大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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稙田の名所・文化財 その6(大分市)

 久しぶりに稙田地区のシリーズの続きを書きます。今回は大字市(いち)および大字玉沢の一部をめぐります。この辺りは新興住宅地や商業施設の増加に伴い景観が一変しましたが、石幢や庚申塔などの古い石造物や小さな堂様がたくさん残っています。特に雄城(おぎ)の常済寺跡(現・雄城公民館)の石仏・石塔群は、稙田地区でも屈指であると確信いたします。

 なお、今回の記事で紹介する名所旧跡については、すべて現地に駐車することが難しいので、歩いて巡ることを前提に道順を書きます。駐車場所としては七瀬川自然公園がよいでしょう。これまでに紹介してきた名所旧跡と組み合わせて、めいめいの探訪コースを工夫してみてください(記事末尾の索引リンクが便利です)。

 

18 市の地蔵堂の石造物

 七瀬川自然公園の駐車場から橋を渡って国道210号バイパス(ホワイトロード)に出たら左折し、ローソンのある交叉点を右折します。スシローよりも手前、右側1つ目の角を右折して細い道に入ります。これは肥後街道に由来する古い道です。この辺りは平成半ばにホワイトロードが開通してからは急速に市街化が進みました。今では民家が建て込んで、ゆるやかに屈曲する道筋や路傍の石造物などに昔のおもかげを僅かに残す程度にまで様変わりしています。

 さて、道なりに歩いて行くと右側に地蔵堂が建っています(冒頭の写真)。この堂様は昔から市部落の信仰が篤く、地蔵踊りがあります。昔は盆口説がありましたが、今は鶴崎踊りの音源を流して踊るようです。坪には石幢、四面仏、お観音様などが並び、お世話が行き届いています。

 冒頭の写真をご覧いただくと分かるとおり、幢身や中台は風化摩滅が進みつつあります。けれども中台には線彫りで表した蓮の花が僅かに残っています。シメをかけて、いつも湯茶があがっています。龕部の諸像の状態は良好で、細かい部分まで比較的よう残っています。この石幢で珍しいのは、十王様のうち数体は大きく、お地蔵様は小さく彫り出してある点です。普通は、十王様とお地蔵様は同じ大きさで彫ってあります。

 こちらが四面仏です。竿の上に矩形の石を乗せてあり、その石の紙面に仏様を浮彫りにしてあります。風化摩滅が惜しまれます。

 お観音様は全部で33体あります。西国三十三所の写し霊場であると思われます。台座に一番、二番…と彫っていないことから、各地に点在していたものを寄せたのではなく元々この場所に造立したものと推量いたしました。いずれも状態がすこぶる良好です。

 

19 市の天神様の石造物

 堂様をあとに道なりに行きますと、左側に「市公民館入口」の看板があります。それを目印に背戸を入ります(車不可)。突き当りに公民館と天神様が並んでおり、その坪に庚申塔などがお祀りされています。

 このように、入口からすぐ先にお社が見えていますのですぐ分かります。裏から入る道もあるようですが私有地との境界がよく分かりませんでしたので、通り抜けは遠慮しました。

従是東臼杵

 おそらく道路工事などでこの場所に移されたものでしょう。このような境界石は方々に残っておりますので、文化財に指定されている事例は稀です。けれども歴史を伝える貴重な石造物であると存じます。見学をお勧めします。

青面金剛6臂、2童子、ショケラ ※鶏と猿は不明

 この庚申塔は碑面の縁取りがなく、舟形の塔身いっぱいに厚肉彫りにした主尊と童子の存在感が見事なものです。風化摩滅が進んできておりますけれども、今のところ細部まで分かります。日輪・月輪と瑞雲には朱が残り、渦巻き模様で表現した瑞雲が風変りで印象に残りました。

 主尊は細い目をきりりと吊り上げたいかめしい表情で、よう肥って顎の肉がたるみ首がほとんどありません。長さも太さもまちまちの腕は自由奔放に曲がっています。脚を肩幅に広げて堂々と立ち、童子は主尊に押し出さそうなほど密着しています。優しそうな表情で、こけし人形のような雰囲気が可愛らしいではありませんか。鶏と猿は見当たりませんでしたが、或いは台座の前面に彫ってあるのかもしれません。その部分の確認が困難でした。

大乗妙典

 一字一石の文言はありませんでしたので、詳細は分かりません。このお塔は扁平な笠に破風の屈曲が相俟って、さても風雅なことでございます。しかも反花や宝珠もよう残っています。

 

20 雄城の石造物(○地域名「嶷北」の由来)

 公民館から元の道に返って先に進み、突き当りを左折、2車線の道に突き当たったら右折します。この辺りは市街化が進み古い道筋が失われているようです。道なりにずっといくと、トキハ稙田店の裏を通ることになります。わさだタウンバス停のあたりの二股を左にとって旧道(狭い方の道)を歩きますと、左側の水路の向こう側に碑銘や五輪塔、仏様が並んでいます。

 碑銘の上部には右横書きで「嶷北安東先生碑」とあり、その下に碑文をびっしりと彫ってあります。漢文で読み下しが大変なので、詳細は省きます。嶷北安東は江戸時代の俳諧師で、延岡出身とのことです。これはもちろん本名ではありません。嶷北(ぎほく)といえば、稙田地区一帯の別称です。霊山(りょうぜん)を九嶷山とも申しまして、その北側にあたりますから美称的にこのように呼び習わしてきました。それを筆名に取り入れたということは、延岡出身とはいえこの地域にゆかりのある方なのでしょう。この分野には疎く、不勉強で詳しいことは分かりません。

 隣に2体並んだ仏様は状態がすこぶる良好です。右の台座には安東キヌさんのお名前が彫ってあります。左の台座には「明和十二年三月吉日 ヲギ村」とあります。ヲギ村は雄城村、今の雄城部落のことです。 

 句碑は達筆な字体で彫ってあり、一部しか読み取れませんでした。現地に説明板が欲しいところです。

 

○ 新民謡「新稙田音頭」

 文句に嶷北という言葉が出てくる新民謡を紹介します。この小唄は平易な曲調で唄いやすいし、稙田地区の四季折々の風物と霊山寺西寒田神社・高瀬石仏・賀来神社(善神王様)という地域を代表する名所旧跡を唄い込んだ文句もよく、流行しました。今なお盛んに唄われ、供養踊りやお祭りの流し踊りなどには欠かせない、稙田地区のふるさとの唄として広く親しまれています。

〽ハー 春は霞の霊山さまよ 豊の街並み見下ろして
 嶷北の文化を守ってござる ほんに稙田は(ソレ)
 ほんに稙田は ソーレソレソレ よいところ
〽ハー 萌える若葉の西寒田さまよ 皐月の鯉に藤の花
 神楽囃子に浮かれて踊る ほんに稙田は(ソレ)
 ほんに稙田は ソーレソレソレ よいところ
〽ハー 夏は高瀬の石仏さまよ 七瀬の川に蛍狩り
 かわいあの娘に情けをかける ほんに稙田は(ソレ)
 ほんに稙田は ソーレソレソレ よいところ
〽ハー 秋は黄金の善神王さまよ 笛や太鼓で賀来祭り
 今年ゃ豊年 稲穂も揺れる ほんに稙田は(ソレ)
 ほんに稙田は ソーレソレソレ よいところ

 

21 雄城の新四国霊場と金毘羅様(常済寺跡の石造物)

 さて、いよいよ今回の目玉であります常済寺跡の石造物です。雄城公民館の坪にて、軽自動車ならどうにか上がりますが道が狭くて危ないし、近隣の方の迷惑になりそうですから歩いて行った方がよいでしょう。嶷北安東の碑銘を過ぎてほどなく、雄城公民館入口の看板があります。その角を左折して急坂を上っていけば大山茶花の木があります。そのすぐ上です。

 二股のところの山茶花は枝ぶりが素晴らしく、今度花の時季にまた行ってみようと思います。ここから旧参道の石段がありますが通行止めになっています。右に行ってもよいし、または徒歩であれば直進しても境内に入ることができます。なお、直進してさらに急坂を上れば雄城台高校に至り、その用地の端には雄城神社が鎮座しています。写真がないので今回は省きますが、あわせて参拝するとよいでしょう。

 説明板の内容を転記します。

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大分市の名木 さざんか

樹高8m 樹齢150m 幹周1.4m
 保元の乱に敗れて九州に流された源為朝が、のちに雄城の台に常済寺を建てたが、この木は時代をこえて享保年間に植えられたものと言われている。

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 境内の一角におびただしい数の仏様が並んでいます。こちらは雄城の新四国の一部で、寄四国の様相を呈しています。拝見して、丸彫りの坐像と光背を伴う像とが互い違いになっていることにすぐ気付きました。丸彫りの坐像はお弘法様、光背を伴う像は四国八十八所の各札所の御本尊です(光背に小さく札所の番号が彫ってあります)。この2体がセットになっておりますから、単純計算で176体の仏様が並んでいることになります。この区画だけでもかなりの数ですが、到底176には足りません。別の区画(後で出て来ます)にもかなりありますし、前項の嶷北安東の碑銘そばにあった2体も蓋しこの関係でありましょう。地域内に点在していた仏様のうち、道路工事その他にかかったものを境内に集めたのではないでしょうか。

 小さな像ばかりですけれども彫りが丁寧で、しかもめいめいにみんな造形が異なり素晴らしい。密集していますので一体ずつの確認は骨がおれますが、これだけ並んでいると壮観です。

 特にこのお弘法様のお顔の朗らかなことといったらどうでしょう。お参りをいたしますと胸の曇りも晴れゆかんとする心地にて、さてもありがたいことでございます。

 このすぐ隣には金毘羅様などの石祠が鎮座しており、その横に石幢が立っています。

 笠が少し傷んできているほかはすこぶる良好です。中台は、六角形にて直線的な造形の中に、蓮の花びらの反りもごく浅くすることで幾何的な調和がとれているように感じました。

 この石幢で特に素晴らしいのは、龕部の六地蔵様です。くっきりと面を立てた龕部には、半肉彫りの非常に丁寧な表現でお地蔵様を表しています。めいめいに所作が異なります。しかも蓮台や手足の指などごく細かい箇所まで彫り込んであり、これほどのものは石幢の龕部としては稀であると存じます。

 金毘羅宮と彫った2基の灯籠を伴い、金毘羅様が丁重にお祀りされています。近隣から遷座したものと思われます。左の石祠はなかなか変わった造りになっています。

 こちらの区画には宝篋印塔を中心に石幢などの石塔類、さらに新四国の仏様もたくさん並んでいます。これは素晴らしい。あまり密接しているので掃除や草取りに難渋されるようで、草が少し伸びてきていましたが、放置されているわけではありません。手入れをされている痕跡がありました。地域の信仰が篤いのでしょう。

 石幢の後家合わせではなく、元からこの造りであったと思われます。はたしてこれを石幢としてよいのか分かりません。けれども、二階建ての宝篋印塔があるように、石幢にも龕部が二階建てになったものがあってもおかしくはないと考えます。或いは、六地蔵塔と呼べば適切かもしれません。呼称の別はどうでも、とにかく珍しくて豪勢なお塔です。しかも上部には別彫りの坐像が乗っています。蓋し、上の仏様は能化様の意味合いがあるのでしょう。龕部のお地蔵様は、上と下とで表現が異なります。上段のお地蔵様は先ほどの石幢にも増して細やかな彫りが素晴らしい。下段もふくよかな表現が良いと思います。

 隣は六角柱の上に丸い石が乗っています。これは石幢と五輪塔或いは宝塔の後家合わせかもしれません。

発起人
 安東友治禅友道者
明治四十一年五月吉日
八十八ケ所石佛設立 世話人
願主 現住教道
 石工 鷲■伊三郎
    仝 官■

 新四国の石仏は思いの外新しいものでした。明治以降に新しい新四国霊場を開いた事例は稀であるような気もしますが、なかなかどうして、玖珠町は鶴ヶ原など、明治以降の事例はいくらでもあります。世話人には20名程度のお名前が彫ってありました。

 この宝篋印塔は造りの特徴から、江戸時代以降のものと思われます。傷みが少なく、ほぼ完璧な状態で残っていることに感銘を覚えました。たいへん豪華な造りで素晴らしいと思います。隅飾りが大きく外に発達し、その曲線模様と、直線的な段々が相俟って一種独特に雰囲気を醸し出します。塔身が2階建てになっており、上段には四面に梵字を彫ってあります。しかも丸い浮彫りを朱に、その中の梵字には墨を入れるという手法をとっています。段の境目には蓮台を挿み、この箇所が矩形でありながらも段違いに配した花びらが見事なものです。下段には「宝篋印塔」の文字や、遍く衆生の追善を願うて造立する旨がびっしりと彫ってあります。基壇もまたよくて、矩形の段々を連ねる形式ではなくすべてが蓮花など装飾性を伴います。

 より古い時代の宝篋印塔の、どっしりとした重厚感が薄れてきて、より装飾的かつ華奢になっていった過程がうかがわれます。特に文化財指定はなされていないようですが、大切に保存されるべき貴重な文化財であると言えましょう。

 この並びの石塔群の辺りは特に荒れ気味です。中央の塔には「宝篋印陀羅尼」と彫ってありました。つまり、造形こそ違えどこちらも宝篋印塔と同じ意味合いのものであることが分かります。

 旧参道を上がってくれば最初に出会う仏様です。今は旧参道が通行止めですから、袋小路になっています。

 また別の区画の端にも、先ほどと同じような龕部が2階建てになった六地蔵塔が立っています。下段は八面で、六地蔵様と二王様が浮き彫りになっています。上段は六地蔵様です。上下で形が合わないので、後家合わせかもしれません。けれども、たいへん立派でありがたいお塔です。

 お弘法様などが鄭重にお祀りされています。この霊場を代表する仏様として、特別にお祀りしてあるのでしょう。

奉造建六道能化地蔵願王菩薩
文三戌■天十二月十七日

 遠目に形だけ見て社日塔かなと思いましたが、銘を見て石幢の残欠(幢身)であると合点がいきました。

四国八十八ケ所遍路供養塔

 この新四国を代表するお弘法様です。こちらにお参りをすれば、境内の仏様を巡拝するのと同じお蔭があると思います。

 

今回は以上です。「稙田タウン」の近くに、こんなにありがたい名所があるとは知りませんでした。みなさんに参拝・見学をお勧めいたします。次回は別府市の懐かしい風景を紹介する予定です。

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