大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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野津原の名所めぐり その1(野津原町)

 このシリーズでは野津原地区の名所旧跡を紹介します。野津原地区は大字廻栖野(めぐすの)・野津原(のつはる)・入蔵・福宗からなります。野津原町は東西の標高差が大きく、東部にあたる野津原地区の居住地は概ね、標高が低い地域にあたります(大字福宗を除く)。お隣の大分市稙田地区との結びつきが昔からたいへん強い地域で、大字廻栖野の一部は昭和35年大分市に分離編入するに至っています。今は同じ大分市の仲間ですが、平成の合併前の市町村で申しますと野津原町大分市にまたがるシリーズになります。

 さて、この地区の名所と申しますと、やはり筆頭には宇曽嶽(うぞうだけ)神社が挙げられましょう。かつては子供の虫封じの霊験あらたかとて近隣在郷より参詣者の絶え間を知らぬほどで、今なおその素晴らしい自然環境に惹かれて参拝する方が多うございます。ほかに一心寺のぼたん桜、塚野鉱泉、赤坂の石畳なども知られています。私は今まで、この地域は車で通り過ぎるばかりで、主要な道路以外を通ったことがほとんどありません。まだ知らないことだらけです。庚申塔などの石塔類等も種々残っているようですから、今後の探訪が楽しみな地域です。

 初回は赤坂の石畳からはじめて、宇曽嶽下宮の石造物、狐塚の石造物、宇曽嶽神社と進んでまいります。久しぶりに庚申塔(刻像塔)も出てきます。

 

1 赤坂の石畳

 この項は、諏訪地区にあります矢貫の石橋および井塚の石畳、夜泣き止め地蔵からの続きで、肥後街道に関連する史跡です。諏訪から野津原に下る道順で紹介していますので、先に当該記事の後半からご覧ください。

 夜泣き止め地蔵から先は、しばらく平坦な道が続きます。転石もありますけれども、私が歩いたときは藪になっているようなところはなく容易に通行できました。この道は、山仕事や農作業で利用されることはないと思います。歴史の道として、草刈りなどの整備が続けられているのでしょう。

 しばらく行くと右に左に蛇行しながら下っていきます。落ち葉が堆積していますが足を滑らすほどの傾斜ではありません。

 石畳が出てきました。ここから下が「赤坂の石畳」です。振り返って写真を撮りました。

 石畳は土に埋もれがちで、道幅の中央付近のみ石が顔を覗かせています。おそらく枯葉や土で全体がもっと埋もれていたものを、復元したのでしょう。

 途中、かなり屈曲して下っています(写真は振り返って撮影しています)。石畳がなければ洗い掘りが進んでかなり歩きにくい道になっていたのではと思います。石畳の敷設は、土木技術の幼稚な時代のことですから大変な労力がかかったことでしょう。その甲斐あって、この急坂が今もなお道の体をなしているのです。

 無事、国道442号に下り着きました。ここは野津原公民館のすぐ近くです。矢貫の石橋の近くに車を置いていたので、車道を歩いて戻りました。だらだらと上り坂が続きくだびれました。

 

2 宇曽嶽神社御旅所の石造物

 野津原公民館から、国道を稙田方面に進みます。切通しにかかった橋の欄干に「宇曽嶽神社入口→」の看板がかかっていますので、それを目印に切通し手前を右折します。道なりに行くと左側に鳥居が立っており、入蔵公民館と宇曽嶽の御旅所が隣接しています。車を停める場所は十分にあります。

 公民館から地続きですが、その一段下のところから敷地に沿うて里道が伸びており、その半ばに正面参道があります。こちらの鳥居は壊れていますが狛犬は健在です。真横から見ますと全体の造形が矩形に近いと申しますか、なんとなく四角に収まるようなデザインになっているのでほんにかわいらしい感じがいたします。しかもお顔の造りも独特です。宇曽嶽詣りの際にはぜひ御旅所にも立ち寄って、狛犬を確認してみてください。

 拝殿の写真は省いて、境内の石造物を紹介します。

 隅の方に、たくさんの石祠が寄せられています。近隣の小社を合祀したものと思われます。

 一つひとつの神様の名前が分からなかったのと、傷みが進んでいる石祠も多く残念に思いました。でも周囲の草を刈ってあることから、お世話が続いていることが分かります。この石祠の近くには庚申塔も立っています。木に隠れがちで、見落とし易いかもしれません。

青面金剛6臂、ショケラ
文化六年 二月吉祥日

 主尊のみを置いた素朴な刻像塔です。灌木に遮られて正面から撮影できませんでした。このように青面金剛のみを彫り出した庚申塔野津原町内でときどき見かけます。同種のものを大野町や緒方町など、大野地方の方々で見つけました。野津原町の庚申様もその流れのものなのでしょう。

 正面から拝見しますとお顔の傷みが目立ち、おいたわしい限りでございます。こうして横から見てみると、つり上がった眼がよう分かりました。大分市百木(中判田地区)や別府市堀田(石垣地区)で、これとよう似たお顔の庚申様を見たことがあります。小型で、像の数も少なく(眷属なし)ごく素朴なものですけれども、「庚申様」の世間一般のイメージとよう合致したたいへん分かりやすい像です。

 

3 狐塚の石造物

 御旅所をあとに、道なりに宇曽嶽方面に行きます。野球場を過ぎて左カーブし、右に宇曽山荘の入口を過ぎてすぐ、左後ろに折り返すように上れば庚申様やお地蔵様などが小高いところに並んでいます。もし見落とした場合は先に宇曽嶽神社に行って、帰りに寄るとよいでしょう。帰り(下り)であれば見落とすことはないと思います。

 このように、周囲は舗装されてお供えもあがり、お世話が行き届いています。写真の左奥の塔は石幢か灯籠の棹と宝篋印塔の笠の後家合わせのような気がします。ほかは良好な状態を保っています。この中から中央の仏様と、庚申様(右端)を紹介します。

第壹番
紀州 那智山
如意輪観世音

 銘の内容から、西国三十三所の第一番札所であることが分かります。宇曽嶽神社の参道沿いでは第二十九番札所も見つけました(後ほど紹介します)。きっとこの場所から宇曽嶽山頂にかけて、写し霊場が開かれていたのでしょう。宇曽嶽神社に参拝する場合は中腹まで車で上がる方がほとんどで、私もそうしました。健脚の方で、もしこの辺りから歩く場合は、写し霊場の札所をさがしながら歩いてみてはいかがでしょうか。

青面金剛6臂、猿、鶏、ショケラ、髑髏

 こちらの庚申塔は、野津原町に現存する刻像塔の中でも特に保存状態がよく、デザイン的にも優れています。冒頭の写真をご覧いただくと分かるように、石板を組み合わせて簡易ていな御室をこしらえ、その中に安置されています。宇目町などで、文字塔を組み合わせた中に刻像塔をお祀りしているのを何度か見かけたことがあります。それで、こちらももしかしたら文字塔で御室をこしらえてあるのではないかと思いました。見たところ御室の石板に銘が確認できなかったので、判断に迷うところです。

 主尊はむっちりと肉付きがようて、ほんに堂々たる雰囲気がございます。特にお顔の大きさといったらどうでしょう。まったく、さぞや肩も凝りましょう首も凝りましょうとでもいうべき大きな頭でりませんか。櫛の目も見事に御髪を整えており、その立体的な表現が見事なものです。御髪の中央に赤く彩色した髑髏が見えるのも興味深うございます。お顔は、目をつり上げてながらも黒目がちで、頬や顎のラインも相俟ってあまり怖そうな感じがしません。なんだか親しみすら覚えました。腕の形や立体的な処理、指先などの細かい部分も全く違和感なく仕上げてあることに感心いたします。しかも衣紋の複雑な重なり、丁寧な彩色、ひらひらのところの曲線など何もかも自然な表現です。三叉戟や宝珠などは線彫りに近いほど浅く仕上げておりますのも、主尊の肉付きのよさを強調しています。

 足元を見ますと、猿と鶏が向き合うています、猿は膝をかかえてしゃがみこみ、物思いに耽っているように見えました。猿と鶏の間にも何かが彫ってあります。どう見ても邪鬼ではありません。これが一体何なのか?つくづく考えましたけれども分からずじまいです。 

 

4 宇曽嶽神社

 今回は中腹まで車で行きます。宇曽山荘から先に進みますと、ほどなく突き当りに出ます。どちらに行ってもよいのですが、左折して次の角を右折した方が運転しやすいと思います(※)。道しるべがあるのですぐ分かります。
※昔からの参道を歩いて登る場合は右折してください

 中腹の駐車場まで、特に問題なく通行できます。途中に急な坂道や離合困難の場所もありますが、その距離は知れています。対向車が来ても困るような場面はそうそうないでしょう。駐車場から先も舗装路が続いていますが、ここから先は一般車両は通行禁止です。ひっくり返るようなものすごい急傾斜の道になり、4輪駆動車でも通行に難渋しそうです。間違って車で入らないように気を付けてください。

 さて、駐車場から先は作業道と旧来の参道がところどころで交わりながら、両者が概ね並行しています。参道は急勾配の箇所が概ね石段になっているものを、上がりはなのところは作業道を歩かざるを得ない部分もあり、そこがとんでもない急坂です。上りはまだしも、下りで転んでしまいそうなほどですから、杖があると安心です。

 参道脇には点々と仏様が並んでいます。こちらは大きな木のねきにお祀りされた馬頭観音様で、その立地も相俟って特に心に残りました。上端に「第二十九番」と彫ってあり、先ほど紹介した狐塚の一番札所と一連のものであることが分かります。西国三十三所の写し霊場の札所でございます。二十九番札所は舞鶴市にある松尾寺で、西国三十三所馬頭観音様を御本尊におくのは松尾寺のみです。

 こちらは札所の番号が読み取れませんでした。蓋し三十番か三十一番あたりでしょう。

二丁
クリハイ
 佐藤 正
  仝 良一

 丁石は栗灰部落(現・田ノ口)の佐藤正さんと佐藤良一さんの寄進です。栗灰は大字太田のうちで、今は人口の減少が著しく、奥詰めの方は無住になっているようです。でも地域の方々の努力で、コミュニティレストランやキャンプ場などを整備・運営され、都市部からの来訪者もある由、いつか訪ねてみたいと思うています。それにしても宇曽嶽から栗灰はそれなりに離れています。氏子圏の広さを感じました。

 作業道のすぐ横に、旧の参道が残っています。杉にシメを渡して、いよいよ聖域に入りますよという雰囲気が感じられ、このお山の中でも好きな場所のひとつです。

 作業道が大きくカーブして迂回するところを、参道の石段が直線的に通じています。この石段は昔のままのようで、縁石の傷みが目立ちました。しかし緩み・ぐらつきはなく、今のところは安全に通行できます。

 先ほどの石段を上って作業道に出たら右方向に行きますと、次の石段が左に分かれています。この石段はごく短く、すぐ上に山門が見えています。

 宇曽嶽神社の中宮に着きました。境内はいつも整備が行き届いており、みどり豊かな気持ちのよい場所です。何はともあれお参りをいたしましょう。そして境内の石造物を確認・見学したら、奥宮に足を伸ばすことをお勧めします。奥宮は左側から石段を上ってすぐのところです。

 由来書きを転記します。

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宇曽嶽神社由来顕記

御祭神
 軻遇突智神(加具土神) 山頂奥御殿
 倭武尊(白鳥社) 中御殿中央大石室
 日向国宇戸大明神絵像並びに香取祖師(白鳥社向って右の小石室)
 鞍馬山多聞天張山坊(白鳥社向って左の小石室)

 御祭神中、兵法士第一の尊崇の御神、宇戸大明神並びに香取祖師、鞍馬山大天坊分張山坊は義経以来源家守護の御神霊にて、新田家南朝の忠臣密監使天台阿者利、江州佐々木家の末葉、森永左近照盛守護せしを当郷郷士一徴斉、庄屋橋本太郎右衛門相共に信仰の尊神なるをもって、寛延2年6月、峻険なる霊峰、宇曽山頂にこれを勧請するや一連の尾根にて連なる英彦山、尺間山と共に山伏達の尊崇修験の場となる。これら修験者達は法螺貝を吹き、錫杖をつき鳴らし、一本歯の下駄に身を委ねて護摩を焚き、女人禁制のもと厳しい修行に耐え、近郷に降ってはその「行」の力と「神の霊験」とによって村人達に「根性」と「気力」を与えて病を治し、殊に子供の「癇の虫」を立ちどころに治癒せしめて人々の尊崇を一層高めた。爾来、いまもなお宇曽嶽神社は「子供の虫封じ」と「気力・根性」の神として単に九州のみならず遠く京都をはじめとする近畿・中国・四国に至るまで広く崇敬者を擁し、春の中日(春分の日)、秋の中日(秋分の日)、五月の子供の日のそれぞれ大祭日には門前市を為す賑わいである。

大祭日
3月 彼岸中日祭(春分の日) 御本宮
5月3日 宵祭(憲法記念日) 下宮(御降り)
5月4日 御旅所日供祭 下宮
5月5日 翌日祭(子供の日) 下宮(御発ち)
9月 彼岸中日祭(秋分の日) 御本宮

註記
 寛延2年当時合祀の圓福寺御本尊観世音像は、明治初年の神仏分離令により元の圓福寺(消失せる入蔵区の圓福寺跡に建立されたる現在の小宇)に分離独立、現在に至っている。

宮司謹白

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 詳細な絵地図も記され、たいへん分かりやすい説明板です。その絵地図の中に「巨大迷路」の文言があり、懐かしく感じました。昭和末期か平成初期か、ちょっと記憶が曖昧ですけれども折からの巨大迷路ブームに乗って、宇曽山荘のあたりだったでしょうか、巨大迷路がつくられました。私も連れて行ってもらい、子供の頃の楽しい思い出になっています。当時はたいへんな人気で、家族連れや学生などが大勢訪れていました。近隣には本格的な木製アスレチックなどもありました。巨大迷路やアスレチックコースは、ブームが去ったことで集客が落ち込んだのか、或いは設備の老朽化が原因か、理由は存じませんがずいぶん前に撤去されました。子供が喜ぶ施設ですし、大人も楽しめる立派なものだったので、今も残っていたとしたらやり方によってはそれなりに集客も期待できたのではと思います。続かなかったのが残念です。

 狛犬は派手な顔立ちで、特に阿形など裂けやせぬかといらぬ心配をしてしまうほど大きな口で、噛みつかれそうな迫力があります。

大乗妙典一石(一字)

 下部は埋もれていました。一字一石塔が境内にこともなげに残っておりますのも、神仏習合の名残でしょう。神仏分離令で仏様は移しても、一字一石塔まではやかましく言われなかったのかもしれません。

 奥宮への参道は手すりがついています。お参りに上がるたびに、わくわくしてくる場面です。いよいよ山の頂上に至りて、この先が明るく開けており大展望の期待が高まってまいります。

 残念ながら春霞で、期待した展望は得られませんでした。それでも眼下に大分平野を見下ろし、遠くには高崎山、その向こうには海が見えました。鶴見山も見えます。秋から冬に上れば、それはもう素晴らしい景色が楽しめます。

 駐車場所から息も絶え絶えに登った参道も、下りは足取りもかろくスタコラサッサの首尾でした。

 

今回は以上です。次回は大野地方の名所か、弥生町の名所を考えています。

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