大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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別府・浜脇の名所めぐり その4(別府市)

 前回の続きで、別府温泉・浜脇温泉かいわいの昔の風景を絵葉書で見る記事です。本当は遊郭(入江町)や中浜筋の絵葉書も載せたいのですが、まだ手に入れていません。でも松原公園や楠本通り、旧の浜脇公園、いろいろな温泉の立派な建築などたくさん掲載しますので、きっと興味深く御覧いただけると思います。

 

19 楠本通り(絵葉書)

 別府の商店街で最も華やかだったのは前回紹介した流川通りです。それと同じくらいに賑おうたのが楠本通り(今の楠銀天街)でした。楠本通りの読みは「くすもとどおり」ではなく「くすのきほんどおり」です。楠町は、楠温泉およびその傍にあったという楠の大木に由来する町名です。旧町名(通称地名)では広義の楠町の中が細分化され、楠本町や楠浜町の町名がありました。流川から松原まで抜ける長い目抜き通りが通じたのが昭和3年のことと申しまして、それにより楠本町は繁栄を極めたのです。当時は流川と松原周辺が隆盛を極めており、しかも銀座通り(今のソルパセオ銀座)から一続きにて、楠本通りも賑おうて当然でした。

 昭和12年には楠銀天街と改称し、この賑わいは昭和40年代まで続きました。殊に年末年始など押すな押すなの大賑わいであったと聞きます。ところが平成以降は衰退著しく、最近はアーケードの老朽化が問題となり新聞記事になるなど、時代の流れとはいえ寂しいものです。アーケードを取り壊したら、また何らかの方法で賑わいを取り戻せるとよいのですが。

 さて、昔の楠本町には土産物屋などもありましたが、どちらかというと日用品店など地元客向けの小売店が主になった商店街でした。看板を拾い読みしますと「かねますや絞」「小間物と化粧品」「船越写真館」「尾花屋」「別府特産美術竹細工」「服地 毛糸 手芸材料」「菓子 土産品」などの文言が確認できます。

 

20 松原公園(絵葉書)

 松原公園は別府で3番目に古い公園で、大正3年の開設です。朝見八幡の御旅所に開かれました。それで、朝見八幡のお祭りはもとより、温泉まつりのときなどものすごい人手で、それ以外も平素より小屋掛けの露天商が軒並びでした。

 この絵葉書は流通量がよほど多かったのか、盛んに見かけます。松原から浜脇一帯の華やかなりし時代を象徴するものです。今の松原公園は、池を埋め立てて何の変哲もない広場ですが、当初は池の中央に噴水があったことが分かります。左にあるひときわ大きい洋風の建物は松濤館という常設の劇場です。ほかにも映画館など多種多様な娯楽施設が軒並びにて、別府の街でいちばんの遊び場でした。浅草六区に比肩するとも言われた賑わいは、絵葉書からはうかがい知ることができませんが、普段から地元の人や観光客が大勢集まり、しかも遊郭からも近かったので、日に夜を継いでの華やかさであったと聞きます。

~~~旧『別府市史』より

松原公園(市設)
 別府唯一の街路公園として、大正3年9月の創設に係る。別府市大字別府字松原にあり。平坦にして正方形をなす。面積189坪、少しく狭隘の感ありといえども、園内ならびに付近に劇場松濤館、活動写真常設館等ありて、市中最も繁華熱閙の地なり。中央に噴水池を設け、花卉を植栽せり。

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21 旧浜脇公園(絵葉書)

 いま、浜脇公園と申しますと国道10号沿いの児童公園をさしますが、昔の浜脇公園は山家にありました。長覚寺や崇福寺の裏手、金毘羅山の中腹は昔、一面が墓地でした。市街地のすぐそばに広大な墓地があることに障りが生じたそうで、その墓地は芝尾に集団移転しました。その跡地に、明治44年に開かれたのが旧の浜脇公園です。戦後には浜脇中学校の用地になり、数年前にその浜脇中学校も閉校しました。

 公園は高台に位置したので、浜脇の昔の街並みが一目の景勝地でした。絵葉書を見ますと、見晴らしのよいところにベンチが並んでいます。浜脇は平成初期の再開発により様相が一変しましたが、昔は曲がりくねった細い道に沿うて古い家屋が密集していました。民家のみならで温泉、旅館、貸席などの立派な建物もあり、それらの瓦屋根が折り重なるように集まり、向こうは海ですからさぞや風光明媚なことであったと思います。

~~~旧『別府市史』より

浜脇公園(市設)
 別府市大字浜脇字上ノ町にあり。面積651坪、明治44年5月創設、四極山麓の平地にして、やや長方形をなす。自然的材料皆無のため、すべて人為に待てる人工的公園にして、園内に松樹ならびに雑樹を植栽し、噴水池一を設く。地勢高隆なるがため、渺茫たる別府湾の煙霞と、碧甍鱗次せる市街の観望をなすに便なり。

※四極山=高崎山

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22 旧別府公園(絵葉書)

 昔の別府公園は、今の別府公園よりも南側の区画(テニスコート保育所、職安のあるあたり)にまで広がっていました。今の別府公園の1.5倍ほどもあったすこぶる広大な公園で、明治40年の開設です。戦後、旧別府公園周辺は進駐軍のキャンプ地「チッカマウガ」となり接収され、返還されたのちに整備されたのが今の別府公園です。

~~~旧『別府市史』より

別府公園(市設)
 別府市大字別府字原にあり。地勢概ね平坦にして正方形をなし、広さ10614坪、別府駅を距る西方約7町、市より石垣、朝日、亀川の各温泉に通ずる、所謂温泉回遊道路の衝にあたり、交通すこぶる便なり。松林蔚乎として奇石点在せるの間、巧みに自然の地形を利用して、歩道を設けたる、純然たる森林公園なり。市主催中外産業博覧会の開催にあたり、この地を卜として、第1会場にあて、己に大分新聞社寄贈の音楽堂、ならびに豊州新聞社寄贈の噴水塔、本会施設の熱泉噴水塔などありて一異彩を加う。また大分県は園内既設の大分県商品陳列所をもって、大分県出品館に充つ。
 本公園は、明治40年11月、大正天皇の尚東宮におわしし際、この地にわざわざ鶴籠を抂げさせられたる事蹟を記念せんがため、民有山林を買収、開拓して築造したるものにして園内に斎祀せる温泉神社は、当時の東宮殿下御休息所として新築せしものなり。祭神は大己貴命少彦名命、大歳神、加具土命の尊の四柱とす。

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 別府市史の記述は誇張ではありません。この一角をもってしても、素晴らしい自然公園です。これが今の別府公園よりもずっと広かったというのですから、別府の一大観光地として遊覧者のすこぶる多かったのも頷けます。なお、旧別府公園に鎮座した温泉神社は、終戦後に同公園が接収されたのと、市有公園内に神社が鎮座することに障りが生じたので朝見八幡に合祀され今に至ります。なお、鉄輪温泉の温泉神社とは無関係とのことです。

 もし昔の別府公園が今も残っていたら、必ずや水前寺公園栗林公園などと同等の一大観光地として名をはせていたことでしょう。

 

23 観海寺道(絵葉書)

 旧別府公園は交通の便がよく、観海寺、堀田、また鉄輪など方々の温泉地への道が分かれていました。その中でも観海寺道は、昔は寂しい道で「狐が出る」などと言われたそうです。

豊後別府公園通 観海寺道

 今やBコンプラザが開設して30年ほどになりましょうか、とにかくこの絵葉書の面影は微塵もありません。

 

○ 下堅田小学校『修学旅行唱歌』より

 昭和6年、現佐伯市の下堅田小学校6年生の別府大分修学旅行に際しての、担任の羽柴先生の作による唱歌があります。この中から別府に関する部分を抜粋して掲載します。

〽海に迫るは高崎の 牛の臥したる姿かな
 そびゆる山は鶴見岳 雪にかがやく由布の嶺
〽鏡のごとし別府湾 瀬戸の内海、水はるか
 霞める伊予の山々や また国東や日出の里
〽かがやく甍、湯の町は 山と水とにはぐくまれ
 出で湯に育ち恵まれて 名に背かじな別天地
〽海岸通り流川 また松原や浜脇や
 街の通りの賑やかに 行き交う人の足繁し
〽ケーブルカーにうち乗りて 上る乙原山の上
 眺めは清しイタリヤの ナポリにすらも劣らじな
〽石垣原の古戦場 つわものどもの夢いずこ
 実相寺山、松黒く 姿うるわし扇山
〽のぼる煙は海地獄 坊主地獄か血の池か
 地獄めぐりの遠ければ ただ訪ねみん鶴見園
〽鶴見地獄の湯のたぎち たぎる湯玉のものすごさ
 地軸に響きとどろきて 壮観尽きじ類なし
〽地獄をあとに下りゆく 足の運びのかろければ
 訪ねてゆくや大仏の 胎内めぐり許せかし
〽砂場のほとり宿とりて 夜の憩いの嬉しさよ
 夢路は辿る明日の旅 わがふるさとよ待てしばし

 

24 別府駅駅前通り(絵葉書)

 別府駅が高架になったのは昭和41年のことです。昭和36年の集中豪雨により別府近郊はおろか国東方面などの農家は激甚な被害を被り、別府の高架工事に一時的に働きに出た人もたくさんいました。別府近郊の多くの人が携わり、今の立派な高架線路が完成したのです。

 平屋建ての別府駅は、なかなか洒落た建物です。駅前広場には一張羅を来た人がたくさん歩いています。駅前通りの様子も今と全く異なります。あれはいつ頃までだったでしょうか、駅前通りの両側に片持ちアケードが設けられていたのを覚えている方も多いと思います。あれも今は昔の思い出となりましたが、絵葉書にはアーケードどころか歩道もありません。

 

25 薬師温泉(絵葉書)

 上の絵葉書の中で、「薬師温泉」として紹介されている建物だけは、私もよく知っています。これは、今の駅前高等温泉の建物です。グーグルストリートビューで確認していただくと、すぐ分かると思います。歴史のある、たいへん貴重な建造物でありますから、大切に保存されることが望まれます。

 なお、薬師温泉の呼称はいつ頃までか定かではありませんが、今は駅前温泉とか駅前高等温泉と呼んでいます。ふつう、薬師温泉と申しますと浜脇温泉にある方の薬師温泉をさします。

 

26 海門寺公園(絵葉書)

 海門寺公園は、駅前通りから横道を入ったところに現存します。たくさんの遊具があり児童公園の様相を呈しているほか、ほんの30年ほど前までは、近所の人が集まって碁を打つ姿を盛んに見かけました。この公園は海門寺の墓地跡に昭和6年開かれたもので、松原公園に続く街路公園としてたいへん賑わいました。

 上の写真が昔の海門寺公園です。今の海門寺公園とはずいぶん様子が違い、風光明媚な印象を受けます。

 

○ 新民謡「別府湯けむり」

 この唄は昭和30年代に鈴木正夫と新橋照千代のレコードが発売されて以降、別府で異常なる人気を呼び盆踊りや温泉まつりの際に盛んに踊られたほか、文句が印象的なので観光客もこれを聞き覚えて口ずさむに至るほどでした。ところが踊りの手数が多くて少し難しいこともあり、だんだん下火になりました。しかし向浜など、今なおこれを踊っている地域もあります。方言を取り入れたとても楽しい唄なので、今後も長く親しまれることでしょう。今から別府の温泉の絵葉書をいくつか紹介しますので、それに先立ってこの唄を掲載することにしました。

〽見ちょる、やっちょる、何しちょる 別府言葉につい誘われて
 来てみりゃ小猿も飛び出て踊る 高崎山から ソレ 別府見ちょる
 「お前ぼんやり何しちょる 私ゃお山の猿見ちょる
〽どげんしてでも行っちみよ別府 お湯は万石海まで湧いち
 山は地獄じゃ街ゃ極楽じゃ 別府はやっぱし ソレ 夢の里
 「ほげんほっぽじゃねえじゃろな いんげ本当んこっちゃがえ
〽こげんときじゃと日に湯を四度 滝湯砂湯に蒸し湯と通うち
 宿い帰ちみりゃ隣は新婚 湯気と二人に ソレ あてられた
 「こいたどうにんやれんがの しゃっち気にせんぢいじゃねかえ
〽別府踊りにゃ心も急いち はずむ太鼓にどげんこげんならず
 あっちあられん手振りで加たりゃ 丸い月さえ ソレ 踊りだす
 「今晩なとうてん綺麗じゃの そげ言うけ、うちゃあ好かんがえ
〽虹の湯けむりゆらゆら揺れて 由布の山脈おぼろに霞みゃ
 街は人波ネオンに映える 別府湯の街 ソレ 湯の都
 「お前ぼんやり何しちょる 私ゃお山の猿見ちょる

 

27 竹瓦温泉(絵葉書)

 竹瓦温泉は、別府温泉の中でも特に著名な温泉のひとつです。古くは乾液泉の別称もありました。立派な建築が素晴らしく、完成当時は入浴客のみならで建物の見学に訪れる人も多々あったそうです。昔は周囲に立派な旅館が軒並びでしたが、最近は色街の様相を呈してやや景観を損ねているのが惜しまれます。

満喫の殿堂
写真は泉都別府が誇り招く新装の竹瓦温泉にして別府を訪ふ者は必ず一度この居心地よき温泉に帰心を忘れ滞在する。

~~~『泉都別府温泉案内』より

竹瓦温泉
 別府港頭の西北1丁、竹瓦町にある町有の大浴場で、昔竹屋根葺の極めて粗末な建物であったため誰言うとなく竹瓦温泉と称するに至ったものであります。現在の浴場は大正2年5月新築したもので、90畳敷の階上は浴客の自由休憩所にあててあります。この温泉はリウマチに神効あり、医者に見放された重病人が僅々3週間くらいの入浴で、忘れたように全癒し、欣々然として立ち帰る実例は日毎に見受けます。(入浴無料)

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28 楠温泉(絵葉書)

 この温泉は現存しますが、地元利用が主であり知名度はそう高くないと思います。けれども歴史のある温泉で、昔は大きな楠と温泉の建築が相俟って、別府名所として知られていました。

~~~『泉都別府温泉案内』より

楠温泉
 別府駅より東南10町、別府港頭より西南4町、楠町にある町有温泉であります。浴場の背後に数百年を経た大楠があって、そのそばから滾々として温泉が湧出します。現在の浴場は大正3年春新築したもので、浴び心地よききれいな温泉であります。(入浴無料)

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29 二條泉(絵葉書)

 この温泉は現存しません。北浜にあった温泉で、鶴田道造さんの私有でしたが無料で開放され、地元客や観光客の利用のすこぶる多かったそうです。

 木造総二階の素晴らしい建築に惚れ惚れいたします。これほどの温泉を個人で整備し、しかも無料で開放されていたのです。昔、別府には無料で入れる温泉がたくさんありました。

~~~『泉都別府温泉案内』より

二條温泉
 竹瓦温泉の北方約1丁余、大正2年所有者鶴田某が改造したきれいな温泉で、階上は真宗の説教所にあててあります。(入浴無料)

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30 浜脇温泉(絵葉書)

 浜脇温泉は、東湯(弦月泉)と西湯(清華泉)が昭和3年に合併して開かれました。浜脇温泉(温泉地としての呼称)を代表する温泉にして、壮麗たる建築には大小さまざまの浴槽を有し、階上には宴会場や休憩場など整備も行き届き浴客のすこぶる多かった大温泉場です。残念ながら平成初期の再開発にかかって取り壊され、今は新開発ビルの一角に現存しています。

 この温泉は昭和初期より湧出量が減少し、堀田より引き湯をして維持してきました。別府の温泉は、とにかく湯船のお湯が熱い印象があります。特に昔からの地域の共同温泉はその傾向にありますので、遠方から初めて来た人はみなさん驚きます。浜脇温泉も、そのままでは摂氏70度近くもあり、加水しなければとても入られません。

~~~『泉都別府温泉案内』より

東温泉
浜脇字魚町にある町有の大温泉で、浜脇停車場より2丁、海岸より約2丁、浴槽を10区に分かち、1区ごとに底から温泉が湧き出でます。しかも各区ごとに夫々温度を異にし、各自好みの温湯につかることができます。この温泉には臥湯というのがあります。これは地中より湧出する温泉の熱を利用して暖砂の上に打ち臥し、患部を温炙するのであります。筋肉に関する諸症に特効があります。(入浴無料)

西温泉
浜脇新町にあり、一名清華泉ともいいます。三層の大厦で、階下を佳麗なる浴場に、階上を浴客の休憩場に、三層楼上を料亭(三日月亭)にあててあります。四極の翡翠、菡海の碧水双眸に収め得られて眺望絶佳、東温泉とともに浜脇の代表的温泉であります。(入浴無料)

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31 不老泉(絵葉書)

 不老泉は、竹瓦温泉と同様に別府温泉を代表する温泉として著名です。時代の流れで昔の壮麗な建築の面影はなくなったのは残念なことですが、今なお遠近より浴客の数多寄り来る名所です。

 もとの建物が老朽化し入浴に支障をきたすありさまにて、大正10年に改築されたのがこの絵葉書の建物です。すばらしくモダンな建物で、しかも休憩所や展望台を設けるなど何から何まで行き届いた設備により、たいへん人気を呼びました。

~~~『泉都別府温泉案内』より

不老泉
 市街の西部不老町にあり。別府第一の町有温泉で、三層の大厦であります。楼上の眺望雄大明豁、浴場は並等(無料)、上等(入浴料3銭、休憩料共5銭)の2種に分たれ、上等は浴後階上で自由に休息し得られます。また別に特等(20銭)は浴衣石鹸手拭茶菓を供せられ、3階で休息することになっています。場内に料理部あり、手軽に調理ができますから日帰りの客などは宿につく必要もなく至極便利であります。場内10数条の湯滝はこの温泉の一特色で、白簾数条、浴客は自由にその疲れを滝に打たせることができます。

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32 霊潮泉(絵葉書)

 霊潮泉は流川通りの上り口付近、元の港町(今は楠町の一部)にあった温泉で、満潮時には海水が上がってくるというよそにはない特徴を有していました。竹瓦温泉や不老泉と比肩する、非常に著名な温泉でしたが、時代の流れで戦後には衰微し、廃止と相成りました。

~~~『泉都別府温泉案内』より

霊潮泉
 別府駅から東6丁、浜脇駅から10丁、別府波止場際の港町にある木の香床しき新築の大浴場であります。泉浴、砂湯、蒸湯の3種を備え、潮満つれば浴場一面温海水となり、浴槽は常にこの温海水に浄洗せられます。潮退けば泉浴するもよし、あるいは半身を暖砂に埋めて患部を慰炙するもよし、好みに任せて入浴することができます。この温泉の砂湯は咽喉病や筋肉疾患に特効があるといいます。(入浴無料)

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33 銀座通り(絵葉書)

 駅前通りから流川通りにかけて、2本のアーケードが並列しています。上が弥生銀天街、下がソルパセオ銀座(銀座通り)で、夫々衰微して久しかったものを、後者に関しては飲食店の増加等により様相を一新しております。その昔、小売店が軒並びで賑わっていた頃の銀座通りの絵葉書を紹介します。昭和40年代と思われます。

 これほどの大賑わいの商店街は私の記憶にはありませんが、これに一歩及ばずといったところまでの賑わいは辛うじて覚えております。今は昔になってしまいましたが、子供の頃のことを懐かしく思い出しました。

 

○ 新民謡「別府おどり」

 この唄は藤本二三吉がレコードに吹き込みました。たいへん明るく自信満々の曲、浮かれた曲調がおもしろく、よい唄だと思います。しかし戦争が激しくなるにつれ唄われなくなり、ついぞ戦後も復活することはありませんでした。新しく輪踊りの振りをつけるなどして、盆踊りやお祭りの流し踊りなどで復活してはと思います。

〽盛る日本で(ヨイトセ) お湯の都はただ一つ
 別府名どころ エー 花どころ
 「ソーレ トントントロリコ トンと来て
  七日七夜じゃまだ足らぬ 別府八湯 ストトントントナ
〽お湯は極楽(ヨイトセ) 地獄どころかほのぼのと
 梅や桜が エー 咲きかかる
 「ソーレ トントントロリコ トンと来て
  七日七夜じゃまだ足らぬ 別府八湯 ストトントントナ
由布の松風(ヨイトセ) 誰を待つやらシャナシャナと
 お湯でさらした エー 絞り染め
 「ソーレ トントントロリコ トンと来て
  七日七夜じゃまだ足らぬ 別府八湯 ストトントントナ
〽月の出汐じゃ(ヨイトセ) 別府おどりの手拍子に
 丸く仲良く エー 踊りゃんせ
 「ソーレ トントントロリコ トンと来て
  七日七夜じゃまだ足らぬ 別府八湯 ストトントントナ
〽船を上がれば(ヨイトセ) 宿は千鳥に波の音
 山じゃ青葉の エー ほととぎす
 「ソーレ トントントロリコ トンと来て
  七日七夜じゃまだ足らぬ 別府八湯 ストトントントナ
〽海は亀川(ヨイトセ) 谷の柴石若みどり
 濡れりゃ紅葉の エー 観海寺
 「ソーレ トントントロリコ トンと来て
  七日七夜じゃまだ足らぬ 別府八湯 ストトントントナ
〽お湯で見初めて(ヨイトセ) 渡る一夜の恋の橋
 明けりゃにっこり エー 朝見川
 「ソーレ トントントロリコ トンと来て
  七日七夜じゃまだ足らぬ 別府八湯 ストトントントナ

 

今回は以上です。次回は豊崎のシリーズに戻ります。

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