大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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奈狩江の名所めぐり その2(杵築市)

 奈狩江地区の続きを書きます。今回の目玉は奈多宮および奈多海岸・松原です。その歴史、素晴らしい景勝は、必ずや参拝者・遊覧者の心に残ることでしょう。杵築や東国東方面を訪ねる際にはコースに組み入れるべき名所中の名所であると断言できます。ほかにも、昔から地域の方の信仰を集めてきた大谷地蔵や塔ノ尾の観音堂、六郷満山の流れをくむ東光寺の石造物など、名所旧跡が目白押しです。

 

7 横城隧道

 前回、安岐町西本の大将軍神社を紹介しました。大将軍神社は安岐町に鎮座していますが奈狩江地区にも関係が深い神社です。詳細は当該記事をご覧ください。今回はその項で駐車場所として紹介したところから荒巻へと下らずに、上り方向に進んで横城の東光寺を目指します。ソーラーパネルの設置等により山を崩し、昔とはずいぶん様子が違ってきています。谷が開けて左方向に新道が分かれていますが、東光寺を目指す場合は直進して昔の道を辿った方が早うございます。道幅が狭まりますが普通車までなら問題なく通れます。道なりに行けば、古いトンネルがほげています(冒頭の写真)。素掘りのトンネルで、その断面が円弧をなさず台形に近い形になっています。このような形状だと弱くなりそうですが、岩盤が強固であるために落石など全くありません。

 ところで、国東半島には古いトンネルがたくさん残っています。その背景には、多くの尾根筋に隔たれて谷と谷の交通に難渋してきたという歴史があります。方々の古いトンネルは、よし文化財や史蹟には指定されていなくても、交通に難渋してきた時代から少しずつ道路網が発達していった過程を示す史蹟であり、地域の生活史の一端であるといえます。杵築市に現存する古いトンネルとしては、こちらのほかに年田隧道、旧の野田隧道、狩宿隧道があります。

 

8 東光寺の石造物

 横城隧道を抜けて少し行けば、奈多から上がってきた道に合流します。横城公民館の手前の角を、東光寺の標識に従って鋭角に右折します。道なりに上っていけば着きます。駐車場もあります。

 東光寺は養老2年、仁聞菩薩による開基で、六郷満山の中山本寺にあたります。ご本尊の薬師如来の像が見事なものと聞き及びますが、まだ拝観したことがありません。境内には国東塔や庚申塔五輪塔などの石造文化財が並んでいます。昔はもっとたくさんあったそうですが、こちらは寺勢が衰微して久しく無住の期間が長かったこともあり、売却されたり、盗まれたりしたものも1基や2基ではないそうです。

 左は五輪塔です。右の宝塔は後家合わせか、或いは元からこの組み合わせであったのか、判断に迷います。笠と塔身の間に首部が確認でき、塔身は茶壺型、その下には反花を挿みます。所謂「異形」の塔ですが違和感は覚えませんでした。

 いろいろな石造物がずらりと並び、壮観です。庚申塔の右隣の宝塔は相輪が破損し、基壇も欠いていますが、笠の重厚感はなかなかのものです。庚申塔とその左の国東塔を詳しく見てみましょう。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 上部の突起を見るに元は笠が乗っていたことが推察されます。塔身には大きな亀裂が入り、これが主尊や童子にかかっていることが惜しまれてなりません。それ以外は案外良好な状態を保っているのでなおさらのことです。

 さて、この種の刻像塔は安岐や国東でよう見かけます。しかし、同じ類型であっても夫々の個性というものがあります。こちらは弓を異常なる大きさで彫り、その上部が日輪・月輪および瑞雲を彫った面にまで食い込んでいるのが面白うございます。主尊の御髪には朱がよう残ります。口をねじまげて思案顔の主尊は立体的な彫りで、細かいところまでよう行き届いた表現です。童子や鶏、猿は彫りが浅くて細かいところが分かりづらくなっていますが、めいめいの愛らしい雰囲気がよう出ています。

 この国東塔は傷みが進んでいます。その中で相輪のみ良好な状態を保っており、どうも後家合わせのような気がいたしました。相輪の請花・反花を見ますと、花びらの形が上下で異なっています。塔身には1ヶ所に舟形の彫り込みをなして、中に仏像を彫り出しています。塔ノ御堂の国東塔など、四面仏の様相を呈したものを何ヶ所かで見学したことがあります。でも、こちらのように1体のみの仏像を彫り出した塔身を持つ国東塔は珍しいのではないでしょうか。

 こちらの仏様も傷みが進み、おいたわしいの言葉しかございません。長年の風雨に耐えて風化摩滅が進んだばかりか、倒れたこともあるのでしょう。

 右奥に行ったところには別の庚申塔が立っています。こちらは状態がすこぶる良好です。夫々、別の場所からこちらに移されたと思われます。別の写真で詳しく見てみましょう。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、ショケラ

 いかがですか、細かいところまで丁寧に仕上げてあり、それがほとんど傷んでいません。しかも諸像の彫り口が、角を立てずに丸みを持たせてありますので、実際以上に厚肉に見えてまいります。そう大きい塔ではありませんけれども、これほどのものは近隣では稀であると存じます。

 まず、日輪・月輪の赤い彩色の風合いと、お花くずしの風情のある瑞雲が見事なものです。瑞雲を左右で非対象にしてあるのもよいし、絶妙な配置で調和の美を極めます。主尊の御髪は、縁取りに突き当たるところでスパッと切れています。主尊の御髪が縁取りを跨いで上部にはみ出している事例を方々で見かける中で、このような処理は意外に思いました。これは作者の美意識によるもので、主尊の御髪よりも全体の調和を優先したのでしょう。お顔を見ますと、切れ長の眉、筋の通った鼻、目の下にはうっすらと朱が残り、ほんに強そうな感じがするうえによう整うたお顔立ちで、素晴らしいと思います。腕の配置も指の握りも違和感がなく、三叉戟や弓を小さめに表現して、枠の中のぎりぎりいっぱいまで配してあります。腰紐や足の指にも注目してください。

 童子の表情はなかなか険しうござます。手先を袖に隠して前に打ち合わせる立ち姿には威厳が感じられました。猿と鶏も非常に魅力的です。鶏の頭がちょうど童子の真下に来るようにして枠に食い込んでおりますのは、主尊の御髪とは対照的です。鶏を無理に押し込めているという違和感がまるでなく、ごく自然な処理ができていることに感心しました。猿の表現も見事なものです。左右は横向き、中央は正面向きで見ざる言わざる聞かざるの猿は、多分に漫画的な表現でありながらも碑面から飛び出して動きだしそうなほど生き生きとしています。

 長々と説明してきましたが、このお塔でもっとも注目していただきたいのはショケラです。大きめのショケラは鞘豆のような雰囲気で、手に近いところに無表情のお顔が見てとれます。まるでエジプトのミイラのようで面白いではありませんか。

 さて、東光寺からさらに上れば経筒が多数出土した場所があるそうです。そのさらに上にはみかん山のパイロットから遷座した尺間権現の石祠も鎮座しています。また、公民館よりも少し先から長い長い参道を登りつめたところにある日吉神社は、かつては東光寺の奥の院(六所権現)でした。神仏分離により六所権現にあった仏像や石塔類を東光寺に下ろして、日吉神社に改称したとのことです。その参道半ばの鳥居から横に入っていったところには磨崖仏が確認できます。これらは適当な写真がないのでまたの機会とします。

 

9 塔ノ尾の観音堂

 今度は横城から下って、志口部落のカサにある塔ノ尾の観音堂を紹介します。こちらのお観音様は、あらゆる病に霊験あらたかと申しまして近隣地域からのお参りがすこぶる多かったそうです。元は塩屋(安岐地区)の真乗院にお祀りされていたお観音様を、天保9年に田辺近蔵さんのお世話でこの場所に移したのが始まりです。そのため奈多だけでなく塩屋にも関係の深い堂様です。今も地域の方によりお世話が続いています。志口からの参道と塩屋からの参道がありますので、今回はより分かりやすい方ということで後者を紹介します。

 国道213号を安岐方面に行き、空港道路出口の交叉点手前を左折します。空港道路の側道を進み、右側に空港道路の上を跨ぐ橋のかかっているところまで来たら、左折して急坂を上っていきます。ここから先は軽自動車でもぎりぎりの道幅しかないうえに途中が未舗装で、しかも上り詰めても転回困難です。

 私は何をまかり間違うてか、横着をして車で上ってしまいました。この左奥から上ってきて、観音堂は右奥です。しかし右奥への道はあまりに狭くて車はまず通れませんし、そもそもどう考えても曲がり切れません。写真手前側に行けば2台程度駐車できるスペースがあり転回もできそうでしたが、そこまでの路面が谷側に傾斜しているうえに脱輪が懸念されるほどの幅しかなく、断念しました。お参りをした後、難所の道を延々とバックで下るよりほかなく、胆が冷えました。車は絶対にお勧めできません。上り口の路肩に寄せて邪魔にならないように停めて歩くのが無難です。

 さて、堂様の境内で塩屋からの道と志口からの道が合流します。そして堂様は、尾根筋(峠の頂上)に位置しています。塔ノ尾の名称もそれに由来すると思われます。昔の地名で峠を「たお」とか「とう」と読む事例があります。蓋し「塔」は峠(とう)でありましょう。

 今の観音堂はコンクリ造で、堅牢なる建物です。この山の上にあっても台風などで倒れる心配がないので、中のお観音様が粗末にならずに安心でございます。どなたでも自由にお参りできます。戸がないので、どうしても中に枯葉などが入ってしまいます。掃除道具を置いてくださっていますので、もしお参りされるときは枯葉を掃き出していただくと、きっとお観音様のお蔭があるでしょう。

第貮番 極楽寺

 観音堂の並びに、お弘法様がお祀りされています。大きな屋根を戴いた御室は台座に乗り、豪勢な感じがいたします。四国八十八所の第二番札所の銘があります。おそらく近隣の新四国の札所なのでしょう。

 

10 奈多宮

 いよいよ今回の本丸、奈多の八幡様です。道案内は省きます。

 旧国道から松林を突っ切って、気持ちのよい参道が伸びています。松原や海岸は後回しにして、ひとまずお宮を先に紹介します。

 参道に沿うて、寄附をされた方のお名前を彫った柱を玉垣となして、ずらりと並んでいます。奈多宮は奈狩江地区一円はおろか安岐方面からの信仰も篤く、近隣在郷を代表する神社です。

 鳥居は海を向いて立っています。手前には新しい鳥居、その後ろには古い鳥居が並んでいます。狛犬も、手前は新しい狛犬、後ろには古い狛犬が夫々対になっています。

 古い狛犬は襟巻をして、さても凛々しい立ち姿で辺りを警戒しています。牙や足の爪など細かいところまでよう残っています。

大内村 藤波亀男

 この立派な狛犬は、大内地区の方からの寄進であることが分かりました。

 説明板の内容を転記します。

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奈多宮 御由緒

御祭神 神功皇后 第三神座
    比売大神 第一神座
    応神天皇 第二神座

比売大神発祥の地
 「比売大神は、先に国前郡奈多沖市杵島に示現される」(宇佐八幡御託宣集) 故に古来市杵島は、比売大神発祥の霊地として祀られ、崇敬されている。

応神天皇御滞在の地
 称徳天皇天平神護元年応神天皇は、伊予国宇和郡より奈多の浜に御着岸、御滞在のうえ、ここより宇佐の地へ向かわれる。

奈多宮創祀
 聖武天皇神亀2年、宇佐宮が創祀され、それから5年後の天平元年に奈多宮が祀られる。初代大宮司は宇佐宿祢公基公、本宮の創祀である。

日本最上八幡初中後廟
 永延2年、一条天皇より、初中後にわたり最上八幡であると叡感ましまして、「日本最上八幡初中後廟」十字の額を賜る。

宇佐行幸
 称徳天皇天平神護元年、託宣により、壮大な「宇佐行幸会」が創る。勅使が下り、恩赦が行われる国家的行事であった。宇佐宮に於て新しい御神体が奉造されると、旧御神体が、比売大神を元宮とする奈多宮に還幸される行幸をいう。

神場行幸
 卯・酉年、6年に一度、住吉の神場に行幸する。

戦国時代の奈多氏
 奈多鑑基の女は、大友宗麟の正妻となる。鑑基は大友家の寺社奉行として重きを成す。その子、田原紹忍は宗麟の腹臣参謀として活躍する。

 以上の如く古来皇室、藤原氏の尊崇篤く、爾来、細川・小笠原・松平各藩主に至るまで代々崇敬篤く、広く世人の敬神の念を集めている。明治5年、県社に列せらる。

祭日
1月元旦 歳旦祭
2月11日 建国祭
4月5日 例祭(神幸祭
6月30日 大祓
8月7日 夏越祭(御舟替)
10月15日 放生会(中秋祭)
11月15日 七五三祭
11月23日 新嘗祭
12月31日 年越祭

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 元の社殿は慶長の大津波で流出し、寛永4年に再建されました。今の社殿は明治14年の造営です。昭和36年の集中豪雨などを経て、破損することなく今に至っています。境内はいつも掃除が行き届き、門をくぐりますと空気が違います。初詣のときは大賑わいですが、普段は静かな空間ですから落ち着いて参拝することができます。

 御神木の楠です。樹齢何年になるのでしょうか。枝ぶりの素晴らしさは言わずもがな、幹の太さが見事なものです。

 さて、参拝して御神木も見学したら、左に行きます。宝篋印塔や庚申塔、数々の摂社がお祀りされていますので、見落とさないようにしてください。

みかんの祖 田道間守公尊像 奈狩江柑橘研究会

 みかんの枝を持って立つ田道間守公の像です。この種の像でよう見かける威厳に満ちた表情というよりは、朗らかなお顔で、たいへん親しみ深うございます。奈狩江地区は杵築蜜柑の一大産地で、美濃山や横城、奈多・狩宿の山手には広大なみかん園が開けています。ところが近年は温州みかんの価格暴落などにより、みかん一色であったパイロットも梅に転換する例が多くなっているようです。

 説明板の内容を記します。なお、地の文は現代仮名遣いに改めて適宜句点を挿入したほか、漢字も平易な字体または平仮名に適宜改めて、読みやすさを優先しました。日本書紀からの引用部分のみ改変せずに記しています。

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橘祖 田道間守公由来

 第十一代垂仁天皇御宇田道間守公、勅を奉じ「非時香果」すなわち橘を求めて常世国に渡り、あるいは強風怒涛を凌ぎ、あるいは峻坂荊棘に悩みつつ万里の異域に千辛万苦も給うこと実に十年二か月にして、いわゆる八竿八縵を捧げて帰朝し給うや、天皇既に崩御ましませしかば公落胆甚だしく、菅原の伏見陵に拝し、ついに御陵前に哭死し給う。いま日本書紀所載公の述懐を左に謹写し、その忠魂義膽を敬印し奉らんとす。
――
命を天朝に受りて、遠くより絶域に往る。万里浪を踏みて、遥に弱水を度る。是の常世国は、即ち神山の秘区、俗の至らむ所に非ず。是を以て、往来う間に、自づからに十年に経りぬ。豈期ひきや独峻き瀾を凌ぎて、更に本土に向むといふことを。然るに聖帝の神霊に頼りて、僅に還り来ることを得たり。今天皇既に崩りまして、復命すこと得ず。臣生けりと雖も、何の益かあらむ。
――
ああ、その言行まことに悲壮の極みというべし。あに忠魂義膽の結晶にあらざれば何とかくの如きを得んや。常世の国とは何処地ならずといえども、当時扁舟に乗りて大海を渡航するは難事中の難事にて、末地の山川を跋渉するまた容易の業にあらず。まことに大命の重きを知るものにあらずんば何でこの大業を成就することを得んや。公の忠魂義膽は実に万世の師表と仰ぎ奉るところにして、その御遺徳はすなわち橘祖となり、あるいは航海の神となり給う。後世その神徳を敬仰し奉る、ああ尊きかな。
以上

御勧請の辞
 そもそも田道間守公は、幾多の苦難と闘われつつ子孫のために橘樹を遠く異国に求めしその俤を偲ぶだに、尊き極みであります。再来幾星霜、今や柑橘は我が国屈指の重要なる産物として全国に広がり、我が大分県に於いても特産柑橘として古き歴史と輝かしき将来を有し、その面積三千余町歩に及び収量実五百万貫に達し(大分県年産額)、その需要たるや国民栄養保健上必要欠ぐべからざるものにて、国内のみならず遠く外国までも輸出されつつある現状にて、洋々たる前途もこれ偏に公の御遺徳の賜物なり。
 これに奈狩江柑橘研究会員一同(横城奈多狩宿一円)相諮り、これが御遺徳を顕彰し奉るため公の尊像の建立を発願し、広く柑橘業を営む者の公への感謝報恩と、永く後世に産業開発の師表として崇敬致したく、ところも由緒ある奈多宮の神域に御勧請申し、あまねく柑橘業将来発展を念願致す次第であります。

昭和二十五年十月一日 奈狩江柑橘研究会員一同

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 すこぶる状態のよい宝篋印塔です。紀年銘が見当たらず、年代が分かりませんでした。神仏分離の際によう境内に留まったものぞと思いましたが、或いはそれよりも後の時代に、この場所に持ち込まれた可能性もあるように思います。

 左は金毘羅様で、小型の鳥居を伴います。ほかに恵比須様、生目様などたくさんの石祠が並び、その一つひとつが丁重にお祀りされています。

猿田彦大神

 近隣からこの場所に移されたものでしょう。お正月には御幣があがり、おかがみを備えてありました。庚申様だけでなく、全部の摂社に御幣とおかがみのお供えがありましたが、これほど鄭重にお祀りしてある事例は稀であると存じます。

 もう一つの鳥居は妙見様です。妙見様の石祠だけは一段高くなっていて、石段や玉垣も設けて特別に鄭重にお祀りされてあります。

 見学したら一旦境外に出て、右に回り込んでいくと神幸門があります。

 こちらが御幸門です。普段は閉ざされていて、中の様子をうかがい知ることはできません。この前の狛犬が、それはそれは立派です。見落とさずに、ぜひ見学してください。

昭和二年三月 国東町 坂本新●郎

 前脚に子を乗せた狛犬は、毛並や爪の表現が素晴らしく、表情など何から何までよう整うて少しの瑕疵もありません。

 阿形は残念ながらお顔が破損していますので、後姿を撮ってみました。尾の毛並の渦巻が右と左とで互い違いになっている点など、よう工夫されていると思います。また、台座の彫刻にも注目してください。

 

11 市杵島

 奈多宮正面の浜に出ますと、沖合の岩礁に赤い鳥居が立っています。こちらが、先ほどの由来書に出てきました市杵島、つまり奈多宮の元宮様です。

 奈多・狩宿海岸の中でもとりわけ印象深い風景です。鳥居は、台風などで何度か破損したことがありますが、その都度再建されてきました。近年も破損しましたが、地域の方々をはじめとして、クラウドファンディングにより全国の方々の支援が得られまして無事再建されています。

 

○ 奈多宮の御田植祭の歌

 奈多宮では毎年4月5日に、御田植祭が執り行われます。自由に見学できますが曜日の関係もあって、まだ見たことのない方も多いと思います。各種メディアで盛んに紹介されているので詳細は省きます。御田植祭は、近隣では若宮八幡や諸田山神社でも執り行われています。

1 苗配り乙女
〽小田の細道 乙女の小袖ヨ 田面吹く風 静かに流すヨ
 めんでたし めんでたし めでたき御代の 栄えの苗はヨ
 代尽きぬ めでたき早苗ヨ

2 御田植
〽植えい植えい早乙女 笠買うて着しょうよ
〽笠だにたもるなら 田んぼはなんぼも植ようよ
〽おう、いかに早乙女 化粧紅が欲しゅいか
〽化粧紅たもるなら 田んぼはなんぼも植ようよ
〽おう、いかに早乙女 化粧紅はとんだりとて 何にしようか見やるよ
〽面憎の男の子の 言うたことへ腹が立つ げに腹が立つかの
〽おう、まこと腹が立つなら 苗代のすみずみで 水鏡見よがし
〽苗代のすみずみで 水鏡候か
〽苗代のすみずみで 水鏡は見たりとも 顔は汚れたり
〽顔は汚れたりとも 思う殿御を持ちたい
〽おう、いかに早乙女 富岡山の白玉椿に 花の咲いたを見たかの
〽げにと見たれば 黄金の花も咲いたよ
〽めんでたし めんでたし めでたき御代には
 千町や万町の御田植に ふれり ふれりや ふれりや ほっぱいや

 

○ 奈多海岸今昔

 奈多から狩宿にかけて長く続く青松白砂の海岸は、県内屈指の美しさであり、杵築市を代表する景勝地です。奈多海岸、狩宿海岸と申しますが両者は一続きになっておりますので、遊歩道を辿って四季折々の自然散策を楽しむことができます。海水浴の時季には特に賑わいを見せますが、昭和の半ばまでは今とは比べ物にならないほどの人手で、押すな押すなの大賑わいでした。

 また、今は海水浴以外の時季はほとんど人影を見かけませんが、昔はこの一帯を奈多公園などと呼びまして、桜がたいへん有名でした。花見客が大勢訪れ、飲めや唄えの賑やかさに花見踊りの輪も立つほどで、その時季には軽便も臨時便を出さねば客をさばききれないほどの超満員であったそうです。大きな藤棚もありました。桜や藤の思い出は今は昔となってしまいましたが、お年寄りからは奈多公園の桜を懐かしむ声が盛んに聞かれます。奈多と狩宿の境あたりから白土の金毘羅様に上がる道のところには競馬場もありました。

 なお、戦後しばらくまではこの浜で砂鉄を採っていました。軽便の奈多八幡駅から豊洋小学校の敷地脇を採ってトロッコのレールが敷かれていたそうです。浜で採取した砂鉄をトロッコに積んで奈多八幡駅まで運び、貨車に積み変えていました。

 

12 奈多海岸と松原

 わたしが奈多海岸を訪れていつも驚きますのが、ゴミがほとんど落ちていない点です。海水浴客のマナーがよいということもありましょうが、漂着ゴミもほとんどありません。これは、近隣の方々をはじめとして豊洋小学校の児童、学童クラブの利用者、中学生、高校生などがいつもゴミ拾いをして、環境維持に努められているためです。

 多くの方の努力の甲斐あって環境が維持され、奈多海岸ではウミガメの産卵も見られます。このことを心に留めて、奈多・狩宿海岸に遊ぶ際にはゴミの始末にはことさらに気を付けたいものです。

 奈多海岸の日の出・月の出はまた格別です。この写真はもう10年以上も前に日の出を撮ったものです。海原にひとすじの道ができて、何とも言えない風情がありました。

 奈多海岸は浜の美しさだけでなく、松原もまた見事なものです。延々と続く松林は、ひところ荒れ気味でした。ところが最近は「松林を守る会」の方々の熱心な活動の甲斐あって、昔の美しい松原が蘇っています。

 こちらは御幸門の正面馬場です。見違えるほどきれいになりました。波の音が静かに響く中を歩きますと、心が落ち着いてまいります。

 神馬の土台だけが残っています。戦時中の金属供出で持ち出されたのかなと推量しましたが、詳細は分かりません。

 

13 大谷の地蔵様

 今度は狩宿の大谷地蔵様を紹介します。トアルソン大分工場(奈狩江中学校跡地)の裏の横道沿いに立っています。車で通れる道ですが参拝する際の駐車場所に困りますので、少し距離はありますが奈狩江地区公民館から歩いていくとよいでしょう。公民館前から、国道に並行する旧道を守江方面に少し進みます。トアルソンへの上り口を過ぎて次の角を右折して坂道を道なりに左方向に上り、上の道に突き当たったら右折します。少し歩けば左側です。

 こちらが大谷のお地蔵様です。周囲はやや荒れ気味ですけれども、石積みの上にしっかりと立っています。こちらは、あらゆる病気治癒の霊験あるとて昔は近隣在郷の絶大なる信仰を集め、香華の絶え間を知りませんでした。今は人々から忘れられつつあるようですが、物言わぬお地蔵様はいつも地域を見守ってくださっています。

 

今回は以上です。国東半島の記事が続いたので、次回からは久しぶりに県南方面の記事を書いてみようと思います。それと、探訪の助けになればと思いまして庚申塔の索引ページの作成も考えています。

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