大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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津民の名所めぐり その1(耶馬溪町)

 このシリーズでは耶馬溪町のうち、津民(つたみ)地区の名所旧跡・景勝地を掲載していきます。まだ数回しか行ったことがないので、これからの探訪が楽しみな地域です。

 さて、津民地区は大字中畑・栃木(とちぎ)・大野・川原口(かわらぐち)からなります。津民川沿いの谷筋に沿うて小部落が点在し、農村の風景と耶馬渓独特の景観が一体となった、非常に風光明媚なところです。興味関心のある方でなければ耶馬渓観光で津民地区を巡ることは稀であるかと存じますが、名所旧跡には事欠きません。桧原山、柾木の滝、落合の滝、川原口の景など種々ありますし、近年は長岩城址が知られるようになってきて見学者が増加しているようです。年中行事としては、桧原山正平寺で行われる御田植祭「桧原マツ」が知られていますほか、昔ながらの口説の盆踊りが残っています。

 今回は桧原山正風寺を皮切りに、柾木の滝、落合の滝、旧永岩小学校を掲載します。たった4か所ですが桧原山の分量が多いので、長い記事になります。

 

1 桧原山正平寺

 耶馬溪支所から国道212号を城井方面に行き、津民入口三叉路(信号機なし)を左折して県道2号に入ります。しばらく進んで「桧原山 上ノ川内集落→」の標識に従って右折します。大字中畑は上ノ川内部落に入ってすぐ右折し、次の角をまた右折します。標識があるので迷うことはありません。ここから先は一本道で、離合困難の曲がりくねった道が長く続きます。普通車でも問題なく通れますがやや不安になるような道中です。まだかまだかと思いながら上りに上りますと、ようやっと正平寺の駐車場に着きます。車を停めたら、案内図を確認しておきましょう。散策範囲が広いので、できれば携帯カメラで撮影しておいた方がよいと思います。

 案内図によれば、「現在地」の周辺にはたくさんの坊跡が点在しています。建物は残っておらずその痕跡すら乏しい状況ですが、ありがたいことに現地に標柱を立ててくださっています。千本桂は後で行くことにして、今から坊跡周辺の石造物、梵字鳥居、座主墓地、本堂と進んでいきます。本堂から先はお山巡りのコースがあります。お山巡りは途中までしか行けなかったのでひとまず押分岩までを紹介します。お山めぐりの続きは、またいつか「桧原山正風寺・その2」として掲載したいと思います。

 

(1)下宮周辺

 車で奥まで行くこともできますが、入口付近に駐車して歩いた方がよいでしょう。下宮周辺には六地蔵様や庚申塔がお祀りされています。この庚申塔は、私がこれまで見てきたたくさんの庚申塔にはなかった特徴を有しています。

青面金剛

 坊跡付近の広場に立派な庚申塔が立っています。格好のよい大型の塔で、基壇もしっかりしています。

 ところで、庚申塔がお寺の境内ないしその付近に立っている場合、耕地整理や道路工事その他により移されたという事例が多いと思います。その点、正風寺は桧原山の中腹と申しましてもかなり上の方で、上ノ川内部落からの距離が遠いことから、この場所に庚申塔が立っているのが意外に感じました。しかし正面下部に連なっている名前を見て合点がいきました。通常、この部分には「○○兵衛」など講員の個人名が連名になっています。ところがこの塔では「谷坊」「本蔵坊」「桜本坊」など、先ほどの案内図に記載のある坊名が連なっているではありませんか。坊とは、簡単に申しますと僧侶の住まいです(僧侶のことを「お坊さん」と呼ぶのは坊に住んでいることに由来します)。つまりこの庚申塔は地域の方々による庚申講ではなく、正風寺に所属していた複数の僧侶による造立なのです。その信仰形態は今ひとつ分かりませんが、一般的な庚申講とは異なっていたのではあるまいかと推量いたします。

 庚申塔のすぐそばには六地蔵さんが並んでいます。傷みが進んできていますが、きちんとお祀りされています。そばに墓地があるわけではなさそうです。或いは、少し離れていますが後述の座主墓地に付随するものかもしれません。なお、六地蔵様の後ろには小型の石板が並んでいます。これは庚申塔に付随するもの(庚申石)ではなかろうかとも思いましたが、確証はありません。

 六地蔵様の左から山道を少しだけ入れば、木立の中に祇園様の石祠がお祀りされています。神秘的な光景が心に残りました。

 説明板の内容を転記します。

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名水 不老水

この水は行者が修行するとき神仏に供える水で、火膳水といわれておりました。中津藩主小笠原二代長勝侯(1667~1682)が病気のときに飲んで効があったので、遠く江戸まで運んで一族の者に飲用させたと言い伝え、以来「不老水」と名づけられました。

ポンプで100m揚水しています
水源地水温13℃

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 当日は水が出ていなかったので、飲むことはできませんでした。

 

○ 桧原マツについて

 正平寺で行われる御田植祭を桧原マツと申しまして、国東半島各地で行われるそれとは田植歌が全く異なります。

 説明板の内容を転記します。

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正平寺と桧原まつ

桧原まつ
県指定無形民俗文化財 昭和58年4月指定

 桧原まつは、藩制時代寺領であった上の川内・中畑・福土の3集落から寄進された神輿3体の神幸を行い、五穀豊穣を祈願する神仏習合のお田植祭である。このお田植祭は、英彦山六峰修験の山々でも行われており、当山の素朴な行事は、派手さは全くみられない白装束網笠のいで立ちであり、最も古い形をそのまま受け継いでいるものと高く評価されている。
 なお、正平寺は天台宗比叡山延暦寺の末寺で、崇峻天皇元年(587)釈正覚上人が、初め犬ヶ岳に長福寺を創立した後、当山に移したのが当寺の開創とされ、天平勝宝4年(752)勅願所と定められ、正平寺と称した。

桧原山の梵字鳥居
県指定有形文化財 平成15年3月指定

 正平寺石段上り口の鳥居は、山頂の桧原権現二寄進されたものであるが、島木の部分に仏を表す梵字(古代インドの文字)7字を彫刻しているきわめて貴重なものである。寛文9年(1669)建立。他に、市指定の石造宝塔2基がある。

千本かつら
県指定天然記念物 昭和28年4月指定

 正平寺から700m北の桧原山中腹にあり、1株から10数本に分かれ、株の周りは10m以上ある桂の大木である。役行者が山とのかつらぎ山から持ち来たって植えたものと言われ、上半月は宇賀神(作物の神)の霊が宿るとの伝説がある。

平成30年3月17日
中津市教育委員会

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 説明板の中で、「崇峻天皇」の「崇」の字が「祟」(たたり)になっているのが気になりました。単なる誤字ではありますが、修正が望まれます。

 さて、桧原マツは、私はまだ現地で見たことがないのですが、動画サイトなどでその様子を知ることができました。興味関心のある方はご覧になってください。桧原マツの歌の文句を記しておきます。

神歌「ヤリマキ」
〽改まる 年の初めの門松は 君に千年を譲葉の声 ヤンソレ
〽改まる 年の初めの銀の 釣瓶落し水汲めば 富もろともに福ぞ増し増す ヤンソレ
〽改まる 年の初めの初鍬は 打出の小槌など下ろし下ろし ヤンソレ
〽改まる 年立ち返り空見れば 鳶こそ下れ今降ろうとて ヤンソレ
〽改まる 年立ち返り春来れば 木の芽もつ春 田鶴も映えける ヤンソレ
〽春来れば 小菅の笠の面向けて 渡れるものは鶯の声 ヤンソレ
〽安芸の国なる安芸匠 切ってはいて鉋かけて錐でもんで 皮でとじてやるぞやりまき ヤンソレ
〽やりまきの 元出の国は安芸の国 伊予うちかけて讃岐たまわれ ヤンソレ
〽あれを見給え御田人 大岩山の裾辺に合わせ鍬打つ ヤンソレ
〽わが殿の 御門の脇に芦植えて 参る人によしと言わりょうよ ヤンソレ
〽わが殿の 何とか祝おう桧皮葺き 黄金の垂木玉の御簾 ヤンソレ
〽わが殿を 新し殿とは誰が申す しらげの米のふるぞ増し増す ヤンソレ
〽わが殿の 戌の隅の神酒は 風は吹かねどササラ波立つ ヤンソレ
〽わが殿の 作らせ給う御代作は 上つ町も千町よ 中つ町も千町よ 下つ町も千町よ 合わせて三千町の御代作は 歌い給え御田人 ヤンソレ 竹之内もヤンソレ ヤンソレ 鶯もヤンソレ ヤンソレ

 

(2)梵字鳥居

 先ほどの説明板にも記載がありました、梵字鳥居へと向かいます。道なりに行けばすぐのところです。周囲は整備が行き届いており、四季折々の風情があります。

 史跡案内図があります。お山巡りをするときは内容をよく確認しておく必要があります。

 お手水横から庫裏に上がる石段は、苔がたいへん美しく、石楠花の花も相俟って非常に風光明媚な印象を受けました。

 正面には梵字鳥居から立派な石段が伸びています。整備が行き届いており、景観が素晴らしいではありませんか。しかも鳥居のみならず、石灯籠や石段もたいへん立派です。訪ねた時季は石楠花が終わりかけでした。紅葉の時季もよいと思います。

 左側には立派な碑銘が立っています。重要な内容なので、転記しておきます。

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桧原山由緒

 崇峻天皇元年に釈正覚上人が白山権現を祀り寺を建立したのがこの山の開創である。天平勝宝4年、山を桧原山、寺を正平寺と名づけ、英彦山六峰の一霊場となった。安和2年、18世円因上人によって大講堂が建立され、以来12坊の精舎は荘厳完備し、豊前山岳仏教の修験霊場として隆盛を極め、最盛時24坊を有し群民崇敬の篤い山であった。藩政当時は中津藩の祈願所として特に奥平氏は深く信仰され、天明7年、上宮本堂を再建され山内堂宇の営繕を負担した。
 明治初年、神仏分離令により寺領は国有林編入され、明治年間再三の火災により上宮、講堂、庫裏、安和2年の当山縁起、暦応の銘のある神輿、宝物の全てを消失したが、現在の講堂は明治35年に復興した。
 鎌倉時代から続く伝統の「桧原まつ」は、昭和58年県指定無形民俗文化財に指定され、全国でも珍しい神仏習合の行事である。

平成9年9月吉日 建立

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 写真では分かりませんが、実物を確認しますと確かに島木の梵字が見えます。鳥居に梵字というのは大変珍しいことです。それ抜きにして単なる鳥居として見ても、優秀作であるといえましょう。

 灯籠は装飾性に富んだ豪勢なものです。これほど立派なものはなかなか見かけません。六角形の台座の彫刻、蓮華坐、中台など何もかもよう整うています。特に火袋のところの、鹿の彫刻が心に残りました。写実的な彫りです。

 

(3)座主墓地

 さて、鳥居をくぐって石段を上っていきますと、その途中で左方向へと枝道が伸びています。この道を歩いていけば座主墓地に至り、指定文化財の宝塔が2基残っています。入口に文化財の標識がありますのですぐ分かります。距離も知れたものですから、参拝の際に足を伸ばすことをお勧めします。

 山道ですが傾斜は緩やかで、整備が行き届いています。天気のよい日に木森の中の道を歩くのは気持ちのよいものです。しばらく行くと、右側に古い墓標がたくさん立っています。その少し先に目的の宝塔が立っています。

 ごく素朴な形状の宝塔が岩の上に立っています。説明板の内容を転記します。

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耶馬溪町指定有形文化財
正平寺宝塔二号

二号は巨岩の上に立ててある。塔身は大きく面とした四角一見円柱か八角形と見受けられる。藤原時代の作。

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 この辺りの大岩のぐるりには石板が立てかけてあります。自然石で銘も確認できず、どのような信仰に基づくのかは分かりませんでした。

 こちらの宝塔は塔身が矩形で、四面に仏様を浮彫りにしてあります。その仏様の状態は良好ですが、全体として見たときに破損が目立つのが惜しまれます。

 相輪が破損しておらず基壇が残っていたら、それなりに大型のものであったのではないでしょうか。でも、基壇はありませんが岩を巧みに組み合わせて台座をこしらえその上に立っているので、なかなか堂々としており、立派な印象を受けます。説明板の内容を転記します。

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耶馬溪町指定有形文化財
正平寺宝塔一号

一号は開山正覚上人の墓と伝えられている。基礎及び相輪上部を欠く。塔身は四角、各面に四仏を半肉彫りしてある。吉野時代の作。

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 吉野時代と申しますのは南北朝時代の別称で、南朝側からの呼称です。

 未指定の五輪塔や石板など、宝塔以外にも石造物が残っています。墓地に入り込むのは遠慮して通路から見える範囲の見学にとどめました。きっと他にもあると思います。

 

(4)本堂

 座主墓地から参道に後戻って先へと進めば、ほどなく本堂に至ります。

 ずっと木森の中を歩いてきましたので、本堂周辺の広々とした空間にほっといたしますとともに、花や若葉の風景に清々しさが感じられました。

 本堂は実に堂々たる風格でございます。先ほどの説明板の内容から、火災以降に再建されたものということが分かりました。建築として立派であるばかりか、周囲の環境にもよう馴染んだ造りであると存じます。本堂にお参りをしたらお山巡りに行く前に、屋外の仏様などを確認・お参りすることをお勧めします。

薬師如来
おんころころせんだりまとうぎそわか

 特に見落とさずに確認していただきたいのが、こちらの薬師様です。参道脇の大きな木がウロになったところにお祀りされています。さてもありがたいことではありませんか。お参りをして、健康を祈願されてはと思います。

 ひな壇をこしらえて、たくさんの仏様をお祀りしてある一角があります。めいめいの台座には発願者のお名前だけが彫ってあるパターンと、お名前に加えて「第○番」と彫ってあるパターンとがありました。後者は四十番台以降も確認できたことから、新四国の札所と思われます。並び順が飛び飛びになっていることから、もとは近隣に点在していたものをこちらに寄せたのでしょう。もしかしたらお山めぐりの道中に並んでいたのかもしれません。

 

(5)押分石

 本堂左側から山道を辿り、いよいよお山巡りにかかります。

 最初は、このように幅広のなだらかな道です。この先で二股になっていてどちらを辿っても山頂に至るようですが、左に行くように道案内の札が立っています。つまり右回りにお山巡りをして、帰りは右の道から下りてくるというわけです。

 その二股を左折すれば斜面をトラバースする細道になります。しばらくはゆるやかな坂道で楽ちんですし、特に危ないような場面もありませんでした。

 お山巡りの最初の見どころ、押分岩につきました。確かにお岩を押し分けたような通路になっています。問題なく通行できます。時間の関係で、当日はこの少し先まで行って後戻りました。11月か12月頃に再訪して、一周してみようと思います。

 

(6)千本桂

 今度は千本桂を訪ねます。参道を後戻り、坊跡の手前に道標があります。そこから凡そ700mの道中で、崖をトラバースする頼りない細道が続きます。人が1人歩くのがやっとの場所もありますが、特に滑落の危険を感じるような場面はありませんでした。一本道なので特に問題なく行きつくと思います。

 薄暗い谷間にて、上手に撮影できませんでした。時間帯を考えて訪れればもう少し上手に撮れたかなとも思いますが、ひとまずこの写真を掲載しておきます。幹がたくさんに分かれた素晴らしい樹形が心に残りました。しかも、谷筋にこのような木がたくさんあるわけではなくただ1本ですし、その立地も相俟ってほんに神秘的な感じがいたします。

 

2 柾木の滝と渓谷

 桧原山をあとに県道2号に返ります。上ノ川内公民館から富谷経由は道が狭いので、少し遠回りですが元来た道を後戻った方がよいでしょう。県道に出たら右折します。ほどなく道なりに橋を渡って、津民川の右岸をずっと上っていきます(右側に川を見て上る)。しばらく行って、道なりに橋を渡る手前の二股を左にとり、次の角を左折します。柾木の滝の標識があるのですぐ分かります。ほどなく、道路道側にトイレのある駐車スペースがあります。柾木の滝入口に着きました。

 この滝は、今は上から見下ろすことしかできません。でも渓谷の景観がそれはもう素晴らしく、皆さんに探訪をお勧めしたい自然景勝地です。項目名も、現状では滝というより渓谷の探勝が主になる名所なので、柾木の渓谷としました。

 駐車スペースの一角に「通行止め」の旨の立札が立っています。ここが、かつては滝の正面につながっていた遊歩道の入口です。谷底に下り着いたところから堰を通って対岸に渡っていたのですが、その堰が壊れて渡れない状況が長く続いています。それで降り口に通行止めの表示があるのです。堰の手前までは問題なく通れます。渓谷の風景を楽しむことができるので、滝まで行くことはできませんけれども坂道を下ってみてはいかがでしょう。

 岩や苔、樹木が絶妙なバランスで、水の碧さは言うまでもなく、まるで箱庭のような風情があります。

 さて、よう見ますと対岸に金属製の桟道を設けたり、岩にステップを彫ったりしてあります。昔は堰を渡り、あの通路を鎖渡しで上下しながら崖っぷちを進み、滝を見に行ったとのことです。その通路の細いこと細いこと、競秀峰や古羅漢の鎖渡しとは比べ物にならない頼りなさですし、しかもその通路が平坦ではなくて途中に大きな段差があり、先に行けば行くほど水面から離れて高度を増すようです。これを大ホキ道と言わで何と申しましょう。当時はなるべく自然を壊さないようにと考えて道をつけたのでしょうが、現代の感覚では、観光名所の遊歩道としては考えられない、危ない道です。壊れた堰を修繕する話もあるようですがなかなか実現しないのは、予算の関係もあるとは存じますが、堰の先の遊歩道の危険性もネックになっているのではないかと推量いたしました。

 駐車場所から左に行けば、滝を上から見降ろすことがでいます。上から見ますと、滝というよりは渓谷としての地形のおもしろさ、自然美の方が印象に残りました。この滝は川幅いっぱいに水が落ちるのではなくて、甌穴が段々になったような地形になっています。それで、滝にかかる手前で急激に流れの幅が狭まりますので水の勢いが増し、段違いになっているところで互い違いに渦を巻き巻き落ちていきます。

 まったく、玉藻砕けて鳴瀬おどろのものすごさでございます。正面から見てみたいものです。堰が修理されたら、必ず再訪しようと心に決めています。よし遊歩道の鎖渡しに難渋しようとて。

 

3 落合の滝と渓谷

 柾木の滝から県道2号に後戻って左折し、さらに上っていきます。ほどなく、左側に「落合の滝おり口」の立派な看板が立っています。一旦通り過ぎて次の角を左折し、河川プール駐車場に車を置くとよいでしょう。

 看板は立派ですが、そこから川原に降りるまでの通路がなかなかのものです。舗装はしていますけれどもやや荒れ気味で傾斜もきつく、転ばないように気を付けて下ります。距離は知れたものです。

 川原に着きました。こちらの渓谷も見事なものです。先ほどの柾木の渓谷とはまた違って、こちらは津民川の本流にて川幅も柾木よりはありますし、明るくひらけています。大小さまざまな転石により、透き通った流れが綾目をなします。

 写真の奥の方に滝が見えています。滝の近くに行くには、右側から大岩を伝うていくよりほかありません。当日はズックを履いており、滝の手前のところで水に足をつけなければ先に進めなくなりそうな気がしたので深入りはしませんでした。夏になったらまた行ってみたい場所です。そのときはジャブジャブと、水の中を歩いてみようと思います。

 

4 旧永岩小学校

 県道2号をさらに上り、大字川原口に入りますといよいよ山深さを感じます。両午部落の先で道路の中央線がなくなります。道なりに行けば、左側に長岩城址があり、遊覧者のために駐車場も整備されています。道が険しいと聞き二の足を踏んでしまい、まだ行ったことがないので今回は省きます。

 旧永岩小学校は、長岩城址駐車場の少し先、右側です。道路沿いに見事な石垣をついており、歴史を感じます。校舎も運動場の遊具も良好な状態で残っておりますのは、閉校になってからも地域の方により手入れされているためです。

 山の中の小学校は、小さな建物です。私はこのような小さい小学校に通うたわけでもないのに、とても懐かしい気持ちになりました。この小学校は、もとは津民小学校の分教場であったのが昭和32年に独立したものです。校区は大字川原口で、下手から申しますと両午、中村、川原口、小屋ノ原、相ノ原です。いずれ劣らぬ小村ですけれども、分教場から単独校として独立したということは、昔はそれなりに人口もあり、子供が多かったのでしょう。旧永岩小学校は川原口部落にあり、ここはちょうど校区の中間です。ここから県道を進めば小屋ノ原を経て相ノ原は津民の谷の奥詰め、これよりカサに民家はありません。道なりに県道から林道に切り替わり、くねくねと進んでいけば山国町は大字槻木(つきのき)、毛谷村(けやむら)部落に抜けられます。

 ところで田舎の学校というものは地域との結びつきが密接で、運動会を筆頭に卒業式、課外学習、その他何につけても地域の方々(特にお年寄り)の参画があり、またそうでなければやってこられませんでした。言い換えれば、小学校が地域の核のような意味合いをも帯びていたわけです。おそらく永岩小学校もそうであったと思いますし、またそうであればこそ地域の方々の思い入れが強く、閉校してもなお環境が維持されているのでしょう。

 いま、行政の広域化により小中学校の統廃合が相次いでいます。身近な地域でも、ちょっと田舎の方に行きますと小学校の校区の広さに驚くばかりです。予算の問題や先生の配置の問題(複式学級など)もありますし、子供達の育ちを考えますとある程度の児童数があった方が望ましいと考える方も多いと思います(もちろん小規模校には小規模校のよさがあるので一概には言えないとは思いますが)。ですから小中学校の統廃合を頭ごなしに否定するつもりは毛頭ありませんが、地域から学校(特に小学校)がなくなるというのは、やはり寂しいものです。

 

今回は以上です。次回は野津原町の名所をめぐります。

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