大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上真玉の名所めぐり その8(真玉町)

 今回は大字黒土から大字城前(じょうのまえ)にかけての名所をめぐります。過去の記事と範囲が重複していますので、道順が前後します。なお、以前このシリーズで寄四国霊場を紹介したときに省いた別十字堂跡に先日行き当たりましたので、この記事で紹介します。

 

36 下黒土の身濯神社

 前回、黒土の谷のいちばんカサにあたる高地部落跡の庚申塔まで紹介しました。今度は高地からずっと下っていきます。今の無動寺や椿のお弘法様を過ぎ、下黒土に入りますと道路右側に身濯神社の鳥居が立っています。ここは旧無動寺の跡地で、境内には無明橋や磨崖宝塔など多様な石造文化財が残っています。簡単にお参り・見学できます。境内の下手に下黒土公民館があり、その坪に駐車することができます。なお、このすぐ近くにある中ノ坊の霊場(磨崖仏など)も旧無動寺関連の史蹟です。以前紹介しましたので、あわせて見学することをお勧めします。

 竿の部分が狛犬になっている、奇抜なデザインの石灯籠です。道路からも見える場所に立っているのですぐ分かります。4重の基礎の上には足腰の強そうな狛犬、その頭の上には伊豆大島のアンコさんなどが頭の上に物を載せて運んだように、灯籠を載せています。矩形に彫り出した八重の蓮花が豪勢ですし、火袋の側面には菊の御紋を彫ってあります。笠や宝珠の形もよう整い、たいへん見事なお細工の秀作といえましょう。

 狛犬の迫力満点の顔や爪の細やかな表現に注目してください。また、笠の正面には破風をとり、その箇所の懸魚や二重垂木なども微に入り細に入った見事な彫りです。

 さて、灯籠を見学したら楼門をくぐって拝殿に向かい、お参りをいたしましょう。楼門や拝殿の写真を撮り忘れてしまいましたが、立派な造りです。また、楼門前には猫脚の部分にお相撲さんが伏せ込んだおもしろい石灯籠、拝殿前には一部欠損した宝篋印塔や国東塔(後家合わせの可能性あり)もありますから、見落とさないように気を付けてください。

 お参りをしたら左の方に進みます。台風などの影響で転石が多くやや荒れていますので、気を付けて歩きます。

 このような太鼓橋がぽつんと残っています。裏面には「南無阿弥陀仏」の文字があり、無明橋と思われます。このような太鼓橋がもう1基あるそうですが、埋もれてしまっているそうで見落としてしまいました。

3猿

 左奥の崖下には浅い岩屋をなし、矩形に彫りくぼめた中に破損した碑が収まり、その下部には3猿を彫ってあります。庚申様かもしれませんし、或いは山王権現かもしれません。3猿のみをもって庚申様と言い切ることはできず、判断に迷います。

 拝殿左横の岩壁には磨崖宝塔が3基確認できますが、もともと破損が著しかったうえに近年は植物に覆われて、それと知らいで見た方は全く気付かないと思われます。粗末にならないように何らかの対策が望まれます。

 本殿のすぐ横には素晴らしいお細工の石祠があります。特にお屋根の造りが見事ですし、軒口の装飾など何から何まで行き届いています。豪壮な造りの石祠に対して、左右で苦みを効かせている狛犬のごく素朴な表現、とぼけた顔がなんともおもしろうございます。

 「六所権現」の扁額が安置されていました。この一帯に無動寺があった頃は、お寺に付随する六所権現としての位置づけであったことが分かります。

 磨崖の曼荼羅種子が残っています。傷みが進んでいますけれども墨が残っており、注意深く崖下を確認すればすぐ分かると思います。ここから右方向に、適当に歩きやすいところをさがして急坂を上ります。

山王権現

 神社の建築の、釘を使わずに木を互い違いに組み合わせてこしらえた屋根の様子を石で表現してあります。こちらの狛犬には何とも不気味な印象を覚えました。

 山王権現からさらに上れば、岩壁に磨崖宝塔が並んでいます。2つの龕に分かれており、写真は左の龕です。こちらは拝殿左側の磨崖宝塔よりは良好な状態を保っておるもののやはり風化摩滅は如何ともしがたく、20年ほど前にはじめて見学したときよりずいぶん傷んだように思います。しかも植物に覆われて、ますます分かりにくくなっていました。

 こちらは右の龕です。めいめいの塔の下部には、岩壁との間に空洞をこしらえてあります。納経のためでしょうか?やはり傷みがひどく進んできており残念に思いました。

 

37 下黒土の旧観音堂

 磨崖宝塔のところから崖下の狭い通路を先へと進んでいきます。左側に浅い龕をなして、お不動様と千手観音様が安置されています(冒頭の写真)。お参りをして先に進めば、懸造の様相を呈した観音堂が建っています。この堂様は昭和初期に建てられたもので、以前はこの場所で地域の方がお接待を出していました。ところが老朽化が著しく危険になったので、聖徳太子のみを残してほかの全ての仏様は新しい観音堂に移してあります。お接待も新しい方の堂様で出すようです。

 自然地形をうまく生かした建築です。倒壊のおそれというほどのことはないようですが、床板を踏み抜いて怪我をしてはいけないので、階段を上ったところで通行止めになっています。

 鉄骨階段と反対側の入口から内部を確認しました。屋根も床も状態がよろしくなく、立ち入ることはできません。以前はこの棚に、お観音様、お弘法様などいろいろな仏様が並んでいました。

 堂様の右側にはひっくり返りそうなほど急勾配の階段が崖上の平場へと続いています。昔、この上にお稲荷さんがあったそうです。今も石祠や石灯籠が残っています。20年近く前に一度上がったことがありますが写真がありません。ご覧の荒れ様で、上りはまだしも安全に下れる自信がなかったので、下から見るだけにしておきました。

 この階段の下から先に進めば大岩の下に石祠があります。細い里道を下っていけば人家と畑の横を通って下の県道へと至ります。その途中に新しい堂様が建っていますので、もとは上の堂様にお祀りされていた仏様にお参りをすることができます。

 

38 十一面観音岩屋

 このシリーズの「その2」で、山ノ下の庚申塔を紹介しました。そのときに駐車場所とした路側帯に車を置きます(旧無動寺から県道を下って右折し大岩屋道の新道に入ってすぐ)。車を置いたら、応暦寺方面に少し歩いて1つ目の角を左折します。この道はすぐ先の民家で行き止まりのように見えますが、民家の坪に入る手前から左に里道が分かれています。その里道に入り、石垣に沿うて山裾へと進んでいきます。

 ほどなく参道石段に出ます。奥には岩屋も見えています。ここまで車道からほんの少しの距離です。しかし入口に何の標識もないので、場所がたいへん分かりにくうございます。行き方さえ分かれば簡単な場所です。

 岩屋の中には棚をこしらえて、その上に珍妙な造りの灯籠とお観音様のお室が安置されています。主は当然お観音様ですけれども、拝観されますと灯籠もきっと心に残ると思います。お相撲さんを見たような強力さんが片手で灯籠を掲げています。ユーモラスな表現がたいへんおもしろいではありませんか。右側は灯籠が落ちて壊れているのが惜しまれます。以前も申しましたとおり、真玉町内には風変わりな石灯籠がいくつも残っています。庚申様めぐり、仁王様めぐりと同様に、このような灯籠をさがして順々に巡っていくのもきっと楽しいことでしょう。

 お観音様は石造りとは思えないほど繊細な表現で、特にお顔の表情が優美を極めます。螺髪に見代えの10の小さい頭も細やかな造りですし、足下には蓮華坐を対にして請花・反花の様相を呈しており、花弁のふっくらとした感じを丁寧に彫り出しています。

 なお、この岩屋は応暦寺に関連する史蹟です。今回は応暦寺の方には行かずに、別十字堂跡の方に行ってみましょう。

 

39 城川橋の碑

 車に乗って後戻り、県道の切通しの外側の道(旧道)に入り1つ目の角を左折します。道なりに城川橋を渡れば、橋のたもとに古い碑が立っています。

城川橋

 おそらく、今の端に架け替わる前の橋の記念碑でしょう。昔はどんな橋が架かっていたのでしょうか。

 

40 別十字堂跡

 このシリーズの「その2」で寄四国霊場を紹介しました。当該項目に記した場所に車を置きます。寄四国霊場を巡拝して車道経由で駐車場所に戻る途中、左側に道標が立っていますので、それに従って左折して細道を辿ります(寄四国霊場に寄らない場合は駐車場所から車道を歩いて上ります)。

 以前はこの道標がなかったので、別十字堂跡への行き方が分かりませんでした。それと知らなければ椎茸のホダ場への入口にしか見えません。本当にこの先かしらと不安になるような入口ですけれども、道標を信じて奥へと進みます。しばらく行くと同じような道標がまた立っていて、それを目印に左上の平場に上がればそこが別十字堂跡です。

 別十字堂跡はやや荒れ気味です。五輪塔がたくさん散在し、壊れているものも目立ちました。いつ頃まで堂宇があったのでしょうか。

 別十字堂跡で楽しみにしていたのが、こちらの磨崖宝塔です。室町期の作とのことです。

 見上げる大岩に彫られた磨崖宝塔は、さほどの大きさではありません。けれどもその保存状態はすこぶる良好で、相輪の溝に至るまでほぼ完璧な姿を保っています。無動寺跡の磨崖宝塔と比べますと、こちらはレリーフ状の彫り出しなので立体感はやや乏しいように思います。そのことが状態の維持に一役買うたのでしょう。これは素晴らしい。真玉町内に数ある磨崖仏・磨崖塔の類の中では比較的マイナーな部類かと思いますが、みなさんにもぜひ見学していただきいと思います。

 

41 前田の石造物

 車で県道まで戻り、清台寺前の路側帯に駐車します。防火水槽横の道を進み、一つ目の三叉路を右折します。田んぼの中に庚申塔が立っており、畦を辿ればすぐそばまで行くことができます。見学は稲刈り後から春先までにした方がよさそうです。

奉勧庚申石塔二世安楽所

 この庚申塔は承応2年の造立で、紀年銘のあるもののうちでは町内最古とのことです。銘がどうしても読み取れませんでしたので、小林幸弘さんの「国東半島の庚申塔」を参照しました。庚申塔の並びには一石五輪塔も安置されています。今は田んぼの中に取り残されたように立っていますが、大昔はこの塔のあたりに道路があったそうです。

 庚申塔から農道に返って先に進めば、道路端に六地蔵様と何かのお塔の残欠が安置されていました。六地蔵様はめいめいの傷みが激しくおいたわしい姿です。石造りの立派な御室の中にあっても、長い年月の風化摩滅は如何ともしがたいものがあります。国東半島では六地蔵様と申しますと墓地の入口に並んでいることが多うございます。ところがこちらは、墓地の入口ではありません。おそらくこちらの六地蔵様は道路端にあって、大野地方や海部地方などの道路端・辻で盛んに見かける六地蔵塔(石幢)と同様の意味合いを持つものであると考えられます。

 

42 水谷の六地蔵

 前田の六地蔵様からもと来た道を後戻り、三叉路を右折して農道を川べりまで行きます(県道からなら直進)。獣害予防柵を通り抜けて小さな橋を渡ります(車不可)。道なりに左に行ったところが小さな辻になっています。郷土研究会の会報に載っていた「水谷の庚申塔」を捜して、この辻から右に上がってみました。ところがお墓の先は荒れ放題で道も乏しい山坂にて、これは違うと判断して辻を山手に上がりました。その半ばから右に折れる道を行こうとしたものの、藪でとても通られません。元に返って先へ先へと進みますと墓地に出ました。結果的に庚申塔には行き当たらなかったものの、その墓地のかかりでとてもすてきな六地蔵様に出会いました。

 やや荒れ気味の用地にて転落が懸念される状況です。けれども不安定な立地による微妙な傾きが、却ってめいめいのいきいきとした感じにつながっているようにも感じました。とても穏やかなお顔の六地蔵様は、衣紋の表現、腕の様子などどれひとつとして同じところがなく、全部違います。そもそも六地蔵様は、本来であれば全部違う仏様なのでそれが当たり前ですが、得てして墓地の入口の六地蔵様というものは図案化が進み、6体全てを同じようにこしらえてあるのを盛んに見かけます。こちらのように写実的で、いきいきとした六地蔵様は稀であると存じます。

 ここから古い墓地の間を上がれば、城川橋を渡って山手に上がった小部落(呼称不明)から簡易舗装の脇道を進んだ先に出ました。水谷の庚申塔はまたいつか捜しに行こうと思います。

 

今回は以上です。あまり上真玉の記事が続いたので、次回は久しぶりに竹田津地区(国見町)の記事を書きます。何回かあけて、再びこのシリーズに戻る予定です。

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