大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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下堅田の名所と堅田踊り その5(佐伯市)

 今回は府坂、西野(さいの)、石打の石造文化財を掲載します。府坂と西野については過去の記事で一部を紹介しましたので、今回はその補遺のような記事になります。「その2」の記事から先にご覧いただくとより分かり易いでしょう。

 

17 下府坂の石造物

 「その2」の末尾で紹介した「7 府坂の庚申塔」から、県道37号を市街地方面に少し戻ります。左側から旧道が合流して、右側に下府坂の家並みがはじまるかかりに1本の吉野桜があります。その桜の陰に石幢と庚申塔が並んでいます。車は路側帯に邪魔にならないように停めます。この方向で立ち寄ると路側帯が対向車線側にて駐車しづらいので、実際に訪ねる場合には逆の順番にして、「7 府坂の庚申塔」への行きがけに見学するとよいでしょう。

 この石幢は竿・龕部・笠のすべてが矩形で、西野部落は塔ノ元のそれと似ています。風化摩滅が進んできておりますが龕部の像以外は細部までよう残り、特に宝珠の火焔や笠の形がよいと思います。軒口には細やかに垂木を表現してあります。中台には蓮の花を彫り出さずシンプルな形状で、竿には四面に梵字を彫ってあります。お湯呑が置いてあり、信仰が続いていることが分かりました。

 笠には内刳りが施されていますけれども龕部が大きく露出し、その関係で主化、お地蔵さんの姿が薄れてしまっているのが惜しまれます。1面あて2体彫られたお地蔵さんは光輪を伴い、細部は分かりませんがほのぼのとした雰囲気が感じられました。桜が傍に植えてあるので花の時季はとてもようございます。ところが訪ねた時季が悪く、毛虫が多かったので龕部を全て確認することはできませんでした。

大正九年
猿田彦大神
庚申

 地衣類の侵蝕が著しいものの銘の状態は良好です。堂々たる字体が見事なもので、「猿」は異体字ではなく標準的な字体で彫ってあります。大正9年の時点では、これほど立派な塔を造立するほどの庚申講が維持されていたわけですが、現状は分かりません。しかし、今もなお信仰が続いている様子が見とれました。道路端にあって、いつも交通安全を見守ってくださる庚申様です。

 

18 西野の石造物・ハ(お塔様)

 下府坂の石造物をあとに、すぐ先を左折して橋を渡り西野(さいの)部落に入ります。家並みが途切れて、田んぼの中に大きな木が立っている一角があります。ここが西野のお塔様で、供養塔、庚申塔、石幢、お地蔵様などいろいろな石造物がずらりと並んでいます。道路端ですからすぐ分かります。車を停めるスペースもありますし、下堅田を代表する名所のひとつですからぜひお参り・見学をしてください。

 説明板の内容を転記します。

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西野お塔 佐伯市西野区

 大永7年(1527)栂牟礼城主第10代佐伯惟治は、臼杵長景の讒言によって大友義鑑の怒りをうけ、臼杵軍2万余の大軍に栂牟礼城を包囲されました。
 武勇に優れた惟治は戦上手です。臼杵軍が死力を尽して攻めるのですが、犠牲者は増えるばかりで一向に落城しません。長景は策をめぐらして、惟治に一時城を開けて時機を待つように勧めました。
 惟治もひとまず日向(宮崎県)へ落ちのび機をみて身の潔白を訴えることにしました。その途中、長景が手を廻していた新名党の野武士に襲われ、惟治は怨みを呑んで尾高知の峯で自害しました。時に33歳。
 御曹子千代鶴は、惟治のあとを慕って西野まで落ちてきましたが、大友の千代鶴赦免の使者を追手と思い誤り、自刃しました。年齢わずか9歳でした。父子の墓碑銘は次のとおりです。

大光院殿故薩州(品)刺史悟正徳(徹)大居士
竜光院殿王甫宗伯大禅定門
 各神儀
大永七丁亥十一月念五日
忠雲玄恕士 侍臣 岡部新左衛門

 千代鶴自刃の腰掛石と、佐伯市墓誌銘を刻む地蔵は、前方の山すそにあります。
佐伯市教育委員会

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 説明板に記載されていた墓碑銘のうち2字が、実際と異なっています。実際の文字を括弧内に示しました。

青面金剛

 いずれも同じ銘です。左のものは銘に墨を入れてあるので写真でも容易に読み取れると思います。右も、実物を見ればもっとよう分かります。

 饅頭型の笠をもつ立派な石幢が立っていました。竿は矩形、中台と笠は円、龕部は六角形をなしており、夫々形が異なりますが違和感なく接続されています。どっしりとした造りの秀作ですが宝珠を欠損しているのと、龕部のお地蔵様の彫りが浅く風化摩滅により姿が見えづらくなっているのが惜しまれます。竿には銘の痕跡が認められますが、読み取れませんでした。ただ、竿の上部に日輪・月輪が陽刻されていることから、この石幢はもしかしたら庚申塔を兼ねているのかもしれません。県内では作例がごく少ないものの、久保泊(津久見市四浦)や南宇佐に重制石幢の形状の庚申塔があります。

 笠の内刳りがごく浅く、龕部が大きく露出しています。所蔵の姿は実物を見ればもう少しよう分かります。

御塔地蔵尊

 台座の上に立派な蓮台を乗せ、その上にはお地蔵様(坐像)が安置されています。やはり墓碑に付随する供養塔でありましょう。覆い屋を設けてことさらに鄭重にお祀りされています。

 こちらが佐伯惟治と千代鶴親子の供養塔(墓碑)です。銘は説明板の内容にて記しましたので省略します。上部には佐伯氏の巴の御紋が浮彫りになっており、台座には大きな蓮の花弁が表現されています。大きく立派なお塔で、保存状態も頗る良好です。

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水路改修記念碑

本地区は灌漑用水路の不完備により漏水多く、常に灌水に困難をきたせり。偶々昭和三十三年稀有の大旱魃に遭遇し筆舌に尽し難たき辛酸をなめたり。これを機に区民期せずして一致団結、幹線水路の一大改修の壮挙を企図し、国庫並びに県市の助成と区民の醵出、労力の提供により之が完成を見るに至れり、これが為め叙上の辛苦は解消し増産はもとより、経営の合理化により安んじて農業に専念する基盤を確立するを得たり。当地区に於ける耕地整理に次ぐ大事業の竣工に際し茲に之の業績を後世に顕彰せん。

昭和三十三年十一月 起工
昭和三十五年 三月 竣工

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 碑銘の下部は苔のせいで写真では分かりにくいものの、実物を見れば読み取りは容易です。いま、西野部落一帯には美田が広がっています。

 碑面の傷みが進み、しかも銘がごく細い線で彫ってあるので読み取りは困難でした。しかし上部に日輪・月輪を有し、銘の上部に「拝」の字が見えたことから、庚申塔であると考えます。

(左)
大乗妙典一石一字漸写之塔

(中)
奉造立庚申塔

(上)
青面金剛

 こちらの一字一石塔はすらりと背が高くて恰好がよいし、蓮の花の優美な表現もすばらしく、見事なものです。2基の庚申塔は、いずれも墓碑のような造形です。装飾性は乏しいものの、その分傷みが少なく良好な状態を保っています。

明治三十三年
猿田彦大神
七月廿一日

 腰の曲がった庚申様は、明治33年の造立です。猿は異体字です。

 

○ 唱歌「郷土唱歌」より(堅田路)

 昭和6年に、南海部郡全域の名所旧跡・景勝・産業を題材にした「郷土唱歌」という唱歌が作られました。65番まである大作で、重岡村・小野市村(今の宇目町)は当時大野郡であったので含まれていませんが、それ以外の地域を余すところなく歌い込んでいます。この中から、堅田路(上堅田・下堅田・青山)に関する部分を抜粋して紹介します。37番から48番にあたります。鉄道唱歌や電車唱歌の旋律で歌ってみてください。 

唱歌「郷土唱歌」より

〽廻れば戻る元の道 船橋をうち渡り
 隧道の中山抜け行けば 堅田青山道遠し
龍王は峩々として 数河を流るる堅田
 流れに沿える柏江は 昔天領なりしとか
〽松風清き江国寺 鐘の響きを野に聞きて
 夕べ静かに暮るるとき 人は家路に急ぐなり
宇山城村岸河内 話に残る波越坂
 夏草しげる大越は つわものどもが夢の跡
〽梅に名高き石打の 野道を右に入り込めば
 西野河原は水かれて 向かいの畑に森見ゆる
〽空を蔽える大杉の 蔭に立ちたる墓標
 昔忘れていまわしも 弔う人もなかるらん
〽哀れ朽ちたる石碑に 苔むし草は繁れども
 四百余年のあと留むる これぞ惟治父子の塚
〽武名四隣に隠れなく 大友一の旗頭
 惟治ほどの武士も ああ天なるか命なるか
〽無実の罪に落とされて 尾高知山の露と散る
 蕾もともに千代鶴が 残る怨みは幾何ぞ
〽同じ流れの惟定が 薩摩隼人を破りたる
 府坂の奥や長瀬原 世に勇ましき跡はここ
〽花は桜木、人は武士 その武士の名を記す
 桜の名所、黒沢は 谷の河鹿の声もよし
〽煙のどけき炭焼きの 山口のぼる轟坂
 峠の山路踏みみんも 道のたよりぞ後にせん

※太字 西野の「お塔様」に関する歌詞です。
 赤字 下堅田
 緑字 上堅田
 青字 青山

 この唱歌はもうすっかり忘れられているようですが、公民館教室や小学生の郷土学習などの際に歌うのにぴったりの名文句です。

 

19 石打の石造物・イ

 西野のお塔様から引き返して県道に戻り、左折します。「延命庵」の標識のある角を右折して石打部落に入り、公民館のところを左折すると、立派なお地蔵様などが並んでいます。

 見上げる大きさのお地蔵様には文化十三年の銘があります。おちょうちょがきれいで、お供えも新しく、信仰が続いているようです。その右のお塔は、上の三角になったところに梵字、碑面にはごく浅く仏様が彫ってあります。細やかな彫りが素晴らしい。台座が4段にもなっており、よほど丁重にお祀りしたのでしょう。右の標柱には「惟治千代鶴供養塔」とありました。

 お地蔵様の左隣のお塔は、このような形状のものをあまり見かけたことがないので種別はよう分かりませんけれども、これも供養塔でありましょう。その左にも仏様や無縫塔が並んでいます。いずれも立派な造りで用地の整備も行き届いておりますから、お参りに立ち寄られてはいかがでしょうか。

 

20 石打の石造物(ロ)

 お地蔵様のところから小川を渡って、山裾に沿うた道を進んでいくと、次の辻の左側に立派な石幢が立っています。道路端ですからすぐ分かります。

 残念ながら傷みが目立ちます。竿の上部を欠ぐほか宝珠も破損し、龕部の仏様も風化摩滅が進んでいました。しかし笠の軒口に表現した垂木はよう残っていました。

 この一角は、かつては大きな木の蔭にて、神聖な雰囲気の漂う場所であったそうです。今でも、石幢のほかにもいくつもの石祠が並び、近隣の方の信仰を集めています。

 説明板の内容を転記します。

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石幢 佐伯市石打区
市指定民俗文化財(昭和48年1月1日)

 この六地蔵塔は佐伯市内では最も古くて、大永4年(1524)の造立です。当時は戦国時代であり、佐伯惟治が栂牟礼城にいて威勢をふるい、佐伯氏の全盛時代でもありました。この頃から堅田地方では六地蔵信仰が盛んになったようです。
 衆生の苦しみを救うという願いをこめて建てられた石塔は、高さが2.3mです。この石幢には宝珠はなく、笠には胸に方形の彫刻と垂木が刻まれ、龕部は四角で、各面に2体ずつ、六地蔵と閻魔2体が浮き彫りにされています。
 また、幢身には4面に金剛界四仏の種子、ウーン(阿閦如来)・タラーク(宝生如来)・キリーク(阿弥陀如来)・アク(不空成就如来)や造立年月日・信者名が彫り込まれています。その基礎は、80cm角2段になっています。
 430年の歴史を持つ供養塔には、今もなお地区民が厚い信仰を寄せています。
 これと類似の石幢が、旧天領の柏江・西野・府坂・棚野の各地にもあります。

佐伯市教育委員会

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○ 石打の盆踊りについて

 石打では8月16日に盆踊りをしています。下堅田南部の堅田踊りは残念ながら衰退著しい中で、石打でも踊り手の減少は顕著ですが今なお音源を使わず、三味線と音頭、太鼓を演奏して公民館で踊っています。演目は、かつては小唄「高い山」「与勘兵衛」「様は三夜」「淀の川瀬」「大文字山」「お竹さん」「竹に雀」「団七棒踊り」「お染久松」、段物「長音頭」、合わせて10種類ありましたが、今はこの全部を踊っているわけではなく「お染久松」や「与勘兵衛」など数種を繰り返しています。

 ここの名物踊りといえばやはり「お染久松」があげられましょう。畳みかけるような早間の三味線がよいし、節尻をストンと切る唄い方が目立つ節回しの半ばで一部陰旋に転じるところなど、唄の方も興趣に富んでいます。踊りは手拭い踊りで、速いテンポに合わせて手拭いを振り上げては下ろしたり、手拭いを左に振って肩にひっかけながら左に回り込むところなど、なんとも粋な風情があります。

「お竹さん」
〽嘘じゃござんせん ほんとの女郎衆
 なんしてなんして 男がなんとするか
 いつも振袖ナンアンアン アンゲラモンゲラ モンゲラアンゲラ
 いつも振袖ナンアンアン
 柳の木陰で もうしもうしと お竹さんかいな
 アイナ アイナ アーンガ アイナ

今回は以上です。写真のストックがなくなったので下堅田のシリーズはお休みにして、次回は川登の記事を書いてみます。

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