大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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小野市の名所めぐり その2(宇目町)

 今回は小野市地区の景勝地と、木浦鉱山の史蹟の一部を掲載します。特に藤河内渓谷は、宇目町はおろか大分県を代表する景勝地としてみなさんに探訪をお勧めしたい、名所中の名所です。

 

5 西山渓谷

 前回紹介しました「2田原の石造物」を右に見て、先に進みます。橋を渡った先の二又を左にとり、直後を右折して県道6号を進みます。中岳キャンプ場を過ぎますと、中岳川に沿うた非常に風光明媚な道中になります。西山バス停の三叉路を右折しますと道幅が狭まり、離合困難の隘路が延々と続きます。川を左に見ながら御泊(おとまり)部落まで、ずっと渓谷の風景を楽しむことができます。遊歩道がないので車道からの景色を見るだけで、しかも道路沿いの木立により渓谷が見えづらくなってきていますけれども、ところどころにビュースポットがあります。御泊を過ぎるとさらに道幅が狭まります。一応、払鳥屋(はらいどや)部落の神埼社あたりまでが西山渓谷の範囲と考えてよさそうです。

 川原に下りられるところはほとんどありませんけれども、車窓からでも十分に景色を楽しむことができます。この写真はまだ川幅の広いうちです。西山バス停から御泊にかけて徐々に峡が狭まりて右に左に屈曲する川には、山また山の青葉若葉、また紅葉を水面に映し、まったく桃源郷を見たような見事な流れです。この辺りは大字木浦内で、川沿いから山手にかけて、皿内、悪所内(あくしょうち)、御泊、払鳥屋などの小部落が点在しています。山城の址や村々の小さな神社を巡るのもまたよいでしょう。それにしても悪所内という地名には、その地形の険なる様がよう表れているように感じます。

 

6 木浦鉱山の千人間府

 間府(間歩)と申しますのは、坑道とか隧道のことです。木浦鉱山は旧藩時代より鉛や錫を産出し、戦後にはエメリー鉱として経営されましたが時代の流れで閉山し今に至ります。山中に数多くの坑道が残存する中で、特に千人間府と称する古い坑道の坑口は容易に見学することができます。この呼称は、特に木浦鉱山の中でも特に産出量の多い坑道であったことと、落盤事故でたくさんの方が亡くなったことに由来するそうです。訪れる方は稀かと存じますが、山また山の奥山の景勝を楽しみつつ、見学に行かれることをお勧めいたします。

 西山バス停の三叉路まで引き返して右折し、道なりに行けば木浦山部落の中心部に着きます。今は静かな町並みですけれども、商売をしていたと思われる造りの建物が道路端に何軒もあり、往時の面影を残しております。このあたりの風景は適当な写真がないので、今回は省きます。

 郵便局を過ぎて「←藤河内渓谷」の標識のある三叉路を左折します。ほどなく家並みが途切れ、天神山を巻いていく曲がりくねった山越道になります。たいへんな隘路で見通しも悪く、しかも落石もありますから運転に注意を要しますが、普通車までならどうにか通れます。道なりにかなり登って左に急カーブするところに「文化財案内 千人間府300m」の看板があります。このカーブの右側の空き地に車を停めたら、奥へと歩いていきます。

 駐車場所からはこんな道が坑口まで続いています。車での通行は困難ですから、森林浴を楽しみながら歩いて行きます。

 これが千人間府の坑口です。排水のための水路も整備されています。千人間府について、説明板の内容を転記します。

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木浦山千人間府
町指定文化財
昭和53年8月18日指定
大字木浦鉱山字大切
三代茂氏所有

 千人間府とは木浦鉱山の大切坑のことで、木浦山でいちばん規模が大きく産出量も多かったことからつけられた総称である。

 木浦鉱山は鉱山の開発によって村が成立したのではなく、木浦内村の中に鉱山が発見されたために木浦内村には小庄屋、肝煎、村横目などの役人と、乙名、組頭、山目代、宗旨横目などの役人が別に置かれた特異な支配体系となっていた。
 木浦鉱山の開発起原については各種の説があるが、史実に現れるのは慶長3年(1607)に鉛が産出されたことが記されている。また、江戸中期に記された鉱山開発のことを伝えた一子相伝書といわれる外財根元目録略記には「銀山の根元は豊後国大野郡木浦山を始めとして…」また「錫山の始めは豊後国大野郡天神山を始めとして…」とある。
 開発当初は露天掘に近い方法で採掘されていた。江戸時代になると岡藩中川氏の支配となり、藩は木浦山奉行、両山調役、見計役等を置き、吹上錫・鉛の検査または木浦内村などで産出する椎茸、木炭、楮の検査業務を兼職させていた。さらに、鉱山は農地が皆無であったので小野市組等から送られてくる米・大豆の管理、保管また運上金徴収の任にあたっていた。
 鉱山の経営方式は御手山方式、請山方式、直山方式が繰り返された。しかし、食糧の生産を伴わない鉱山では、米・大豆等の生活必需品の全てを藩よりの供給に頼らねばならなかったので、山師は山を見立てると開発にかかる一切の経費、いわゆる銀穀を藩から前借りし、生産された錫・鉛を藩の指定した商人に売却して前借を返済するという御手山方式がとられた。
 鉱山は藩にとっても有用金属入手の場であったが、経営は小規模で家内労働を基軸としていたので、山師が積もり積もった前借を産出した錫・鉛代で返済した例は見当たらない。むしろ山師が前借した銀穀を「捨り」(返済免除)または「浮置年賦」(据置年払)の借置をとり、山師の経営を立ち直らせ生産の拡大を図った。
 ちなみに、宝暦2年(1752)から安永元年(1772)までの20年間の前借は、米6700石、大豆1200石、大麦120石、銀1貫、銀札6貫であったが、藩はこれを返済免除している。
 前にも述べたが、小規模経営であるため山師数も元禄期(1688~)が最も多く50人程度で、その後は30人前後の小規模経営であったと推測される。つまり、山師およびその家族労働を主とし細々と続けられていたことがわかる。
 こうした木浦山の中で開発された松木平、米原、姥山、茸ヶ迫、天狗平、田近山、桜山、尾越山などあるが、なかでも大霧嶽の大切坑はいちばん規模が大きく、産出量は木浦鉱山全体で最大であった。

宇目町教育委員会

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 説明板には細々とした経営であった旨が書いてあります。これは江戸時代のことで、時代が下がり、昭和初期には隆盛を極め、鉱山街が形成され関係者が1000人ばかりも暮らしていたそうです。

 驚くべきことに、金網等で封鎖されていません。けれどもいちめんが水に浸かっていますし、こんな中に入っていくのは怖いので入口からの見学にとどめました。

 それにしても、ここから掘り出した鉱物をどのようにして下ろしていたのでしょうか。しょいごでかるうて歩くのでは効率が悪すぎると思いますし、トロッコなどは江戸時代にはなかったはずです。この点がとても気になっています。

 

○ 木浦の子守唄

 前回、小野市の子守唄を紹介しました。この種の唄は大分市以南で広く唄われ、木浦(木浦内・木浦山)でも盛んに唄われていました。「宇目の唄げんか」とか「宇目の子守唄」としてレコードやラジオ等で人口に膾炙したものは、木浦で唄われたものを基調にしているようです。ただし広く知られた唄い方では2種類の節が交互になっていますが、元々は必ずしも交互に唄うわけではなかったそうです。子守奉公に出た娘が唄ったもので、赤子をあやすためというよりうっぷん晴らしですから、悪口や当てこすり、皮肉めいた文句が目立ちます。

〽ねんねねんねと寝る子はかわい ヨイヨイ
 起けち泣く子はつら憎い ヨーイヨーイヨー(以下囃子同様)
〽あん子つら見よ目は猿眼 口はワニ口、エンマ顔
〽つらん憎い子は田んぼに蹴こめ 上がるそばからまた蹴こめ
〽あんたどっから来たお色が黒い 白い黒いは生まれつき
〽お前さんのよにご器量がよけりゃ 五尺袂にゃ文ゃ絶えめ
〽いらん世話焼く他人の外道 焼いちよければ親が焼く
〽いらん世話でも時々焼かにゃ 親の焼かれん世話もある
〽わしがこうしち旅から来ちょりゃ 旅のもんじゃと憎まるる
〽旅のもんじゃとかわいがっちおくれ かわいがらるりゃ親と見る
〽かわいがられちまた憎まるりゃ かわいがられた甲斐もない
〽子守ゃ辛いもんじゃ子にゃいがまれち 他人にゃ楽なよに思われち
〽奉公すりゃこそわれんよな奴に おしゅう様じゃと奉る
〽今にゃ見ちみれ守子をせがや 好かんお前ん子にあたる
〽私ゃ唄いとうぢ唄うのじゃないよ あまり辛さに泣くかわり
〽あまり辛さに出ち山見れば 霧のかからぬ山はない
〽はだけられても世間な広い 広い世間にゃ出て遊ぶ

 

7 藤河内渓谷

 千人間府入口を過ぎて、天神山を巻いてくねくねと下っていきます。下り着いた突き当りを右折すれば藤河内部落で、いまは僅かに4~5軒を残すばかりとなっています。道路端に天満社が鎮座しており、写真がよくないので省きますが庚申塔(文字塔)もあります)道なりに桑原川を渡り、突き当りを右折します。ここから先がたいへんな隘路で、しかも旧カーブのところにミラーがなく、ときどき車が通るものですから運転にたいへん胆が冷えます。適宜警笛を鳴らしながら気を付けて進みますと、右方向にキャンプ場への分かれ道があります。まずはそちらに行ってみました。

 キャンプ場手前から川原に下りますと、さらさらときれいな水が流れるみごとな渓谷になっています。しかも夏木山が一目で、自然環境の素晴らしさにため息がでました。でもこの景色を見て帰っただけでは、藤河内渓谷の探訪は片手落ちであると言わざるを得ません。車で上の道路まで戻って、さらに進んでいけば右側にトイレのある駐車場が整備されています。車を停めたら、まずは説明板を見ておきましょう。

 説明板の内容を転記します。

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藤河内渓谷
県指定名勝
昭和34年3月20日指定

 藤河内渓谷は大分・宮崎両県境にそびえる祖母・傾山系の夏木山に源を欲する北川支流である桑原川の上流にある。水源の観音滝から藤河内集落までの分流を併せて8kmの間を藤河内渓谷と称している。
 藤河内渓谷の特色は、至るところにある臼状、渦巻状、瓢箪状、流線状など屈曲した清流にできた千差万別の甌穴群である。中でも源流にある観音滝は幅2m、高さ77mもある大飛瀑で、飛瀑の美しさもさることながら花崗岩の赤色の壁面が夕日に映えて実に美しい。冬は飛瀑や壁面の全てが凍り、朝日に輝く氷壁の景観は壮観である。
 滝壺も大甌穴をなし、蛇行した清流の下流域は自然の織りなす様々な花崗岩でできた甌穴の千枚平、瓢箪淵、大樋、小樋などが周囲の景観とマッチし圧巻である。また、渓谷の周囲には岩擬宝珠、嫗嶽人参、三つ葉躑躅、筑紫石楠花、どうだん躑躅などが密生し、特に上流には楓、しで、ぶな、はにぎり、桂、樅、姫小松など巨木が原生林相をなしている。
 春の新緑や躑躅の開花季、さらには秋の紅葉の時季にはひときわ紅葉があざやかで、その景観ひとしおである。

宇目町教育委員会

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 これでもかと褒めちぎった自信満々の内容の説明文ですけれども、実際にその景色を見ますと確かに圧巻・壮観・美しいのでこれは誇張ではありません。

 この看板は必ず確認し、できれば携帯カメラ等で撮影しておいた方がよいでしょう。「藤河内渓谷八景」といいながら、12もの景勝が紹介されております。

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藤河内渓谷八景

1 千枚平
2 瓢箪淵(千枚平から下流へ5分)
3 大樋小樋(同10分)
4 うろこ平(同20分)
5 エメラルド橋(同30分
6 おもいで橋(同25分)

7 甌穴谷(千枚平から上流へ10分)
8 百枚平(同20分)
9 観音小滝(同35分)
10 あけぼの平(同40分)
11 流線平(同50分)
12 観音滝(同100分)

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 全部めぐるとたいへん時間がかかります。あまり長時間を藤河内渓谷に費やすわけにもいかなかったので、わたしはまだ上記で言うところの1番~4番、6番および7番しか訪れたことがありません。4、6、7番は写真がよくないので、ひとまず1番~3番のみ紹介します。この区間は遊歩道の整備が行き届いており歩く距離もしれているので、気軽に自然探勝を楽しむことができます。

 説明板の横から階段を下りていき、川原に下りたところが千枚平です。

 千枚平では川幅いっぱいの浅い流れが、川底の細かな凹凸により綾目をなしています。ここは子供の水遊びに適した場所です。ただし少しさがれば急な流れになっていますから、目は離せません。

 千枚平から少し下れば、甌穴が次々にあらわれます。渦巻状の水流により、途方もなく長い年月をかけて形成された自然地形です。甌穴は単体ですと丸い窪みであるものを、それが隣接して形成された際に隔ての壁が壊れて2つ3つと連結され、瓢箪型、流線型などさまざまな形状をなします。しかも藤河内渓谷においては、川底の岩盤の色味がグラデーションをなし、不思議な地形と相俟ってさても見事な自然美ではありませんか。

 ナメ滝をなして淵に落ち込むその流れは、一元的なものではありません。複雑怪奇な地形により綾目をなした流れのままに淵が瀬となり瀬が淵となり、まったくもって千変万化の感がございます。

 これが瓢箪淵です。滝壺と甌穴が接続してこのような形状になったのでしょうか。この地形を見て、瓢箪淵と呼ばいで何と呼びましょう。駐車場からわずかの距離で、これほどの奇勝を楽しむことができるのです。紅葉の散る頃など、花筏の様相を呈して風雅を極めます。

 淵の岩壁のなめらかさに注目してください。普段は穏やかな水量のこの渓谷も、ひとたび大水が出ればものすごい流れになるのでしょう。滅多にないことでしょうが、その大水を何回も何回も繰り返して、このような地形になったのです。そして水の碧さもまた素晴らしいではありませんか。

 千枚平からわずかの距離で、このように複雑を極める地形が長く続きます。釜という釜の底に、甌穴が見てとれます。これだけの景勝地なれば遊覧者もそれなりに多そうなものを、アクセスの悪さからかこれまで数回訪れたときはほんの数名にしか出会いませんでした。ゴミはひとつも落ちていません。

 高知県仁淀川上流の渓流は、水が碧いことで有名です。仁淀ブルーなどと申しまして、盛んに観光客が訪れています。わたしも一度行ったことがあり、確かに素晴らしい景観でした。でも藤河内渓谷も、仁淀ブルーにひけをとらないと確信いたします。みなさんに実際の景色を見ていただきたいと思います。近隣在郷はおろか大分県全域を代表する景勝地、名所中の名所といえましょう。

 大樋小樋の上部では右、左、右、左…と互い違いに瀬が続き、この辺りは釜が発達していないので、甌穴というよりは流れに沿うた方向の溝が目立ちます。その溝に沿うた流れの外側に小さい甌穴が見られますのもまた奇怪なことではありませんか。

 大樋小樋の奇勝です。この景で面白いのは、樋の様相を呈した幅の狭い溝が上流から下流へと一直線になっているのではなくて、斜め方向になっている点です。ですからその溝の終端のところで、段違いに下段に落ち込むようになっているのです。千枚平では川幅いっぱいに広がった流れが、これだけ狭い樋に集約して落ち込んでいくので当然、その流れは荒々しくなりそうです。ところが樋が深いので、一見して穏やかに見えるのもまたおもしろうございます。

 今回はひとまず、この辺りまでの紹介とします。またいつかこれより下流、また千枚平より上流の写真を撮り直すことができたら、項を改めて続きを紹介したいと考えています。

 

今回は以上です。長く続いた宇目町の記事も、今回をもって当分の間お休みとします。次回は真玉町の名所を紹介します。

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