大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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合川の名所めぐり その4(清川村)

 前回の末尾にて紹介した轟の山神社を皮切りに、大字左右知(そうち)・六種(むくさ)・宇田枝(うたえだ)の名所旧跡をめぐります。石橋、庚申塔、石幢などといった石造文化財がたくさん出てきます。車道沿いにて簡単に行ける場所ばかりです。

 

13 出会橋(その2)

 轟の山神社から県道688号を僅かに牧口方面に進み、橋の手前を左折します。道なりに行けば轟橋に至り、橋を渡ったところに駐車場があります。轟橋の上に立てば、そのすぐ横に架かる出会橋や渓谷の風景を眺めることができます。

 この橋は、以前合川の名所めぐり その2の8番で以前紹介しています。詳細は当該記事をご覧いただくとして、以前掲載した写真とはまた違う雰囲気の風景を紹介します(冒頭の写真)。当日は山に靄がかかり、さても幽玄なる雰囲気が感じられました。青空の日の風景は言うまでもありませんが、曇り空の出会橋もまたよいではありませんか。川の透明度や青みがかった色合いがより一層分かります。

 折角の名所めぐりのときに曇り空ですと、確かにちょっと残念な気もします。でも晴天時とはまた違う風情がありますから、曇りも捨てたものではありません。特に曇りの日の桜や岩峰群は格別です。石造文化財を写真に撮る場合も、曇りの方がよいでしょう。四季の風情に加えて、天候によっても見え方が違いますから、何度も訪ねた場所であってもまた違ったよさが感じられることも多々あるように思います。

 

14 清水橋

 出会橋・轟橋から元来た道を後戻り、県道688号に出たら牧口方面に進みます。しばらく行くと右方向に、以前紹介した間ノ内の一位樫方面への分岐があります。それを過ぎてなおも進めば二股に出て、左方向に架かっている石橋が清水橋です。

 この橋は昭和13年の竣工です。もともとこの場所には吊橋がかかっており、左右知方面から当時合川村役場のあった六種や、牧口方面との往来に出るのに盛んに利用されていたそうです。永久橋をとの機運が高まったのは、鉄道の開通と無関係ではないでしょう。地域の方々の悲願が実を結び、この峻険なる地形をものともせで立派な石造アーチ橋が架かりました。奥嶽川の自然風景によう馴染んでいると思いますし、重厚かつ優美な造形が素晴らしいではありませんか。

 なお、この写真は先ほど申しました二股を直進して振り返って撮影しました。直進は県道688号で、宇田枝方面に行くにはこちらの方が距離は短いものの道幅が極端に狭くなります。川べりの道で景観のよさは折り紙付きですけれども離合に難渋しますので、この清水橋を渡って対岸の市道宮津留線を経由した方がよいでしょう。

 

15 小原の歳神社

 清水橋を渡れば、大字六種は小原部落です。その中ほど、道路右側に歳神社が鎮座しており、御神木の椋木は市の天然記念物に指定されています。

 このように道路端に鳥居がありますので、すぐ分かります。拝殿のないごく小さな神社ですけれども、御神木の大きさから神社の長い歴史が感じられました。椋は3本あり、最も大きいものは幹回りが6mを超します。お弘法様でしょうか、仏様のおさまった御室を守るように枝が大きく広がっています。

 

16 宮津留の石造物

 歳神社をあとに、市道宮津留線を道なりに三玉方面に進んでいきます。宮津留部落に入りますと道路右側に大きな木が聳え、その蔭に石塔が並んでいます。車内から目に入る位置ですが、若干振り返り気味の向きですから油断すると行き過ぎます。権現様の鳥居よりも少し手前です。

 木蔭に、地神塔、庚申塔、石幢、三界萬霊塔が並んでいます。とても雰囲気がよいし、前の道路は広くなりましたけれどもこの一角だけは昔の雰囲気がよう残っているような気がして、好きな場所です。

 説明板の内容を、より分かりやすいように改変して記します。

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村指定有形文化財
石幢

 村道宮津留線の道端にある。総高2.6mで、基礎は二重。基礎・幢身・笠等いずれも平面は四角である。幢身の西・北・東面それぞれの中央に蓮華を刻み、基礎の初重には小孔が多数見受けられる。龕部には地蔵像の立像や坐像が薄肉彫りされている。室町時代の造立と推定される。

清川村教育委員会

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 元の文のうち「地蔵像の立像や坐像が」のくだりは2通りに読み取れ、判断に迷ったので改変せずにそのまま残しました。「地蔵像の立像と(何らかの)坐像」であるのか、「立像も坐像も地蔵像」であるのかが元の文だとはっきりしないのです。私はおそらく、前者の意味合いではなかろうかと考えました。それと申しますのも、大野地方の石幢を思い浮かべますと、龕部に立像と坐像が混在している場合、たいてい立像がお地蔵様であり坐像は十王様や俗人です。立像も坐像もお地蔵様である事例は思い浮かばなかったので、前者ではなかろうかと考えたのです。龕部が傷み、実物を確認しても確証を得なかったので、この部分は元の文のままにしたというわけです。

 説明板を設置してくださっているだけでもありがたいのですが、本音を申しますと、読み取りに迷うような記述は避けていただきたいものです。たとえば「地蔵像(立像)と不明像(坐像)」とか「地蔵像(立像と坐像)」と書けば、読み取りに迷うことはありません。予算の関係もあり難しいかもしれませんが、もし豊後大野市名義の説明板に更改する際には文章の校正が望まれます。

 石幢は宝珠と笠の破損が目立つのが惜しまれます。全体的に風化摩滅が進み、龕部の像も輪郭を残す程度にまで傷んでしまい細部の確認は困難でした。基礎は二重であるとのことですが、実物を見ますと下の段は埋もれています。幢身の蓮の花は抽象的な表現ながらも特徴がよう表れており、状態が良好です。

 写真中央は庚申塔で、銘は「庚申塔」です。素朴な造りで、下部の矩形の枠の中には数名のお名前が彫ってあります。その左隣も、銘の読み取りはできませんでしたが蓋し庚申塔でしょう。

地神塔

 残念ながら上部が破損しているほか、地衣類の侵蝕が著しく碑面の状態もよくありません。「地神塔」の銘だけはどうにか読み取れました。この地方の地の神様について、その信仰形態の詳細が今ひとつ分かりません(勉強不足のためです)。

 国東半島で多い社日様は、昔は春と秋の社日(それぞれお彼岸のお中日に最も近い戊の日)にお祭りをしていました。社日様(地の神様)は、春の社日に村々に来て、秋の社日に神様の世界に帰ります。昔の人は「春社日が春分の日より早く、秋社日が秋分の日より後になる年は、社日様が長く留まってマンがよい、作柄がよい」と言いました。また、国東半島の一部に残る「山の神様が春になったら村におりてきて田の神様になり、秋になったらまた山に帰って山の神様になる」という伝承も、社日様と何らかの関係があると思われます。大野地方の地の神様も同様の信仰であったのでしょうか?今度、図書館で調べてみて、何か分かったらその比較をこの項に追記しようと考えています。

 木のねきに三界万霊塔をなんかけて安置してあります。銘は「有無両縁三界萬霊」です。

 

17 旧岩上橋

 石幢をあとに道なりに進み、「止まれ」の辻を右折します。今の岩上橋の手前を右に入れば、旧の岩上橋(石造アーチ)に出ます。旧橋入口に車をとめれば、新しい方の橋の上から旧岩上橋を眺めることができます。

 この橋は大正8年の竣工です。草木がしこって、石積みの様子が分かりづらくなっています。結構な高さがあり、写真では両端が枝で隠れているので扁平アーチに見えるかもしれませんけれども、それなりの弧を描いています。

 

18 森霊社

 岩上橋を渡れば大字宇田枝に入ります。県道688号に突き当たったら左折してほどなく、右側の木森が森霊社です。車は、路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。この少し先に路肩の広いところがあります。

 道路端に立派な鳥居が立っています。石段を少し上ればすぐ拝殿があります。お参りをしたら、右の方に行ってみてください。庚申塔がお祀りされています。すぐ分かると思います。

 このように境内の一角に場所をこしらえて、7基程度の庚申塔をお祀りしています。いずれも文字塔です。この中から銘の読み取れるものを数基紹介します。

奉待庚申塔

 紀年銘は読み取れませんでした。格好のよい塔ですけれども、下部が埋もれているようです。

奉待猿田彦太神

 この塔は、銘の字体がすこぶる流麗です。筆文字の崩し方をそのままに、微細な払いなども丁寧に彫り込んであり素晴らしい。しかも銘には朱を入れてあります。紀年銘の読み取りは省略します。猿田彦に「奉待」がつくのは珍しいと思います。また、「太神」の用字は日田方面で盛んに見かけるものですが、大野地方では初めて見た気がします。

 左奥は「庚申」です。銘の字体がごく素朴で、掘り方もささやかであり、「奉待猿田彦太神」の塔とは対照的です。傷みが進んでいるのが惜しまれます。手前の塔の銘は読み取れませんでした。

 

19 馬場の石幢

 森霊社を過ぎてほどなく、道路右側の桜の下に石幢が立っています。時季によっては緑に埋もれて、見逃しやすいかもしれません。

 こちらを見学する場合は花の時季がよいでしょう。お世話が大変になっているようで蔦が絡みいており、周囲は荒れ気味です。

 説明板の内容を記します。読みやすいように少し改変しました。

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県指定有形文化財
石幢
指定年月日 昭和40年3月9日
所在地 清川村大字宇田枝字馬場1508番地2
所有者 板井幸則
管理者 小笹文典

 この石幢は追善供養のために建立されたものである。基礎、幢身、中台、笠、請花はいずれも平面が四角である。基礎は二重になっており、多数の小孔がある。笠は内刳りがあり、軒先は二重で垂木がついている。軒先が多少破損している。石幢の下には一字一石を埋めてある。「干時永正十丙子三季二月吉日」の銘あり(1516年、「時」は異体字)。

昭和63年6月1日
清川村教育委員会

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 植物で下の方は分かりませんが、見える範囲では傷みがほとんどありません。実に堂々とした、立派な造りです。各部の比率もよう整い、秀作であるといえましょう。特に笠の細やかなお細工が素晴らしい。隅を僅かに反らせて、軒を二重にこしらえて垂木を丁寧に彫り出してあります。合川地区の石幢の代表格といえましょう。

 龕部には六地蔵様のほか、不明像が2体彫ってあります。彫りが浅くて細かい部分は分かりづらく、判断に迷います。2体は、二王様ではなく施主を表現してあるのではないかと推量いたします。

 

20 宇田枝の石造物(宇田枝バス停そば)

 板井家の石幢をあとに、突き当りを左折すればすぐ右側に石造物が並んでいます。小さい地名が分からなかったので、項目名は部落名をとって「宇田枝の石造物」として、区別のために「宇田枝バス停そば」と付記しました。

 このように道路端に一段高い区画をこしらえて、石幢ほか数基の御室がお祀りされています。特に目を引くのは石幢です。詳しく見てみましょう。

 先ほど紹介した板井家の石幢によう似ています。その笠の大きいこと、近隣ではなかなか見ない大きさです。豊後大野市の説明によれば、総高3.15mもあるとのことですが、どうも下部が埋め込まれてあるようなので、実物を見ますと幢身が短すぎてややバランスが悪く見えます。埋め込んだ理由として考えられますのは、これだけ大型だと据わりが悪く、倒壊を懸念したのかもしれません。

 この石幢で最も残念なのは、笠の破損です。裏側にあたるところが大きく欠けています。龕部の傷みも進み、諸像の姿が薄れてきています。六地蔵様と仁王様が、1面あて2体ずつ彫ってあります。道路端にて簡単に見学できますし、車を停めるスペースもありますから、ぜひ立ち寄ることをお勧めします。

 この近隣にはほかにも、宝生寺、天然橋、国見岩の墓など見所がたくさんあります。それらは写真がよくないので、またの機会とします。

 

今回は以上です。菅尾地区からはじめて、順々に書き進めてきた大野地方の名所めぐりも今回をもってしばらくお休みです。大野地方は本当に広い。あの広大な地域に、自然景勝地と石の文化財がそれはもう数えきれないほどあります。特に石の文化は国東半島に比肩すると考えています。しかも多種多様な民俗芸能や伝承なども事欠きません。またの探訪を楽しみにしています。
次回からは当面、国東半島や速見地方の記事を書いていこうと思います。草が伸びて探訪に難渋する時季になりましたので、過去の写真を使っていきます。

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