大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上真玉の名所めぐり その7(真玉町)

 今回は黒土の谷でもいちばんカサにあたる、小河内(おかわち)周辺の名所旧跡・石造文化財を取り上げます。今回の記事は、上真玉のシリーズの中でも特に書くのを楽しみにしていました。少し長くなってしまいますが、一気に紹介します。

 

28 小河内の山神社

 無動寺からカサへと進み、二又を左にとって黒土の谷を詰めていきます。上黒土は三分一(さんぶいち)部落を過ぎて、次が小河内です。道路左手に小河内公民館がありますので、邪魔にならないように車を停めます。公民館のすぐ横から山神社の参道が伸びています。鳥居が2基並んでいて、入口からたいへん立派です(冒頭の写真)。

 山神社に参拝される際、ぜひこの灯籠に注目してください。大きくて立派であるばかりか、近隣の石灯籠に見られるような竿がなく、基壇の上に猫脚で直接火袋が乗っていますのでどっしりとした重厚感があります。しかも火袋の造りも凝っていて、横から見ると八角形の彫り込みの中に丸窓をこしらえてあります。これほどの灯籠はなかなか見かけません。

 鳥居をくぐってすぐ、宝篋印塔が1基立っています。風化摩滅が進み角がとれ、笠の隅飾りも傷みが激しいものの、露盤の連子模様や格狭間はよう残ります。また、塔身の梵字も容易に確認できます。

 説明板の内容を記します。

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山神社宝篋印塔

室町期(永正13年)
県指定有形文化財(昭和53年3月30日指定)
塔身に金剛界四仏の種子
「永正十三年丙子三月三十日 願主敬白 三郎太郎」

豊後高田市教育委員会

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 参道の石段は少し左に傾いていますけれども、ぐらつきはなく安全に通行できます。幅広の、立派な造りです。

 真玉郷土研究会会誌11号(以下、会誌と記す)によれば小河内では、山の神様が春になると田に下りてきて田の神様になるという伝承があるそうです。山の神様と田の神様が結びつき、作の神としての信仰が篤いのでしょう。

 こちらの狛犬は、近隣でも屈指の素晴らしい造形です。何から何までよう整い、特に前脚は筋肉質の様子が覗えて、爪の表現などほんに写実的で見事なものではありませんか。

 お顔も見事で、立派な鼻や厳しい目付きなど、一度見たら忘れられません。幼い子供が胆を冷やしそうな顔つきです。

 後姿もぜひ確認してみて下さい。尻尾の表現が見事なものです。写真でも十分伝わるかと思いますが、実物をご覧になりますと繊細な表現にきっと驚嘆されることでしょう。

 写真はありませんが、拝殿の後ろにたくさん並ぶ石祠もぜひ確認していただきたいと思います。多種多様な神様が合祀されています。

 

29 仲尼の庚申塔

 山神社の拝殿前から右の方に進むと、竹林の急斜面の通路に庚申塔が立っています。神社の敷地からは外れるようなので一応別項扱いとしますが、実際には山神社参拝と庚申塔見学はセットになります。小河内では屋号やシコナの類が残り、会誌によればこの庚申塔の場所を仲尼(ちゅうじ)と呼ぶそうです。

青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏
講中(9名)

 上から見ていきます。まず笠が、シンプルながらもよう整うており、特に棟木のあたりがよいと思います。塔身には鶏と猿の並ぶ区画の上下に帯状の縁取りを残しており、左右には縁取りがありません。主尊と童子の彫ってある区画は余白が広く、全体のバランスが絶妙であると感じました。主尊は写実的で、塔身比など違和感がないばかりか腕の曲がり方や収まりも絶妙です。ところが主尊の脚から向かって右の童子にかけて、なぜか風化摩滅が著しく、この点が惜しまれます。

 猿と鶏は仲よう一列に並びます。猿のおどけた所作がかわいらしいし、よう見ますと鶏も脚をくの字に曲げて、うきうきと楽しい雰囲気が出ています。

 今は庚申講はやんでいますけれども、山神社のお祭りのときに庚申様のお世話もしているようです。山の神様が田の神様になる云々の伝承から、作の神である庚申様を山の神様と同時にお祭りすることは理にかないます。

 竹林の中には立派な石垣が残っています。また、写真はありませんが、神社の境内から庚申塔のところに行く通路のかかりから左に上がる道があり、その道の途中にも石仏などが残っています。

 

30 岩仲寺前の石造物

 山神社の参道入口に返って、少し先へと進みます。ほどなく右側に岩仲寺(がんちゅうじ)があり、その向かい側に庚申塔などがずらりと並んでいます。こちらの庚申塔は町内屈指の秀作であるうえに、車道からほど近く簡単に見学できます。上真玉や夷谷を遊覧される際には、ぜひ足を運んでみてください。

 このように、車の通らない狭い道沿いにたくさんの石造物が並んでいます。この中から数基を紹介します。

青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏、邪鬼、ショケラ

 この庚申塔は見所がたくさんあります。まず笠を見ますと、薄くこしらえた塔身に対して奥行きがあり、前面に大きく張り出しています。見るからに据わりの悪そうな造りです。かやったことがあるのか、接合部を補修しています。唐破風の二重垂木や、破風に彫った紋などたいへん凝った造りです。

 日輪と月輪、瑞雲は苔で見えづらくなっています。主尊の頭と笠の間は広く空いています。主尊のお顔はまるで鬼のような雰囲気で、ボリューム感のある御髪と相俟って迫力満点です。細い腕の配置もよいと思います。ささやかなショケラが可愛らしいではありませんか。また、腕のすぐ下のところには腰の締め緒の輪が左右に覗いています。立ち方は腰まえがよく、裾をたっぷりととった衣紋から覗く足首には環をはめ、四つん這いの邪鬼を踏みしめています。

 童子はめいめいの小さな台の上に立ち、羽織の袖に手先を隠すようにして腕を組んでいるようです。優しそうなお顔が主尊とは対照的で、おもしろうございます。猿はおどけた所作で主尊の足元の台に頭をぶつけ、鶏は我関せずとばかりに中央で楽し気に戯れています。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、4夜叉

 こちらの塔は4夜叉を伴い、しかも猿や鶏の配置も碑面いっぱいで、たいへん賑やかです。一見して、西夷(上香々地)は道園部落やカンガ峠旧道などで見かけた庚申様の仲間であることがすぐ分かりました。このタイプの刻像塔は香々地町を中心に、国東半島の北浦辺に分布しています。では、上から見ていきましょう。

 日輪・月輪は、額部とでも申しましょうか、左右の縁取りと同じレベルにレリーフ状に彫ってあります。瑞雲の表現も相俟って、牡丹のお花くずしの文様に見えてきますのもさても風雅なことではありませんか。主尊の区画を見ますと、左右のへりの内側の柱が屋根につながり、まるで西洋の神殿の遺跡のようです。その中に大きく彫った主尊はお顔が大きく、おかっぱの髪型がよう目立ちます。三叉戟は長く、半ば杖の様相を呈しています。外に伸ばした4本の腕はかくかくと曲がり、それに対して体前に回した腕は丸みをもって、合掌というよりは胸前で手を組んでいるように見えます。所謂異相庚申塔の特徴が数々認められます。

 主尊の足元には図案化した蓮の花、その両脇には小さな鶏が彫ってあります。その下には3匹の猿がガニ股で見ざる言わざる聞かざる、最下段では4夜叉が同じポーズでずらりと並びます。猿と夜叉は多分に漫画的な表現であり、しかも判で押したように整然と並んでいます。碑面いっぱいに像がひしめいており、豪勢な感じがいたします。真玉町では、夜叉の彫ってある庚申塔はほんの数基しかありません。近隣では大岩屋の道路端、民家の坪の崖上に立っているのを道路からでも確認できます。

奉書寫大乗妙典塔

 蓋し一字一石塔でありましょう。並びに立派な庚申塔が立っているのでつい見落としてしまいますが、こちらも堂々たる造りで立派なものです。

南无大師遍照金剛

 この塔のおもしろいところは、銘をずっと縦書きに彫っていって、最後の「金剛」のみ右横書きになっている点です。意図的にこうしたのでしょうか、それとも余白が少なくなってしまったので強引に押し込めたのでしょうか。どうも後者のような気がいたします。

 

31 上ノ谷の石造物(イ)

 今度は、岩仲寺の手前から簡易舗装の道を山手に上っていきます。この先を、小河内の中でも上ノ谷と申します。人家はありませんが段々畑の跡が広範囲に亙り、その下の方で磨崖碑と三界万霊塔ならびに五輪塔を見つけました。

 上り口はこんな調子です。途中までは軽自動車ならどうにか通れますが適当な駐車場所がありませんし、距離も知れていますから歩いて行きましょう。

 高い石垣に、田んぼに上がる通路にしては立派な石段がついていました。上に神社か何かがあるのかなと思いまして上がって見ましたが、石祠はありませんでした。或いは屋敷跡かもしれませんけれども、興味深い石造物を見つけることができました。

 上がり着いた段の一段上にある大岩に、五角形の御室を浅く彫り出しているではありませんか。写真では分かりにくいかもしれませんけれども、遠目にもすぐ分かりました。おそらく磨崖碑の類でしょう。文字は何も確認できませんでしたので、墨で書いてあったものが消えたと思われます。

三界萬霊之塔

 磨崖碑のすぐ前に、真横を向いて三界万霊塔が立っています。ごく小さな塔で、文字の彫りも浅く、傍に寄らないと分かりません。

 磨崖碑の彫ってある大岩の上には壊れた五輪様の部材が安置してありました。この岩自体が、何らかの信仰を集めたものと思われます。ここから上の段の端の通路を下りて、下の道に返ります。

 

32 上ノ谷の石造物(ロ)

 下の道に戻ったら道なりに上っていきます。右側には段々畑の跡がずっと連なっています。そのうち道が細くなり、やや荒れてきますが歩く分には問題なく通行できます。

 石垣がたいへん立派です。よう見ますと、溝を跨いで右の平場に行く小道にごく小さな桁橋が架かっていました。これを通り過ぎてさらに上ると、左の崖上に小さな庚申塔が立っています。道路端なので、気を付けて歩けばすぐ分かります。

青面金剛6臂、2猿、2鶏

 6年前に訪ねたときは笠がきちんと載っていたのですが、久しぶりに行ってみると笠が前に落ちてしまっており、塔の下部が隠れてました。この塔の下は、以前はきちんとした石垣であったと思うのですが、今では石垣も壊れてしまい崖口ぎりぎりに、やっとこさのバランスで立っているような状況です。竹などが支えになっているので塔自体が転落することはないとは思いますが、立地の関係で笠を載せ直すのにはなかなか難渋しそうでした。

 この塔は小河内に全部で5基ある刻像塔の中でもことさらに小さく、ささやかなものです。諸像の彫りも浅く風化摩滅が気にかかりますけれども、今のところ、見える範囲では細かいところまでよう分かります。福々しく穏やかなお顔がよいし、細い腕を自由奔放に曲げているのもまたよいと思います。合掌した腕に肩からのひらひらをひっかけているのも優雅ではありませんか。

 この立地にあって、最早信仰が絶えて久しいように見受けられます。粗末にならずに、どうにか状態を維持されたいものです。

 

33 小河内の大師堂

 車に乗って、公民館前からカサへと進みます。小河内の家並みが途切れてほどなく、右側にトタンの壁の小さな小屋が建っています。そのすぐ先、右側のガードレールが途切れたところに堂様がございます。気を付けないと見落としてしまう立地です。車は、この少し先の路肩が広くなったところに停めます。

 堂様の坪は道路よりも少し低くなっています。道路の改良工事により、こうなったと思われます。楓が植わっていますので紅葉の時季の夕方は特に雰囲気がようございます。

 なんとも味わい深い、素朴なお顔立ちの修行大師様です。少し植物が絡んでいますけれども、地域の方がかぶせたであろうしゃれた帽子がよう似合います。素朴な信仰心が感じられました。写真はありませんが建物の中にも仏様が数体、お祀りされています。お接待の時季にまたお参りに寄りたいものです。

 

34 小河内の棚田跡と石仏龕

 昔、小河内のカサに高地(こうち)という小部落がありました。そこにあるという庚申塔を捜して、今まで5回ほど、大師堂よりもカサの山手をそれはもう右往左往しました。高地部落には今や住む人がなく、廃屋が残っているとのことでしたがそれがどこにあるのかさっぱり分からず、見当違いなところばかりを捜していました。先日やっと行き当たったのですが、捜す過程で立派な石仏龕に行き当たったので先に掲載します。

 大師堂を過ぎると、左に上がる道が何本かあります。そのどれを上がっても、大規模な段々畑の跡地に行き当たります。乱積みの石垣は一部崩れてしまっていますけれどもその規模たるやものすごく、はるか上の方まで平場をこしらえてあるのが遠目にも分かりました。ここは高地部落ではないということがそのときは分かりませんから、段々の中を行きつ戻りつしながら上へ上へと進んでいきました。

 さてどこをどう通って行ったのか記憶が定かではありませんが、かなり登っていったところの一角に立派な造りの御室がかなりの数並んでいました。写真をご覧になれば一目瞭然、屋根の装飾が素晴らしく、垂木や破風、棟木に至るまでそれはそれは細やかな彫りであり、しかも状態が頗る良好です。中におさまった仏様もまた立派な造りでした。文字を見る限り、どうも墓碑として造立されたもののようです。古い時代の墓碑で、このような形状のものをときどき見かけます。けれどもそれは、たとえば分限さんや地位の高い人のお墓に多いように思います。それが、こんな山の中にずらりと並んでいるものですから、あっと驚きました。石造文化財として貴重なものであると存じます。

 

35 高地の庚申塔

 では、いよいよ今回の目玉であります高地の庚申塔を紹介します。大師堂を過ぎてずっと道なりに行きますと、傾斜が急になりヘアピンカーブの様相を呈してまいります。そのヘアピンカーブのかかり、左側の路肩が少し広くなっているところに1台なら駐車できます。郷土研究会の冊子によれば、車道から少しあがったところに廃屋があり、その廃屋のところから西に進んだところに庚申塔があるとのことでした。それで、とにかく目を皿にして廃屋を車道から捜した結果、微かに建物の残骸が目に入ったのです。やっと高地部落の場所が分かったと、思わず小躍りするほどの喜びでした。

 そもそも高地は小河内の枝村であったのではないかと考えます。分家その他の事情と、段々畑を谷の奥詰めまで造成していった過程で、本村から離れた山の中に枝村を開いたのでしょう。今から50年ほど前まで、高地部落には5軒が暮らしていたそうです。

 このように、ガードレールの手前から左に通路が伸びています。これを歩いて行けば、高地部落跡に至ります。距離は知れていますし、すぐ先で石垣が段々になっているので入口さえ分かれば何のことはありません。なお、この辺りから右方向に、赤根に抜ける昔の道もあります(廃道にて通り抜け困難)。今は道なりに行けば東狩場(夷谷)に至りますが、昔はこの車道はありませんでした。

 少し歩きますと、段々畑のそれとは明らかに異なる石垣が数段に亙っており、めいめいの平場は屋敷跡であることが見てとれました。倒壊した廃屋が2軒と、基礎石のみ残すところが3軒分確認できました。しめて5軒です。この通路を直進しようとしたのですが獣害予防ネットその他に阻まれて先に進めず、道も乏しくなるばかりのように見えましたので、この手前から上の段に登ってみました。右往左往するうちに、車道の先の方(九十九折の上の方の段)に出てしまい失敗、また入口に戻るというような無駄な動きを繰り返して、これは上り口が違うと悟りました。正確に言えば、昔は写真の場所から庚申塔のところに簡単に行けたはずなのです。けれどもその道が今は通りにくくなっているので、別のルートを辿った方がよかろうと判断したというわけです。

 車を停めたところのすぐ下手に、道路端にドラム缶を置いてあるところがあります。その横から山に入れば、段々畑の跡をジグザグに通路が通っていて、首尾よう廃屋の西側に上がり着きました。

 上がり着いたところから左に行くと、先の方の崖に庚申塔がなんかけてあるのが遠目にも分かりました。ああやっと行き着いた、これまで5回も山の中を右往左往してたいへん往生したものですから、あまりの嬉しさに天にも昇る心持ちでした。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔は上の畑から滑り落ちて倒れていたものを、郷土研究会の会員の方が協力して立て直したとのことです。会誌の写真を見ると、こんなに苔がついておらず、きちんと立っていました。それから年月が経ち、バランスを崩して後ろに傾いたようです。高地部落が廃村になって久しいのでやむを得ないこととは思いますが庚申様の信仰も絶えており、枯れ竹などがめちゃくちゃに折り重なっていたのでできる範囲で除去しました。

 では、上から見ていきましょう。塔の上の方は滑り落ちたときの影響でしょうか、傷みが進んでいます。けれども日輪・月輪と瑞雲は、よう見ればしっかり残っています。この見えづらさは破損とか風化というよりは、苔の影響と、あとはもともとの彫りが線彫りに近い物であったためと思われます。主尊は頭巾を被っているのでしょうか、丸顔の輪郭には愛らしさが漂うものの目付きが怖くて、口を曲げた表情には只者ではない感がございます。4臂で、そのうち2本の腕は体前に回していますので、外に出した腕が2本しかなくてすっきりとまとまっています。弓などの細かい部分までよう残っています。衣紋は提灯ブルマーを見たような個性的なもので、ゲートル脚絆の勇ましさもまた乙なものではありませんか。童子はおかっぱ頭で、おしとやかな雰囲気が漂います。

 猿は勝手気ままにしゃがみ込んで、見ざる言わざる聞かざるのポーズをとっています。岩仲寺前のそれのように判で押したような表現ではなく、1匹ずつが少しずつ違い、動きが出ています。鶏はレリーフ状のささやかな表現です。側面には紀年銘が残っています。享保14年の造立です。たった5軒の庚申講では、予算オーバーでこれほどの塔は造立できない気がします。きっと享保14年当時は、5軒どころかもっと家があったのでしょう。

 高地部落の秋が深まり、紅葉がはじまりました。

 

今回は以上です。高地の庚申塔は特に心に残りました。次回も上真玉地区の続きを書きます。

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