先月、合蔵の石幢をやっと見つけました。それで、今回は久しぶりに八坂地区の名所を数か所掲載します。
14 七双子の池
杵築市にはたくさんの溜池があり、その一つひとつが国東半島特有の農業文化を象徴する景観をつくり出しています。中でも今回紹介する七双子(ならぞうし)の池は非常に風光明媚であり、八坂地区でも屈指の自然景勝地であると確信しております。冒頭の写真のように、風のない日は水鏡の風情にて、自然のままの湖に優るとも劣らない情趣でございます。しかも、あとで詳しく申しますがこの池には興味深い民話が伝わっておりますうえに、近隣には数々の古墳が点在しており、歴史と自然、文化の融合した名所中の名所といえましょう。
道順を説明します。千光寺の横の道を山手に進みまして、以前紹介した上り尾の庚申塔の辻を直進します。空港道路の下をくぐったら左に折れて、すぐさま鋭角に右折します。細い道を上っていくと、左側に七双子墓地があります。その辺りに邪魔にならないように車を停めたら、墓地と反対方向に細い道を下ります(車不可)。そこから七双子の池の景観を楽しむことができます。
○ 民話「七双子の大蛇」
七双子の池には、大蛇の伝説があります。内容を紹介します。
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昔むかし、夏ん盛りんこつじゃ。杵築んお殿様が見回りん途中ぢ七双子ん池んはたを通ったんじゃあとこ。そんとき池ん中い大蛇がおるち聞いち、殿様が供んもんに「誰かそん蛇う見ち来い」ち命令したんじゃ。供についちょった朝田剛右衛門さんな水泳がたいした上手ぢ、ヘコ帯一つになっち刀を背に負うち、さっと飛び込うぢみたけんど大蛇なんの見つからん。いっぺん浮き上がっちまた潜っちみたけんど、池ん底に大けな松ん木が沈んじょるばっかしじゃ。誰かが「そら松じゃねえぢ蛇じゃねえかえ」ち言うもんじゃき、また潜っち見たりゃ確かに松じゃねえ、大蛇じゃったんと。
こりゃたまがった、こげな大けな蛇は見たこつがねえ。こん蛇う仕留めちお殿様に認めちもらおう思うち、剛右衛門さんな刀を振り上げち大蛇ん眉間の突いたちえ。おっとろしなこつ、池ん水が蛇ん血ぢ赤う染まったか思や、大蛇が暴れもうち水から出ちきたじゃねえかえ。そん首う剛右衛門さんがとこまえち、ぐるりぐるっと加勢が取り巻いち、一面切りかかっちとうとう大蛇を取り殺いちしもうたんと。
さて、そん次ん年ん夏んこつじゃ。剛右衛門さんが七双子ん池んはたを通りよったら、去年取り殺した大蛇ん骨が落てちょるじゃねえかえ。ざまあ見れちゅち骨を蹴つらかしたがマンのわりいこつ、そん骨が剛右衛門さんの足に突き刺さっちしもうた。あいたしこあいたしこ、どげ引っ張ってん抜けん、こげ引っ張ってん抜けん。しまいにゃ足が腐っちしもうち、剛右衛門さんなとうとう死んぢしもうたんじゃあとこ。
七双子ん池は水が少ねえろがえ。死んだ大蛇は池ん主じゃったんじゃなあ。主んおらんごとなっち、雨がなんぼ降ってん水がようけ溜まらんごとなっちしもうたんじゃあちえ。もうしもうし、米ん団子。
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昔のお年寄りが子供に話して聞かせた口調を思い出して、自分なりに書いてみました。方言が分かりにくいかもしれませんが、大筋は把握できるかと思います。
今はなみなみと水を湛えている七双子の池ですが、それは浚渫或いは堤の修理などによるものであり、大昔は民話のとおりに、水が少ない状態が長く続いていたのだと思います。民話に出てくる「大蛇」というのは、龍神様、すなわち水の神様と相通ずるものがあります。要は龍神様の祟りで池の水が減ったという結末であり、これは、昔の方の水の神様への信心を示唆しています。その信仰が真に迫るほど、旱害に悩まされていたということでしょう。
15 七双子古墳
七双子の池の付近には9基の古墳が確認されています。そのうちの8基は七双子古墳群と呼ばれていますが荒廃著しく、見学は困難です。農地の開拓などにより破損した事例もあったらしく、それを含めて9基なのか、または本来は10基以上あったが残っているのが9基なのかは、不勉強のため存じておりません。
この地域の古墳のうち、七双子の池の土手近くにあるものはほかの古墳から少し離れています。これは規模が大きく、特に位の高い人のお墓であると推察されます。ふつう、七双子古墳といえばこの古墳を指しており、近隣にも知られています。容易に見学できますので、興味関心のある方は訪ねてみてはいかがですか。
七双子の墓地の反対側に下り、荒手を越して土手を渡っていきます。当日は人が通れる程度に草刈りをしてくださっていましたが、季節によっては草が茂っているかもしれません。池に落ちないように気を付けて、反対側まで行きます。
土手の半ばに樋口があり、それから先は草が伸びがちでしたがどうにか反対側まで行けました。写真のように、立派な標柱が立っているのが見えてきますとゴールも間近です。これは七双子古墳の標柱です。
写真だと分かりにくいのですが、土手の奥詰めが円墳状に盛り上がっております。明らかに古墳の形状であり、実際に現地を訪れますとすぐ分かります。
このように羨道が開口しており、奥を見学することができます。昔はもう少し広く開口していたような気がしますが、今は土砂の堆積により進入に難渋します。這うていけば問題ないでしょうが、入口からの見学にとどめました。
やはり、ずいぶん土砂が堆積しています。20年ほど前に訪れたときは、奥の方は天井が少し高くなっていました。石積みが破損しているわけではないので、土砂を除去すれば昔の姿が蘇るでしょう。杵築市内には数多くの古墳がある中で、このように状態のよいものは稀であると存じます。この古墳は明治初年に発掘され、その際に金環や勾玉などが出土したそうです。
今は整備が行き届かず、興味関心のある方の探訪も稀になっています。費用はかかりますけれども、現地に簡単な説明板を設置するなどの対応が望まれます。
16 合蔵の石幢
道順が飛びます。中野酒造のところから中ノ原方面に進み、白水の池のところで二股を左に取ります。以前紹介した白水の供養塔の方に行って、民家の角を左に折れて杵築高校方面に下ります。
この道を下っていくと、杵築高校裏門付近の旧踏切のところに出ます。反対から来てもよいのですが駐車場所がありませんので、白水の池の辺りに邪魔にならないように駐車して、先ほど申した道順で歩いて来た方がよいでしょう。写真のように、左側が土の斜面から法面に切り替わるところから左に入る細い道があります。これを入れば古い墓地に出ます。
墓地に出たら右の方を見ますと、竹藪の向こうに石幢が立っています。一見して気付きにくいかもしれませんが、よく見ると分かります。道が不明瞭になっていますので、竹をよけながら適当に進みます。
ずっと探し求めていた石幢にやっと行き当たり、感激しました。周囲は荒れており、枯れ竹がたくさん倒れかかっていました。除去できる分は除去しましたが、大きい物は私の力ではどうにもなりませんでした。鋸がないと無理です。
さて、この石幢には興味深い点がたくさんあります。別の写真で、順々に説明します。そもそも国東半島から速見地方(湯布院を除く)にかけては石幢の作例が多くはありません。ですから近隣在郷のものと比較検討することはできませんけれども、それだけ貴重であるということです。
この中台を見てください。傷みが進んでいるものの、優美な花弁ははっきりと分かります。台の丸みと花弁のふっくらとした感じをうまく融合させた、優れたデザインであると感じました。また、基壇にも蓮の花をうすく彫ってあることが確認できます。
幢身の下の方には、陰陽印のような文様が見てとれます。これは、どのような意味があるのでしょうか?石幢など、古い石造物でこのような文様を見た覚えがありません。その文様よりも上に、何らかの銘が彫ってあった痕跡がありますが、現状ではさっぱり読み取れなくなっています。これについては『杵築市誌資料編』に内容が書いてあります。「元亀四年 奉建立本願 中野左衛門大夫」とのことです。なんと1573年、室町時代です。これは、近隣在郷はおろか県内全域でみても、重制石幢としてはかなり古い部類でしょう。
笠や幢身は六角形で、龕部は四角形です。ふつう四角形の龕部と申しますと、正方形です。ところがこちらは菱形に近くなっており、概ね120°、60°程度です。このような龕部は初めて見ましたので、呆気にとられました。しかも、ふつう四角形の龕部の場合は1面あて2体ずつとって六地蔵様と二王様が彫ってあるものですが、こちらは1面あて1体ずつなのです。これはいったい、どうしたことでしょうか。接合部の様子から、龕部は後家合わせであるような気もします。
17 大左右の山神社
また道順が飛びます。赤松の妙見様の方面に行き、杵築駅を過ぎてすぐの踏切を渡り、線路の向こう側に並行する旧道を通って生桑(いくわ)を通り抜けます。平渕道(旧道)には行かずに二股を左に下って沈み橋を渡り、大左右(だいそう)に入ります。ずっと道なりに行きますと、左側に山神社が鎮座しています。なお、大左右はかつて生桑の枝村であったそうです。
このように境内はこざっぱりとしており、地域の方の信仰が続いていることが覗えました。道中の道が狭いところがあり、農繁期などは迷惑になるかもしれませんので、参拝するときはこの点に留意する必要があります。
境内の一角にはいくつかの石造物が寄せられています。向かって右から2番目は庚申塔です。今回は、この庚申塔を詳しく見てみましょう。大左右の庚申塔としては、以前、五無田の庚申塔を紹介していますのでこれで2基目です。
青面金剛4臂、3猿、2鶏
残念ながら風化摩滅が著しく諸像の姿が薄れているうえに、半ばには折損の痕も痛々しく、残念に感じました。けれども折れたところをきちんとはぎ合わせて、ほかの石祠と並べて整地したところにお祀りしてあるなど、決して粗末にされているわけではありません。
日輪・月輪はよう分かりますが、主尊はその輪郭を留める程度にまで風化しています。辛うじて、腕の数が4本であることは判別できます。上の腕はw型に外に張り出し、下の手は合掌です。お顔の表情はさっぱり分かりません。衣紋の下部から覗いた脚はまっすぐに伸び、足先は外を向いています。蓮の花か何かに見替えの台に立っているところがちょうど割れ目にかかっており、おいたわしい限りです。
猿は3匹横並びでめいめいの所作は分からなくなっています。中心が主尊の足元の台からずれているのが気になります。その下は2羽の鶏で、中心はだいたい合うています。すなわち猿が1匹外にずれているような格好であります。これはどのような意図なのか、この碑面の状況では推量することも困難でした。
今回は以上です。次回は大野地方の記事を投稿します。