之行幸五十歳
  石工 涼右衛門
  講中 田野村
     宮野村
  庄官 渡辺幸右衛門尉正珍

(中略)

 この磨崖仏のある場所は、豊後から日向へ越す九州大難所のひとつである梓峠の登り1里半、下り1里半と呼ばれた重岡…水ヶ谷…谷戸(宮崎県北川町)間の登り口に位置しているため、時の大庄屋が旅人の安全を祈願するために田野村・宮野村の大師講中の人々と共につくったものと思われる。

宇目町教育委員会

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 磨崖仏にお参りしたら、境内の庚申塔なども見学されることをお勧めいたします。

宝暦六●年
猿田彦命
十月廿六日

 宇目町では少数派の、猿田彦庚申塔です。作の神、賽の神としてのみならず、この立地にあっては道祖神としてもお祀りしたことが推察されます。そうであれば主尊に猿田彦を置いてあるのも頷けます。

 隣にはお室の中に青面金剛の刻像塔が収まっています。外側が少し破損していますが、中の庚申様は良好な状態を保っています。これだけ鄭重にお祀りされていればこそといえましょう。

青面金剛1面6臂、3猿、2鶏?、ショケラ

 細部まで細かく表現されており、見事な造形に感銘を覚えました。主尊はお耳が異様に大きく、鼻筋の通った彫りの深さ、たらこ唇など特徴的なお顔立ちです。目つきはほんに恐ろしげですのに、口許に優しさが感じられるのも奥ゆかしいことではありませんか。腕の自然なカーブ、指の表現など写実的で素晴らしいと思います。左手に掴まれたショケラは横向きで合掌をしています。そのお顔立ちはまるで、仏様をみたようなお慈悲の雰囲気がございまして、主尊のお顔立ちとの対比も面白うございます。

 宇目町の刻像塔では、主尊の両脇に鶏を彫ってある事例を盛んに見かけます。こちらは衣紋の裳裾が左右に流れているのか、または鶏が彫ってあるものの裳裾と重なり気味になっているのか、判断に迷いました。おそらく後者と思われますが確証を得ません。猿は他地域でも盛んに見かける表現で、めいめいの小部屋の中でガニ股でしゃがみ込み「見ざる言わざる聞かざる」になっています。

 

今回は以上です。次回も引き続き、重岡地区の石造文化財を紹介します。

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