大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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別府・浜脇の名所めぐり その3(別府市)

 今回は昔の絵葉書で見る別府の風景です。名所絵葉書はたくさんありますが、その中でも旧桟橋(別府港)周辺の賑わいと名所の風景を2回にわたって紹介します。手持ちの絵葉書の中では特に気に入っている絵葉書ばかりです。懐かしい唄の文句も挿みながら、今は昔の別府名所をめぐります。

 

15 旧別府港の賑わいと横灘の面影(絵葉書)

 いま、流川通りを下ると、正面にゆめタウン別府店が建っており海は見えません。ここが旧の別府港(一般に「桟橋」と呼んでいました)の跡地で、平成初期に埋め立てられ、紆余曲折の末に商業用地となりました。ですから今では、現地の風景を見て昔の面影を偲ぶことは難しい状況です。昭和33年に観光港(石垣地区にある今の主要港湾です)が竣工し、昭和42年を最後に旧別府港は使われなくなったので、昔の別府港の賑わいを実体験として覚えている方は70歳以上の方に限られるでしょう。けれども思い出話を盛んに聞きますし、たくさんの絵葉書が残っていますから容易にその様子を知ることができます。

 大正頃より別府観光が隆盛を極め、大阪や神戸、宇和島などあちこちから大型の旅客船がひっきりなしに往来し、たくさんのお客さんを運んできた時代がありました。今やカーフェリーが主流になって久しいものの、昔は旅客船が主であったのです。特にすみれ丸、くれなゐ丸など、大型の豪華な船が名を馳せました。船が陸が近づいてくると、海に落ち込む高崎山を左に、扇状地の沿岸部に密集する建物、山手を見ますと扇山や鶴見山、しかも方々に湯煙がたなびき、それはもう素晴らしい風景が広がります。それを眺めれば、いよいよ期待感が増してきたものと思われます。汽車の旅もようございますが、やはり遠方から別府に訪れるには船がいちばんでしょう。

THE BEAUTIFUL SCENE OF THE QUIET RESORT, BEPPU PORT, BEPPU.
(別府名所)波静かなる別府港の風景

 大型の船の着く桟橋の北側に舟溜まりがあったようで、小型の舟がたくさん係留されています。昔、別府湾が速見が浦、その沿岸の村々が横灘と呼ばれていた時代には沿岸部の一面に漁師町が広がっていました。

 

○ 新民謡「別府ばやし」

 この唄は向浜あたりで唄われていた騒ぎ唄を元に作られた新民謡で、昭和40年代にレコード化されて以降、盆踊りの際に綾棒を打ちあわせながら盛んに踊られてきました。綾棒を用意するのが面倒でひところ下火になっていましたが、最近はまたちらほら復活してきています。漁師町としての「横灘」の面影を今に伝える唄です。

〽ハーエー 浜の漁師の嫁ごにゃなるな(サテサテサテサテ)
 取れた取れたにエー 片ば嫁(サイサイサイサイ)
〽ハーエー ヤサンヤレコと櫓を漕ぐ腕も(サテサテサテサテ)
 明日は明日のエー 風による(サイサイサイサイ)
〽ハーエー どげんこげんと言われちゃみても(サテサテサテサテ)
 潮に逆さのエー 櫓は漕げん(サイサイサイサイ)
〽ハーエー 上り下りの潮にもよるが(サテサテサテサテ)
 けばのあるなしゃエー 風による(サイサイサイサイ)
〽ハーエー 大漁々々にゃ迎え火焚いち(サテサテサテサテ)
 岸じゃ嫁ごもエー 恵比寿顔(サイサイサイサイ)

 

 このような舟溜まりは、どこの港町でも見られた風景ですし、今でも見かけます。それを絵葉書にしたのは、もちろん別府港自体が名所であったということもありますが、高崎山の存在が大きいのでしょう。あの独特な山容、急傾斜にて海に落ち込む山の風景と舟溜まりの光景が相俟って、見事な風景をつくり出しています。しかも、このようにモノクロの絵葉書になりますと、まるで切り絵細工のような雰囲気が感じられてなかなかよいと思います。

○ 新民謡「別府舟唄」

 もう一曲、「横灘」の面影を伝える小唄を紹介します。これは弁護士をしながらたくさんの新小唄・民謡を作り自ら広めた山下彬麿さんによるもので、ずいぶん流行ったそうですが今ではすっかり忘れられてしまっています。レコード化はされませんでしたが、文句違いの「舟唄」という新民謡を三島一声が吹き込んでいます(SP盤のみ。復刻はされていません)。のんびりとした節の、よい唄です。

〽ハー 別府湯の街ゃ まだ寝て起きぬヨ 招く高嶺は由布ヶ嶺
 アーオイ アーオイ アーエンヤラヤーノヤー
〽ハー 別府湯の街ゃ 朝日に明けるヨ 赤い甍は妹が宿
 アーオイ アーオイ アーエンヤラヤーノヤー
〽ハー 別府湯の街ゃ 男浪に女浪ヨ 調子頼むぞ音頭取り
 アーオイ アーオイ アーエンヤラヤーノヤー
〽ハー 別府湯の街ゃ 飛沫に暮れるヨ ついた灯はおらが浜
 アーオイ アーオイ アーエンヤラヤーノヤー

 

(温泉別府)別府港桟橋
Hot Spring Beppu, Beppu Harbour.

 これは戦後の風景で、おそらく昭和30年代でしょう。上のモノクロの絵葉書と見比べますと桟橋の建物がモダンな3階建てに変わっています。けれども舟溜まりの光景は相変わらずです。戦後になりますと新婚旅行客の往来も増加しました。遠方より船に乗って来て別府や宮崎を巡る事例が多々あったほか、別府近郊から大阪や京都方面への新婚旅行もまた定番でした。

 

○ 新民謡「別府行進曲」

 この曲は昭和11年の発表で、霧島昇が吹き込みました。裏面は音丸の「温泉おどり」で、レコードは大ヒットしています。「別府行進曲」といえば、ほかに「若きアジアの黎明に…」と唄い出す曲もあります。そちらも明るく朗らかでよい曲なのですが、今回紹介する曲の方がより人口に膾炙したものです。明るい歌詞にそぐわない短調の曲ですが、流行歌調にて唄いやすく、ずいぶん流行りました。戦争が激しくなると横文字の文句がやり玉に上がり一時下火になりましたが、戦後には先ほど申しましたように新婚旅行客の増加等もあり再び盛んに唄われました。その後時代の流れで次第々々に下火になりましたが、お祭りのときなどに音源を流しているのを聴いたことのある方も多いと思います。

〽別府通いの汽船の上で ちらり見交わす顔と顔
 あなたもアベック 私もアベック
 ホネームーンの ホネームーンの青い空
〽派手なパラソル散る花受けて 地獄めぐりの麗らかさ
 あなたもドライブ 私もドライブ
 街は湯の川 街は湯の川 湯の流れ
〽瀬戸のさざなみ、そよそよ夜風 なぜか嬉しい対浴衣
 あなたもスマート 私もスマート
 ダンスしましょか ダンスしましょか月の下
〽浜の砂湯でほのぼの二人 夢見心地の真帆片帆
 あなたも永久 私も永久
 別府湯どころ 別府湯どころ縁どころ

 

 これは別府タワーの展望台から写したもののようです。高崎山の右には金毘羅山や吉備山が写っています。金毘羅山の頂上には金毘羅様が鎮座しており、別府名所として知られていました。昔の絵葉書で別府市街全景のものは、たいてい金毘羅様から撮影したものです。それはまたいつか、金毘羅山を紹介するときに掲載します。

 桟橋の絵葉書の中でも、特に好きなものです。出船のときにテープを引く光景も、今は昔となってしまいました。観光客以外にも就職などに際して、桟橋は別れを象徴する場所でもありました。

 雨の降る中を、見送りの人たちがものすごい人数集まっています。この絵葉書を見て、「瀬戸の島々」の文句を思い出しました。あの唄の文句はやはり、旧別府港なのです。今の観光港ではちょっとイメージが合いません。

○ 新民謡「瀬戸の島々」

 この唄も山下彬麿さんの作で、別府の唄の中でも屈指の名曲です。昭和5年に草野つゆ子のレコードが出たものの当初はそこまで流行らず、口さがない人は唄い出しの文句を揶揄することもあったようです。ところが昭和9年、別府検の富江さんが吹き込んで「久住高原の唄」との組み合わせで出したレコードがヒットし、異常なる大流行と相成ったわけです。輪踊りの振りもつき、勝太郎の「別府音頭」、音丸の「温泉おどり」などと並んで盆踊りの定番として広く親しまれました。残念ながら平成以降はトンと下火で、中浜筋の地蔵踊りなど一部で踊られるのみでしたが、近年は海門寺の盆踊りで復活しています。でも踊り方がずいぶん簡略化されてしまいました。右に左にカーブしながらゆったりと流していくところが、別府航路の船が瀬戸内海を進んでいく様子をよう表していたのですから、あれを省かずに昔のとおりに踊った方がよいように思います。

〽瀬戸の島々ヨー 波々越えて 豊後別府へはるばると
 豊後別府は東洋のナポリ 今じゃ世界の湯の都
〽花に若葉にヨー 鶴見ヶ丘よ 波に月浮く的が浜
 浜の彼方はありゃ日出の城 磯にかれいの棲むところ
〽地獄巡りてヨー 石垣原よ ここは大友古戦場
 戦場通れば夏草繁る 今もつわもの夢の宿
〽鶴見おろしにヨー テープはなびく 嶺はしぐれて招く由布
 由布よ曇るな鶴見よさらば 一夜波路じゃまた逢える

 

16 別大電車と旅館街(絵葉書)

 別大電車は亀川駅から大分駅まで、ほとんどの区間を国道10号を通っていた路面電車です。明治33年の開業で、昭和47年に廃止されました。以前大野町のシリーズの中で沈堕の滝の発電所跡を紹介しました。当初はあの発電所の電気を送って動かしていたそうです。

 さて、国道10号を通っているということは国鉄と並行していたということで、特に停留所の間隔がまばらになる東別府・西大分間の乗客は少なかったのではあるまいかとも思えますが、実際は末期まで乗客が多かったそうです。昭和36年の集中豪雨では仏崎の崖崩れでちょうど下を通りかかった電車が埋没し、たくさんの方が亡くなりました。その当時の話を今も盛んに聞きます。

 停留所のうち、別府市内にあったものを列記しますと以下のとおりです。

両郡橋、東別府駅前、浜脇、松原通、永石通、流川、北浜、仲間通、富士見通、境川、餅ヶ浜、国際観光港、春木川、深町、六勝園、上人ヶ浜、遺族会館前、照波園、弁天前、亀陽泉前、亀川新川、亀川駅
支線:北浜、弥生通、別府駅前 ※昭和31年廃止

 以前にも掲載しましたが、再度載せます。右に桟橋が写っていますから、流川通りへの分岐辺りのはずです。片道3車線となった今の国道10号とは隔世の感がございます。小さな電車、自動車、人力車が道路を走り、日本髪の女性も写っています。そして道路端に並ぶ旅館の立派なことといったらどうでしょう。木造3階建ての見事な建築です。当時、一般の旅館のほか貸席(かっせき…妓楼のこと)など、3階建てやどうかすると4階建ての豪壮な木造建築が軒並びにて、壮観であったと聞きます。平成初期までは浜脇に古い貸席の建物が残っていましたが、再開発によりその多くが取り壊され、今やほんの数軒を残すのみとなりました。

 

17 北浜の砂湯(絵葉書)

 いま、天然の砂湯と申しますと上人が浜に僅かに残るのみとなっています。昔は北浜など、一面に砂湯がありました。別府は埋め立てにつぐ埋め立てで、昔の海岸線がほとんど失われています。道路拡幅や鶴水園の旅館街の振興など、街の発展に伴いやむを得なかったこととは思いますが、昔のままの浜がもう少し残っていたら、さぞや風光明媚なことであったでしょう。

 さて、砂湯というものはよほど観光客の耳目をひいたようで、各種地獄や景勝地などに比べても絵葉書の種類が段違いに多いように思います。手持ちの絵葉書を全部載せると多すぎるので、適当にピックアップしました。

 日本髪や庇髪の女性がずらりと横たわり、髪が崩れないように高い枕を使用していることが分かります。お世話をする係りの女性が腰を曲げて立っています。

 海水浴がてらの砂湯でしょうか。女性はみな日本髪で和服を着ている中に、一人だけ水着姿にパラソルを差している人がいます。その人も日本髪で、なんとも珍妙な雰囲気です。左の大きな和傘とは対照的で、いかにも昭和初期らしい風景です。

(別府名所)海岸砂湯の実況 其十八

 女性は日本髪、束髪、洋髪それぞれで、男性はヘコ帯一つで横たわっています。見物に来た人も写っています。絵葉書のキャプションを見ますと「その18」とあります。この発行元からは、砂湯の絵葉書だけで少なくとも18種類も出していたことが分かります。

 おそらく宣伝用に、別府検の芸者をモデルにしたものでしょう。灯籠鬢の大島田に水着姿という、なんとも珍妙な雰囲気がただよいます。

 上のモノクロの絵葉書と同じメンバーです。モノクロの写真に着色したものでしょう。まったく違和感のない、見事な彩色です。

別府天然砂湯

 これは、少し小さめのサイズの絵葉書です。砂絵風の絵であり、写真をもとに描いたと思われます。あたたかなタッチの絵がとてもよいと思います。

海岸天然砂湯
独特の砂湯で、滑らかな感触の海辺の干潟に湧く暖砂に寝ながら別府湾の風光を眺めるも亦格別。

 昭和20年代か30年代のものと思われます。ひとつ上の絵葉書と同じタッチのものです。

 これは昭和30年代か40年代で、別府タワーが写っています。北浜の砂湯の、末期の頃でしょう。この場所はすっかり埋め立てられてしまい、今や何の面影もありません。

 別府名所として名をはせた砂湯は、亀の井バスの名所解説では次のように紹介されてます。

「左浜辺の浴場は 海の裾から出湯湧き 砂に埋もりて湯浴みする まことに天下一品の 天然砂湯でございます」

 

18 流川通り(絵葉書)

 流川通りこそは別府随一の繁華街で、不夜城の賑わいでした。流川と申しますのは、もともとこの筋には川が流れていたものを、暗渠にしたそうです。それで、昔川が流れていた頃は遊郭からの帰りに橋を渡るものですから、流川にかけて名残川などと洒落る向きもありました。

 亀の井バスの名所解説は次のとおりです。あの長い長い名所解説の冒頭ですから特に印象深く、この文句を今なお懐かしく思い出す方も多いことでしょう。

「ここは名高い流川 情けも篤い湯の街の メンストリートの大通り 旅館、商店軒並び 夜は不夜城でございます」

別府温泉)泉都の商店街流川通り
A FAMOUS PLACE OF BEPPU HOT SPRING

 まだ舗装しておらず、道路に轍が残っています。モノクロの写真に着色したものです。この通りをまっすぐ、ずっと上っていくとラクテンチのケーブルカーがあります。うっすらと写っています。写り込んでいる看板などを読み取れる範囲でざっと拾い上げますと「旅館ひさご」「はり」「鍾乳洞行と地獄めぐり」「中村病院」「八幡浜宇和島行」「竹瓦アーケード」等があります。「はり」は縫い針のことで、昔は別府土産として竹細工や別府絞などと並んで人気が高かったそうです。竹瓦アーケードは今も当時のままで残っています。まったく、旅館商店軒並びとはよう言うたもので、ビリケンさんのところにはダンスホールもありました。

 昭和30年代と思われます。海岸線から少し上ったあたりです。看板の文字もそうですし、建物の造りが、やはり戦前の様子とはずいぶん違ってきています。

灯輝きて
Beppu Hot-spuring
別府温泉の商店街、赤いネオンに青い灯、宵闇の迫まる頃宿を立ち出でた浴客のそゞろ歩きに夜の更くるを知らぬ賑ひを呈する。

 雨上がりの道路に街灯が輝いています。自動車の往来の絶え間を知らない今の流川通りからは想像もできない風景です。看板を拾い読みしますと、「大売出し」「写真材料船越写真館」「安東医院」「みつ屋」「カステーラ」「花籠」「ビリケン」「ダンス」「シイタケ」「おみやげ屋 竹籠」「仁壽堂薬局」などが確認できました。

○新民謡「別府小唄」

 この唄は節が難しいので廃ってしまいましたが、戦前にはよう流行りました。レコードは、大山利夫と繁代が片面ずつ吹き込んだものが出ているほか、地獄めぐりの文句を亀の井バス車掌が名所解説の半ばで唄うレコードもあります。文句がたくさんある中で、繁代が吹き込んだ「お湯にほてりて…」と「夢か寝覚めの…」の2節は特に人口に膾炙し、別府検はおろか一般においても盛んに唄われたものです。80歳以上の方であれば今でも唄える人もいると思います。

〽お湯にほてりて情けに酔えば
 月もおぼろに ササ更け行く灯影
 今宵別れていつまた逢える
 浮名流れりゃ トコサイサイ流川
〽夢か寝覚めのひと村雨
 またの逢瀬を ササ契るもうつつ
 とめてとまらぬ出船の銅鑼に
 名残紐ひく トコサイサイ海と陸
〽鴎飛び交う砂湯の沖に
 響く汽笛は ササ誰呼ぶ声ぞ
 なびく湯けむりゃ鶴見の裾野
 あつい情けの トコサイサイ 燃えるよに
〽鶴見枕にかんたん湾を
 抱いて夢見る ササ姿のいとし
 四季の風情は湯靄に霞む
 花に月雪 トコサイサイ人に恋
〽出湯渦巻きゃ湯けむりゃ踊る
 桜紅葉の ササ里にも野にも
 湯の香ほのぼの身もほのぼのと
 ほんに湯の国 トコサイサイ湯の世界
〽恋の綱引くケーブルカーで
 登りゃ乙原 ササ気も晴々と
 関は煙よ四国は雲よ
 沖の霞は トコサイサイ薄化粧
〽地獄めぐりは亀乃井バスよ
 乗ればにっこり ササ乙女の車掌
 名所解説節面白う
 唄う車内の トコサイサイ和やかさ
〽鶴見八幡石垣原を
 行く手楽しき ササ遊覧コース
 動く野山の景色に見とれ
 バスの小揺れの トコサイサイ乗り心地
〽お湯の鉄輪朝日に映えて
 踊る湯煙 ササ渦巻く出湯
 海の見晴らし見飽かぬ山は
 色はコバルト トコサイサイ海地獄
〽燃ゆる情けの胸の火よりも
 赤い血の池 ササ煮え立つ竈
 めぐりめぐりて速見が浦に
 関の煙を トコサイサイ見て帰る

 

長くなりすぎるので一旦切ります。次回、この続きを書きます。

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