大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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奈狩江の名所めぐり その1(杵築市)

 このシリーズでは、杵築市は奈狩江(なかりえ)地区の名所旧跡を紹介します。奈狩江地区は大字横城(よこぎ)・奈多(なだ)・狩宿(かりしゅく)・守江からなります。なお、旧奈狩江村のうち荒巻部落(大字横城)は交通不便のため分離し、今は安岐町大字塩屋のうちです(実際には大字西本と同一の生活圏でした)。ここでいう奈狩江地区には、荒巻は含まないことにします。

 さて、奈狩江地区は元来安岐郷のうちであり、特に横城・奈多は昔から安岐町との結びつきが非常に強い地域です。神社や堂様などの祭祀については、境界を跨いで杵築側と安岐側とが共同で行う例があり、たとえば大将軍神社は安岐町西本にありますが、横城も関係がある神社です。このように市境を跨いで相互に関係のある場所については、基本的にその所在地のシリーズで紹介していくことにします。

 この地域の名所と申しますと、第一にあげられますのが奈多八幡と奈多海岸です。ほかに住吉浜、王子八幡、狩宿方面の古墳群も有名です。これらは後回しにして、初回は庚申塔などの石造文化財と、尾払池を取り上げます。

 

1 尾払池

 この池は奈狩江地区および南安岐地区の水瓶ともいえる溜池で、近隣在郷きっての大池です(冒頭の写真)。杵築市安岐町に跨る池で、大部分は安岐町大字大添(おおそえ/おそい)のうちですが、堤が3つあって、そのうち2つが奈狩江地区の側ですからこのシリーズで紹介することにしました。現役の溜池であるばかりか、国東半島の農業文化に関する史蹟でもあります。

 さて、尾払池の工事は万治元年(1658)に始まりました。旧奈多村・横城村・鍋倉村・守江村(以上奈狩江地区)、旧下山口村・大添村(以上南安岐地区)の6ヶ村が協働して普請にかかり、6年をかけて竣工したとのことです。土木技術の幼稚な時代のことですし、平素の農作業と並行しての工事は多大な困難を伴うものであったと推察されます。その後に拡張し、今のような大池になりました。3つの堤は、奈多・横城、鍋倉・守江、下山口・大添で夫々共有しています。水をなみなみと湛えた大池の自然景観を眺めますと、なんとも心休まるものがあります。見学する際には景観を楽しむだけではなくて、昔の方の智恵や苦労を偲び、環境保全に努めたいものです。

 もし尾払池に行きたい場合、大添から上るのが簡単です。「コスモス薬品常温物流センター」の看板を目印に道なりに上っていけば着きます。杵築側からは道順が少し複雑です。野辺(やべ)から鍋倉に上り、鍋倉から先は、御渡狩(みとかり)経由だと道が狭いので一旦横城方面に進み、二股を左にとって池の周りを反時計回りに行きます。

 

○ 池普請唄「けんなん節」

 杵築や安岐で堤搗きの際に唄われた「けんなん節」を紹介します。これは千本搗き音頭の類で、この種の唄は盆口説、餅搗き、木遣りなどいろいろな場面で県内各地で唄われておりましたので、さして珍しい部類ではありません。

〽東西南北おごめんなされ アラヨイヨイ
 わしが音頭で 合うかは知らぬ アラヨーイヨーイヨーイヤナ
 アレワイセノ コレワイセノ ナンデモセ
〽誰もどなたも精出しなされ アラヨイヨイ 
 唄でやらんせ アノやりましょな アラヨーイヨーイヨーイヤナ
 アレワイセノ コレワイセノ ナンデモセ
〽腰の痛さにこの土手長い アラヨイヨイ
 四月五月の アノ日の長さ アラヨーイヨーイヨーイヤナ
 アレワイセノ コレワイセノ ナンデモセ
〽腰の痛うても精出しなされ アラヨイヨイ
 精を出しゃこそ アノ土ゃしまる アラヨーイヨーイヨーイヤナ
 アレワイセノ コレワイセノ ナンデモセ
〽紺の前掛け松葉の散らし アラヨイヨイ
 待つに来んとは ヤレ腹が立つ アラヨーイヨーイヨーイヤナ
 アレワイセ コレワイセノ ナンデモセ
〽来るか来るかと待つ夜にゃ来んで アラヨイヨイ
 待たぬ夜に来る ヤレ憎らしや アラヨーイヨーイヨーイヤナ
 アレワイセ コレワイセノ ナンデモセ

 

2 迫の地蔵堂

 杵築市街から国道213号を安岐方面に進み、ファミリーマート住吉浜店を過ぎて橋を渡ってすぐ左折、すぐさま右折し急坂を上ったところが守江のうち迫部落です。その中ほど、道路右側に地蔵堂跡地があります。道路から庚申塔などが見えるのですぐ分かります。車は少し先の、ゴミ捨て場のところに停めるしかありません。

 敷地の端にお地蔵様、庚申塔、廻国供養塔、五輪塔などが並んでいます。昔は立派な堂様があったそうですが傷んだので建て替えたものの、その堂様も崩れて今は取り除けてあります。それで先ほど「地蔵堂跡地」と申しましたが、そのうちにまた新しい堂様が建つかもしれません。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 笠が少し傷んでいますが、ほかはすこぶる良好です。諸像のデザインを見ますと、杵築市内では作例がそう多くはないものの、安岐から武蔵方面では盛んに見かけるタイプです。奈狩江地区と安岐方面とのつながりの強さが感じられます。瑞雲にはお花くずしの風情があります。主尊を厚肉彫りにて表現し、特に脚まわりの立体感が素晴らしいではありませんか。また、弓や鉾を逆ハの字に配しておりますので、実に堂々たる雰囲気がございます。童子はほっそりとした体形で背が高く、一つ髷にて神妙な立ち姿です。下部には3つの枠をこしらえ、童子の足元には夫々1羽ずつの鶏が、主尊の足元には3猿が収まります。

 

3 庚申山の庚申塔(中尾平道)

 迫から国道に引き返し、安岐方面にいきます。軽便守江駅跡付近、ガソリンスタンドのところの辻を左折します。次の角を左折して守江幼稚園の裏を通り、すぐ右折します。川べりの細道を奥まで行きますと、車道が途切れます(転回可)。車をとめたら歩いて少し引き返し、いちばん奥の民家の横から山道を右に上がります。この道は中尾平(なこひら)方面への旧道とのことです。少し歩けば左側の小山の突端に庚申塔が立っています。車道からそう遠くないのですぐ分かると思います。この辺りのシコナを庚申山と申します。庚申塔に由来する地名であることは言うまでもありません。大内地区にも庚申山という地名がありますので区別のために、項目名には中尾平道と付記しました。

 立派な基壇をこしらえ、さても鮮やかなる金彩色を施されたお庚申様が堂々と立っています。ちょうど陽が差してお塔が黄金色に輝き、得も言われぬ神々しさが感じられました。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔は迫の地蔵堂のものにそっくりで、同一作者によるものと推察されます。諸像の特徴については繰り返しませんが、特筆すべきは美しい彩色です。昔は、待ち上げないし大待ち上げの際に庚申様に色を付け直すことは方々で行われました。「庚申様は赤が好き」との伝承で赤い彩色を施した事例が甚だ多うございますが、それは赤い顔料が手に入り易かったことと無関係ではないでしょう。ところがこちらは黄金色、笠は緑色で、ほんに豪勢な感じがいたします。これは、近隣にお住まいの方が病気平癒の祈願をされ庚申様の信仰が篤く、見事な彩色をされたとのことです。よし庚申講は止んだとて、このように手厚くお祀りされているのは立派なことだと思います。

 

4 いぼ川地蔵様

 道順が前後します。ファミリーマート住吉浜店前の三叉路から江頭川沿いの道を藤ノ川方面に行きます。山中部落のかかり、カラオケ神社の看板を目印に右折しずっと道なりに行けば、道路右側の川沿いにお地蔵様がお祀りされています(2つ目の看板は無視して直進)。この道は旧往還で、昔の道順を申しますと大内山(おちゃま)から無集(むしゅう・競馬場跡のところ)を通って山中に下り、いぼ川地蔵様の横を通って志村(南安岐)に抜けていました。今も車で通れますが、いぼ川地蔵様のあたりがたいへん狭くて危ないし、お地蔵様のところに適当な駐車場所がありません。車のときは路上駐車してお参りするしかないうえに離合困難にて、対向車と行き遇うと大変です。どこか広いところに停めて歩いた方がよいでしょう。

 お地蔵様の横には桜の木がありますので、花の時季は花蔭のお地蔵様の雰囲気がほんにようございます。こちらのお地蔵様は、大正の中頃までは1体のみでしたが、今は3体の仏様がお祀りされています。このうち上の御室におさまっているのがいぼ川地蔵様です。このお地蔵様はいぼとりの霊験があるとて、川原の小石で患部をこするといぼがいつの間にかなくなるという伝承があります。昔は噂を伝え聞いて遠方からの参拝があったと聞きます。この道は先ほど申しましたように旧往還にて杵築のお殿様も通り、お地蔵様のところではお殿様も下馬して参詣していたそうです。

 

5 白土の金毘羅様

 国道を奈多方面に行きます。大塚バス停の先を左折して菊池造園の横を上り、突き当りを右折したところから参道が分かれています。この辺りは白土(しらつち)部落の外れです。

 ここから山道を上がります(車不可)。この辺りは道が狭くて、駐車できそうな場所がありません。少し遠いのですが山神社の下に停めて先ほど申しました道順で歩いて来るか、または奈多海岸の駐車場に停めて競馬場跡を通ってくるとよいでしょう。

 坂道を上って右側に金毘羅さんの石祠がお祀りされています。昔は立派な社殿があったそうですが老朽化して撤去し、今は石祠と灯籠のみです。昔はこの場所から四国の金毘羅大権現の遥拝所できるようになっていたそうです。今は鬱蒼としています。

 

6 白土の庚申塔

 金毘羅様にお参りをしたら、山道を反対方向に行きます。

 このように、木森の中の気持ちのよい道です。竹を伐採して、通りやすいように整備されていました。

 少し歩けば右側の斜面に庚申塔が1基立っています。すぐ分かります。この道は大塚方面に抜けているようで、今は歩く人もいませんが、ここは白土の村はずれにて賽ノ神としての造立であると思われます。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2童子
 このお塔は、主尊の腕の配置や童子の表現など、一見して守江は迫・庚申山のそれとよう似ているように感じました。でも比べてみますと、違うところもあります。まず主尊の体型が違います。こちらはずんぐりとして肉付きがよく、寸詰まりの脚やむっちりとした頬など、お相撲さんのような力強さが感じられます。また下部の風化が進んできており、童子の足元が薄れて脚がないように見えてまいりまして、幽霊もかくやの立ち姿がおもしろいではありませんか。
 主尊の足元は臼を伏せたような足場になっていて、その中に猿が1匹しゃがみ、左右のへりには夫々猿がよじ登るようにへばりついていて、遊び心が感じられます。向かって左がほとんど消えてしまっているのが惜しまれます。鶏はお風呂のおもちゃのような表現にて、中央の猿の真下に2羽仲よう並んでいます。

 

今回は以上です。次回は南安岐地区の記事を書きます。

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