大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田染の名所めぐり その9(豊後高田市)

 久しぶりに田染のシリーズの続きを書きます。今回は「その8」の続きとして元宮八幡を掲載したら、道順が飛んで熊野権現周辺にいきます。適当な写真がなくて飛ばしているところが多いので、順次補っていきます。

 

44 元宮八幡

 前回の末尾で元宮磨崖仏を紹介しました。元宮八幡はその隣接地です。道案内は省きます。

 さて、田染三社について、このシリーズの初回で申しましたが今一度説明しておきます。宇佐八幡から勧請し、田心姫命湍津姫命・市杵嶋姫命をお祀りし田染の一宮としたのが元宮八幡です。その後、観応2年に湍津姫命を間戸に遷座し二宮八幡、市杵嶋姫命を稲積に遷座し三宮八幡としたものです。氏子圏は下記の通りです。

元宮八幡 中村、相原、池辺
二宮八幡 小崎、横嶺、間戸
三宮八幡 真木、菊山、陽平、薗木、熊野、田野口、大曲、観音堂、上野

 蕗が抜けていると思われるかもしれませんが、蕗は田染三社ではなく富貴社の氏子圏です。このことからも分かるように、田染郷のうち旧蕗村は独立性が高く、他村とは一線を画していたようです。

 正面の鳥居から境内に入って振り返った写真です。道路の向こう側にも鳥居が立っていて、田んぼの中をずっと一直線に馬場が貫き桂川べりにも鳥居が立っています(冒頭の写真)。今は堤防に阻まれて行き止まりになっていますが、昔はトン橋で対岸に渡れたのではないでしょうか。大昔は御神幸の行列が通っていたのかもしれません。

 さすがに立派な造りの拝殿で、見事に積み上げた石垣が見事です。対の灯籠もよう整うた造りで、格好がようございます。また、写真はありませんが本殿の龍の彫刻もそれはそれは見事なものなので、見学をお勧めします。

 さて、参拝したら左に行きます。境内には3体の仁王像が残っています。神仏分離等の影響で、正面参道脇にあった仁王さんを動かした可能性があります。また、現在向かい合うて組になっている仁王さんは、元は別々のものです。残りの1体が境内の外れに残っており、それと向かい合わせのうちの1体が元々は対になっていたと考えられます。本来拝殿前で対になっていたうちの1体が破損したか何かで、摂社の前にあった対の仁王のうちの1体を動かしたのではあるまいかと推量いたしました。

 こちらの吽形と、摂社の奥に単体で立っている阿形とが本来対になっていたと思われます。天衣まで破損せずほぼ完璧な姿の仁王さんには、たいへん素朴な印象を覚えました。特に亀背の傾向にてやや前のめりの立ち姿が、勇ましさとか力強さというよりは親しみをもって声をかけてくるような雰囲気で、親しみやすさが感じられます。

 向かい合うているのはこちらです。これと対になる造形の仁王像が境内には残っていません。こちらも天衣から何から、欠損がなくほぼ完璧な状態を保っています。より力強く、勇ましく、怖い感じがよう出ていて、仁王像の彫刻としての完成度はこちらの方がより優れているように感じました。特に脚の筋肉の表現など、素晴らしいと思います。よほどの技量を持つ石工さんによるものであろうと推察いたしました。

 ヤブで近寄れませんでしたが、こちらが本来対になっていたであろう仁王像です。1体だけ取り残されています。周囲が荒れ気味であるのと、天衣など破損個所が多く残念に思いました。この仁王さんを見落とす方が多いようです。参拝時には気を付けて捜してみてください。

 鳥居には「金毘羅宮」とありますが、金毘羅様以外の摂社もたくさん寄せられています。玉垣で囲うた中にお池をこしらえて、橋をかけて中島にお祀りするという鄭重な手法をとっています。庭園としての美をも兼ね備えているように感じました。

 こちらは、鳥居の先に対の灯籠がありますが、その後ろは土塀が藪になっていて確認は困難です。やや荒れ気味の印象を受けました。ここから左奥に行けば、1体だけ離れた仁王さんが立っています。

 

45 橋本の庚申塔

 県道655号を進んで熊野へとまいります。道路左側の旧道の膨らみから熊野権現への旧道が分かれています。その道の上がり端の左側に4基の庚申塔が立っています。ここは熊野の坊部落の下手、字は橋本です。

 このように「庚申塔」という札を立ててくださっているので、見学の助けになっています。車は曲がり角をよけて、邪魔にならないように路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。

 今回は銘の残っている2基を取り上げます。

(向かって右)
奉住厳庚申霊塔善宝安置事
寛永元年

 実物を見ればどうにかこうにか読み取れます。この種の銘をもつ塔は、「庚申塔」とか「青面金剛」「猿田彦大神」とだけ彫った文字塔よりも古いのが相場です。こちらは寛永元年にて、凡そ400年前の造立です。小林さんのウェブサイトを参照いたしますと、国東半島にある庚申塔のうち、紀年銘のある塔では最も古いものであるそうです。

 庚申信仰は長い年月の中で、国東半島におきましては作の神としての意味合いが強くなった事例が多々あり、「ひかり」などと融合して多分に娯楽的な面が強くなっていきました。しかし当初は天台宗の僧侶がその普及に関係していた旨の説があり、こちらの塔は国東半島の庚申信仰におけるごく初期の造立でありますから、当初の信仰形態は私たちがよく知る庚申講とはやや異なっていた可能性もあります。

梵字6字) 奉念御庚申一宇如意祈所
願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道

 こちらは比較的大型のお塔です。古い文字塔で、上部に梵字を1字ないし3字置いたものをよう見かけます。ところがこちらは6字であり、これは稀な事例でありましょう。しかも法華経の偈文をも彫ってあります。寛永12年の造立で、こちらは国東半島における有銘の庚申塔のうちでは3番目に古い塔です。やはり、古式の面影をよう残します。

 以上、橋本の庚申塔を紹介しました。刻像塔に比べますと、どうしても文字塔は地味ですから興味関心をもって見学される方は多くはないかもしれません。しかし貴重な作例です。道路端で簡単に見学できますから、熊野磨崖仏に参拝に行かれるときに立ち寄ることをお勧めいたします。

 

46 熊野権現鳥居と坊部落

 橋本の庚申塔横から、熊野権現に上がる古い道が残っています。その入口には「熊野社」の鳥居が立っています。

 鳥居から先には傾斜地に段々を設けて、古い家屋が何軒も残っています。この一帯は坊跡とのことで、所謂坊部落の面影をよう残しており、国東半島を象徴する景観のひとつです。特に秋は紅葉が見事です。

 なお、これより上は道幅が狭く、普通車までならどうにか通行できますが地域の方の迷惑になりそうですから、車では進入しない方がよいでしょう。新道経由で熊野磨崖仏駐車場に車を置き、上から歩いてくるとよいと思います。

 

47 登尺の庚申塔

 新道経由で熊野磨崖仏の駐車場まで上がります。上と下にありますので、下の駐車場に停めます(トイレあり)。その端の少し高いところに庚申塔が1基立っています。大型バスでもなければ上の駐車場に停める方が多いので、ほとんどの方がこの庚申塔を見落としているようです。

青面金剛6臂、2猿、2鶏

 この塔は不整形の大岩の表面にごく浅い龕をなして、その中に所蔵を浮彫りにしてあるタイプです。もう少し岩が大きければ庚申塔というよりも磨崖庚申と申した方が適切かもわかりませんが、一応ここでは庚申塔として取り扱います。

 まず、日輪と月輪は見当たりません。主尊は眉のラインから鼻筋が通り、にっこりと笑うた顔もなかなかの優男ではありませんか。また、宝珠は線彫りに近い表現になっており、三叉戟などほかの持ち物もささやかな表現です。鶏と猿は、主尊の両側に上下に並んで、これまでほんにささやかな雰囲気です。地衣類の侵蝕が著しく細かいところが分かりづらくなっているのが惜しまれます。

 なお、田染地区の刻像塔は童子を伴わない事例が甚だ多く、こちらもそのひとつです。

 

 さて、いよいよ熊野磨崖仏・熊野権現を目指します。胎蔵寺や所謂「鬼の石段」は、人の写り込んでいない写真がないのと、いつ行っても参拝者と出くわすことから撮り直しも面倒なので、このブログでは写真掲載を省きます。拝観料を支払って上の駐車場脇から坂道を上っていきますと、蹴上の高い乱積みの石段がはるか上まで続いているのを見て気が遠くなった方も多いと思います。今は両脇に手摺がついたので幾分ようございますが、15年ほど前までは手摺など全くありませんでした。この石段についておもしろい民話がありますので、御存じの方も多いとは思いますが紹介します。

○ 民話「熊野権現の石段」

 熊野ん権現さんの石段な、よそん石段と違おうがえ。そらあんた、鬼があんまり急いぢあらましに積んだんじゃあわ。昔々んこつじゃ。田染にどっからか赤鬼が来ち、そん鬼な人を喰う鬼じゃちゅち皆おぞかっちな、夜も日も明けんごとあったんと。そりゅ熊野ん権現さんの聞いち、一晩ぢ石段の百ついちから許しちゃろうち言うたんじゃ。なんぼ鬼でん、とうてん百も積みきらすめえと思うたんじゃなあ。じゃけんどあんた、そん鬼ん力んついいこつ、大けな石うやっこらさとかたげち上り下りんそら速うち、もうま九十九段もこしらえたじゃねえかえ。こらたまがった権現さんな、まだ夜も明からんけんど一か八かじゃちゅち鶏ん真似をしたんと。赤鬼な権現さんにだまくらかされち、石をかたげち逃げちしもうた。そん石をほたったんが山香ん立石じゃあとこ。もうしもうし、米ん団子。

 

48 熊野磨崖仏

 鬼の石段を登っていきますと、左側に広場が開けます。その奥の岩壁に大きな磨崖仏が4体(うち2体は崩落顕著)と神像が2体、さらに曼荼羅を3つ彫ってあります。国東半島に数ある磨崖仏の中でも群を抜いて著名でありますので、遠方からの観光客もひっきりなしに訪れます。

 説明板の内容を転記します。

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熊野磨崖仏

所在地 豊後高田市大字平野字登尺
国史跡指定 昭和30年2月15日
重要文化財指定 昭和39年5月26日
解説

 大岩に刻まれた仏は向かって右が大日如来、左が不動明王で、熊野磨崖仏と呼ばれている。大日如来は高さ6.8m、如来にふさわしい端正な顔形で、頭部じょうほうには3面の種子曼荼羅が刻まれている。不動明王は高さ8m、憤怒相ではなく柔和な慈悲相であるのは他の石仏に見られない珍しい例である。
 六郷山諸勤行等注進目録や華頂要略などに、磨崖仏は藤原時代末期作と推定されている。厚肉彫りの雄大、荘厳な磨崖仏であるため国指定史跡でありながら美術工芸品としての価値が高いものとして、国の重要文化財指定も併せ受けたのである。
 伝説では、磨崖仏は養老2年(718年)仁聞菩薩が造立したと伝えられ、近くの山中には作業時の宿泊所跡がある。また参道の自然石の乱積石段は鬼が一夜で築いたと伝えられている。

熊野磨崖仏管理委員会

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 向かって左側には巨大なお不動さんが彫ってあります。風化摩滅の所以でしょうか、微笑を浮かべているようにすら見える、優しそうなお不動さんでありますからたいへん親しみ易うございます。上半身のみの彫出であり、しかも体は大まかな彫り出し方になっています。これはきっと、この岩壁から今こそ仏様が現れんとする様を表したくて、あえてこのようにしたのではあるまいかと推量いたします。

 お不動さんの両脇には矜羯羅童子制多迦童子が彫ってあるそうですが傷みが激しく、今や痕跡を残す程度ですので気付かない方も多いようです。

 こちらは大日様との伝承ですが螺髪であることなどから、薬師様ではあるまいかとの説もあるそうです。やはり上半身しか彫っておらず、螺髪の細やかさに対して体はごく簡略的な表現になっております。よう整うたお顔立ちが素晴らしい。しかも上部に3面並んだ曼荼羅も彫りが細かく、よう残っています。

 

49 熊野権現

 磨崖仏からもう少し登れば、権現様のお社が鎮座しています。参拝したら、右側の崖下の仏様にもお参りをすることをお勧めします。

 この立地の所以でしょうか、傷みが進んだ石仏が目立ちます。けれどもきれをかけて、手厚くお祀りされています。

 お社の横から鋸山に登ることもできます。ただ、鋸山登山の場合は一般には妙善坊登山口(山香町)から登って周回することが多いので、こちらからの山道を通行される方は少ないようです。

 

50 熊野墓地

 今度は熊野墓地の石塔群を紹介します。熊野権現から、下の駐車場に戻ります。トイレの左側から旧道を歩けば、その半ばに標識があるのですぐ分かります。

 墓地の入口には六地蔵様が並んでいます。

 説明板の内容を転記します。

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熊野墓地

 応永8年(1375)に願主良秀以下24名が自らの「往生浄土」「法界成仏」を願い造立した逆修塔(国東塔)を中心に展開した墓地で、中世から現在までの墓地の変遷がこの一か所で伺える貴重な遺跡です。逆修というのは生前に自らの供養を願うものです。その国東塔は総高310cm、基礎三重で台座の高さ38cm、蓮華坐反花は複弁となっています。昭和32年3月23日に県指定有形文化財に指定されています。
 また、熊野墓地の後方には胎蔵寺墓地が形成されこちらも国東塔を中心に墓地が広がっています。胎蔵寺墓地国東塔は大永7年(1527)に造立されたもので、総高155㎝と小形ですが、塔身に金剛界四仏種子を配した秀作で、昭和56年4月1日に市指定有形文化財に指定されています。

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 上部の折損が惜しまれます。地蔵坐像を浮彫りにし、その下には矩形の掘り込みの中に3体の像が彫ってあります。

 

 こちらが熊野墓地の中心に位置する、説明板で言及されている国東塔です。傷みがごく少なく、ほぼ完璧な状態を保っています。全体のバランスがよいし、部材の一つひとつをとっても細やかな美意識の感じられる秀作といえましょう。特に請花・反花の花弁の表現が見事なものです。

 右隣りの宝篋印塔は相輪の半ばで折れているのが惜しまれます。それ以外はよう残り、塔身の四面の梵字も容易に読み取れます。この奥、一段高いところに形成されているのが胎蔵寺墓地です。

 胎蔵寺墓地から振り返った写真です。国東塔の周囲にはたくさんの五輪塔が並んでいます。これらも、古いめいめい墓でしょう。

 こちらが胎蔵寺墓地の国東塔で、先ほど紹介した塔に比べますと小型で、請花を省いております。しかし全体的にはよう整うた秀作です。基壇の格狭間が見えづらくなっている以外はほとんど傷みがありません。

 

今回は以上です。次回はこのシリーズの続きか、または奈狩江地区のシリーズを書いてみようか、迷うところです。最近忙しいので更新の間隔が少し空くかもしれません。

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