大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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白山の名所めぐり その1(三重町・清川村)

 このシリーズでは白山(はくさん)地区の文化財や自然景勝地を紹介します。当地区は大字伏野(ふせの)・奥畑・中津留・大白谷(おおしろたに)からなり、三重町と清川村にまたがります。その経緯は次の通りです。

 旧白山村は牧口村・合川村と合併して昭和30年に清川村の一部になったのですが、当地域においては三重町への分離編入を望む声が大きくなって住民感情の軋轢が生じ、地域を2分する激しい対立により学校運営にも支障を来すほど揉めに揉めた末に結局、昭和32年に大部分(大字奥畑・中津留の全域と大字伏野・大白谷の一部)が三重町に編入されるに至りました。地域紛争とでもいうべき大混乱も一応の終息を見せまして、オートバイのパレードなどでお祝いをしたそうです。経緯の詳細は『三重町誌』に詳しいので、関心のある方は一読をお勧めします。

 白山地区の自慢と申しますと、何はさておき豊かな自然が挙げられましょう。白山渓谷や三国峠、稲積水中鍾乳洞などの景勝は、白山地区を訪れたら必ずや心に残ることと思います。ほかに石造アーチ橋の秀作や各種石塔群などの石造文化財に事欠かないほか、神社もたくさんあります。四季折々の自然探勝や文化財の見学を楽しみながらのんびりとドライブするのにもってこいの場所です。

 

1 轟木橋

 国道326号から県道718号に入り道なりに進み、大字伏野に入ったところで県道45号に合流します(合流地点は718号側からが直進なので特に気を付けなくても道なりに進めば問題なし)。稲積水中鍾乳洞の標識に従えば間違いません。中津無礼川に沿うて行きますと、道路右側にアッと驚くほどの扁平アーチの石橋が架かっています。車内から必ず目に入るので、すぐ分かります。これが轟木橋で、大野地方に数ある石橋の中でも個人的にいちばん好きな橋です。

 2連アーチで、径間が大きく異なります。大きい方のアーチの扁平なこと、ようまあ工事の半ばで崩れなんだものぞと驚くばかりです。よほど緻密な計算と慎重な工事のなせる業であることは言うまでもありません。大きい方のアーチの中間を頂点に、路面も僅かに山なりになっています。橋脚を据える位置を考慮して、このように極端なアーチにするのが最善だと判断したのでしょう。そして、その判断は正しかったということが平成29年に証明されました。集中豪雨による大水で、この橋は輪石のみを残して破損するという甚大な被害を受けました。壁石などが壊れて流されても、輪石だけが残ったのです。それは、これだけ極端に扁平なアーチでも非常に堅牢なる造りであるということと、橋脚を据えた場所が正しかったということの証左です。

 さて、この橋は昭和3年の着工で、同6年に竣工しました。県道側が三重町大字伏野、対岸は清川村大字伏野で、どちらも内平部落です。子供達の通学をはじめ農作業その他の往来の利便性向上のため、寄付金を募って架けたとのことです。

 大水による大破も何のその、今ではすっかり修復されています。石の色味が違うので、どこが修復されたのかはすぐ分かると思います(違和感はありません)。この橋は未指定ですが、文化財的な価値が高いと考えます。それで、破損した状態を目にした当時、架け替えのため取り壊されるのではないかと心配したのですが、元のとおりの姿が蘇って何よりでした。

 この対岸の山中には宝篋印塔群があります。行き方が難しそうだったので、当日の探訪は諦めました。

 

2 内平の楓

 轟木橋のすぐそばに大師堂があります。その脇から楓の巨樹が聳え立ち、轟木橋の景勝に一層の興趣を添えています。

 見事な枝ぶりです。紅葉の時季はさぞやと思われますが、まだ見たことがありません。もちろん、青葉の時季もようございます。

 案内板の内容を転記します。

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白山河川公園の案内

 この河川公園は、白山川を守る会結成30周年を記念して開設しました。
 この地は、三重町大字伏野字アミカケです。岡藩主三代中川久清が度々川狩に訪れ、その都度多くの網を掛干にしたため「アミカケ」の地名がついたと伝えられています。
 昭和6年4月完成の石造アーチ橋 轟木橋、また祈りの場所である内平太子堂、その前には樹齢数百年と思われる楓の巨木(心願成就の記念樹と推定)、川床には8万5千年前の阿蘇山大噴火によって自然に造成された、妙味溢れる柱状節理など見る人の心を和ませ、白山川の清流にも親しめる癒しの場であります。
 なお、来遊者の事故等については責任を負いかねますので、公園の散策には気を付けてください。

平成16年11月
白山川を守る会

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 お地蔵様が道路や川の安全をいつも見守ってくださっています。

 

3 犬鳴の石塔群

 轟木橋をあとに先へと進み、道なりに橋を渡ったところで二股になっています。青看板があり、その内容は直進が「中山・近郷」、左折が「稲積」です。これを直進すればほどなく犬鳴(いんなき)部落に出ます。その中ほど、道路沿いに「内平石塔群」の看板があります。文化財の指定名は広域的な地名(内平地区)をとっており、広義の「内平」は内平、犬鳴、本谷など複数の小部落を内包します。紛らわしいので、この記事の項目名は小さい方の地名をとりました。邪魔にならないように路肩に駐車したら、看板のところから簡易舗装の道を歩いていきます。

 道なりに上って左側、写真の位置から適当に下りますと一段下に堂様があり、その坪に石塔群があります。本来の参道はもっと下から分かれているようですが藪になっています。裏から下る方が簡単です。

 説明板の内容を転記します。

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村指定有形文化財 内平石塔群

 宝篋印塔5基、五輪塔7基が散在する。熔結凝灰岩製。宝篋印塔は、現高1.2m前後の小型のもので、矮小な隅飾突起など形式の上から戦国時代末期頃の造立と推定される。五輪塔も笠の軒先の反りが強く、同時代から江戸時代初頭頃のものと思われる。宝篋印塔には、塔身に四方仏の種字を陰刻するものもある。

清川村教育委員会

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 この塔は下から宝篋印塔の基壇・塔身、五輪塔の水輪、宝篋印塔の笠、宝篋印塔の塔身、五輪塔の水輪の順に重ねてあります。文化財の説明板には「宝篋印塔5基、五輪塔7基」とあることから、以前は本来の組み合わせて別個に建っていたものと思われます。地震等で壊れたものを、種別に頓着せずに取り急ぎ積み重ねたのではなかろうかと推量いたしました。個々の部材が小さいのでこれだけ重ねても総高は知れたものですけれども、なんだか豪勢な感じがいたします。もちろんそれは見かけ上のことであって、本来の状態に組み直すのが望ましいのは言うまでもありませんが。宝篋印塔の塔身の部分には、確かに梵字が見て取れます。上の塔身は円の中に大きい梵字、下の塔身は梵字こそ小さいもののその下部に蓮の花を線彫りにしてあります。

 こちらも壊れたものを適当に積み重ねてあります。見るからに不安定な積み方であり、崩れると部材が破損する虞があります。適切な保存修理が望まれます。宝篋印塔の笠は隅飾はもとより、その中間にも装飾的な彫りが施されています。

 こちらも後家合わせで、塔身を五輪塔の水輪ですげ替えています。宝篋印塔の笠の形状には、以前紹介した宇目型宝篋印塔(重岡の庚申塔めぐり その5の16番を参照してください)の特徴が見て取れます。大白谷から梅津越(自動車も通れますが難路です)を経由すればその先はもう宇目町ですから、大昔から地域間の交流があったのでしょう。

 

4 白山渓谷の柱状節理(内平橋付近)

 先ほどの青看板のある三叉路まで後戻ったら、邪魔にならないように車をとめて橋の上から、また道路から、景色を眺めてみてください。白山渓谷の景勝は方々で楽しむことができますが、この辺りは柱状節理が特に発達しています。

 水の透明度がものすごく、山の緑を映して絵のような眺めです。穏やかな流れが橋の下あたりで瀬となり、複雑な地形と相俟って見ても見飽かぬ景勝ではありませんか。

 川辺に降りる遊歩道はないものの、道路から簡単に景色を楽しむことができます。延々と続く柱状節理は、いったいどれほどの年月をかけて形成されたのでしょうか。

 

5 穿岩橋

 三叉路から「稲積」方面に、県道を進んでいきます。右カーブするところの左側に車止めのある旧道が分かれており、その旧道側の石橋を穿岩(ほげいわ)橋といいます。穿岩と申しますのはこのすぐ近くにある奇勝です(次の項で紹介します)。この橋もアーチの形状が美しいばかりか、周囲の景観ともようマッチしています。現道の橋に近接していますが、幸いにも川原に降りる道がありますから、ぜひ下から眺めてみてください。車を停める余地は十分にあります。

 植物により壁石が見えづらくなってきていますけれども、それも含めて、なかなか雰囲気のある橋ではありませんか。

 橋を下から見ることができます。アーチの幅を持たせなければ、当然橋としての用はなしません。必要とする幅いっぱいの長さの石材を順々に組み合わせるような単純な話ではなくて、このように互い違いに布目に組み合わせて必要な幅を出しつつアーチをこしらえるには、それはもう気の遠くなるような手間がかかると思います。大正15年の竣工で、100年近く経っても少しのほころびも見られません。

 この辺りの水の透明度も素晴らしく、木々の緑はおろか川原の岩さえも映しています。凪いだ状態の池の水ならまだしも、流れている川の水なのですから、尋常ではありません。

 

6 ほげ岩

 ほげ岩こそは、白山渓谷きっての奇勝です。穿岩橋のところで川が屈曲しており、その外側と内側それぞれの岩壁に大きな穴がほげています。特に外側の穴は裏に抜けており、天然の隧道の様相を呈しています。やや足場が悪いものの、穿岩橋の向こう側から近寄ることができます。

 これが外側のほげ岩です。裏側に抜けていますが、かなりの上り勾配であるうえに足下が悪いので、無理に入らない方がよいでしょう。

 ほげ岩の半ばから川を見下ろして撮影しました。どうしてこんなに大きな穴がほげたのでしょうか?川の水の影響であればこんなに上り勾配にはならないと思います。ちょうど穴がほげているところが軟らかい地質で、長い年月をかけて崩れて穴がほげたのではなかろうかと推量しました。

 

 こちらは内側のほげ岩です。大昔、途方もない昔はもっと河床が高く、この岩壁に川の水がドンドとぶつかって穴がほげたのかなと想像しました。写真では分かりにくいと思いますが、かなりの大きさがあります。

 中はこんなふうになっています。こちらのほげ岩は近寄るのが難しいので、道路から眺めるだけにしておいた方がよいでしょう。

 白山渓谷は蛍の名所で、殊にほげ岩周辺の蛍の数はものすごく、その時季に訪れますとまったく夢の里の感がございます。私は田舎の育ちで子供の頃より蛍に親しんできましたが、ほげ岩周辺の蛍の乱舞をはじめて見たとき、その幽玄なる光景に見惚れてしまいました。文化財の見学を諦めてでも、蛍狩り目的で宵の口に訪れる価値は十分にあります。

 

今回は以上です。次回も白山地区の名所旧跡を紹介します。

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