今回は大字久田は中尾部落の名所の一部を紹介します。薄暗い写真が多いのですが、実際に薄暗かったのでそのまま掲載することにしました。今回紹介する名所をめぐれば、立派な石幢を何基も見学できます。まことほんとに、新田地区は石造文化財の宝庫です。
なお、今回の名所は道が狭くて駐車場所に困ることも多いし、特に農繁期には地域の方の迷惑になりそうなので、歩いて行った方がよいと思います。ちょっと遠いのですが、学校が休みの日であれば新田小学校の正門の辺りに邪魔にならないように停めることができます(学校のある日は迷惑になるのでやめておきましょう)。
8 植松の石幢
新田小学校を基点に説明します。正門の横の区画に、仏様が並んでお祀りされてあるところがあります。写真がないので今回は省きますが、印象深い場所です。この右側の道に入ります。田んぼの中を行って突き当りを左折します。左に田んぼを見ながらずっと道なりに行って、後山田バス停のところを左折します。左に折れて田んぼの中を通り、右に折れて、今度は右に田んぼを見ながら進んでいきます。左の民家を過ぎて(※)、右側に田んぼの中を通る簡易舗装の道が分かれていますのでここを右折します。※印のところから数えて、右に分かれる1つ目の舗装路です。田んぼの中を通って左に折れ、道なりに右カーブしたら左側に石幢が立っています(冒頭の写真)。植松の石幢に着きました。
この石幢は単制で、六地蔵様などの刻像がありませんし、造りがシンプルなので一見して地味な印象を覚えます。けれども全体のバランスがよくて格好がよいし、均整の美が感じられるではありませんか。総高は2mを超えますし、道路よりも少し高いところに立っているので実物以上に大きく見えます。四面に仏様の種子を彫ってあります。銘文もあるのですが私には読み取れませんでした。豊後大野市の説明によれば、永禄13年の造立とのことです。450年以上も前の造立とは思えないほど良好な状態を保っています。
9 神目寺の天満社
植松の石幢を過ぎて道なりに上っていけば、神目寺跡に出ます。
杉林の中の薄暗い道で、未舗装ですが軽自動車なら通れそうです。けれども路面には堆積物がありますし、狭いので、車では行かない方がよいでしょう。しばらく歩いて行くと先の方にお社が見えてきます。神目寺跡には現在、天満社が鎮座しています。この天満社は神目寺が廃されてからのものなのか、またはお寺と神社が並んでいたのか、私には分かりませんでした。それで一応、神目寺跡の石造物と天満社は別項扱いとします。項目名の「神目寺」と申しますのは字名です。この小字は、お寺の名前に由来することは言うまでもありません。
石段が少しよがんでいて踏面も狭いものの、距離は知れていますから気を付けて歩けば問題なく上り下りできます。木が茂って昼なお暗く、ある種独特の雰囲気がございまして、月並みな表現ですけれども神秘的な印象を受けました。きちんと手入れがなされています。自然豊かで、とても気持ちのよい場所です。
人里離れたこの山の中の神社の鳥居に、立派なシメがかかっていることに驚きました。地域の方の信仰が続いていることが分かります。参拝したのはお正月ではありません。お正月にかけた紙垂であればもっと傷んでいるはずなので、お祭りが続いているのだろうと推量しました。
お社の造りが立派です。大きな社殿ではありませんけれども、妻や脇障子の彫刻など繊細な彫りで見応えがありますし、おばしまの交叉するところなども格好がよいではありませんか。参拝時には、ぜひこの建築を確認してみてください。
斜面の上の方には小さな祠がありました。下りに難渋しそうな急坂なので遥拝に留めましたので詳細は分かりませんが、山の神様でしょうか。
10 神目寺跡の石造物
天満社の参道上り口から右方向に行けば、石塔を数基確認できます。殊に石幢は3基もあります(1基は破損)。たいへん立派ですから、興味関心のある方にはぜひ見学をお勧めします。
説明板の内容を転記します。
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神目寺跡
所在地 三重町大字久田字神目寺
管理者 中尾区
神目寺は室町時代から江戸時代にかけて繁栄した寺院である。大楽寺とともに五山派に属した。古くからの妻帯僧の寺院であったが、たびたびの妻帯禁止令を受け入れなかったため廃寺とされ、門徒衆は三重郷深田村西蓮寺と同郷肝煎村丈六寺に分けられた。
大分県指定有形文化財
神目寺石幢
神目寺全盛期当時に造立されたもので、室町時代末期の永禄7年(1564)の刻銘がある。優美な単式石幢で、笠塔婆ともいう形式である。斑甫和尚の現世安穏・後生善処を祈って弟子の清斑が建てたものである。
三重町教育委員会
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説明板には単制石幢のことしか記されていませんが、ほかにもたくさんの文化財があります。順番に見ていきましょう。
宝篋印塔は塔身などを失い、残部を重ねて立ててあります。その横には壊れた鳥居の部材が安置してありました。説明板の内容は先ほどのものと全く同じなので、省きます。
苔や蔓草に覆いつくされた石塔には、お寺が廃されてからの年月が感じられます。もちろん、ほんの数年でもこんなふうになりますから、これは心情的なものではありますが。後家合わせか異相か判断に迷うところですが、奥の塔など風変わりな形をしています。小型の五輪塔など、かつてはもっとたくさんあったのではなかろうかと推量いたします。
平坦なところの奥づめ、緩斜面との境界あたりに重制の石幢が立っています。すぐ分かると思います。
一見して、笠よりも中台の径が大きいことが気になりました。中台と幢身の接合部に違和感はありません。笠から上が後家合わせなのでしょうか?笠はずいぶん傷んでおりますが、よし風化摩滅が進めばとて、中台よりも小さくなったりはしないと思います。この点が残念ですが、龕部はなかなか立派です。別の写真で詳しく見てみましょう。
龕部には六地蔵様と二王様、合計8体の像を彫ってありますが、八角柱というよりは円柱に近くなっています。それは、上端・下端に角を立てずに処理してあるためでしょう。なかなか優美な手法であると存じます。めいめいの像は矩形の区画に半肉彫りで表現されており、その枠の彫り込みが深いので像の存在感があります。
お地蔵様は、ご覧のとおり6体それぞれ所作を違えてあります。まるっこい表現がかわいらしいし、やさしそうなお顔を拝見いたしますと、胸の悩みも晴れゆかんとする心地でございました。しかも、めいめいの足元には枠外(区画の下の輪につながっているところ)に線彫りで蓮の花をほっており、このささやかな表現がお地蔵様の素朴な表現によう合うており、よいと思います。
二王様の表現がまた素晴らしい!お地蔵様の優しそうなお顔とは正反対の、実に厳めしく、手厳しい雰囲気が感じられるではありませんか。威厳に満ちたお姿には、わたしたちへの戒めが表れている気がいたします。
不勉強のため、像容をもって何王様か判断することができません。夫々坐像で、足下の様子が異なります。左は連子、右は二重線を斜交いにして四つ菱をこしらえた紋様で、何らかの意味があるのでしょう。
参道脇の斜面に、破損した石幢が1基立っています。幢身の上部に梵字が見て取れることから、単制と思われます。もし重制なら、こんなところに梵字は彫らないでしょう。おそらく、この幢身の上にはすぐ後ろにかやっている笠が直接乗っていたのではないでしょうか。下が埋もれていますが、それなりに大きいものと思われます。現状では前方に転倒して破損したりすることが懸念されます。
説明内容を転記します。
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神目寺石幢は全盛期の当時の遺物である。高さ217cm、永禄7年(1564)3月の造立である。笠は二重たるき、水煙で包まれた宝珠など、繊細な彫刻が施され、県下でも有数な、美麗な単式石幢である。
この塔は、神目寺の斑甫和尚の現世安穏、後世善処を祈って、弟子の清斑が建てたものである。
管理者 中尾区
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これは見事なものです。2m以上もあるものを、少し高い位置にありますからよけいに大きく立派に見えてまいります。重制石幢のような複雑な造りではありませんが、細やかな彫刻や部材のバランスなど、非常に優れていると言えましょう。
説明板でも言及されている宝珠の、ふっくらとした感じがよいし、そのぐるりの彫刻も優れています。笠の裏も行き届いており、二重垂木を市松に表現してあります。幢身は、前面を大きく3区画に分ちます。すなわち、上部は矩形に枠を取り、図案化した蓮の花の上下に何らかの文様を彫ってありますがこれは梵字なのかどうか、私にはさっぱりわかりませんでした。中央には大きく月輪をとり中には立派な筆致で梵字を彫ってあります。下部にはびっしりと銘文を彫ってあり、その状態はわりあい良好で読み取りも比較的容易でしょう。委細は説明板の内容のとおりなので、省きます。
11 大楽寺跡の石造物
今回紹介する名所の中では最も行き方の難しいところです。冬からせいぜい3月まででなければ往生すると思います。神目寺跡から元来た道を後戻って、突き当りに出たら右折します(8 植松の石幢 の道案内の※印のところからなら直進)。右に田んぼを見ながら舗装路をずっと道なりに行くと、三叉路にでます。舗装は左に折れるのですが、これを直進して未舗装の道を少し行き、田んぼの角に沿うて右に折れて山裾まで行きます。そこから斜面にとりついて少し上がり、水路をまたいで左方向に上っていきます。
水路を越えた辺りが2月でもこんな始末なので、夏場などとても無理だと思います。先が不安になるような場所ですが少し進めば道が明瞭になります。
このように、杉林の中の坂道をくねくねと上っていきます。おそらく地域の方が道普請をしてくださっているのではないでしょうか。この山の中で舗装もしていませんし、車の上がらない道ですから、放置していればもっと荒れていると思います。田んぼのきわのところから、距離はそんなに遠くありません。でも1人で行くには不安になるような場所ですから、誰かと一緒の方がよいでしょう。
ずっと上ってきて、行き止まりが大楽寺跡です。平場に乏しく、こんなところにお寺があったのかしらと不思議になるような場所ですけれども、現存する石幢や宝塔といった石造文化財が、この場所にお寺があったことを示しています。
説明板の内容を転記します。
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大楽寺跡
所在地 大分県大野郡三重町大字久田字大楽寺
大楽寺は鎌倉時代から江戸時代まで存在した禅宗の寺院で、五山派に属した。豊後国守護である大友氏第四代大友親時の菩提寺と推定されている。親時は父頼泰とともに文永・弘安の役で蒙古襲来のとき博多に出陣した武将である。
貞享4年(1687)、大分郡稙田荘宗方村(現大分市)に移転し、以後廃寺となった。
ちなみに大野郡内の大友氏菩提寺について、第十三代大友親綱は犬飼町大聖寺、第十四代大友親隆は清川村宝生寺、第二十代大友義鑑は野津町到明寺である。
三重町教育委員会
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移転後の大楽寺は、大分市上宗方に現存しています。
この笠塔婆は傷みがひどく、宝珠の欠損を別石で補足してあります。
この石幢は、さきほど紹介した神目寺跡にある重制石幢とは見るからに雰囲気が異なります。もっというと、大野地方では稀なタイプのものといえましょう。中臼杵方面などで盛んに見かける、饅頭笠の内刳りを深くとったタイプであり、龕部が幢身よりも細いものですから笠がよけいに目立ちます。中台のささやかな感じもまた、笠を引き立てているではありませんか。
笠の二重垂木、優美なふくらみなどたいへん優れていますし、龕部の彫刻も細やかでなかなかのものです。高さは2.8mもあります。大きいので、笠もずいぶん重そうです。幢身はやや中ぶくれの形状にて、重厚感があり、笠の形状と釣り合いがとれているように感じました。
龕部は8面で、六地蔵様と二王様をレリーフ状に表現してあります。お地蔵様は通り一遍の表現ではなく、その立ち姿がめいめいに異なります。しかも衣紋の重なりなども平面的な表現の中でも上手に工夫してあります。デザイン的にはやや漫画的なデフォルメも感じられますけれども、いきいきとした感じがしますし、優しそうなお顔などほんにありがたい雰囲気ではありませんか。。
よく、二王様のみ坐像で表している例を見かけますが、こちらは二王様も立像です。足を大股開きの勇ましい立ち姿ですが、立体感に乏しいためか厳めしさとか威厳というよりは、失礼ながらかわいらしく感じました。
説明板の内容を転記します。
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均整のとれた大型の石幢である。龕部に六地蔵が彫刻されており、笠で覆っているので笠地蔵塔とも呼ばれている。
幢身に銘文があり、大永8年(1528)2月に聖順居士が後生善処を祈って造立したものである。
市指定有形文化財
大楽寺宝塔
やや小ぶりであるが、優美で整った形の2基の宝塔である。刻銘はなく詳細は不明であるが、室町時代(15世紀)頃の造立と推定されている。
大楽寺は大友氏四代親時の菩提寺といわれることから、大友親時夫妻の供養塔と推定されている。
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宝塔のある段まで上がるのに往生しそうだったので、下から見るにとどめました。説明板にあるとおり、そんなに大きくはないものの形がよう整うており、秀作といえましょう。左の塔は相輪の尖端を欠きますが、それ以外は左右とも、ほとんど傷みがありません。塔身の梵字もようわかります。
今回は以上です。新田地区のシリーズは一旦お休みにして、次回は百枝地区の続きを投稿します。