このシリーズでは、佐伯市は上堅田地区を取り上げます。以前、下堅田地区のシリーズを都合5回に亙って投稿しました(その1、その2、その3、その4、その5)。ぜひそちらも記事もあわせてご覧ください。
さて、上堅田地区は大字池田・長谷(はせ)からなります。下堅田地区と同様に数多くの神社・堂様が分布しており、庚申塔をはじめとする石造文化財も豊富な地域です。その中から初回は、大字池田で見つけた庚申塔を中心に紹介します。行き当たりばったりでしたが、たくさんの塔が道路端にて簡単に見つかりました。なお上堅田地区の堅田踊りは、下堅田北部(大字長良のうち宇山・江頭・汐月)の演目と大同小異です。それで、部落ごとの堅田踊りの説明はこのシリーズでは省きます。
1 仙台庵の石造物
新女島から新佐伯大橋を渡り、蛇崎交叉点を右折して県道37号に入ります。少し進んで、蛇崎西のバス停の次の角を左折します。狭い道ですが普通車も通れます。ほとなく右側に佐伯四国の札所になっています仙台庵という堂様があり、その前庭の端に庚申塔や六地蔵様などたくさんの石造物が並んでいます(冒頭の写真)。駐車場所がないので、車の場合はどこか邪魔にならないところに停めて歩いて来るしかありません。
まず、庚申塔を見てみましょう。この場所には7基の庚申塔があります。その内訳は刻像塔1基、「奉待庚申塔」3基、「庚申塔」3基です。
青面金剛6臂
このお塔には眷属が全く見られません。このように青面金剛のみを彫り出した庚申塔は、大野地方でたくさん見つけています。でも佐伯市周辺では稀な事例といえましょう。だいたいこの地域の刻像塔は眷属が多く、童子や猿、鶏は言わずもがな、邪鬼やショケラも盛んに見かけます。ですからこの庚申様を初めて拝見したとき、あっと驚きました。なお、下部は蓮華坐の様相を呈しています。
上から見ていきますと、日輪と月輪が見当たりません。もしかしたら上部に張り出した額部の隅に○印を彫ってあるのかなと思いましたが、分かりませんでした。火焔輪は真円に近うて、3か所にチョンチョンチョンと簡略的な手法にて焔を表し、その部分には彩色がよう残ります。主尊のお顔は表情が全く読み取れなくなっています。ずいぶん肥った体を平面的に表現してありますので、さても珍妙なる雰囲気が感じられますのもおもしろいではありませんか。しかも弓や三叉戟などを異常なる小ささで表しているのもまた、微笑ましい感じがいたします。
なお、側面に紀年銘があるのかもしれませんが、左右の塔が密着しており確認できませんでした。
日輪・月輪には彩色の痕跡が僅かに認められます。銘の文字のバランスは失礼ながらあまりよろしくありません。また、珍しい異体字を使っている点は興味深うございます。具体的には「寛」と「庚」です。「寛」の異体字は、下の「見」の部分が「之」に近い形になっています。この異体字は初めて見ました。また「庚」は、「まだれ」の中が「ヨ」と「丈」を上下に重ねた字体です。ほかに「年」や「塔」も異体字ですが、この2字についてはさして珍しい書き方ではありません。
■■■年
奉待庚申塔
十月十二日
この塔は上部が破損しているばかりか、地衣類の侵蝕が著しく紀年銘が読み取り困難になっているのが惜しまれます。「塔」の異体字は先ほどの塔と同じです。
この左隣の、文化年間の文字塔「奉待庚申塔」および明和年間の文字塔「(梵字)庚申塔」は、写真は省きますが良好な状態です。しかも銘の文字のバランスがよく、よう整うています。
この塔は下部は破損し、「塔」の字が見切れてしまっています。日輪・月輪を大きく浮き彫りにしてあるのが特徴で、その部分に僅かに彩色が残ります。特に三日月形の月輪がおもしろうございます。
了仙童子
きれいな舟形の光背に、やさしいお顔で合掌するお地蔵さんが彫ってあります。銘を見るに子供の戒名のようなので、これは墓碑なのでしょう。諸般の事情で古い墓地を整理した際に、庚申様の並びにお祀りしたと思われます。
地衣類の侵蝕と風化が進み、おいたわしい姿のお地蔵様です。けれどもお慈悲の表情はよう分かります。こちらも墓碑ではなかろうかと推量いたしました。なお、個別の写真はありませんが、下段には上にお地蔵様の乗った三界万霊塔などがお祀りされています。冒頭の写真をご覧ください。
さて、この雛段の右側には、裏山に鎮座する蛇崎神社への参道上り口があります。その右隣りには一段高いところに囲いを設けて六地蔵様がお祀りされており、その六地蔵様にはそれはもう色とりどりのきれをかけてありました。地域の方の素朴な信仰心が感じられます。あとで六地蔵様の写真を見返したら手ブレがひどかったので、掲載は控えます。
大日本国霊場巡拝供養塔
回国供養塔と同じような意味合いの塔でしょう。六地蔵様のすぐ横に立っています。
2 下久部の庚申塔(イ)
蛇崎の隣が下久部(しもくべ)区です。下久部に鎮座する豊日岡神社には2つの参道があり、夫々の登り口に庚申塔が並んでいます。下久部は複数の土居に分かれるようですから、庚申塔が2つに分かれているのは庚申講が別なのでしょう。小さい地名を存じておりませんので、便宜的に蛇崎寄りの塔を「イ」、反対側の塔を「ロ」として区別することにしました。
仙台庵から県道に返り、先に進みます。ポンプ場の手前(左側の家並みが途切れるところ)を左折して道なりに行き、家並みが途切れたところの左側に豊日岡神社の鳥居が立っています。参道の左側に庚申塔が3基並んでいます。車は、後で紹介します「ロ」の庚申塔側の参道下に停めることができます。
このように文字塔が3基並んでいます。やや荒れ気味の印象を受けました。中央の塔は碑面が荒れて銘の読み取りが難しかったので、左右の塔を詳しく紹介します。
宝暦九巳卯天
奉待庚申塔
四月十日
この塔は縁取りのところがずいぶん傷んでいます。けれども上端の、複雑な曲線で表現したところはよう残っていますし、その突端が一旦すぼまって上に菱形に枠をこしらえてあるのも分かります。きっとその中に梵字を書いてあったのでしょう。銘には墨が残り、容易に読み取ることができました。
(読み取り困難)
庚申神
二月六日
こちらは傷みがひどく、紀年銘を読み取ることができませんでした。「庚申神」という言い回しはあまり見かけません。一見してどこにでもある文字塔のようで、珍しい銘を持つ貴重な塔ですから、大切に保存されることが望まれます。
3 豊日岡神社
庚申塔を見学したら豊日岡神社に参拝しましょう。今回は説明の都合上、「イ」の庚申塔側から上って神社に参拝し、反対に下って「ロ」の庚申塔を見学するという順番になっています。車の場合は逆の順番に辿るとよいでしょう。
豊日岡神社は川べりに突き出た尾根筋の突端に鎮座しています。それで、どちらの参道も石段が続きますけれども、そう長い距離ではないので容易に参拝できます。「イ」の庚申塔から上がる方の石段はやや傷んでおり、写真でも分かるように傾きが多々生じていました。今のところ緩みや浮きはなく、安全に通行できます。
尾根の突端を均した境内は窮屈で、小さめのお社が建っています。境内もお社も掃除が行き届き、小高いところなのでとても気持ちがようございます。お参りをしたら、竜の彫刻を確認してみてください。細かい彫りが素晴らしいし、目玉の表現もよう工夫されています。この規模のお社の彫刻としては立派なものだと思います。
お参りをしたら反対側の参道を下っていきます。
なお、この神社は明治初期に上久部の天満社と蛇崎の三島社が合併したものです。ですから下久部のみならず、蛇崎や上久部の方々の信仰も篤いのでしょう。
4 下久部の庚申塔(ロ)
参道を下っていくと、右側に庚申塔が並んでいます。すぐ分かります。
一見すると文字塔が6基のようですが、その左に刻像塔が1基倒れているので合計7基です。右端の塔のみ破損が著しいものの、ほかは良好な状態を保っていました。文字塔の銘は猿田彦と奉待庚申…の類が半々程度です。このうち比較的珍しい銘の文字塔を1基と、刻像塔を詳しく紹介します。
宝暦四戌天
猿田彦命守護(以下不明)
十月十五日
碑面の荒れと見慣れない字体とで、「守護」の下がどうしても読み取れませんでした。「猿田彦命守護」という言い回しは、お札に書いてある文言のような印象を受けます。
これはいったいどうしたことでしょう。上端に「猿田彦」と彫ってありますけれども、主尊の像容はどう見ても青面金剛です!猿田彦も青面金剛も「庚申様」として同一視あるいは混同した可能性があります。または青面金剛の刻像塔に猿田彦の文字を加えることで、より強い霊験を期待したのでしょうか?いずれにせよ大変珍しい事例であると言えましょう。
主尊はお顔の表情がまるで読み取れなくなっています。それでも3面に表そうとしたのではあるまいかと思われるほど大きな耳がよう目立ち、おつばも僅かに痕跡を残しています。外向きに張り出した腕で日輪・月輪を掲げ、時間の経過や天体をも統べる神怪しき力が感じられます。しかもその腕のすぐ下から赤い彩色で火焔輪を表現した痕跡も僅かに残り、これが鮮やかであった頃は威厳に満ち満ちた雰囲気であったと思われます。
両脇には童子ではなく、鶏が控えています。雄鶏と雌鶏を上手に表現して、その尾羽や目、トサカなどの細かい部分までよう行き届いています。猿はめいめいの小さな部屋にぎゅうぎゅう詰めにて、見ざる言わざる聞かざるのポーズをとっています。この種の猿の表現は方々で見かけるものの、こちらはことさらに窮屈な感じがして印象に残りました。
5 上久部の庚申塔
下久部の「ロ」の庚申塔から右方向に車で進みます(イの庚申塔からなら道なり)。県道34号との交叉点を直進して匠南団地を過ぎ、左の尾根が道路に迫るところの崖下に庚申塔が並んでいます。駐車スペースは十分にあります。すぐそばには延命地蔵様もお祀りされているので、あわせて参拝をお勧めします。
道路端なのですぐ分かります。この場所には文字塔が9基、刻像塔が1基、合計10基がずらりと並んでいます。地衣類の侵蝕や風化摩滅により、全体的に傷みが進んでおり残念に感じました。文字塔の銘は、珍しいものはありません。この中から文字塔2基と刻像塔を詳しく紹介します。
この塔は銘が実に堂々たる字体であり、その彫り口もくっきりとして見事なものです。梵字も流麗な字体で素晴らしい。しかもすべての文字に朱を入れてあります。ところが地衣類の侵蝕により銘の読み取りがだんだん難しくなってきているのが惜しまれます。紀年銘の読み取りは省きます。
青面金剛6臂
蛇崎の仙台庵で見かけた刻像塔と同じく、こちらも眷属を伴わず青面金剛のみの塔です。中央が大きく断裂して主尊の体にかかっているうえに、全体的に風化摩滅が進みおいたわしいことでございます。それでも赤い彩色がところどころに残りますし、じっくりと見ますとお地蔵さんに見代えのお慈悲の表情が読み取れました。
さて、碑面いっぱいに彫られた主尊はよう肥り、ガニ股の脚の表現など珍妙を極めます。しかも顔や体に対して腕は以上に小さく、短うございます。付け根がどうなとコチャ知らぬとばかりに、バランスなど一切無視した自由奔放な表現がほんに面白いではありませんか。額の真横に日輪・月輪を浮彫りにしてあるので、どうかするとシニヨンのように見えてまいりますのもまた面白うございます。
奉造立庚申塔?
目を皿にして観察しまして、どうにか「奉造立庚申塔」かな?と思えた程度のことにて、間違えている可能性があります。この塔は花崗岩のような気がしたので個別の写真を乗せました。もしそうであれば、よそから持ち込まれたのかもしれません。「かもしれない」ばかりで全く確証を得ない内容になってしまいますが、その場で考えたことの記録として残しておきます。岩質の見分けの目を持ち、銘の読み取りがもっと上手にできるようになりたやのうといつも思いますが、ままになりません。
今回は以上です。次回は久しぶりに、佐伯市は鶴岡地区のシリーズの続きになります。道順としてはこの記事と一続きになります。