大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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三重の名所めぐり その3(三重町)

 久しぶりに三重地区の記事の続きを書きます。以前、このシリーズの「その1」「その2」で大字松尾・鷲谷の庚申塔や石幢を掲載しました。今回は大字小坂をめぐります。この地域では興味深い石造文化財にたくさん行き当たりました。3か所だけですが1か所あたりの数が多かったのです。特に下小坂の庚申塔群は、刻像塔をはじめとして珍しい銘の文字塔も残っており、偶然見つけたものですからことさらに心に残りました。当日、三重町を探訪する中で未指定の石造物を何度も見つけ、行きつ止まりつ、自動車でまわりながらもまったく牛歩の歩みの道中でした。三重町は文化財の宝庫の感を一層強うした次第です。一部は省きますが、なるたけたくさん掲載していくつもりです。

 

8 中道通の石造物

 豊後大野市役所から国道326号を菅尾方面に行き、東小学校前三叉路(信号機有)を右折します。道なりに橋を渡ってから最初の二股を右折します。広々とした畑地の中をずっと進んで、「←野津」の標識のある角を左折します。一つ目の角を右折してすぐ、右側の木森の中に石幢や板碑などがたくさん立っています。すぐ分かると思います。この近くには、駐車可能な場所は見当たりませんでした。

 この石幢は文化財に指定されており、指定名は「中小坂石幢」です。中小坂には、もしかしたらこれ以外の石幢もあるかもしれないので、一応項目名は小字をとりました。

 全体的に見て、饅頭笠の大きさに対して幢身の丈が短めですから、どっしりとした雰囲気がございます。宝珠の下部には蓮の花を線彫りにて表現してあり、尖端の三角形になったところのへりにも線彫りで文様が施してあります。笠は内刳りを深くとり、龕部(別の写真を掲載します)が半ば隠れています。室町時代の作と推定されているとのことです。

 笠の破損が惜しまれます。

 龕部は八角柱で、六地蔵様、十王様のうち1体、俗人1体が彫ってある旨を豊後大野市のウェブサイトで読みました。この写真のひだりの坐像が俗人像にあたると考えられます。施主でしょうか。或いは、僧侶のような気もいたします。足元は、連子模様の幕の下に菱形の紋を施してあります。右の像はお地蔵様で、蓮の花の上に立ち、幢幡を捧げ持っています。帛が真横に靡いており図案化を極めます。

 右の坐像は十王様で、右手に筆を持ち何かを欠いています。その表情はあまりいかめしい感じがいたしません。親しみやすい十王様でございます。左の立像はお地蔵様で、先ほどのお地蔵様とは所作が異なります。蓮の花と一体的に彫り出してあり、お顔の表情や光輪など、さてもありがたい感じがいたします。

 ほかのお地蔵様は省略しますが、全部異なりますので実物を見学される際には注意深く見比べてみてください。

 石幢のほかには、多数の板碑と宝塔が残っています。特に板碑は質量ともに豊富で、様々な形態のものが一堂に会しています。左に写っているものは特に大きく立派です。これと右隣のものは状態が特によく、梵字がよう残っています。上端を山形にこしらえ、額部を全く平面に仕上げたうえで二条の直線を彫ってある点など、国東半島でみかける板碑とは造形が大きく異なります。ちょうど、線彫り連碑を単独でこしらえた形状とでも申しましょうか。

 左に写っている塔は角塔婆です。これは板碑を四面にこしらえたものにて、断面が正方形になっています。前面に位牌を彫り出してある点に注目してください。供養塔や庚申塔の類の銘の枠を位牌型にこしらえたものをときどき見かけますが、これほど実物の位牌そのままの形状に彫ったものは珍しい気がいたします。

 角塔婆の左隣は連碑になっています。細長い板碑が2つくっついた形状で、めいめいに位牌型の彫り込みがあります。古い時代の夫婦墓あるいは夫婦の供養塔でありましょう。見切れてしまっていますが、宝塔は後家合わせと思われるものが多く、相輪などの破損が目立ちました。

 このように小さいものは形がまちまちです。碑面が荒れがちで銘は全く読み取れません。もしかしたら庚申塔かもしれませんが確証を得ません。

 

9 下小坂の石造物

 中道通の石造物のところから、元たどってきた2車線の道を先へ進みます。高架で谷を一跨ぎして、次の辻を左折します。ほどなく、右側のお墓の横に庚申塔などがたくさん並んでいます。車はすぐ隣の下小坂公民館の前に停めさせていただき、見学しました。

 中央には御室に収まった刻像塔、その周りにはたくさんの文字塔が並んでおり、壮観です。このように、たくさんの文字塔の中に1基だけ刻像塔があるという配置は近隣市町村(大野町、野津町、宇目町など)でときどき見かけます。その場合、刻像塔は大抵、その場所の庚申様を統べる存在として中央か、あるいは文字塔より一段高いところにお祀りされてあることが多いように思います。こちらは道路工事その他により近隣からこの場所に移されたものもあるかもしれず、元からこの配置であったのか定かではありませんけれども、やはり中央に刻像塔を配した思いは近隣地域と同じでしょう。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ

 これは素晴らしい。だいたい大野地方(宇目町・野津町を除く)の庚申塔は文字塔ばかりです。ときどき見かける刻像塔は青面金剛を単体で彫ったもの(ショケラあり)ばかりで、眷属を伴うものは滅多に見かけません。ところがこちらは猿や鶏を彫り出しており、主尊の彫りがすこぶる立派です。全体として、野津町は川登地区で見かけた刻像塔と同様の特徴が感じられました。三重地区の中でも大字小坂は野津に比較的近いことから、その方面の影響が考えられます。

 それにしても、こちらのデザインの緻密さ・彫口の見事さは近隣在郷の庚申塔の中でも屈指であると確信いたします。特に主尊は、そのぐるりの縁取りを残すことなく、完全なる浮彫りになっています。これは南海部地方(宇目町を含む)および野津町の刻像塔でよう見られる特徴です。素人考えですが、へりを残して隙間を彫っていくよりもずっと難しいのではないでしょうか。しかも腕の重なりが自然です。肩や腕のカーブ、指の握りなども写実的で、ひとつも違和感がありません。炎髪やお顔の表情は多分に漫画的な表現でおもしろうございます。三叉戟や弓など細い部分も丁寧に彫り残したうえで墨を入れています。鶏はごくささやかな雰囲気です。猿はお馴染みの表現で横並びになっています。主尊左手の先(おそらく宝珠を持っていたのでしょう)を打ち欠ているほかは少しの傷みもない、ほぼ完璧な状態で残っています。

 御室も立派で、破風のお花模様がよいと思います。庚申講の現状は不明ですが、お供えがあがっていることから近隣の信仰が今なお続いていることが分かります。この場所の庚申様を代表する存在として、刻像塔にお供えをしているのでしょう。

(左)
元文元年
奉●●進●●● 施主中

(左から2番目)
享保十(以下破損)
梵字)庚申(同上)
四月(同上)

 左の塔は碑面の荒れどころが著しく、残った文字も読み取り困難でした。主たる銘の中に「籠」に近いような字が見えます。もしかしたら庚申塔ではないのかもしれません。

 左から2番目は半ばで折れてしまい、上半分を安置してあります。残った部分の銘はよう分かります。

寛延三庚午年
梵字庚申塔(蓮の花)
三月十七日

 左下を少し打ち欠いているほかはすこぶる良好な状態で、銘の読み取りが容易です。15名程度の連名で、下部に2段に分けてお名前を彫ってあります。この塔で珍しいのは「庚申塔」の下の、線彫りの蓮の花です。

寶暦亥五歳
梵字)庚申佛
六月十七日

 この塔は梵字を丸で囲うてあります。「庚申仏」という銘は珍しいと思います。半分から下は3段に分けて、18名のお名前が並んでいます。これほど人数が多いと「講中十八名」など人数で記すことも多いものを、このように18名ものお名前を全部記してあるのも珍しいのではないでしょうか。

 手前の塔も右後ろの塔も、梵字の下に「庚申塔」です。紀年銘の読み取りは省きます。いずれも10名以上のお名前を2段に分けてずらりと並べてありました。

庚申尊

 この並びの塔の中でも特に厚く、元は立派な造りであったと思われます。残念ながら破損しています。

 左は上部に二条の横線を彫り、板碑の様相を呈しています。銘が全く読み取れず、庚申塔かどうか分かりませんでした。右後ろは大きな梵字が印象深く、彫り口が立派です。こちらも、梵字以外の銘は分かりませんでした。

 

10 萱場の石造物

 車を置いたまま、道路を少し先に進みますとおもしろいイラストの看板があります。

 文字が消えていますけれども、おそらく近隣で生産されているお茶に関する看板と思われます。このすぐ横に「県指定有形文化財 神山石幢」の標柱が立っており、その横から入って細道を少し上ると右手に石幢をはじめとする石造物が並んでいます。こちらは神山さん宅の裏山とのことで、文化財の指定名が個人名に由来するのか、またはこの場所のシコナを神山というのか分かりませんでした。それで、一応項目名は小字名をとりました。ここも下小坂部落のうちです。

 総高が2m以上の堂々たる石幢で、全体の調和がとれた見事な造形です。しかも傷みがごく少なく、細部にわたって非常に良好な状態を保っています。

 宝珠の下の蓮の花が優美で、これがちょうど饅頭型の笠の膨らみとようマッチしているではありませんか。笠は内刳りを深くとり、垂木は見られないものの軒口を二重にこしらえてあります。中台との比率が自然で、龕部の露出の程度もちょうどよい塩梅であると感じました。

 幢身には銘がよう残っています。豊後大野市の解説によれば、永正4年の4月に法名道金・妙慶さんが現世安穏と後生善処を願うて建立された由、平成9年に今の場所に移され保存修理がなされたとのことです。

 龕部は八面で、六地蔵様、十王様1体、俗人1体が彫ってあります。十王様は漫画的な表現と申しますか、一目でそれと分かりますけれども多分にデフォルメがなされた表現方法がおもしろうございます。左隣りはお地蔵様、右隣りは俗人像(おそらく施主)です。

 こちらは人物像で、一見して頭の形などお地蔵様に似ていますけれども足元の台の形が違うのですぐ分かります。

大乗妙典一字一石塔
宝暦十庚辰年八月吉日

 一字一石塔は銘がすこぶるよう残っています。字体がよう整うているばかりか、この種の塔としては大型で立派です。

 

宝暦十二年壬午天●四月吉日
梵字延命地蔵●●(以下読み取れず)
為聞教(同上)

 御室の中の矩形の石には、このような銘が彫ってあります。きっと、もとは御室の中にあったものではなく、上に丸彫りのお地蔵様が乗っていたのではあるまいかと推量いたしました。右隣の碑は全く読み取れません。

(上部欠損)八戊寅年
(同上)順禮塔 現當一世安楽
(同上)二十一日

 蓋し四国八十八所西国三十三所の供養塔でしょう。

 

今回は以上です。次回もう1回だけ三重地区の記事を書いたら、新田地区に移ります。

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