大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上真玉の名所めぐり その6(真玉町)

 久しぶりに真玉町の名所を訪ねましたので、上真玉シリーズの続きを書いていきます。道順が前後してしまいますが、ひとまず2回に分けて大字黒土の名所を紹介します。今回は庚申塔や磨崖仏が中心です。

 

22 黒土中村の庚申塔

 無動寺前から、県道654号をカサにまいります。中黒土は中村部落に入りますと、左側の路側帯が広くなります。邪魔にならないように車を停めたら、少し歩いて進みますと、道路ぎりぎりに建った民家の背戸に意味ありげな階段があります。その階段を上れば、道路端の崖上の狭い用地に庚申塔が数基並んでいます(冒頭の写真)。

 冒頭の写真の左端に写っている文字塔の銘は「奉敬待庚申講一結衆等二世安楽所」で、その左右には法華経の偈文が彫ってあります。紀年銘は読み取れませんでしたが、この種の銘を持つ塔は比較的古いものであることが多いように思います。町内では貴重な作例です。

 真玉郷土研究会の会誌11号によれば、中村にはかつて15軒あり、戦前までは1月14日に百手祭をしていたそうです。百手では大的2つ、小的15を弓で射て、終わったら大的は身濯神社と庚申塔に収め、小的は各家に配っていたとのことです。

如我昔所願今者已満足 元禄四辛未天
青面金剛二世安楽所
化一切衆生皆令入佛道 十一月九日

 梵字の立派な彫りが素晴らしく、しかも元禄4年、今から330年以上も経過しているとは思えないほど碑面の状態が良好です。「青面金剛二世安楽所」の両脇に法華経の偈文を彫ってあります。写真では見えづらいかもしれませんが、実物を見れば偈文の文字も容易に読み取れました。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2童子
享保五庚子天
十月吉日

 この塔で特に興味深いのは、塔身と笠の接合部です。塔身の形状を見ますと上端にかけて側面と後部を徐々にすぼめていき、笠の窪みに強引に合わせているように見受けられます。いかにも据わりが悪そうな接合ではありませんか。これは笠が後補か、または後家合わせである所以と推量いたします。

 碑面の状態は良好で、細かい彫りまで比較的よう残っています。すべての像がレリーフ状の彫りにて立体感にはやや乏しいものの、それがために傷みが少ないのでしょう。主尊の衣紋は袈裟懸けのしわの線を平行に彫るなどやや形式的なところが見受けられますし、その立ち姿には動きが感じられません。けれどもそれが却って何事にも動じない芯の強さを想起させます。お行儀のよさそうな童子もようございます。

 また、下の区画に仲よう並ぶ猿と鶏に注目しますと、鶏が台の上に乗って、頭の高さが猿と揃うています。狭い区画に身を寄せ合うた猿と鶏が、ほんに微笑ましいではありませんか。

 

23 黒土中村(東組)の石仏

 中村の庚申塔から僅かに城前方面に後戻って、左にかかる橋を渡ります。道なりに右折して民家の前の狭い道を進むと、道路端に仏様が並んでいます。道が狭いので歩いて来た方がよいでしょう。

 古いタイプの墓碑のような気がしますが銘は確認できませんでした。左の仏様は頭が折れてしまっています。右の仏様は珍しいタイプで、不勉強のためその種別は分かりませんが、素朴で愛らしいお姿が心に残りました。御髪のカーブが、光背の丸い形状によう合うていると思います。

 

24 カジヤの石造物(磨崖像)

 中村東の民家左手から狭い舗装路を山手に進んでいきます。普通車までなら問題なく通れますが離合困難ですし、山仕事やお墓参りの車と行きあわせると地域の方の迷惑になりそうなので、歩いて行った方がよいと思います。道なりに行けば、黒土林道に突き当たります。この三叉路の正面の大岩に対の像が彫ってあります。このあたりの字はカジヤです。タタラ製鉄に関する地名かもしれません。

 遠目にも像が確認できます。この像の存在は、真玉史談会の冊子で知りました。『真玉町誌』には載っていませんし、インターネット上でも今のところ見たことがありません。真玉町内には、福真磨崖仏、中ノ坊磨崖仏、堂ヶ迫磨崖仏、下黒土の磨崖宝塔など比較的著名な磨崖仏がいくつもあります。そのほかにも以前紹介しました足駄木の磨崖仏や立花の磨崖像などたくさんありまして、国東半島の磨崖仏群の一端をなしています。カジヤの磨崖像もそのひとつです。

 像は風化摩滅が著しくて細部は分かりません。双体道祖神の類かもしれませんが、いずれにせよ仏像ではないような気がいたします。道路からほど近く、簡単に見学・参拝できます。なお、この磨崖像からそう遠くない場所には磨崖五輪塔もあるそうです。

 磨崖像の三叉路から左に行くと、昔からの墓地が数段に分かれており、古い墓碑がたくさん並んでいます。その中ほどで、立派な石仏に行き当たりました。

 大きな岩に龕をこしらえて、精巧なつくりの仏様をお祀りしてあります。これは素晴らしい。さてもありがたいお姿に感激いたしました。

 

25 小迫の庚申塔

 カジヤから県道に後戻って、車でカサに進みます。二股を左にとって道なりに行けば、左に「尻付山」の道標が立っています。これを左折して少し上り、岡部落への分岐のところから右後ろに折り返すように小道を上がれば庚申塔が並んでいます。車は、これを通り過ぎて尻付山方面に上り右側が広くなっているところに停めるしかなさそうです。

 このように車道からでも遠目に庚申塔が見えます。この上がり端が狭くてやや滑り易かったので、下りには注意を要します。

 上がり着いたところに、文字塔が数基崖になんかけてあります。日輪・月輪を残して銘が消えてしまったものがほとんどで、ただ1基のみ「奉拝庚申石塔二世安楽」の銘が読み取れました。シメをかけてあり、信仰が続いていることがわかります。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 この庚申塔は主尊の脚のところに大きくひびが入っています。折れたものを継ぎ合わせたようです。その接合部が違和感なく処理されていますものの、主尊の脚や童子の体が傷んでいるのが惜しまれます。上から見ていきます。

 まず、日輪と月輪は小さめの円で表現されています。そして瑞雲は、普通、日月の下部に彫ってあることが多いのに、こちらは上部に彫ってあります。しかもお花くずしのような文様です。ちょうど叢雲がお日様を隠して俄かに空の掻き曇る様が、また月に雲がかかり淡い光がにじむ様が想起されて、さても風流なことではありませんか。主尊はお慈悲の表情にて、そのお顔立ちや立ち姿には一見して青面金剛の雰囲気があまり感じられません。光輪の円形が肥った体の線によう合うています。腕は外向きと体前で、上下の広がりがありませんからあまり厳めしい感じはありません。童子は合掌して神妙にたたずんでいます。猿、鶏は傷みが進んで、だんだん見えづらくなっています。

 この写真は数年前の1月に撮影したものです。塔の前にお正月飾りを取り付けてありました。郷土誌研究会の会誌によりますと、この庚申塔群は尻付林道の工事で今の場所に移したそうで、講は岡、小迫、本松の3部落からなるそうです。閏年の初庚申では僧侶を呼び盛大にお座を持ち、餅撒きをしていました。昭和12年に中止し、同55年に復活するも3年後には中止となっています。庚申講としてのお祭りはやんでも地域の方の信仰が篤く、正月には立派にお祀りしているようです。

 

26 岡の祖霊社

 小迫の庚申塔の下の三叉路を左折します。岡部落のかかりで右方向に参道を上がれば祖霊社が鎮座しています。祖霊社とは、一統祭と関係のあるお社ではないかと思います。

 お社の前には対の仁王様が立っています。引きの写真がよくないので1体ずつ掲載します。こちらの仁王さんはごく小型で、せいぜい50cmほどの高さしかありません。でもほんに堂々たる立ち姿で、強そうな感じがいたします。那須与一の盆口説の「なりは小兵にござそうらえど…」の文句を思い出しました。

 阿形のお顔はさても厳めしく、金剛杵を持つ腕の太さや、ガニ股の脚など立派なものです。衣紋の裾がくるりと後ろになびいて、その下端が石板上になりつっかえ棒の役目を果たしています。二本足と衣紋の裾とで3点支持となっている仁王像を方々で見かける中で、こちらはごく自然な処理になっています。

 拝殿の裏には石祠が並び、その後ろには五輪塔が立っていました。破損したものもあります。

 

27 中ノ坊の霊場(磨崖仏)

 県道を城前方面に後戻ります。椿のお弘法様や下黒土の身濯神社(旧無動寺)を通り過ぎて(これらはまたの機会に紹介します)、上真玉公民館の横に車を停めます。今きた道を歩いて戻り、上真玉小学校跡を過ぎて、民家の横の小道を入ります。以前は「中ノ坊磨崖仏」の道標があったのですが、今はなくなっているので目印がありません。畑の間の道です(車不可)。

 以前は空家があったところが、更地になっています。その裏手に五輪塔と仏様がお祀りされています。お参りをしたらこの前を横切って、右側の石段を上がります。

 参道の石段が擁壁で分断されています。少し横によけて擁壁の切れ間から裏手に回り込み、石段の続きを上っていきます。ところが先日、久しぶりにお参りをいたしましたところものすごく大きな木が倒れており、参道の石段を覆い尽くしてとても通行できる状況ではなかったので、やむなく石段左側の斜面を適当に登らざるを得ませんでした。とても持ち上げられるような倒木ではなく、地域の方による撤去は困難と思われますので、行政の介入が望まれます。

 参道石段を登り詰めたところで直角に左に折れて、そこからなだらかな道になります。その両側にたくさんの五輪塔が並んでいたのですが、それも倒木でめちゃくちゃに壊れてしまっていました。元々後家合わせと思われる塔や破損した塔が多かったものを、倒木によりさらなる痛手を負うた感があります。

 参道を登り詰めたところの平場には、右の崖口に磨崖連碑が残っています。銘の痕跡はありません。

 連碑の並びには単独で刻出した磨崖板碑、さらにその右側にはお灯明を立てるためでしょうか、矩形の小さな彫り込みも確認できます。磨崖板碑のすぐ横には、磨崖ではない通常の板碑も立っています。中央で断裂しているのが惜しまれますが、真玉町内におきましては板碑の作例がごく少ないので貴重なものです。

 磨崖碑と向かい合わせになるように、岩壁のやや高い位置に磨崖仏2体と石仏2体が並んでいます。この写真で申しますと向かって左端のお地蔵様および右の龕の如意輪観音様が磨崖で、中央の龕の大日様と阿弥陀様は単体の造立です。

 説明内容を記します。

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中之坊磨崖仏(室町末期~江戸初期)
市指定史跡(昭和52年1月12日指定)

中央に大日如来坐像・阿弥陀如来坐像を安置している
向かって右に如意輪観音、左に地蔵菩薩を刻出している
ほかに種子板碑・磨崖板碑・五輪塔・連碑等あり

豊後高田市教育委員会 平成15年3月

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 特徴的なお顔が印象に残るお地蔵様は、衣紋のひだを丁寧に表現してあります。頭身比など違和感のない写実的な表現であり、磨崖ではないお地蔵様とほとんど同じように見えます。

 阿弥陀様と大日様は苔に覆われています。豪華な蓮華坐や細やかな螺髪など、何から何まで行き届いた造形であり素晴らしい。

 如意輪観音様を磨崖で刻出した事例はごく稀であると存じます。こちらは、お地蔵様に比べますとずいぶん傷みが進んでいるように見えます。特に足回りは顕著で、それ以外にも全体的に表面が荒れてざらざらとしており、お顔の表情も分かりにくくなっているのが残念に思いました。でもそれは見かけ上のことで、お観音様のありがたさは少しも薄れていません。

 こちらの霊場には磨崖仏をはじめとして磨崖碑、板碑、五輪塔などたくさんの石造物があり、かつてはよほどの信仰を集めたものと思われます。ところがその立地の所以か年々荒れてきているようです。地域の内外を問わでお参りや見学が増加し、これ以上荒廃が進まずに維持されることを願うてやみません。

 

今回は以上です。次回もこのシリーズの続きで、小河内周辺をとりあげます。

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