大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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稙田の名所・文化財 その5(大分市)

 久しぶりに稙田シリーズの続きを書きます。今回は森津の石造物を皮切りに上田尻の不動堂、蕨野の日枝神社、秋岡の石造物、田島の石造物、上芹の熊野権現、虎御前古墳の石造物をめぐるという、盛りだくさんの内容です。道順が飛び飛びになりますから、もし実際に探訪される際には過去の記事で紹介した名所旧跡と組み合わせてコースを設定してください。

その1 蕨野の石造物(庚申塔ほか)、日枝神社庚申塔

その2 下桑本の石造物(庚申塔ほか)、小野鶴八幡の庚申塔

その3 高瀬石仏(磨崖仏)、八鉾大明神と秋葉様、敷戸石仏(磨崖仏と石塔)

その4 露の石造物(庚申塔ほか)、宮地の庚申塔浅草神社、下宗方の石造物(庚申塔ほか)

 特に、この記事における「日枝神社」の項は「その1」の補遺となりますから、先に当該記事をご覧になることをお勧めいたします。

 

11 森津の石造物

 国道210号「ななせ大橋東」交叉点から県道41号を進みますと、道路右側にコンクリートブロックでこしらえた簡易的な覆い屋の中にたくさんの石造物が寄せられています(冒頭の写真)。道路工事等により、近隣の石造物を集めたものとのことです。つい素通りしてしまう場所ですが、珍しい石塔もありますので見学をお勧めいたします。近くに適当な駐車場が見当たらず、どこか離れたところに停めてあるいて来るしかありません。

 薬師様などいろいろな仏様のほか、こちらで特に目につくのはお六部さんの塔で、実に3基を数えます。その銘は「大乗妙典日本回国供養塔」「奉納大乗妙典六拾六部」などで、下部に蓮台をこしらえるなど豪勢な造りの塔も多く、見ごたえがあります。こういった塔は、できれば元の場所から動かさない方がよい気がいたします。けれども道路工事等で移転をやむなくされた際に、粗末にならないように覆い屋を設けてきちんとお祀りしてあるのは立派なことです。

 

12 上田尻の不動堂

 森津の石造物群をすぎて上石川方面に行き、霊山寺(りょうぜんじ)の道案内版に従って右折します。ほどなく、道後右側に不動堂がございます。車は路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。この道は霊山に参詣される方が盛んに通りますが、不動堂に寄る方は稀なようです。個性的なお不動様や数々の石造物など、興味深い文化財がたくさんあります。お不動様の霊験もあらたかとのことですので、お参り・見学をお勧めいたします。ここでは坪に寄せられた石造物の一部を紹介します。

 向かって左は霊山寺参道の丁石で、道案内として一丁ごとに立っています。1丁は約109mですが、今は道路工事等で動かされたりしているのでしょう、間隔がまちまちになっています。右の碑銘には「霊山寺■門之跡」とあります。■が読み取れませんが、「山門」のような気がします。ここに門があったのでしょうか?それとも、門の跡地から碑銘だけが動かされてこちらに安置されているのでしょうか?

奉供養庚申塔

 文字の彫り口がくっきりとしていて、右払いを跳ね上げるように角ばった字形にしてあるなど、かっちりとした印象を受けます。それが、下部の蓮の花との対比も見事なもので、素朴ながらも全体としてのデザインの妙が感じられるではありませんか。小型の塔にて目立ちませんけれども、秀作であるといえましょう。

 左は「大乗妙典日本廻国供養塔」、お六部さんの塔です。養は異体字で、上下を左右に並べて書いてあります(峯を峰と書くのと同様)。右の石幢は傷みが進んでおりますけれども龕部の仏様はよう残っています。このように龕部が矩形をなしている例は大野郡でよう見かけます。

 

13 蕨野の日枝神社

 不動堂から道なりに上っていくと蕨野部落に出ます。こちらの庚申塔や石幢は「その1」の記事で説明してあるので、参照してください。道なりに家並みを抜けたところにセラピーロードの駐車場ができました。ここに駐車します。すぐ上には日枝神社の参道入口があります。

 灯籠の間から石畳の参道が伸びています。灯籠の竿のくびれがよく、なかなかのものではありませんか。

三猿

 参道に入ってすぐ、庚申塔が立っています。この塔は「その1」でも紹介しましたが写真がよくなかったので、再掲することにしました。「甲申塔」の銘があります。「甲申」だと「きのえさる」になりますから意味が異なります。音読みが同じなので字を間違えてしまったのでしょう。このように猿のみを置いた刻像塔は青面金剛を主尊にした刻像塔よりも古い時代のものとのことで、県内では作例が少なく貴重なものです。猿のみの刻像塔は、以前、田染のシリーズで大曲の庚申塔を紹介しました。こちらは大曲の庚申塔よりもずっと簡単に訪ねることができますので、ぜひ見学してください。猿がうりざね顔で、その珍妙なデザインが何ともおもしろく、遊び心が感じられます。

 この先で参道が直角に右に折れます。

 鳥居から先は石段と平坦な石畳を交互に繰り返す直線的な参道になります。この石畳がずいぶん手の込んだ造りで、両側に溝を切っています。これほど立派な石畳はなかなか見かけません。

 登り詰めて振り返った写真です。一部、石畳が壊れてしまっていますが問題なく通れます。とても気持ちのよい道ですので、四季折々の自然を楽しみながら歩いてみてください。

 たいへん立派な造りの神社でございます。お参りをしたら、右側から車道に上がることができます。

 車道に上がりついた辺りに霊山参道の丁石「十二丁」が立っています。車道の開通い以前は、この優しそうな仏様のお顔に癒され、励まされながら一歩々々歩いてお参りをされていたことと思います。時間があれば霊山まで歩いてみるのもよいでしょう。今回はここで引き返して、車道を下って駐車場まで戻ります。霊山はまたの機会に紹介します。

 

14 秋岡の石造物

 車の乗って車道を下り、蕨野部落の中ほどで左折します。見通しの悪い道をくねくねと進んでいけば秋岡部落に出ます。道路右側に「市指定史跡 大友頼泰の墓」の立派な看板があります。そのすぐ横に3台分の駐車場が整備されています。

 説明板の内容を転記します。

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大友頼泰

大分市岡川501
市指定史跡(昭和49年1月9日)

 横5m、縦4mの墓域にある総高1.72mの五輪塔です。塔の四方に梵字が刻まれ、水和は破損を受け、また火輪は後世に補ったものと推定されます。
 大友頼泰は1222年(承応元)生―1300年(正安2)歿。大友家3代家督鎌倉時代後半の武将として、とくに元寇に際しては筑前国(福岡県)の武藤資経とともに九州内の武士に対する軍事指揮権を幕府から与えられました。大友惣領としてはじめて豊後国に入国し、以後大友氏は豊後に土着して勢力を築きました。文永の役では「蒙古襲来絵詞」の中に武者姿の馬上の頼泰の姿が描かれています。法名は「常楽寺殿道忍大禅定門」、秋岡山常楽寺菩提寺

大分市教育委員会

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 五輪塔のアップの写真を撮るのを忘れてしまいました。水輪の破損によりやや軸がぶれてしまっていますけれども、立派な塔です。説明板の絵図によれば水輪のみならで、五輪すべてに梵字が彫られています。その周りにはたくさんの小さな五輪塔が集まっています。

 石堂は笠が傷んでいるほかは良好な状態を保ち、龕部の六地蔵様の丁寧な彫りが見事でございます。めいめいが蓮台に立っていて、指先まで行き届いた微細な表現が素晴らしいではありませんか。優美な雰囲気が感じられる秀作であると存じます。写真では見切れてしまっていますが、竿には「南無地蔵願王菩薩」の銘がありました。宝暦3年の造立です。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ

 主尊はお慈悲の表情にて、青面金剛らしからぬ優しそうな雰囲気が感じられます。体の横に出した腕とその持ち物はレリーフ状の彫りで、腕の曲げ方などデフォルメが著しく、洗練されているとは言い難い表現です。けれども個性豊かな造形がおもしろいし、左右の腕と武器を薄く表現したことでより主尊の穏やかな雰囲気が強調されているような気がいたします。猿と鶏はうっすらと痕跡を残す程度になってしまっていますので、写真では分からないと思います。もともと彫りが浅かったのでしょう。

 秋岡には、ほかに「庚申森」というところにも庚申塔があるそうです。屋外に地域の方が見当たらず、その場所を尋ねることができませんでした。

 

15 田島の石造物

 秋岡からやや離れているので、道順が飛びます。ガストの看板がある「国道442号入口」交叉点から廻栖野方面に僅かに進み、右側1つ目の角を右折します(消火栓の標識あり)。ほどなく道路端に石塔が数基並んでいます。駐車場所がないので、ゆっくり見学した場合にはどこかに車を停めて歩いてくるしかありません。

 向かって右の塔は「南無妙法蓮華経一石一字」です。流麗な書体が素晴らしい。その並びは「奉漸読大乗妙典壹千部」で、お参りをすればお経を千回あげるのと同じ霊験が得られますよという意味でありましょう。やや離れた「大乗妙乗」の塔はその堂々とした字体や厚みのある塔の形がよく、こちらも立派です。

 中央の小さな石塔も「大乗妙典」の銘があります。その左は宝篋印塔と灯籠の後家合わせになっています。これだけの大きさの笠を持つ宝篋印塔は、さぞ立派なものであったことでしょう。

 この区画から少し進めば、道路右側に如意輪観音様と六地蔵様の石幢が並んでいます。

 如意輪観音様は御室に収まり、お顔が見えづらくなっています。「七瀬観音第十一番札所」になっています。西国三十三所の写し霊場と思われます。石幢は龕部のお地蔵様に彩色が残り、その優美なるお姿が素晴らしい秀作です。中台の下部には蓮華坐を伴い、細部までよう行き届いた造りになっています。やや寸詰まりになっていますのは、竿が半ばで折れてその上部を地面に固定したためでしょう。

 まったく、稙田というところは何のことはない道路端に多種多様な石像文化財がよう残っており、あの道この道、初めての道を通るたびに新しい気付きがあります。人口の急増・宅地化が進む昨今、このような石造物を粗末にすることなくいずれも立派にお祀りしてあり、この地域の方の信心や人情のあつさがうかがわれます。

 

16 上芹の熊野神社

 国道442号旧道から鰻屋さんの角を入って道なりに行き、上芹部落の奥詰に熊野権現がございます。駐車場も整備されていますが道が狭く、住宅地の中ですので運転には注意を要します。

 稙田市街地からほど近いのに、その喧騒を離れた緑豊かな環境に心が落ち着いてまいります。

 境内には天満社が合祀されています。その関係で牛の像が安置されております。

 由来書きを転記します。

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熊野神社の由来

 熊野神社は、熊野三社(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の祭神を勧請された神社であり、熊野先達の活躍により熊野信仰がひろがり、全国に散在する熊野系神社は、約3000社余り、大分県に約70社あります。
 鎮守の森にある当地区の熊野神社は、「事解男命、速玉男命、伊邪那美命」が祀られ、永正3年(1506年)頃、地元の有志により勧請されたと言われております。
 その後、神殿・拝殿等は、明治中期(推定)に建設されたものです。
 しかし長い年月で神社は風雨にさらされ、また白蟻等に蝕まれ、朽ちはじめているところを、平成22年地元の善意により、天満社の改築や、参道の整備がなされました。
 境内には4月に桜、5月には、つつじが咲き誇り地区民の憩いの場として、又、氏神様として親しまれ春、秋の祭りや初詣など多くの人々が参詣する由緒ある神社です。

上芹・自治会寄贈
2021年3月吉日

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猿田彦

 玉垣の端に猿田彦の刻像塔が安置されていました。以前、滝尾地区の名所シリーズの中で大分社の庚申塔をたくさん紹介しました。それと同じように、こちらの猿田彦も県北方面で見かけるもののように首を捻じ曲げておらず正面を向いて立っています。どんぐり眼に凛々しい眉毛、たっぷりとした髭面にて、杖をついて立つおじいさんのように見えます。一見して庚申塔には見えませんので、地域内においてもそれと認識していない方も多いかもしれません。厚肉彫りで、細かいところまで丁寧に表現されています。

 説明板にありますように建物は立派に改修されています。大きな木も目立ち、ほんに気持ちの良い空間です。四季折々の自然が楽しめますから、何度でもお参りをしたくなります。

 

17 虎御前古墳の石造物

 熊野神社に隣接して虎御前古墳があります。それと知らなければただの台地としか思えないような地形です。上の写真の辺りから、神社の敷地のへりに沿うて下る道があります。その道の半ばから右側に折り返すように急坂を上がったところが虎御前古墳で、その上にいくつかの仏様などが安置されています。

 何の仏様か分かりませんけれども、その独特なお顔立ちは一度見たら忘れられません。頬の肉がむっちりと盛り上がり、細い目をやっと開けているようなお顔には、なんとなくおめでたい雰囲気がございます。

 舟形の塔身に薄肉彫りで表現した馬頭観音様です。その状態はすこぶる良好、御髪の櫛の目や頭部にあらわれた馬の顔もよう残っています。国東半島で見かける馬頭観音様は牛に乗っており厚肉彫りですが、こちらは牛に乗るかわりに蓮台の上におわします。稙田方面は、昔は純然たる農村部でありましたので、馬頭観音様は絶大なる信仰を集めていたことでしょう。

 ほかにも墓碑やお弘法様などございます。お供えがあがており、近隣の方のお世話が続いているようです。

 台地の突端には立派な台座がありますが、上部が破損しています。

 正面に回り込んでみて、この上に二宮金次郎の像が乗っていたということがわかりました。

 二宮金次郎は新しい台座をこしらえて、参道沿いのところに下ろされています。学校の校庭でよう見かける金次郎さん、どうしてこの場所に?この辺りに学校があったのでしょうか。立派に台座をやりかえているところを見ますと、何らかの謂れがあるのでしょう。

 

今回は以上です。稙田地区には、今まで紹介した以外にも口戸磨崖仏、岩崎の磨崖仏、市の石幢など、紹介していない名所旧跡・文化財がほかにもたくさんあります。また折に触れて紹介していきます。