大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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夜明・大鶴の名所めぐり その1(日田市)

 このシリーズでは日田市のうち夜明地区と大鶴地区の名所を紹介します。夜明地区は大字夜明の単独地区であり狭いので、お隣の大鶴地区(大字大肥・鶴河内)とあわせて「夜明・大鶴の名所めぐり」としました。

 さて、この地域の著名な観光名所としましては、行徳家住宅と夜明ダムがあげられましょう。ダムの建設により筏流しは途絶えましたけれども、筑後川の屈曲した流れは見事なものです。それらは適当な写真がないので後回しにして、初回は大字夜明、祝原(いわいばる)部落の北山権現宮を紹介します。こちらは、今回の日田めぐりの中でも特に楽しみにしていた場所です。実際に参拝して、日田の文化の多様性を再認識いたしました。その特異なる立地、神仏習合の信仰形態など、見所がたくさんあります。

 

1 北山権現宮

 日田市街から国道210号を久留米方面に行き、高井町三叉路を右折して夜明大橋を渡ります。突き当りを右折してすぐさま左折します。ここに大肥橋(石造アーチ)が架かっていましたが、撤去されました。有限会社原食品研究所を過ぎてほどなく、左側に駐車場がありその奥に大岩壁、その直下に冒頭の写真の鳥居が見えます。気を付けないと行き過ぎてしまうと思います。

 鳥居の扁額には、上部に右横書きで小さく「北山」、その下に大きく縦書きで「権現宮」とあります(権は旧字)。この「北山」とは、この地の地名ではなく蓋し山号でありましょう。「北山」と申しますと北山稲荷ですとか、北山権現などが思い浮かびますけれども、それ以外も全国各地に北山神社、北山権現と称する神社が点在しているようです。夜明の北山権現はいったいどの北山神社と関係があるのか、はたまた無関係なのか皆目分かりませんけれども、その立地などから山国町など耶馬溪方面でときどき見かける、修験道との関係の深い神社とよう似た雰囲気が感じられました。それで、英彦山大権現または熊野権現などと関係が深いのではと推量しました(定かではありませんが)。

 なお、権現と申しますのは本地垂迹説に基づく称号で、要は仏様が神様を仮の姿として現れたという意味です。明治維新神仏分離により権現の称号が禁止され、ほとんどの神社では本地仏を堂様に移すなどして祭神のみをお祀りするようになりました。この鳥居には安政2年の銘があり、この時代の権現名号の扁額をそのまま残してある事例は少ないのです。

 鳥居の横には、石幢の龕部と五輪塔が後家合わせになった石塔が1基残っています。龕部は6面で、もともとの彫りの浅さと風化摩滅により像容の確認が困難になりつつあります。光背を伴うお地蔵さんが、もとは細やかな表現で丁寧に彫ってあったようです。龕部の下は、逆さまになった石幢の笠ではないでしょうか。この石造物はもともとこの場所にあったのか、または道路工事などで近隣から移されたものか、判断が付きませんでした。

 鳥居をくぐると、遥か上の方まで石段が一直線に伸びています。暑い盛りにおとずれますと一見して気が滅入りそうな石段ですけれども、蹴上げがものすごく高いわけではありませんからそう大変ではありません。この石段はたいへん興味深い構造になっています。すなわち、上り方向に見て概ね右半分は地山(岩壁)を削り出して段々をこしらえ、左半分はそれに嚙合わせるように石材を足して段々をこしらえているのです。その比率は一定ではありません。ちょいどよい塩梅で両者を組み合わせることにより、一定の幅を維持しつつ通行の安全性をも確保できています。石材は後補であり、元は地山を削った段々のみであったのではないでしょうか。

 通行時、大きなぐらつきはなく特に危険は感じませんでした。けれども長い一直線の石段ですから、下りには注意を要します。

 石段を上りついた正面には大きめの龕にお弘法様をお祀りしてあります。色鮮やかなおちょうちょをかけ、お花が上がり、近隣の信仰が篤いようです。後ほどの説明の都合上、この場所をA地点とします。権現様への道は、ここで直角に左に折れます。

 不揃いの石段が九十九折になっています。手すりを設置してくださっているので安全に通行できます。ものすごい地形で、ようまあこんなところに参道を通したものです。この石段はかなり古いもののように見受けられましたが、もしかしたら石段をこしらえる前は、鎖渡しで上がったのかもしれません。

 1回折り返したところから右方向に、鎖渡しの道が分かれています。この通路はイボ地蔵様への参道です。足場がごく狭いもののしっかりしていますので鎖をしっかり持ち、用心して進めば問題なかろうと判断してこの岩場を渡りました。私は問題なく通行できましたが落ちると大怪我どころか、打ちどころが悪いと命の瀬戸です。怖そうだなと感じたら足を踏み入れない方がよいでしょう。一旦踏み入れると、途中で後戻りするのは困難です。

 鎖渡しで横移動したら、直角に折れて少し登ったところが岩洞になっていて、その奥にイボ地蔵様がお祀りされています。この奥壁から石清水が湧き、その水を患部につけるとイボ取りの霊験ある由、お礼参りには年の数の煎り大豆をお供えしていたそうです。県内各地でイボ地蔵様を見かけますが、参道がこれほど難所の道である事例は稀ではないでしょうか。今のように皮膚科で処置をすることなど叶わなかった時代には、イボ取りの祈願が真に迫り、これほどまでの信仰に駆り立てるものがあったということでしょう。

 お参りをしたらまた鎖渡しで後戻るよりほかありません。最も注意を要すのが、岩洞からの下りです。足がかりが多いので用心すれば問題ないものを、何かのはずみで足を踏み外せば横移動の足場で止まることはまず無理でしょう。

 どうにか無事戻ることができました。イボ地蔵様の岩洞よりも少し先に、岩壁が矩形に彫りくぼめてあることに気付きました。明らかに人為的なものであり、一見して磨崖曼荼羅の類ではあるまいかと思いましたところ、どうも梵字が彫ってあるか墨で書いてあるかしているようです。この岩峰自体を「弘法の筆投岩」と呼ぶそうです。A地点のお弘法様はその直下にあたり、関係があるものと考えます。

 もう1段折り返すと、左下から右上へと岩屋が2連になっています。左下が祇園様、右上が北山権現様です。祇園様の岩屋の上の方を見ますと、ほぞ穴が並んでいることに気付きました(写真の上の方に写っています)。昔は岩屋に嵌まり込むような造りの社殿があったのでしょう。火袋の壊れた灯籠には元禄5年の銘があります。

 このように、岩屋の中に木造の舞台のような床を設けて、その上に小さな社殿が建つ形式の神社は耶馬渓方面でときどき見かけます。

 左の社殿が祇園様です。上部が岩壁の形状にぴったりと噛み合うて、自然と一体の造りになっています。中には本地仏と思われる仏様が収まっていました。右隣りには破損著しい木像が3体お祀りされています。その右の石塔は銘がすっかり消えてしまっており確証は持てませんが、蓋し庚申塔でしょう。作の神としての祭祀であるならば、麓を見晴らす好展望の地にて、庚申塔の所在地として理に適うています。

 ものすごい崖っぷちです。今は鎖や手すりが整備されているので安全にお参りできます。それがなかった頃は、崖口に並べられた石が命綱(これ以上前に出たら落ちますよの目印)だったのでしょう。

 ところで、崖口の枝の掻い間から向こうを見れば、別の岩峰が見えます。この場所からは岩峰の確認しかできませんけれども、その突端には宝篋印塔が立っています。いったいどこをどう通ればお塔のところまで行けるのやら、皆目分かりませんでした。可能性としては、先ほどのA地点から右に行き、鞍部を強引に越して向こう側に回り込んで登る以外にちょっと考え難うございます。戻りにA地点からその方向を見ましたらば、通路のような違うような、道も乏しい大ホキにて進入が憚られましたので、確認はできていません。どこかに通路があるはずです。

 無事、北山権現様に到着しました。左が祇園様です。両者の位置関係がお分かりいただけると思います。お参りをしたら元来た道を後戻って、駐車場に帰ります。

 駐車場から宝篋印塔の岩峰の中腹を見遣れば、岩棚に仏様が安置されていることに気付きました。どうやったらあの場所に行き着くのか、さっぱり分かりませんでした。右から回り込むよりほかなさそうなので、やはりA地点から右に行って岩峰を裏を越すのでしょうか?

 とても楽しみにしていた北山権現。鎖渡しを通ってイボ地蔵様にもお参りしましたが、その全貌を把握することはできませんでした。今でも、宝篋印塔と岩棚の仏様への行き方が気になって仕方がありません。

 

○ 夜明・大鶴地区の盆踊りについて

 日田は、旧市街を除いて盆踊りが盛んな土地でした。近年は盆口説が衰退著しい中で、新民謡の音源で踊る地域も増加していますが、周縁部においては昔ながらの盆口説の踊りが今も盛んに行われています。特に踊りの種類が多いのは東有田地区で、10種類以上の演目があります。夜明地区・大鶴地区にも古い踊りが点々と残っています。

 夜明地区で盆口説の踊りを続けているのは関部落だけです。口説の節は「思案橋」で、この唄は日田地方から耶馬渓方面にかけて広く流行ったもので福岡県でも盛んに唄われています。日田や耶馬渓では下火になっていますが、そう珍しい唄ではありません。しかし踊り方は、よそではちょっと見かけないものです。ガニ股でしゃがみ込む風変わりな所作には古式ゆかしい雰囲気があり、通称「びきた踊り」と申します。「びきた」とは蛙のことです。

 大鶴地区の一部では、初盆の家の坪で踊る昔ながらの供養踊りが続いています。鶴河内の「団七踊り」は、3人組の棒踊りです。この種の踊りはかつて県内各地で流行し、特に大野郡や玖珠郡日田郡で盛んに行われたものですが、鶴河内のものはよその団七とはちょっと毛色が違います。その速いこと速いこと、熊本県満願寺方面の「早棒」と比肩する気ぜわしい踊り方です。日田に伝わるたくさんの古い盆踊りの中でも特に個性豊かなものであり、ところの名物といえましょう。

 

今回は以上です。次回は日田地区の名所旧跡を紹介します。

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