大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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南安岐の名所めぐり その1(安岐町)

 このシリーズでは南安岐地区の名所旧跡をめぐります。南安岐地区は大字大添(おそい/おおそえ)・下山口・山口・西本からなります。谷筋に沿うた昔からの稲作・畑作の部落と、丘陵上のみかん山の開拓部落とがあり、起伏に富んだ地形に沿うて長閑な農村の風景が広がる地域です。その中に大将軍(だいしょうごん)神社、剣神社、大添の妙見山など近隣在郷の信仰を集めてきた神社や霊場があり、村々には個性豊かな庚申さんや仁王さんが残っております。

 初回は当地区きっての名所であります西本の大将軍様から始めて、木野から下山口、大添にかけての庚申塔を少し紹介します。特に大将軍様は行き方が難しいので詳しく説明します。

 

1 西本の大将軍神社

 この神社は安岐郷七社のひとつで、旧藩時代より「西本の大将軍様」として著名です。氏子圏は西本・荒巻・横城(よこぎ・奈狩江地区)ですが、その範囲を超えて近隣在郷の信仰が篤く、昔は参詣者がたいへん多かったとのことです。今もお世話が行き届き、山の中の神社なのにいつもきれいにされています。

 参道は西本からの道と横城からの道があります。今回は後者を説明します。塩屋から県道34号を西安岐方面に進み、梶本モータースの角を左折します。道なりに行けば荒巻部落です。荒巻は、以前にも申しました通り元は奈狩江村大字横城のうちでしたが、横城の他部落とは山1つ隔ててかなり離れており、地域の行事など全て西本と共同で行っていたばかりか小中学生も安岐に通学していたことから、安岐町に分離編入された経緯があります。実際に荒巻に行ってみると、どうしてここが横城のうちだったのか不思議に思います。

 さて、荒巻を過ぎて道なりに上って行きます。山の中の細い道になりますが普通車でも問題なく通行できます。空港道路の上を跨ぎなおも上れば、右側の谷にソーラー発電所が広がるところから路肩が広くなります。昔は鬱蒼としていて道が狭かったものを、ずいぶん通りやすくなりました。その路肩が広がるところのかかりに邪魔にならないように駐車して元来た方向を見れば、左方向に分かれる道に鳥居が立っています。

 いま、右奥から車で来ました。駐車したら、左の道を進むわけです。

 入口は、軽自動車ならどうにか通れる幅があります。けれども鳥居から先は、四駆の軽トラが無理すればやっと通れるかなというくらいの幅の急な下り坂になります。どうにか下れたとしても、帰りにタイヤが空転して戻れなくなったら大変です。そう遠くないので歩いていきましょう。

 急坂を下り切ったところです。明らかに軽トラレベルの整備がなされており、路面はフラットです。境内の整備その他で、お世話をされる方などの車が入るのでしょう。でも先ほど申しましたように、一般の参詣者が車で通るような道ではありません。この先で空港道路の下をくぐり、なおも下れば社殿の横に出ます。

 下り着いたら一旦正面に回り込んでみました。立派な鳥居にはシメがかかり、御幣があがっています。お正月前に整備をされたのでしょう。扁額には「八幡社」とあります。大将軍と八幡の関連性が今一つよう分かりませんでした。

明治十三年庚辰四月吉祥日

 この鳥居は明治になってからの造立です。明治13年は町村制の施行前にて、南安岐村や奈狩江村は成立していません。旧の村名が記されています。別の写真で見てみましょう。

夫力 當村
横城村
塩屋村
中ソノ村
下山口村

 伊藤直
 伊藤源平

 荒巻は横城村のうちでしたから、ここでいう「当村」は西本村を指していると思われます。西本、横城(荒巻)、塩屋、中園、下山口の人々による造立です。

 参道脇に、立派なお屋根のかかった水汲場があります。お手水ではないので、これが世に言う神水であろうと推量いたしました。西本の大将軍様は乳の神様で、「神水」を飲めばお乳が出るようになるとの伝承があります。特に昔は粉ミルクなどありませんからお乳の出ないお母さんの信仰が篤く、近隣在郷はもとより県外からの参詣もあったそうです。

 お社は立派な造りで、見事な門松を立ててありました。大将軍様神水を飲んでお乳が出るようになれば、お礼参りにお乳を飲んでいる赤子の絵馬を奉納して帰る風習があります。それで昔は、拝殿いっぱいに絵馬がさがっていたそうです。今はそのような信仰形態は見られなくなっていますけれども、いつも掃除が行き届いています。

   大正元年八月吉日
奉納 一田壹反廿歩
   奈狩江村字荒巻
        松原●

 田んぼを1反20歩も神社に寄進された、荒巻の松原さんのお名前が読み取り困難になっていて残念に思いました。

 大将軍神社は、空港道路がすぐそばを通っていますがその喧騒も届かず、自然の中の静かな空間です。現地に説明板こそないものの、先ほど申しましたように近隣地域の絶大なる信仰を集めてきた神社ですから、ぜひ参拝をお勧めいたします。

 

2 木野の生目様

 大将軍神社から県道34号まで戻って、西安岐方面に進みます。精米所を右に見て、次の角を左折して剣神社の裏を通り、1つ目の角を右折します。木野部落へと道なりに上って行けば、道路右側の広場の奥に生目様などの石祠や庚申塔などが並んでいます。昔は社殿を有したと思われます。その跡地の広場に駐車できます。

 3つの石祠のうち、中央が生目様と思われます。昔は眼科などありませんでしたので、生目様の信仰は絶大でした。特に南立石(別府市)や真玉、川崎(日出町)の生目神社が知られていますが、それ以外にも摂社として祀られている石祠がかなりの数ございまして、県内一円で信仰されています。木野の生目様も霊験あらたかなるとて、近隣からのお参りが多かったそうです。

 宝珠が傷んでいるほかは良好な状態を保つ石祠で、中には牛乗り大日様がおさまっています。昔は大威徳明王大日如来を混同して、どちらであっても牛に乗っていさえすれば「牛乗り大日様」「大日様」と呼ぶことが多々ありました。農耕に牛を使役していた時代には特に信仰が篤かった仏様で、このように神社の境内だけでなく道路端に石祠をお祀りしてある事例が多々あります。北杵築や山香では特によう見かけます。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 風化摩滅の所以でしょうか、にっこり笑うているように見える主尊のお顔がなんとも朗らかで、明るい雰囲気の庚申様です。腕の表現など失礼ながら稚拙なところもありますけれども、その漫画的な表現はたいへん親しみ易うございます。端ぎりぎりに彫り出したお地蔵さんのような童子もかわいらしいし、猿や鶏もささやかな表現で愛らしさが際立ちます。わたしの好きな庚申塔のひとつです。
 この一帯の庚申講の現状はわかりませんけれども、御幣があがっています。杵築などでも、庚申講はとうになくなってしまっても正月に御幣を立てかけたり、シメをかけたりしている地域が多々あります。木野でも同様の素朴な信仰が続いていることが分かりまして、嬉しくなりました。

 

3 三郎丸の池

 少し道順が飛んで、大字下山口は三郎丸の庚申塔を目指します。三郎丸部落の中は家屋が密集しておりたいへん道が狭く、地域の方の迷惑になりそうなので歩いて行った方がよいでしょう。南安岐小学校跡地に車を停めたら、その敷地に沿うて三叉路を右折して山口方面に進み、1つ目の角を左折して橋を渡った先が三郎丸です。突き当りを右折して道なりに行き、次の突き当りは左折します。少し行けば家並みが途切れ、上って行くと溜池があります。

 これは一昨年の写真ですが、池が一面凍っていました。このように池が凍ってしまうのは、国東半島では稀になりました。凍った志高湖でスケートをしたのも今は昔のことなのですから、あれよりもずっと標高の低い池が凍ることなど滅多にないのも道理です。

 なお、この近隣にはほかにも小さな溜池があります。昔の方がたいへんな苦労をして田んぼを拡げて、各地域が発展してきました。何でもない溜池のように見えても、その一つひとつが国東半島の農耕の歴史を今に伝える史蹟であると言えましょう。

 

4 三郎丸の庚申塔

 池に沿うて少し進めば、道路右側の少し引っ込んだところに庚申塔やいくつかの石祠が並んでいます。すぐ分かります。ここまで車でも来られますが、先ほど申しましたように三郎丸の中が狭いので車はお勧めできません。

 このように、斜面の奥の大きな木のねきに石垣をついて立派にお祀りされています。灯籠は壊れていますが、信仰が続いていることが見てとれました。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏
講中十二人

 このお塔は諸像の彫りがたいへん細やかで、デザイン的にもよう整うた秀作です。しかも状態がすこぶるよいので、主尊の指先など細かいところまでよう分かります。上から見ますとまず、板碑で言うところの額部にあたる部分に日輪月輪、その下にお花くずしの瑞雲が優美に棚引いており、間には主尊の御髪が浮き彫りになっています。瑞雲と御髪の配置の妙が見事なもので、作者のアイデア・工夫に驚かされます。ちょうど御髪の付け根、耳との境目のあたりが、碑面の段変わりのラインに揃うようになっています。それがために主尊のお顔の肉付きのよさが強調されており、歯を食いしばった顎の感じや、ふくよかな頬、瞼のふくらみなどがよう分かります。腕の配置もよくて全く違和感がありませんし、弓や矢の多分に漫画的な表現もまた、主尊の勇ましい雰囲気を強調しています。

 童子は両手を前で組み、手先を袖の中に隠して楚々とした立ち姿にて、主尊との対比も素晴らしい。主尊野足元には四角い枠が彫ってあり、その中に1匹の猿が閉じ込められています。その猿は合掌をして、早うここから出してくりゃれと懇願しているように見えてまいりますのも面白いではありませんか。その枠の外側では左右に2匹の猿が縋り付いて、大丈夫かえなどと中の猿を励ましているように見えますのも微笑ましいことです。下部には鶏が2羽、仲良う向かい合います。また、この種の猿と鶏の表現は安岐や杵築の庚申塔でときどき見かけますが、左右が空白になっている場合が多うございます。ところがこちらは、その余白に「講中」「十二人」と左右に振り分けて文字を彫ってあり、碑面を無駄なく使うています。

 以前、北杵築地区は尾上の庚申塔で、猿などが下部中央に寄り集まり、その左右が余白になっている事例を紹介しました。あれも、もしかしたらその余白に見える部分に、元は墨で何か書いてあったのではあるまいかと改めて思い至った次第です。

 庚申塔の左隣の石祠は銘が見当たらず、何の神様か分かりませんでした。その左隣に簡易的な御室を設けてお祀りしてあるのは、蓋しお弘法様でありましょう。

 

5 大添八幡前の石造物

 下山口から大添に上がり、安岐インター前の交叉点を右折して農免道路を進みますと右側に大添八幡様が鎮座しています。その前に車を停めたら、道路をはさんで反対側に少し進みますと、鳥居の横に庚申塔や石仏などが並んでいます。

 このように、道路の横に参道の石段と一の鳥居が残っています。以前は境内まで一続きであったものを、半ばを農免道路が横切って分断されたようです。この手前右側に庚申塔が立っています。道路端なのですぐ分かります。八幡様の敷地外のように思われましたので別項扱いにしましたが、或いは、もとは境内にお祀りされていたものを神仏分離の際に障りが生じて動かしたのかもしれません。

 庚申塔と、牛乗り大日様は良好な状態を保っていますが、あとの2基は破損が著しいのが惜しまれます。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔は笠の破風の下部を少し欠く以外は、比較的良好な状態を保っています。全体に赤い彩色が残っており、かつては待ち上げのときに着色し直していたものと思われます。スラリと背の高い塔で恰好がよいし、しかも斜面の上にて道路から見ますと実物以上に立派に見えます。

 碑面を見ますと日輪・月輪(瑞雲なし)、主尊・2童子、3猿、2鶏と4つの枠に分かれています。それがために、平坦な面に諸像を賑やかに配したタイプの塔に比べますと、やや形式的な雰囲気です。けれども左右の対称性に留意したデザインなので、上下の縁取りと相俟ってある種の様式美のようなものが感じられました。

 主尊は神妙な表情で、鼻筋がよう通ったお顔立ちがよう整うています。腕は平行気味に曲線を描いて外に撥ね出し。夫々の間隔がほとんどありません。この辺りとお顔のデザインの対比もおもしろいところです。童子はお地蔵さんのような雰囲気です。猿は見ざる言わざる聞かざるの横並びで、下半身は見えづらいものの、正坐しているように見えました。鶏は向かい合わせに、地面の餌をついばんでいるようです。

 

6 大添八幡宮

 農免道路に少し敷地を取られたと思われますが、境内はそれなりに広く、いつも清掃が行き届いてたいへん気持ちのよい神社です。花の時季に参拝をされるとよいでしょう。

 道路端なので簡単にお参りすることができます。何回か立ち寄ったことがありますが、近隣にお住まいの方と思われる家族連れがお参りに来ていたこともあります。大添の鎮守にて、今なお信仰が篤いようです。

 

7 大添八幡裏山の石祠

 八幡様の左側から裏山に上る細道があります。舗装などありませんが容易に通行できます。道なりに行けば木森の中に結界を張って、石祠がお祀りされています。

 山の神様のような気がしますが詳細は分かりません。でも御幣があがり、今なお信仰が続いていることが分かります。木蔭の薄暗い道を上がってきて遠くから見ますと、木漏れ日の中の石祠がほんに神々しい感じがいたしました。

 

8 宮ノ谷の庚申塔

 裏山の石祠から八幡様の鳥居まで後戻って、車は置いたまま農免道路をオレンジロード方面に少し進みますと、右側に階段があります。

 この階段を上ったところに宮ノ谷の庚申塔が立っています。写真ではものすごく荒れているように見えますが、手摺を設置してくださっていますので枝などを取り除けながら進めば問題なく通行できます。でも真下がすぐ車道で路側帯が狭いので、下りは十分気を付ける必要があります。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 定かではありませんけれども、この塔の材質は一見して花崗岩のような気がしました。もしそうであれば、よそでこしらえて持ち込まれたものの可能性もあります。塔身のへりを僅かに打ち欠いているほかは傷みも少なく、良好な状態を保っています。

 八幡様の前の庚申塔と見比べますと、諸像の数こそ同じですけれども表現方法がまるで異なります。こちらは鶏と猿は浅く彫って、その上にて前後差をつけて縁取りをせずに、主尊と童子をわりあい厚肉に彫ってあります。この種の表現方法の塔は、国見町は小江部落の庚申塔など近隣在郷でもときどき見かけますほか、宇目町や本匠村の刻像塔では盛んに見かけます。

 主尊は上野腕をまるでガッツポーズのように曲げて宝珠をかかげ、大威張りで立っています。腕の付け根が上下で離れているものの、頭身比などは違和感のない表現です。童子は背が低く、主尊の大きさを際立たせています。猿と鶏はレリーフ状の彫りにて立体感こそ乏しいものの、めいめいの愛らしい雰囲気がよう出ています。

 

9 尾長迫の庚申塔

 宮ノ谷の庚申塔から元来た道を後戻って、八幡様の前を過ぎて次の角を右折します。ほどなく、右側の墓地に1基の庚申塔が立っています。以前は一面のみかん山でしたが、昔に比べますとみかんの木がずいぶん少なくなりました。

 周囲を舗装し、通路をこしらえ、見事な植木で囲うて立派にお祀りされています。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2童子

 この塔は笠の重厚感が見事なものです。入母屋造で、一見して飾り気のないように見えますけれども、よう見ますと軒口に垂木を表現してあります。塔身と笠の接合部を見るに、もしかしたら笠は後からこしらえたのかなとも思いました。

 碑面の状態はあまりよろしくなく、元々の彫りが浅かったのかもしれませんが諸像の姿がだんだん薄れてきています。今のところ細部までどうにか分かります。主尊と童子は、近隣在郷で盛んに見かけるタイプです。先日、奈狩江地区の庚申塔を数基紹介した際に同じタイプのものが数基出てきました。武蔵町でもよう見かけます。それでも細部には細かい違いがあり、手作業でこしらえているからこその個性があります。こちらは主尊のお顔がおもしろく、こぶとりじいさんのように膨れた頬、きりりと吊り上げた目、顎の膨らみなどほんに勇ましい感じがいたします。

 また、つい見落としてしまいそうになりますが、鶏と猿の配置も風変りです。ふつう、このタイプの塔では3猿を真ん中にして、その左右に1羽ずつ鶏を配してあるのが相場です。ところがこの塔では、猿の左側に2羽の鶏が向かい合わせになっており、右側が空白になっているではありませんか。これは、右側の余白に何らかの文字を彫ってあったか、墨書してあったものでしょう。今やその痕跡も分かりづらい状況です。

今回は以上です。思いのほか長くなってしまい、書くのに時間がかかりました。次回は奈狩江地区のシリーズに戻ります。

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