大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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朝日の名所めぐり その2(別府市)

 朝日地区の記事はずいぶん久しぶりで、2年以上前に十万地獄を紹介して以来です。今回は照湯を中心に、大字鶴見のうち小倉(おぐら)の史蹟・文化財をめぐります。朝日地区は名所旧跡の宝庫の感があり、殊に鉄輪地獄地帯の数々の地獄や鉄輪温泉の湯けむりの景観、火売神社、実相寺山、扇山、明礬温泉の湯の花小屋などが著名です。ほかにも石造文化財が思いの外豊富であり、路傍の石仏や庚申塔、一字一石塔、宝篋印塔等の類や古い石垣、温泉施設の遺構など種々残っています。今回の記事の中でもたくさん出てきます。

 

3 鉄輪地獄地帯公園の桜

 本坊主から旧十万地獄にかけて、横断道路沿いにたくさんの地獄が点在しています。この区域に帯状に連なる公園を鉄輪地獄地帯公園と申しまして、旧の朝日公園にあたります。遊具などが整備されたモダンな公園が点在しており、近隣を散策する観光客はもとより、地域の方々の利用も多うございます。四季折々のよさがある中で、特に本坊主の並びの公園はお花見の名所として、春先にはたいへん賑わいます。

 芝生の広場が整備され、大型遊具もあります。お城址や街路、神社仏閣などの桜は言うに及ばず、このような児童公園の桜もほんによいものです。この公園で惜しいのは駐車場が狭いことで、花の時季にはしばしば満車になっています。

 今回は、この公園に車を置いて散策しました。

 

4 閻魔坂と照湯温泉

 本坊主横から紺屋地獄方面に少し上り、照湯バス停を左折してすぐさま右折します。道なりに行けば、左側に幅の狭い下り坂が分かれています(車不可)。この坂道が閻魔坂です。今は照湯温泉の裏口とでも言うべき位置づけにて、人通りも稀になっています。しかしその実は、旧の花棚道の終点にて、たいへん歴史のある道なのです。

 花棚道について簡単に記しておきます。

 

○ 花棚道について

 花棚道と申しますのは旧の塚原越のひとつで、別府と森(玖珠町)を結ぶ昔の道です。照湯から明礬経由で、鍋山の裾を巻いて花棚峠を越し、塚原(湯布院町)に抜けます。鶴見村(今の大字鶴見)は、森藩の飛び地でした。そのため花棚峠は、藩政時代には森と鶴見の往来に盛んに通行されたとのことで、近代化以降も塚原・別府間の近道として歩いて通る方があったそうです。車は通れませんが、今もハイキングで通行する方が稀にあるようです。

 

 今の閻魔坂は上半分が簡易舗装の車道で、下半分が階段になっています。もとは全部が石畳の坂道でしたが、滑りやすいので下半分が階段に改修されました。旧の石畳を壊すことなく保存して、上から覆うように階段をこしらえてあります。

 手摺はないもののなだらかで踏面が広いので、安全に通行できます。景観に配慮した見た目の階段です。

 下っていくと、右側の平場に何かの神様の石祠がお祀りされています。何の神様か分かりませんけれども鄭重にお祀りされ、信仰の篤さを物語っています。

 下りきったところの右側には閻魔様の像と、お弘法様と思われる坐像をお祀りした石祠が並んでいます。石祠には寛政2年の銘がありました。

 由来書の内容を転記します。

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閻魔坂の由来

 弘化2年(1845年)に描かれた鶴見七湯迺記の中に、右横階段の上角に惣門という久留島藩(現玖珠町)から照湯温泉への関所のような入口の門があり、その横に閻魔様の像が置かれている様子が描かれていました。そのために、この下までの坂道を、閻魔坂と言っていたようです。
 昔の閻魔坂は石畳でできており、現在も階段の下にその当時のまま残っていますが、滑りやすいため階段にしております。
 この前の石畳が当時の様子を再現した石畳です。

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 どうして閻魔坂の上に惣門が設けられていたのでしょうか。それは、照湯で明礬を生産していたことと関係があるのではなかろうかと推量いたします。いま別府の明礬製造と申しますと、どなたも明礬温泉や湯山の湯の花小屋を思い浮かべると思います。しかし、最初に湯の花から明礬を製造することに成功したのは照湯であったそうです。森藩の特産品であった明礬を勝手気ままに持ち出すことができるはずもなく、その管理の関係で惣門を置く必要があったのではないでしょうか?

照湯橋修築記念碑

 照湯橋とは、ここから祓川に沿うて下ったところに架かっている橋です。祓川は江戸時代に数回氾濫しており、照湯も何度も壊滅したそうです。当時はトントン橋で渉っていたのでしょう。河川改修等により、今は氾濫の話を聞きませんし、立派な照湯橋は自動車で安全に通行することができます。

 右の建物が今の照湯で、立ち寄り湯として親しまれています。江戸時代の照湯はこの辺りの広大な敷地に、様々な建造物があったようです。そのひとつ、滝湯の遺構が左側の石垣のどこかに見られるそうです。それと知らいで訪ねて、見落としたのが残念です。

 

5 旧照湯地獄(絵葉書)

 昔、照湯付近のあちこちから熱蒸気が上がり、照湯地獄の呼称で観光地になっていたようです。亀の井バスの地獄めぐりのコースには入っていなかったと思いますが、絵葉書が数種類あることからそれなりに名を知られた名所であったのでしょう。手元にある3枚の絵葉書により、往時の景観を紹介します。

(別府名所)照湯地獄

 立派に石垣を築き、その方々から蒸気が立ち昇っています。旧の今井地獄よりは整備されていたようですが、開放的な雰囲気であり園地としての雰囲気は感じられません。この石垣は、或いは藩政時代に湯の花小屋を設けていた跡ではあるまいかと推量いたしました。見物している男性が中ほどに写り込んでいます。石垣のへりに通路があったのでしょう。

十大地獄ノ内 照湯地獄

 十大地獄の定義がはっきりしませんけれども、それなりに名を知られた観光地であったことが分かります。この絵葉書は秡川べりの景観と思われます。湧いて溢れたお湯が川に流れ込んでいたのでしょう。この右の方に、昔の浴場があったと考えられます。

 中央の草地のところに棹を立ててあるのは、どのような用途でしょうか。照湯地獄がいつ頃まであったのか存じませんけれども、周囲の泉源の整備や河川改修等により消失したそうです。今は、このような景観を見ることはできません。

 

6 照湯裏の石造物

 今の照湯温泉の建物の左側から細い階段が伸びていることに気付き、それが参道のような雰囲気であったので上ってみました。

 このように下の方はやや崩れがちながらもしっかり固められています。しかし上に行くほど荒れてきて、道も乏しく、手すりがわりに綱を張っていました。特に滑りやすいようなところはないし、距離も知れたものです。

 ほどなく、正面に立派な石幢が見えてきました!予備知識なしで訪れましたので、期待以上の展開に胸が高鳴りました。これは素晴らしい。しかも石幢以外にもたくさんの石造物があるばかりか、横の木もすこぶる立派です。

 石幢のほかにも角塔婆型の板碑、五輪塔、各種石仏などたくさん並んでいます。お供えがあがっており、近隣の方のお世話が続いているようです。

 石幢は宝珠を欠損し、幢身も温泉の影響からか傷みが進んでいます。元々は何らかの銘があったのでしょうが、現状では全く見当たりませんでした。でも中台の花弁の細やかな表現や龕部の諸像は比較的良好な状態を保っています。お地蔵様は彫り口が丁寧で、特に頭の丸いところなどは輪郭の角を立てずに、なめらかに仕上げてあります。

 龕部にはお地蔵様だけではなく、十王様のうち数体も彫ってあります。見た目が異なりますし、お地蔵様はめいめいに小さな蓮台を伴いますので違いがすぐに分かります。別府市内においては赤松や内成に石幢の秀作が数点残っています(以前紹介しました)。こちらの石幢も、それらに比肩する秀作といえましょう。特に文化財指定はなされていないようなので、近隣の方以外には全く知られていないと思います。上り口にも案内はありませんでした。別府の石造文化の一端を示すものですから、大切に保存することが望まれます。

 ずいぶん変わった形のお塔で、上部が欠損しています。宝篋印塔か何かの部材と、五輪塔の残欠の後家合わせでしょうか。それにしては、両者の接合部がぴったりと嵌まっています。興味深く拝見しました。

 右の矩形の石造物には「明治二十五年 速見郡浜脇村」の銘がありました。何らかの事情で、浜脇からこの場所に移されたのでしょうか。

 お室の宝珠の破損が惜しまれます。屋根はなかなか格好がよく、特に破風のところなど装飾的な表現がなされています。中の仏様は頭部の破損した痕が痛々しいものの、優しそうなお顔が印象に残りました。手前に安置された坐像も、すこぶる細やかでよう整うた造形です。

 思いがけずにたくさんの文化財を見学できました。参拝して元来た道を下り、照湯橋を渡って道なりに行き、横断道路に出ました。その途中でお弘法様などを見かけましたが写真がないので省略します。いずれもきちんとお祀りされていました。横断道路に出た場所は「お食事処甚五郎」の横です。

 

7 小倉の墓地の石塔群

 横断道路に出たところからすぐ近くに、道路端に広い墓地があります。横断道路を車で下るたびに、道路端の石塔が目に入り気になっていたので立ち寄ってみましたところ、その石塔は庚申塔でした。それ以外にも、庚申塔と思しき無銘の石塔群や、一字一石塔など種々ありました。

 小倉は、別府市の中でも庚申講が盛んであった地域であり、庚申塔がたくさん残っているとの予備知識はずいぶん前に得ていました。今回、もしやの思いで訪れた場所で庚申塔をはじめとするたくさんの石塔を見学することができ、嬉しさも一入でございます。

庚申紀念

 道路端なのですぐ分かります。基壇の上がまるで文字塔か庚申石を横倒しにしたような形状になっていて、その上に格好のよい塔が立っています。銘も大きく、立派な庚申様です。「紀年」は「記念」と同義です。昔はこの用字も通用していましたので、石造物等でしばしば見かけます。

大正九庚申年
八月朔日
●●●

 3行目の文字だけどうしても読み取れませんでした。八月朔日とは8月1日ことで、八朔とも申します。旧暦の八朔は豊作祈願をする日で、今は稀になりましたけれども昔は、旧暦あるいは月遅れ(※)で八朔踊り(豊年踊り)をする地域もありました(野津町野津市など一部に残っています)。新暦大正9年8月1日は庚申の日です。ですから、この塔の造立日はあくまでも干支によるわけで、八朔のお祭りとは関係がないようです。

大分県では、旧暦から新暦に移行して以降、初盆の供養踊りや地蔵踊り等、一連の盆踊りはその大多数が月遅れになっています。たとえば地蔵踊りは、本来は旧の7月24日(一部では23日)にしていたのですが、旧暦は新暦のだいたい1か月遅れということで、新暦の8月24日(23日)と固定したのです。これは旧暦で行うと年によって新暦の日付が異なるので、便宜的にこのようにしたものです。この日取りの仕方を「月遅れ」といいます。

大乗妙典一字一石●経塔

 「石」と「経」の間に1文字あります。この字の読み方が分かりませんでした。

昭和三十八年 二月吉日
小倉区●●●組合一同建之
大将軍大神

 「だいしょうごん」と読みます。大将軍様は県内の方々でお祀りされており、牛馬の神様としての信仰が多いように思います。ほかにも安岐町では乳の神様としての信仰の事例がありますし、方位の神、作の神など諸々の信仰があるそうです。こちらは、何組合か読み取れずその信仰形態が今ひとつ分かりませんでした。昭和30年代末期の建立ということで、この種の碑としては比較的新しいものです。

六道四生三界萬霊等

 墓地に付随する三界萬霊塔で、無縁供養のためのものです。この場合の「等」は「塔」と同義のようです。ただ、この「等」の用字を見かけるのは三界万霊塔ばかりのように思いますので、何らかの意味があるのかもしれません。不勉強で、存じておりません。 

 左の立像は首から上が失われています。地震等で倒れたことがあるのかもしれません。右の碑の銘は「大乗妙典一字一石」です。実物を見ればすぐ分かります。

 左の塔には仏様(坐像)が線彫りで表現されていました。非常に細やかで、よう整うています。詳細は分かりませんけれども、珍しい文化財であるといえましょう。その並びの自然石は全部庚申塔で、銘はすっかり消えています。或いははじめから無銘であったのかもしれません。

正徳三癸巳天
大乗妙典一字一石書写之塔
七月十六日

 300年以上も前の塔ですが銘の状態はすこぶる良好です。「写」の字は、一切は下の横棒が点4つの異体字(寫の略字でしょう)で彫ってあります。正徳3年当時は、この辺りはどんな風景が広がっていたのでしょうか?もちろん横断道路などありませんし、家屋も今よりずっと少なかったと思います。長い年月を経て周囲の景観は様変わりしました。当時の方は、どのような思いをこめて造立したのでしょうか。一字一石は、途方もない手間がかかります。よほどの信心がなければ無理なことです。

 庚申塔と思しき石塔などが横倒しになっています。この周囲が広場のようになっていて、そのぐるりを庚申塔や一字一石塔などが取り巻いているのです。道路からほど近いので、すぐ分かります。お墓も、この空間をよけています。何らかの意味があるはずです。庚申様のお祭りをするための広場の可能性もあります。

寛政九戊巳天
大乘妙典一字一石
十一月八日

 銘の字体がほんに堂々たる雰囲気です。この一角に、私が見つけただけでも実に4基もの一字一石塔がありました。一字一石塔自体は堂様やお寺、墓地などでまま見かけますけれども、1ヶ所に4基も立っている例はそう多くはないと思います。

 

今回は以上です。別府市は温泉地としての繁栄を極め観光都市として発展してきた土地柄ゆえ、近代化の過程を示す文化財・史跡が数多うございます。しかし方々を巡る中で、近代化以前の文化財・史跡も市内全域にわたってかなりの数が残っていることを実感しました。今後も折に触れて紹介していきます。次回は日田のシリーズの続きを書きます。

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